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作品ID:260

こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約161653文字 読了時間約81分 原稿用紙約203枚


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小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /

Link/連鎖復讐怪奇談(れんさふくしゅうかいきだん)

作品紹介

 前回の「link」に大幅編集を加えました。

 内容は違うようで同じようで……違うと思います←

 前回感想を下さった白銀様のご意見は全て私のほうで保管させていただいています。

 あらすじ>

 基本能面。やる気に欠ける男子高校生、浅月京助。彼のところにある日、『都市伝説・バネ脚ジャッキー』から電話が入る……。 「アル奇怪ナ事件ヲ完結サセロ。――期待シテイルゾ。人殺シ」  復讐を犯してしまった者と、復讐を横取りされた者が5年の歳月の末、巡り合う。 繋がりあうための、血に汚れた二週間が始まる。


 某日(プロローグ)







 嫌な夢を見た。

 水中で足首を掴まれて、ずるずる水底へ引きずりこまれてゆく。

 黴と鉄錆の臭いが肺を満たし酷く息苦しい。

 全身に纏わり付くうっすらと赤い羊水に似たそれが、鼻空や口から体内に入り込む。

 ……何故か不通音が聞こえた。

 ぬるぬるしたそれを吐き出そうとしたとき、電流のようなものが全身に走り、体が大きく痙攣した。



「うわぁっ……!」

 平らな胸に掌を置けば、じっとりと湿ったタンクトップの不快な感触があった。狂ったように心臓が活動している。

「あ、りえねぇー……」

 視界には見慣れた天井が広がる。どう見ても自宅のリビングだ。まだ夢の中にいるような、妙な浮遊感が気持ち悪い。全身じっとりと汗ばんでいる。何故か額と脳裏にタンコブができ、顔面に扇風機の蓋を被っていた。

「あぁー……そーだった……」

 京助(けいすけ)は思い出す。学校から帰宅すると、いきなり扇風機の蓋が顔面めがけて飛んできたのだ。あまりの痛みと衝撃に脚を滑らせ、フローリングに頭から倒れこんでしまい、強打した。そしてそのまま気を失って……今に至る。

「プロペラが飛んでこねぇーだけましだったか?」

 不良品に当たりやすい体質であることは自覚していたが、ここまで来ると何かの陰謀か、と疑った。

「そもそも扇風機の蓋だけ飛ぶとかありえねぇーよ。怪奇現象か?」

 悪態つけばまるで「元気だせよ。俺がいるじゃないか」と語りかけるような絶妙のタイミングで、電源を入れていないテレビが突然起動する。

「……お前もか、ブルータス」

 もちろんリモコンに触れたわけではない。

 京助の周りでは、なぜか頻繁に電化製品が突然起動したり壊れたりする。もちろん怪奇現象などではなく、全ては京助の不運が原因だった。最近ではちょっとやそっとのことでは驚かなくなった。欠伸を一つすると、テレビに目線をやる。

「六時になりました。ニュースをお伝えします……」

 映し出されたのはニュース番組だった。話題はもっぱらホームレス暴行事件と相次ぐ学生の飛び降り自殺に関してだ。連日耳にし続けると電波ジャックを思わせる。

「あれ? ホームレス暴行事件ってまだ続いていたのかー」

 以前、京助より一学年上の男子高校生が逮捕されたはずだった。同じような犯行が別の地域では続いているのだろうか。

「ホームレス苛めてなーにが楽しいんだかー……」

 京助にとって理解に苦しむ行動だった。陰鬱な情報など知りたくもないのでそうそうに番組を変える。デパ地下の惣菜特集をしている番組を見た瞬間、思い出したように空腹を感じた。

「夕飯どうすっかなー……」

 冷蔵庫の中は、連日買出しを怠けたのでおそらく何も無い。インスタント食品も底を尽きていた。思わずため息が漏れる。

 京助の保護者である叔父はジャーナリストとして世界を股に掛けている。そのため、帰ってくることなど殆どなく、一軒家に一人で暮らしていた。必然的に家事は身につくが、京助はとことん面倒くさがりのためついインスタントに頼ってしまっている。

 買出しは面倒くさかったが何もないのではしかたがないと腰を上げたとき、めったに鳴らない固定電話がリビング中に響いた。

「ヤア」

 受話器を持ち上げた瞬間に軽快に呼びかけられる。

「……どちら様?」

「郵便物ヲ確認セヨ」

 それは明らかに人間の声帯から出る声音ではなかった。

「はぁ?」

 イタズラ電話か? 怪訝そうに眉を顰めれば、奇怪な笑い声をあげた。

「ソロソロ夕食ノ仕度ノ時間カナ? 学生デ一人暮ラシハ不便ガ多イダロウニネェ」

「……ッ!」

 一瞬、殴られたように思考が停止した。

 気味の悪さに背筋が凍る。刑事ドラマなどでお馴染みのボイスチェンジャーは実際に耳にすると安さと気持ち悪さが入り混じっている。

(いや、そんなことより)

 なぜ、家庭状況のことを知っている。

 疑問と同時に恐怖がこみ上げた。慌てて受話器を戻そうとしたが「逃ゲルノカイ?」挑戦的な投げかけが耳に付く。

「私カラノプレゼントダ。浅月京助(あさづきけいすけ)。受理スルノモ、コノママ逃ゲ続ケルノモ自由ダ」

「……何所の誰で、どーして俺の名前を知っているのか知らねぇーが、他を当ってくれねぇか?」

 耳にねっとりとこびりつくボイスチェンジャーがいつまでも残っている。早く受話器を置いてしまえばいいのだと自分に何度も言い聞かせたのに、わけのわからない恐怖心に怯えて体が動かなかった。

 その様子を嘲笑うようにボイスチェンジャーの声音はいくらか黄色くなる。

「ナァ京助。オ前ノ秘密ヲ世間ニバラサレタクナカッタラ、私ニ従エ」

 失礼にも一方的にブツリと断ち切られる。鳴り響いたのは、夢と同じ不通音。

 呆気に取られ、憤慨することもできず佇む。やっとの想いで受話器を戻すと膝から力が抜けた。

 ――秘密。

 それが何を意味するのかは、京助には手に取るようにわかった。

 どれほどの間、電話の前で膝を折っていたのかは分からないが、何とか眩暈を堪えて立ちあがり、玄関に備え付けてある新聞受けを窺った。

「マジかよ」

 本当に、茶封筒が一通あった。透明のセロハンテープで厳重に封をされた封筒は薄く、光の加減によって中身の便箋が透けて見えた。消印有効は本日。送り主は

「BJ……?」

 中には一枚のコピー用紙が丁寧に三つ折りになっていた。カタカナと漢字で綴られていてなんとも読みにくい。

「……『コレハ秘密ヲ守ル者ト、秘密ヲ暴ク者ノ戦イデアリ、罪ヲ背負ッタ咎人ニヨルボーイミーツガールノフェアリーテイル。コノ招待状ヲ受ケ取ッタ瞬間カラ全テハジメル』なんだよ……これ」



『イイカ、コレハゲームダ。参加ソノモノガ×ゲームノ楽シイ狂喜ダ。オ前ハ謎解キヲスル可愛ソウナ主人公……ヲ手伝ウウサギ。参加ハ絶対デハナイガ、二週間後ニ『秘密』ヲ日本全国二公開スル。秘密ヲマモリタカッタラ、コレカラハジマル狂気ヲ止メロ』



 思わず小さく笑った。戦慄く唇を噛み締める。上下する心臓の音を宥めるために手首の脈を親指で握り潰すように力を込める。子供の頃からの無意識な癖だ。

 京助は、自分が選ばれた理由をとうに分かっていた。寧ろこの平和に過ごせた五年間を疑問に思うべきなのだ。

「理不尽もいいところじゃねぇーか、畜生め……!」

 震えが、怒りなのか恐怖なのか、分からない。



『私ハバネ脚ジャッキー。全テヲ記録シ、傍観スル者。ソシテゲームノ法律。

 期限ハ明日カラ二週間。ソレヲ一日デモ過ギタラ全テヲバラス。マタハ五年前ト同ジ用ニオ前ハ大キナ『モノ』ヲ失ウダロウ。

 期待シテイルゾ、人殺シ』























 七月一日 Thursday







 Aspect とあるサラリーマン

 しっとりと衣服の上から全身を包む鬱陶しい湿気。何所の空気を吸い込んでも肺に溜まるのは鼻につんと来る黴の異臭。

 その日もいつもと変わらない、どこか鬱々とした梅雨の夜だった。

 闇にぽっかりと穴が開いているように浮ぶ琥珀の月。煌々と輝き、革靴のつま先まで照らした。

 夜も深まるその時間。

 雲の見える空は一昔前の出来の悪いホラー映画にでも迷い込んだような不気味な雰囲気。だが、そんなことは夜道を行くその中年サラリーマンには関係がなく、彼の視界に写るのは灰色の無愛想なコンクリートだけだった。

「やれやれ、今日も怒られちまったよ……」

 元凶であるそれは自分のミスではない。うるさい上司に使えない部下。中間管理職の仕事なんて、頭を下げることだと男は思う。

「謝ることが仕事なんてなぁ」

 楽しいことを我慢して、無難に生きていた。若い頃には青臭い夢を抱き、それなりに生きることに懸命で真面目に背筋を伸ばしていた。それが今では毎日革靴をすり減らして歩き、腰を折る。嘗て憧れを抱いたヒーローのようにはなれなかった。ベルトに載る贅肉や、筋肉が著しく衰えた脚。それが何よりも自分を哀しくさせる。

「何が楽しくて」

 何が楽しくて、生きているのか。

 妻に虐げられ、手塩を込めて育てた息子には馬鹿にされる。娘には相手にもされない。学校で問題ばかり起こす息子の将来を心配した一言を零せば「社会の荷物になっているお前が何を言い出すか」鼻で笑われたときの顔つきを思い出す。

 ちらちらと点滅する街灯に、大きな蛾がぶつかり嫌な音を立てる。蛾はひらりひらりと闇色の宙で弧を描き、コンクリートに吸い込まれてゆくように亡骸となった。

「死」

 蛾のあっけない死に様。男は酷く泣きたくなって、情けないであろう自分の姿に嫌気がさす。しゃっくりをしながら思わず呟く。

「……死んでしまおうか」

 転落自殺をする学生の急増により「命を大事に」と投げかける青少年団体に、今朝挨拶をされたことを思い出した。今、彼らに会ったなら男は間違いなく質問しようと思う。「生きていたら、なにかいいことがあるのか」と。

 黙ったまま、薄気味の悪い廃ビルの脇をとぼとぼと行く。

 取り壊しが未定の廃墟。背の高いその建物は嘗て放火事件があったと噂があり、あまり立ち寄る人間はいない。夏にホラースポットとして若者が溜まり、冬はホームレスが身を寄せていると噂されている。梅雨明けを観測していない現在は蛙の鳴き声以外何の音沙汰もない。

「星一つありゃしねぇ。せめて、慰めてくれりゃいいのによぉ」

 空を意図的に睨んで廃墟の駐車場を突っ切った。強制的な道ではあるが、このだだっ広い駐車場と田んぼの脇道を進めば、古ぼけた住宅街へ最短距離で進めるのだ。

 習慣から、何も考えていなくても家路に付くことができる。その上、今日は空を見ていたせいで注意力が欠けていた。そのため、足元にある『それ』に反応できず……

「あッ」

 柔らかい何かに躓き、顔面から転倒する。踏みつけた柔らかいものの大きさから、汚物でないことは咄嗟に理解できた。

「いつ……! なんだよ一体」

 摩擦で熱をもった掌を見て、ひぃっ! と短い悲鳴をあげた。

「あ、あああああ!」

 咽喉の奥から痙攣したような、震える叫びが毀れた。掌と安いシャツの袖が真っ赤に染まっている。異常な出血量から単純に考えて自分の血ではない。そして

「な、な!」

 男は、鮮血に溺れる姿を捉えた。

 わけの分からない叫び声をあげて、転がるように走り去る。人通りの多い交差点まで走り、歩道橋の傍の溝で嘔吐した。

「あのう、大丈夫ですか?」

 二十代後半くらいの、化粧の薄い女性がハンカチを差し出す。男は相変わらず「あ、あぁ」と情けない声を口内から漏らした。女の表情にはあからさまな嫌悪感が窺える。

「警察を、警察を呼んでくれぇ!」

 やっとのことで搾り出した言葉を、女性は眉を顰めて「はぁ?」と聞き返す。男は飲み込みの悪い女性に苛立ちを覚えながら懸命に身振り手振り表現した。

「そ、そこに死体が! 女の子の首がひしゃげた死体があったんだ!」

「はぁ」

 酔っている。そう判断されたのか、女は首を傾げる。女性に飛び掛らん勢いの男に周囲が怪しみ、体格のよい男が「おい」と詰め寄ろうとした刹那。

「ひいぃっ!」

 短い悲鳴が夜の街に響いた。男の挙動不審を怪しんだ誰かが来た道を辿ったのだろう。わらわらと通行人たちは悲鳴のほうへ集まりだし、様々な音が明るい夜に飛び交う。

「警察を、誰か警察を!」

 全員が全員騒ぎ立てながら、誰一人「救急車」と口にしなかったのは、横たわる肢体が……死体が、あまりにも無残な形だからだろう。散らばった脳辺を誤って踏みつけた野次馬の一人は、背を向けて嘔吐した。次から次へと人は増えるのに、次から次へと口元を押さえて退却する。

 饐えた臭いが充満した深夜の廃墟……それは、まるで餌に群がる蟻のようで、酷く滑稽な出来事だった。





 七月十二日 Monday







 Aspect 浅月京助

 一ミリたりとも動いちゃいないのに、額に滲む汗は楕円形の雫となって流れる。

「だりぃ……」

 京助は呟いて絶望する。先日壊れた扇風機のせいで家に帰ろうが、学校にいようがこの暑さから解放されない。鬱々と机に額を乗せた。

 うなじに鬱陶しく張り付く髪をいい加減切ろうかと摘む。面倒くさがりの京助は自分の容姿に疎く、友人の志摩里子(しまさとこ)の指摘があってから散髪をしてもらっているのだ。

 だが、今回ばかりはそうもいかない。彼女が一週間前から、ナンチャッテ不登校を続けているからである。

 京助は空白の隣の席を見つめて、溜息をつく。

 きっと誰かが死んだら、この真四角の教室にいるクラスメイトたちはこうして忘却してゆくのだろう……。

「……待てい」

 思わず、自分にツッコミを入れた。

 ――志摩は死んでいない。転落したけれど。

「ははっ……。笑えねぇーって」

 放課後の教室には、京助と同じように暑さに項垂れる同級生が数十名残っていた。本来なら、誰もが我先にと異常な暑さの教室から逃げるように出て行くのだが、今日は志摩里子のせいで帰れないのだ。

「なーにしてんだよ。あいつは」

 たまらず溜息を付けば、突然、何かにのしかかられた。

「なに、にやけてんの? キョウ」

 覆い重なるように背後から首に腕を絡めるのはクラスメイトの相模太一(さがみたいち)だ。

「にやけてなんかいねぇーよ。それと、『けい』だ。お前ぇー、わざと俺の名前を間違えるの止めてくれねぇーか。柴犬」

「名前ですらない呼び名を使わないでくれるかい? キョーちゃん」

 太一は『柴犬』と呼ばれたことに憤慨したのか、迷いなく首に回した腕に力を込める。京助はむき出しの腕を抓り上げるた。

「痛ってぇ! 容赦ないなぁ。つーか、キョウは間違えたんじゃなくてあだ名」

「つまりはワザトなんだなぁー? 柴犬」

「正解。でも柴犬は不正解。あだ名って、最初は気に入らないけれど徐々に慣れていくものだよね」

 さも当然のように京助の前の席に座り、白い犬歯を覗かせて笑った。

「うるせぇーよ。嫌なものは嫌なの。誰がなんと言ぉーと、京浜工業地帯の『京(けい)』と助太刀(すけだち)の『助(すけ)』で『京助』ぇー」

「えー。別に『そうだ、京都(きょうと)へ行こう』の『京(きょう)』と助平(すけべい)の『助(すけ)』でもいいじゃん」

「黙っとけ。だいたい、お前は『柴犬』ってあだ名全力で拒否ってんじゃねーか」

 放っておけばどこまでも続く不毛でくだらないやり取りは二人にとっていつものことだった。

 妙に安穏と、間延びした口調の京助には何をしてもいまいち緊張感がなく、常に眠そうな少年だった。それに反して喜怒哀楽が激しい太一は文字通り天真爛漫で愛想が良く、京助とは系統が違う少年だ。

 太一はくりっとした大きい瞳と女子も羨む長い睫の持ち主で、京助と同じ高校二年生とは到底思えないほど、華奢で青瓢箪だった。

 はにかむ笑みが可愛らしく、小柄な彼がチョコチョコと動く様は「なんか柴犬っぽい」と言われている。本人は「頭の中はがっつがっつの肉食的」と否定するが、影ではもっぱら『柴犬』『豆柴』なのである。

「ところでよ、どうよこのカメラ。二代目の一眼レフだぜ?」

 急に話しかけてきたと思えば、なるほど、自慢がしたかったのか。机にごとりと、重々しい音を立てて置かれた真新しいカメラはごついが持ちやすそうな大きさである。

「今までのミノルタα-7000みたいな、いかにもカメラですーっていうごっついのもいいと思ったんだけれど、今回は思い切って最軽量にしてみたんだ。オリンパス E-330。カッコイイだろ?」

 それでも俺にはごつく見えるぞ。と、京助は反論したいが、カメラにうるさい彼の抗議が帰ってくることを想像し「いいんじゃね?」と感想を一つ。携帯電話すら持っていない京助にとって、使ったことがあるカメラはもっぱらインスタントカメラだ。電子器具に潔いほど疎い京助はカメラについて良く分かっていない。不良品にとことん当たりやすい京助は「どうせ買っても壊れる」と無意識に避けていた。

「とりあえず、何か撮りたいんだよ。モデルになってよキョーちゃん」

「何が楽しくて同じ年の男を撮影するんだよーおめーは」

 蝿を振り払うように掌をひらひらさせれば、「言うと思った」と一言。

「太一はもう面談終わっただろ? 帰らねぇーの?」

 言葉の裏には、いつまで此処にいるつもりだ。早く帰れ。という本音が隠されている。

「今日はキョーちゃんとラブラブしてから帰宅しようかと」

 太一の長い前髪を纏めたヘアピンが反射し、ちかっと京助の眼球に光線が差し込んだ。右側に、無造作に留められている女性ものの赤いクリップピン。太一がそれを髪に飾っても何の違和感が無いのであえて指摘はしない。

「つまり暇なんだな? 時間を有効活用しねぇーお前の高慢さを羨ましく思うぞ」

「はっはっは。そんなに俺は魅力的かい。だいたいキョーちゃんもとっくに『取り調べ』が終わっているだろ? なんで帰らないの?」

「俺は修二(しゅうじ)待ちだー。お前と一緒にするな、自意識過剰野郎」

「その自意識過剰野郎をなんだかんだ相手にする君が好きだね」

「括るぞ、首」

 カーテンを摘みこれでそこからブラ下げる、と外を指差せば太一は相変わらずケラケラ白い歯を覗かせた。



 就職率・進学率共々それなりに良く、学力は県内で上の中。趣があると聞こえが良く、どこもかしこも古ぼけているといえばそれも然り。素行の悪い生徒は殆どおらず、どこかおぼこい匂いのする学生が妙に多い。

 それが京助達の通う東高校だ。

 京助のいる二年五組で、おっとりした草食動物の集団に投げ込まれた珍獣のように、良くも悪くも彼は目立つ。

 黒い短髪が似合う端整な容姿と、ぼんやり間延びした口調。不良でも優等生でもないが普通の生徒とは言いがたく、何もしなさすぎて浮いているのである。

 クールでカッコイイと噂され、生意気と睨まれる。好感を持てるポイントは存在しないのだが、嫌悪するところも見当たらない。――つまりはよく分からない奴なのである。

 太一が好奇心で話しかけ、始まった二人の友情になにか不純物を混ぜた交友はずるずると蒸し暑い季節まで延長されていた。



 二人して、何をするわけでもなくただ暑さにうな垂れていると、京助の幼馴染の小田切修二(おだぎりしゅうじ)が教室に顔を出した。

「悪い京助。今更だけれど、まだ長引きそうだから今日は先に帰っていてくれないか?」

「おー、おつかれ委員長。って今までどこにいたんだよ」

「特別委員会ーぃ。緊急で生徒会が集められてんの。俺達ちゃらんぽらんと違って修二は忙しいから」

 京助は優秀な幼馴染を賛称するわりには僻みも憧れもみせない様子で悠々としていた。

 修二はすっきりした銀縁眼鏡が似合う爽やかな少年で、二人に比べて頭一つ分身長が高く、剣道で鍛えられた体は細身に見えてもしっかりしている。東高創立以来の秀才と呼ばれ、文武両道・才色兼備の嫌味なくらい完璧な彼は、自然とクラス委員に任命され生徒会にも所属していた。実際、要領が良いぶん正義感と真面目に大きく欠ける一面があり、向いているのかどうかは分からない。

「特別委員会って、あぁ……今日の全校集会の引き続きなんちゃらみたいな?」

「そんな感じだ」

「そりゃぁ、これだけの騒ぎが起きればねぇ」

 太一は肩をすくめて里子の席に視線を投げた。

 ――夏休みを間近にして、緊急で行われた全校集会。

 その内容は全国で多発している学生の自殺に関するものだった。

 ニュースでも良く聞く話題に、多くの生徒は退屈そうに話を聞き流していた。「命を大事に」と力説する教師を眺め、「あぁ暑いナァ」「地球温暖化が進行するよ。クールに行こうぜ」など小言を巡らせ、冗談と小突きあいをしていた。だが、その集会と同時進行に出回りだしたのが「二年五組の志摩里子が自殺未遂をした」という噂である。

 七月二日から一度も姿を見せない里子の様子を知っている生徒は一人もいなかった。

 自殺未遂と決定つけるには早い段階でも、転落による怪我を負ったことは事実であることが担任教師からも説明を受けた以上、覆せることではない。

 そこで、苛めなのではないかと恐れた学校が、二年五組全員に緊急で面談を行った。担任教師と副担任。おまけに刑事も一人立ち会って、狭い進路指導室で行われている。太一はそれを『取り調べ』と茶化していた。

 京助が志摩里子の名前を耳に入れると、まず連想するのがこげ茶色の髪を三つ編みおさげと、青白い肌である。それはいつだって生気を感じさせないほど白く、風が吹けばよろめきそうなほど病弱そうな外見だった。だが、性格は妙に男勝りでこざっぱりとしており、三人にとって気楽に話せる女友達だった。

「なんだかお祭り騒ぎだよね。こんなド田舎の女子高生が、相次ぐ学生飛び降り自殺のハジマリだとかまだ信じられないかも」

 どこか楽しそうな太一に修二が不謹慎を咎め椅子に軽く蹴りを入れる。

「つーか修二、生徒会でそんなに話し込む話題があるのかぁー?」

「まぁ一応。てか、なんで太一も残っているんだよ」

「悪いか。キョーと愛を語り合ったら」

 強引に肩を寄せてこようとする彼を迷惑そうに京助は振り払ったが、修二はその間に更に割って入る。

「京助。早々に立ち去るといい。悪いが今日はお前を護れそうにない」

 この過保護さはどこから来ているのかは知らないが「娘を大事にするお父さんかお前は」と思わず指摘したくなった。以前太一が「修二は京助の番犬だ」と揶揄していたことを思い出す。あながち間違っていなかったのかもしれない。兄弟のように共に育ったが同じようには成長しなかった。

「修二君さぁ、自分は一般的普通の人間です。みたいに装っちゃっているわけ? 人を変態扱いしないでくれる? 俺から言わせればその眼鏡こそヤラシイから」

「眼鏡に謝れ、全世界の銀縁眼鏡に。感染させるぞ」

 かけている人間じゃなくて、あえて眼鏡。そして何を感染させる気なのだろうか。どうにもずれているというか、捻くれているのだ。不毛なやり取りに終止符を打つために強制的に閑話休題する。

「で? 結局生徒会はなにすんだー?」

「生徒会って言うより、俺個人が見舞いに行けと。志摩、怪我自体はたいしたことないらしいから面会できるそうだ。日にちと、あとは見舞いをどうするかとかで今話し合っている。……とりあえず、俺戻るよ。じゃあな」

 あっさり教室から離れる修二を見送って、京助も席を立った。太一も付いていくつもりのようで帰り仕度を済ませた鞄を手に取る。

「俺さ、志摩っちとキョーちゃんって付き合ってるんだと思っていた」

「なんだよー、藪から棒にー」

「キョーは女の子寄せ付けないだろ。でも志摩っちにはなんだかんだ優しいじゃん」

「俺はあいつを恋愛対象に感じたことは微塵もねぇーぞ」

「それはそれで彼女、傷ついちゃうようなデレカシーのないコメントだねぇ」

「デリカシーな」

 廊下の窓から差し込むオレンジの光は太一の横顔を照らす。妙に幼く見えたが口にすると怒れる子犬になるので沈黙を護った。

「机、眺めてアンニュイな溜息も付いていたじゃん。まるで恋する乙女か生理中の乙女みたいに」

「.気のせいだろ」

「そうでもないって。地味そうに見えて、結構彼女もキョーみたいに変なところがあるしね。……実際さ、志摩っちの噂って結構多いんだ。父親と上手く言っていないらしいとか、学生連続自殺の発症である高梨杏奈(たかなしあんな)と知り合いらしくて、その子の復讐をしようとしているとか、自分も後を追ったとか」

「……あいつがー?」

 情報通で、それも語弊が少ないことで有名な太一だがそのことに関しては疑わずにいられなかった。

「マジだよ。人の悪意とは無縁の志摩里子。噂だからどこまで本気かは知らないけれど、何もないところに煙はたたないって言うしね。……で、ぶっちゃけ一番聞きたかったことなんだけれどさ、京助ってもしかして『バネ脚ジャッキー』?」

「は?」

 意表を突かれ反論する以前に「分かっている」と微笑まれる。まるで犬に『待て』と言うように、大きな掌が顔の前に掲げられた。

「違うだろ? どーせ。機械音痴のお前にありえない話だもんな」

「機械音痴じゃねぇー。見放されているんだー」

「何に?」

「家電の妖精」

「馬鹿か」

 太一は腹を押さえてひとしきり笑うと、「『バネ脚ジャッキー』は都市伝説だよ」なんだかんだ解説を挟んだ。ようは話したいのである。

「口避き女と同じ部類かぁー?」

「おっと、チョイスが古いねぇ」

 京助は手馴れた様子で携帯電話を開くと、液晶画面をずいと突きつける。其処には白い壁紙に黒い明朝体の文字の羅列がずらりとあった。

「……えー……。

『バネ脚ジャッキー』の要求に答えると、一つだけ願いを叶えてくれる。

『バネ脚ジャッキー』に願いを叶えてもらったら、同等の対価が必要となる。

『バネ脚ジャッキー』の正体を知ろうとする者は、存在を消される。

『バネ脚ジャッキー』は全ての秘密を握る森羅万象・全知全能である。

 ジャッキーは新しい都市伝説。史上最強の都市伝説。悪魔は裸足で逃げて行き、神ですらも味方につける。……怪奇だなーこれは」

「胡散くせぇだろ? でもよ、ジャッキーは『いる』んだぜ」

「見たのか?」

 太一は体つきのわりにしっかりとした人差し指を立てると、左右に振る。優雅にキザな演出は酷く不釣合いだ。

「ジャッキーに姿形はない。ジャッキーは『コール』と『メール』でターゲットとコンタクトを取るんだ」

「それじゃー簡単に相手を見つけ出せるんじゃねぇーのか? ハッキングとかで簡単に割り出せたりするんだろ?」

「それがよ、ジャッキーはハッカーなのかクラッカーなのか分からないが、履歴のつく全ての機能に爆弾を残すんだ。メールの場合、開いて二時間経過すると携帯電話pc問わずにウイルスが発生して機能が完全に停止する。それを防ぐ為には、メールの内容、履歴を全て削除するしかない」

 京助はハッカーとクラッカーの区別が付かないのだが、そこは流した。理解している素振りで頷く。

「巧妙な手だぜ? ネット警察も手が出せないって噂だ。ちなみに、こちらからのコールは一切できない。そもそもジャッキー自体が警察って噂もあるくらいだ」

 ずいぶん詳しいんだな、とは指摘しなかった。太一は都市伝説や心霊現象などカラクリがあるもの、眼に見えないものの類が大好物なのだ。それらを推理するわけでもなければ、正体を知ろうとするわけではない。凡人には理解しがたい自分ルールを元に、とにかく研究するのである。

「あーあ。……ジャッキーならばこんな事件の全貌なんて簡単に分かっちゃうんだろうな」

 ――お前くらい行動力のある奴ならできんじゃねぇーの。

 口内で呟くが言葉にしたら調子に乗りそうなので嚥下した。実行したときに背中を押したことへの責任は負えない。そして関わりたくない。

「で、なんで俺がジャッキーなんて噂が立ったんだー?」

「キョーちゃんの存在自体が胡散臭いからじゃない? 頭がいいのに何考えているか分からないし」

「それ、悪口じゃね?」

 京助はすこし憤慨としたが、自分が飄々としていることに否定はできなかった。ふと階段の踊り場に設置された大きな窓から覗く、新しく建設させる建物に眼をやる。細いパイプの上をひょいひょいと歩く大工は、高さに対する一切の恐怖が無いように見えた。あまりの軽やかさに体重がないのかと錯覚するほどだ。

「なぁ太一。転落死ってそれなりに高さが必要だよな? アレくらいか?」

 桟橋を指差すと、太一はどうだろうと首をひねる。

「知らないし、やりたいとは思わなよね」

 さすがの太一も志摩に聞け、という不謹慎な発言はしなかった。

 校舎から出るとオレンジ色の夕焼けに染まる街を一望できる。

 地形がいくらか高いところに建設されているため、緩やかな斜面から町並を伺うことができるのだ。何度も見た光景だったが、この夕焼けに染まる時間だけは『いつも』と全く違うものに見える。

 何の変哲もない住宅街を光が全て一色単にべた塗りした光景。

 どこか違う世界に迷い込んだかのような違和感と、見とれる新鮮な美しさ。今日に限ってそれを強く感じた。

「なんか、スゲー変な感じ。普通に俺達が生活して、いつもと同じ時間が流れている。なのに寸分違わない場所にいる誰かが死んだなんて信じられねぇー……」

「俺達と同じ歳の学生だもんな。ま、少なくとも高梨杏奈(たかなしあんな)は俺達と無縁の生活送っていただろうけれど」

「……誰?」

「きょーちゃんさ、なんで『誰かが死んだ』ことは知っているのに『誰が死んだ』かは知らないわけ? だいたい生前もある意味有名人だったじゃん。ティーンズ雑誌と女子高生なのにヌードのモデルを同時にやっていたから」

「マージでーぇ!」

 ヌードという言葉に過剰反応することは疚しい気もしてしまうが、女性とは異なる染色体がその単語に反応する以上しかたがない。だが、太一は即座に呆れるというよりも悪戯に成功したというような、意地悪い笑みを作った。

「キョーちゃんのえっちぃ! 誰がエロ本の話をしたよ! 絵画だよ、斜体のヌードモデル。芸術の世界なり! ピコッソだね、ピコッソ」

「ピカッソなー。いや、ピカソか」

「へんっ! キョーのスケベ」

「男はみんなそれなりにはスケベだろーが」

「まぁ、AVじゃないから犯罪ではないのだよ」

 説明を再開した太一は自慢げに脳内の博識を表すかのように両手を広げた。

「さほど絵画に詳しくもない俺が分かるほどに有名な絵師が揃いも揃って高梨杏奈に群がるんだ。児童ポルノ法に引っかかるかもしれないリスクをわざわざ背負うんだぜ? それだけ魅力的な裸なんだろうな。週刊誌がそれを面白おかしく公開して以来、彼女は一時期有名人! 俺も見てみたいよ。そんなに良いものなのか」

 京助は思わず素直に驚嘆を漏らした。

「描きたがられる裸ねぇー」

 想像してみるが自分好みの体型の女しか想像できない。なにか彼女にしかないものでもあるのだろうか。若い娘の肌と曲線。麗らかだとしても、犯罪的な臭いのするあやふやな境目だ。

「いつ頃の話なんだー?」

「二ヶ月くらい前のことかな。ホームレス連続暴行事件と入れ替わるように話題が消えたよ。こっちの騒ぎも学生だから、学生の品格の低下を汚らしいおっさんたちが連日テレビで評価している」

「品格ねぇー。んなもん生まれたときから持ち合わせている環境ついでに育ちの問題じゃねーのか」

「だろ? で、話を戻すが、一躍有名人となりバッシングを受けても屈強に立ち向かう高梨杏奈は七月一日に死んだんだよ。自殺の可能性が限りなく高いといわれている。転落死。隣の南高の生徒だ」

「詳しいなー。さすが情報屋と恐れられる相模太一君。君の辞書にプライバシーという言葉は存在しねぇー」

「キョーちゃんは無知も甚だしいよね。好奇心とか腐っているだろ」

 ふと国道脇の歩道に出たときオレンジ色の夕焼けに、灰色の憂鬱な雲が空を染めていることに気が付いた。

「こりゃ、夕立来るかも……。――つか、あの方向だ……」

 太一がコンクリート色の大きな雲を示した。

「高梨杏奈の死体があった廃墟ビル」

 京助がへぇ、とも、そうなのか、とも、言う間も無く、二色の空に金切り声のような女の声が轟いた。

 道行く人々が立ち止まり、周囲を見回す。京助と太一が顔を見合わせた。

 ――そのとき。

「助けてっ!」

 二人同時に背中から突き飛ばされた。京助は前方の電柱に額をぶつけそうになる。あわてて振り向けば

「……どーいう状況?」

 太一は飛び込んできた少女に抱きつかれていた。それも背骨を折り曲げられるような弓なりの体制で肩に顔を埋められている。

「お願い! 助けて!」

「え、あの! すいません! 嬉しいけれど誰!」

 ぽかんと尻餅をついた状態の京助をよそに、パニックになった太一は抱きつく少女の顔を覗おうとするが、まるで拘束するようにきつく抱きついてくる彼女の顔は見えなかった。傍から見れば相当奇妙な体制で、何かに怯える少女に声をかけている。

 チェックのプリーツスカート。襟ぐりに紺のラインが二本入ったブルーのシャツ。東高校のセーラー服と違って真新しいデザインであるそれは南高校のものだ。長い茶髪を巻き毛にしている少女はがたがたと震え、やがてずるずると膝を折る。

「おい!」

 京助が慌てて体を支えたが、衰弱したようにぐったりする。太一が彼女の顔を覗き込むとあっと口をあけた。

「お前……月館麻緒(つきだてまお)?」

 彼女は小さくうなずくと大きな瞳を涙で揺らす。

「知り合いかー?」

「中学のクラスメイトだよ」

 焼けた肌に長い睫が印象的な少女だった。少し派手なメイクを施してあるかんばせは青白く変色している。

「あ、あそこから、突き飛ばされそうになって……!」

 か細い指が先ほど二人が通過したばかりの歩道橋を指差す。

「……突き飛ばした奴は見たか?」

「わかんない……。いきなり、背中に静電気みたいな痺れがあって……。びっくりして転びそうになったの。そしたら髪の毛掴まれて道路に落とされそうになって……! 叫んだから、逃げたみたい」

 何人かの通行人が三人を遠巻きに見守る。京助は麻緒の背中を摩りつつ、辺りを見回した。

「嘘だろ。こんな明るいところで」

 確かに歩道橋に人影は一切ない。しかし国道沿いであり交通量はかなりある。その上歩道には通行人がいたのだ。大胆すぎて驚嘆以上に恐怖がこみ上げる。

「すみません、警察……」

 太一が近くの主婦に頼もうとしたとき、麻緒の携帯が振動する。その刹那、彼女の表情はさらに恐怖の色を増した。

「いや、いやぁああ!」

「おい! どうしたんだよ!」

 頭を振り乱したことで胸ポケットに入れていた携帯電話がこぼれ出た。それを遠ざけようと、壊れることも気にせずに脚で蹴るように追いやる。淡い桃色のスライド式携帯電話はコンクリートを滑った。

 パニックを起こした麻緒は両手で髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜ、狂ったように暴れだす。太一が懸命に抑えこみ、何度も落ち着けと連呼したが耳に届いている様子はなかった。

 京助は携帯電話を拾い上げた。本体より大きなストラップのぶら下がったそれは、今時の女子高生らしい装飾が施されていた。なおも振動している。液晶画面の表示は公衆電話だ。わけもなく、背筋が凍りつき嫌な感じがする。

「……もしもし」

 人の電話を使うことに引け目は感じたが、それを耳に押し当てる。

「……」

 応答はない。鼓動が暴れだすように早くなった。

「誰、ですか」

「アーア。死ナナカッタ、ネ?」

 沈黙の後に、耳に飛び込んできたのは、間違いなくボイスチェンジャーだった。

「おい! まさかお前!」

 反応はなかった。一方的に切られる。リダイアルに意味がないことを知りながらも掛け直す。「その番号は現在使われておりません……」女性アナウンスが、諦めろと言わんばかりに響く。

「……バネ脚、ジャッキー?」

 しばらくは、月館麻緒の鳴き声と、太一の宥め。集まってきた野次馬の雑音がその場を埋め尽くす。

 京助は携帯を握り締めたまま、呆然と立ち尽くした。



   *



 太一から電話が掛かってきたのは、京助が帰宅して一時間程経過してからだった。

「……あぁ。じゃーちゃんと家まで送ったわけねー」

 京助は電話片手に連日の部屋干しで嫌な匂いのする洗濯物を畳む。受話器の向こうの太一はまだ外にいるようで、車の騒音や電車などの雑音が響いている。

「もう、月館麻緒の母親ってしつけぇの! 前から知ってはいたけれど、ありゃぁ異常だね」

「教育ママゴンなのか?」

「違う違う。なんつーか、ギャルママ? 友達親子なんだよ。仲がいいのは否定しねぇけれど、だからって「犯人は捕まえてくれたの?」とか、「どうしてもっと早く気が付いてくれなかったの?」って俺に言うことなくねぇ?」

 太一の声真似が似ているかどうかは分からないが、安易に想像できた。妙に可笑しくて笑ってしまえば、こっちは本当に疲れたんだ! と憤然としている。

「悪い悪りー。了解。お疲れ様。また明日な」

「おう」

 あの後、パニック状態にあった月館麻緒を宥めるのには時間が掛かった。京助も太一に連れ添い麻緒を自宅に送ると言ったのだが、彼が首を縦に振らなかった。どんな刺激も与えないに越したことはない、友人である自分だけが付き添うと言ったのである。

 不明瞭な説明だったが、この電話で意味が分かった。人相も愛想も悪い自分が付き添ったのでは彼女の母親に何を言われるか分からない。

 面倒事に巻き込まれたくはなかったが、押し付けてしまった気分になり、思わず罰の悪い表情を作った。最後の洗濯物を畳み、生乾きのものはコインランドリーで乾燥機をかけるべきか否かしばし考える。ここ二回連続、乾燥機を使うために外に出て夕立に見舞われている。

 自宅の乾燥機は何故か水を吐いて壊れた。だがもっと恐ろしいことに、近所のコインランドリーの乾燥機を一つ壊してしまった経験がある。コインを入れた瞬間に真っ白い煙を吐いて、小銭の投入口から大量の小銭を吐き出したのだ。思わす怖くなって逃げてしまった。それ以来一番近所のコインランドリーは使わないようにしている。

 とことん電子器具に嫌われる京助を見放していなかったものといえば、固定電話だった。呼び鈴が正常であることにありがたみさえ感じる。

「はい、浅月ですがぁー」

「ちゃお!」

 日本ではあまり聞きなれない挨拶である。鼓膜を揺らしたのは、ハイテンションな低い男の声だった。悪戯だろうか。眉間に力を込めればざわざわと煩い背景。その聞こえてくる全ての言葉が日本語でないことは確かだった。

(あぁ、なるほど)

 京助は項垂れるように溜息を付き、頭を抱える。名乗らなくても相手はあいつだ、とわかる。

「いやぁ、俺が今どこにいるのか分かる? 分かる? 分からないよな? どこでしょーう?」

「……何の用ー?」

「おうおうおうおう! 相変わらずクールドライだねぇ。カラカラカラカラのかっぴかぴかぴかぴに乾いていやがる。せっかく電話してやったのに……って、あぁ! 京助、お前今受話器置こうとしているだろー!」

「何で分かるんだー!」

 受話器からは「にひひひひ」と電波障害を思わすような、低い笑い声がした。

 この男、つまり、家主である叔父はたいそうマメで気の聞く男だが、度を越したイタズラを平気で仕掛ける……京助から言えば面倒くさい奴だった。自宅に監視カメラの一台や二台仕掛けて、京助を驚かせたりするような、すこぶる面倒くさいことを好みそうなので思わず身震いしてしまう。

「お前のことなら、おじさんなんでも分かるよー。今日履いているパンツの色とか」

「……」

「あ、引いた? もしかして引いた? ねーけいちゃーん」

「おーい。どうせ国際電話なんだろー。早く用件を述べろー。迅速、かつ簡潔にー」

「へいへいへいへいよー。興味無しですか。関心ゼロですか。無味乾燥ですかー」

「酔っているのかーぁ?」

「正気だ。めちゃめちゃめちゃめちゃに」

 受話器を通して匂いを感じることはできないのでなんとも判断できないが、正気であるらしい。マシンガントークは全くの余地を入れない。慣れていることとは言え、電話の向こう側の男と同じテンションでの対応は彼にとって無理難題なことだ。

「仕送り、足りているか?」

「なんだよー。急に気持ちわりー」

 ソファに座りテレビのリモコンで電源を付けた。プツンと音が鳴って、電源が切れた。思わず薄ら笑いと絶句をしてしまう。受話器に拾われないように呟く。

「……再び、ブルータス。お前もか」

「あ? なんだよ、何か言ったか?」

「なんでもねぇー。……仕送りだろ? 別に足りているよ」

 電化製品を買い直して貰うという考えが浮ばないのは、どうせまた壊れると諦めているからである。

「自炊しているのか?」

「まぁ。買ってくるのが面倒くせぇーし。家事嫌いじゃねぇーし。たまにインスタントだけれど。つか、なんで分かるんだっつーの」

 ははっと笑う叔父の、情けなく垂れ下がった眉毛を思い出し自然と頬が緩んだ。

「生活費、誰が払っていると思っているんだよ。妙に費用がかかっていないからな。市販の弁当生活よりも自炊のほうが重ね重ねしていると安さが眼に見える」

「あー。そういうことー。俺はさっきからあんたに監視されていそーで気味が悪くて仕方が無いんだけれどねー」

 室内の蒸し暑さは異常で、もしかしたら外のほうが涼しいかもしれないと窓を全て開放したのに風は一切ない。

「なぁ京助。もっと、迷惑かけていいんだぞ」

 京助は仰ぐ団扇の手を止めた。急に冷え切った空気に包まれたかのように背筋を硬直させる。きっと受話器の向こう側の男も、あのにやけた面構えを引き締めたに違いない。

「わがままを聞いてやれるくらいの余裕はあるんだ。そりゃぁ、仕事柄傍にいてやることは殆どできないが」

「あのさーぁ」

 無理にでも話を遮る。それは、聞きたくないという明らかな拒否表明。

「俺が、アンタにそんな言葉を求めると思ってんのかー?」

「……」

「悪いけれど、あんたはまだ若いだろ。俺みてーな餓鬼がいるとバツイチと勘違いされるぞ。高校生のコブつきなんて、寧ろコブじゃなくて腫瘍だからなー。……たまには日本帰ってきたらどうだ? ここはアンタの家だろー?」

「んー。まぁ大人にはいろいろ事情があるんだよね。それに、家ってものは買った者じゃなくて、住んでいる人間こそ『家主』にふさわしいと思うんだ」

 あぁ言えばこういう減らず口。初めて血の繋がりを感じDNAの恐ろしさに震えた。

「じゃ、そのうちまたこっちから連絡入れる」

 そしてあっさり電話はきれた。定期的とはいえなくても、たまに掛かってくるこの電話は京助にとって叔父との繋がりを思い出させるもので、一人暮らしの寂しさを紛らわしてくれる。そのことには大きく感謝していた。

「早く結婚すりゃーいーのに」

 ろくに日本にいないくせに一軒家を所持する男。京助は叔父とは女性関係について卑猥なことしか話し合ったことがない。腹を割って話せる相手ではあるが、照れくさいのも正直なところだ。

 一息つく間に再び呼び鈴が鳴る。言い残したことでもあったのだろうか。だが、予想に反して「ヤァ」飛び込んできたのは例の如くのボイスチェンジャーだった。これまた日本では聞きなれない軽快な挨拶である。

「無視カ硬直カ、眼ニ見ミエルネ。決断ハドーナッタ?」

 二日ブリ、と丁寧に名乗り出る。私ハ『バネ脚ジャッキー』と。

「意味がわからねーよ、何もかも不明瞭すぎて暗中模索もいいところだー」

「ハハ、答エニハ及バナイ返答ダネ?」

「……あんた、俺に何を望んでいるんだー?」

「ワオ、思イツカナイノカナ? 随分ト怠慢ナ脳味噌ダ。正常ニ機能スルコトハアルノカナ?」

 京助はかっと頬を赤く染めた。がらにもなく罵倒しようと口を開けても、弱みを握られている以上従うことしかできない。畜生と歯噛みする。

「マァイイ。高校生ノ連続転落事件ノ存亡ヲ……高梨杏奈ノ死ガ自殺デ無イコトヲ公表シロ」

「最初からそーいったらどーなんだよ。回りくどくて、合理的判断にかける奴め」

「合理的判断ナド求メテイルワケナイダロウ? オマエノヨウナグズニマカセル仕事ナノダカラ」

「都市伝説様は何様のつもりだよ? てめーで何もせずに、人への司令塔はそんなに遣り甲斐があるのかー?」

「私ヲ気ニスル有余ガ貴様ニアルノカ? 指定サレタコトスラ満足ニコナセナイクソッタレノガキガ」

 これほどにない罵詈雑言で続く会話の中で、京助は懸命に自分の感情を押し殺す。さもなくば、「殺してやろうか」など思ってもいないことを口走りそうなのだ。

「……なー、あんた」

「ジャッキーダ、クソ餓鬼」

「……ジャッキーは、どうして事件に首を突っ込む」

「最強ノ都市伝説トシテノ立場上、当然ダ」

「ならば、高梨杏奈にこだわる理由は?」

「コダワッテイルワケジャナイ。オマエニシカ出来ナイ事件ハ現在コレダケダカラダ」

「……高梨杏奈が自殺の可能性は」

「アリエナイ」

 一方的なせいで釈然としなかった。淡々と続く会話は台本を読み合っているようなもので奇妙に感じる。思わずため息をつくと、意を決して、一番聞きたかった質問をする。

「月館麻緒を殺そうとしたのは、お前か?」

「……誰ダ? 私ハ知ラナイ。ナンノ話ダ」

 京助は面食らって、思わず受話器を耳に押し当てた。ボイスチェンジャーが相手であるため、感情は分からないが嘘をついているようには思えなかった。というよりも、嘘をつく必要がないように思えた。

「……ドウセ、『落下姫』ノ仕業ダロウ」

(まーた変な新しい単語が出た)

 京助が頭を抱えれば、「私ノパクリ都市伝説ダ」短く説明を述べてくれた。そのことに関して触れられたくないのか、さっさと二の句が続く。

「私ノ目的ハ志摩里子デモアル。オ前ノ友達ノアイツハ、殺サレカケタソウダナ」

「……は?」

 一瞬、指先が一気に冷たくなり、全身から血の気が引いた。鈍器で殴られたような衝撃が走る。嘘だろ、と問いただしたくても言葉は詰まったままだった。

「志摩里子ハ高梨杏奈ノ真相ヲ追ッテイル。ダカラ、邪魔ナ存在ナノダヨ。結局、志摩里子ハ高梨杏奈ノ死亡現場ヲ自分ノ事故現場トシテヌリカエタ」

 ジャッキーは悠々と解説した。中途半端なことに、同じ住所・同じ廃ビルでも実際に里子が落下した場所と杏奈の転落場所は大きく違うということ。高梨杏奈が墜落したのは屋上の東側。一方、志摩里子が落下したのはそこから十メートルくらいずれていること。京助は、知りすぎているジャッキーに違和感を覚えたが何を言い返されるかわからないので嚥下する。

 京助は例の廃墟ビルに興味本位で訪れたことがあった。東高校と駅の中心を通る国道近くにひっそりと佇み、線路を通過する車体の巻き起こす風に頼りなく煽られているビル。 初めて中に入ったときの印象は、ど迫力の廃墟というわけではなくてもどことなく趣があると感じた。間違っても深夜に近寄りたい場所ではなかった。

「あの場所、なにか意味でもあんのかー?」

 特別な何かがある場所とは到底考えられない。しかし何故二度も同じ場所で転落事件が起こったのだろうか。

「分カラナイトキコソ考エロ。精神的ナ向上ヲ常二求メ、考エルコトヤ歩ミヲ止メルナ。人間ハ考エルコトヲ放棄シタトキニ本当ノ意味デ死ヌ」

 バネ脚ジャッキーは、結局京助を困惑させることしか伝えるつもりは無いようで、相変わらず一方的に通話は途切れた。

「ありえねーよ。ホント」

 京助は投げるように受話器を戻すとギシギシと軋むソファに深く座る。どっと疲れが押し寄せた。眩暈を錯覚するほどの疲労がこみ上げる。行き場のない、どうしようもない感情がふつふつ浮かんでは泡のように輪郭を失った。

「高梨杏奈」

 素性は知らない。名前も本日知った。南高の、自分と同じ年の女子高生。それなりに有名人。志摩里子と何か関係がある。……たったそれだけしか知らない。

「……二週間ねー」

 京助は考える。

 ――このまま秘密を公開されたら、自分はどうなるのだろう。

 おそらく先の未来に、愉快はない。黒々とした闇が広がるだろう。しかし、自分は光の元への向上心を抱いたことがあっただろうか?

 あの、忌まわしき過去を、秘密と呼ばれる闇を。

「護らなきゃならねー理由はねぇんだよなぁ」



   *



 Aspect 朝比奈蓮太郎(あさひなれんたろう)

「こりゃ、魔王でも降りてきそうな空だな」

 特に意味のないことを口にした。オレンジと灰色のコントラストを描く気味の悪い空の下。ホラースポットと呼ばれる廃墟ビルで煙草を不味そうに銜えている。

 蓮太郎は断じて廃墟マニアなどではなく、私用で訪れることはまずありえない。

「何を思って此処を選んだのかねぇ」

 高梨杏奈の死体が発見された廃墟ビルの屋上。そこに、刑事・朝比奈蓮太郎は不機嫌そうに君臨した。

 七月一日。このビルで高梨杏奈の死体が発見され、九日後の七月十日は志摩里子が転落し、怪我をした。志摩里子は自殺ではないと供述していると担当刑事から聞いていたが、実際このような場所に用事があるわけもない。

 くゆり紫煙を泳がせて、考える。

 ――人間は何故、自分という生き物に対して、殺人を犯すのだろうか?

「理解できねぇ」

 はん、と鼻で笑う。きっと自分のような人間は一生を費やしても分からないだろう。

 蓮太郎は学生時代に励んだ部活動での無理な筋力トレーニングが影響して身長が伸び悩み、現在でも己の身長をコンプレックスに思っている。付け加え二十七歳には見えない童顔のせいで警察と名乗っても信用されないことが多い。

 蓮太郎が現場検証で何度も訪れたこのビルに来たことには、深い意味はなかった。別段眺めが良い場所ではない。ありきたりで地形が高ければどこからでも見えるような街の風景だ。

 すぐに見飽きてしまい、暗くなる前に署に戻ろうとその場を後にする。足場の悪い階段を下りながら、たった十六歳で命を投げた少女のことを、ぼんやりと考える。

「俺が十六のときか」

 本日は梅雨明けを観測していないにも関わらず、体感温度をついに越えた猛暑。夕暮れ時の現在でも異様な湿度と熱気が鬱陶しい。

 べたべたと体に張り付く衣服に苛立ちながら、高校時代のことを回想した。当初悪餓鬼の代名詞だった蓮太郎は過激な性描写がある漫画を古本屋から入手し、ブックカバーを使って図書室の本とすり替える悪戯を友人と共に仕掛けたことがあった。だがその日のうちに犯人は彼と割り出された。理由は「普段図書室に来ない朝比奈君が、難しい本に触れていたから」という目撃情報によるもの。友人は裏切り、自分だけが反省文というお咎めを喰らった。勿論言いだしっぺなのだから自業自得である。

「馬鹿なことしていたなぁ。俺」

 毎日が楽しかったという記憶はない。だが、それなりに青春を満喫していた。馬鹿なことをして、笑って、怒られて、喧嘩して、恋をして……。死のうと軽はずみに口にしたことはあったかもしれない。しかし、自殺したいと考えたことはなかった。

「俺と比較しても、何の意味もないけれどよ」

 がりがり爪を立てて頭を引掻くのは癖である。上司からは「禿げるからやめろ」と口酸っぱく注意されているが、うっかり無視してしまう。

 蓮太郎は空気がどんよりと澱んで見える廃墟から出ると、なおも蒸し暑い空気が待っていた。やかましいヒグラシの声にいらいらしながら車のエンジンをかける。顔を上げると『keep out 立ち入り禁止』と書かれた黄色いテープを見つめる少女を見つけた。

「……?」

 右側に纏められたサイドテールの髪。少し色素の薄い瞳と髪。紺のサマーセーターにブルーチェック柄のプリーツスカート。それは南高校の独特の洒落たデザインの制服だ。

 薄汚れたスニーカーをつっかけるように履き、缶バッチの付けられたリュックサックを背負っている。中身が殆ど入っていないのか、ぺたんこに等しい。

 右手に色鮮やかな花束を持っていた。そこで合点がゆく。

「高梨杏奈の友達か?」

 話を聞こうと車から出ようとしたとき、少女は迷いなく黄色いテープをすり抜ける。

「ちょ、おい!」

 慌てて駆け寄ると、青ざめた少女の顔があった。テープの向こう側の彼女は蓮太郎をみると強張った表情のまま「しー」と口元に人差し指を当ててジェスチャーする。

「えーと、あーと……警察には言わないでくれますか」

「俺が警察なんだが」

「え、嘘ォ!」

「嘘じゃねぇよ!」

 それは初対面の人間とはだいたいお約束のやり取りだった。

「えーと、えーと、だって、高校生か中学生にしか……」

「今年で二十七だ!」

 激昂すると、少女はすぐにテープから出て潔く頭を下げた。

「ご、ごめんなさい!」

 本来、事件現場に踏み入るなど言語道断なのだが、反省した様子の、今にも泣きそうな表情の少女をいきなり怒鳴りつける気にはなれなかった。

「どうしてテープを越えたんだ? 見えなかったわけではないんだろ?」

「えーと、私、どうしても杏奈が最後に見た光景を見たくて……」

「悪いが、中に入れるわけには行かないぞ」

「……分かっています」

 少女はうつむくともう一度謝った。何度か口ごもった後、顔を上げる。

「でも。あーと、その……。信じられないんです。杏奈が自殺なんて、どうしても」

 

 少女は鏡友花(かがみゆか)と名乗った。

 蓮太郎の所属する刑事課強行犯係では、学生の連続する転落自殺の事件について完全に捜査が滞っていた。

 全国各地でウイルスのように『発症』、もとい発祥する学生連続飛び降り事件。『感染源』と言われる高梨杏奈の遺体が発見された七月一日以降、全国で十件も転落自殺事件が起こっている。十件全員が命を落としたわけではない。しかし、たった数日間でこれほどの影響を及ばした。さらに恐ろしいことは、現在事件に関係した学生十一名全員の関連性が学生であること意外全くないことだ。

 奇怪な『連続殺人』ならぬ、『連続自殺』。世間がもっとも注目したのはやはり高梨杏奈の件だった。何故、彼女の死が影響を及ぼしたのか。何故、自殺したのか。などの推測が飛び交っていた。

 南高校の生徒ならば何度か事情聴取を受けているかもしれない。しかしワラにもすがる思いで、蓮太郎は鏡友花に話を聴かせてもらうことにした。

「君と高梨杏奈さんは」

「えーと、クラスメイトです」

 廃墟ビルから移動し、二人はファミリーレストランに入った。よく効いたクーラーが少し肌寒い。夕飯前の中途半端な時間だったが、涼みに来たと思われる客でテーブルは殆ど埋まっていた。娯楽施設の少ない街であるため、自然と若者が集まる場所は限られているのである。

「えーと、刑事さんとお話しするのは三度目なんですよ」

 一度目は学校、二度目は今みたいに呼び止められて。彼女は指折り説明する。そのしぐさは妙に落ち着いており、声をかけたときのようなパニックぶりはもう覗えなかった。

「あーと、この前は樹要(いつきかなめ)さんという刑事さんでした」

「あぁ。俺の部下だよ。悪いな、何度も協力してもらっているみたいで」

「いいえ。早く解決してほしいですから。それに、えーと……私のほうこそ、すみません。学生だなんて」

「いいよ。どうせいつものことだ」

 映画を見に行けば学生所を求められ、酒や煙草は必ず断られる。先輩刑事と食事に出かけたとき、「親子ですか?」と聞かれたのは屈辱だった。

「それに、立ち入り禁止無視しましたし……」

 まるで秘密基地を守っているガキ大将のような気分になり、蓮太郎は苦笑いする。

「最後に見た景色ね……行かせてやりたいのは山々なんだが……。事件が解決して話が収まったら解放するだろうからそれまでは我慢してくれ」

 友花は素直に頷くと、少し可笑しそうに笑った。サイコロの髪ゴムが可愛らしく揺れる。蓮太郎が怪訝に顔をしかめれば、言い訳をするようにあわてて口ごもった。

「……えーと、もっと怒られるかと思いました」

「気持ちが分からないわけじゃない。……俺もやったことがあるんだよ。刑事になる前に黄色いテープを潜ったこと」

 啜ったアイスコーヒーが想像以上に苦かったことと、思い出したくない記憶の苦さに頬がたいそう歪んだことだろう。

「俺の時は、熊みてぇな刑事に止められてさ。殴られるかと思ってひやひやしたよ。注意だけで終わったのは奇跡だぜ」

 ――色鮮やかな花を片手に、テープを潜る。死体となった人間の、最後に見た景色を見る為に。どんな思いで死んだのかを、少しでも知る為に。

 月日は流れて、立場は逆になった。蓮太郎にとって、友花があの日の自分と重なり、どうしようもない虚しさに苛まれた。

「……そうか……。あれからもう、七年も経ったのか」

「え?」

「いや、なんでもない。ところで、君はどうして高梨杏奈が自殺じゃないって思ったんだ?」

 グラスの中の氷をストローでつついていた友花は自信なさそうに口ごもる。些細なことでも良いと促すまでしばし黙っていた。

「えーと、あーと……杏奈は、人に理解されにくいところはあるけれど嫌な子ってわけじゃないんです。私も仲良くなるのに時間がかかりましたし。今では私の一番の友達……だったんです。

 でも、ちやほやされる性格じゃないっていうか、自分から孤独を好んでいる閉鎖的な雰囲気とか、やっぱり理解されなくて。いじめってわけじゃないんですけれど嫌がらせは受けていました。……全く相手にしていませんでしたけれど」

 これまでに多く似たような報告を受けていたが、高梨杏奈という少女の人物像は安易に想像が付く性格ではなかった。正直、連太郎は友花のように仲の良い同級生がいたことに驚いている。

「えーと、杏奈は何があっても自殺なんてしない気がするんですよ。以前いじめについての授業で、学生の自殺を取り上げたビデオを見たときに『自殺するのに遺書をわざわざ書くとか意味わかんない。私だったら面倒だから自殺なんて絶対しないわ』って言っていました」

「……なんだそりゃ」

 ひねくれた性格ということは薄々わかっていたことだが、指摘せずにはいられない発言である。

 高梨杏奈という少女は、本当に十六歳の娘なのだろうか。彼女の意見に全く共感できないわけでもないのだが、しばし疑問に思ってしまう。

「事情聴取をすればするほど、高梨杏奈は自殺とは思えないな」

「そうですよね。私も、今だに信じられない。ていうか、えーとあーと。なんか、朝比奈さんって変わっていますね」

 友花は微苦笑のような表情を作ってドリンクバーのお代わりに向かう。その際、蓮太郎のグラスも手に取ってくれた。

 友花は顔立ちこそ普遍的で特徴はないが、全体的に少女特有の可愛らしさがある。容姿と反する落ち着きと気丈な振る舞いの違和感を覗けば、ろくに顔を覚えることができないほどに普通な娘だ。

 今日会話することが初めてではないように彼女には警戒心がない。事情聴取も回数を重ねれば慣れるものなのだろうか。戻ってきた友花は、そういえば、と少しためらいがちに口を開いた。

「えーと……クラスの子に、月館麻緒って子がいて……杏奈がああなってから、ずっとおかしかったです」

「そりゃクラスメイトが亡くなったら」

「違うんです!」

 立ち上がり、必死の形相で詰め寄った。面食えば、周囲の目を気にしたのかすごすごと引き下がる。

「……噂では『バネ脚ジャッキー』に関わったらしくて。詳しくは全く知らないんですけれど」

「『バネ脚ジャッキー』……? おいおいまたかよ」

 記憶を辿れば案外浅い地層にそれはある。「ホームレス連続殺人事件」の真相をつかんだ前代未聞の都市伝説。同僚から聞かされた話だったが、県外のホームレスに暴行を加え逮捕された学生は『バネ脚ジャッキー』による情報提供で逮捕されたらしい。本来なら感謝状を贈るところなのだが、ジャッキーがおそらくハッカーでありクラッカーと思われている。ジャッキーを良く思う警官はいない。都市伝説であるそれを蓮太郎も信用していなかった。

「えーと、ご存知ですか? 『バネ脚ジャッキー』」

「『口裂け女』の巻き起こした社会現象を飛び越さん勢いの都市伝説だろ? ばかばかしいと否定できないのは、完全に眼に見えないからだろうな。一蹴しようとも説得力がない」

「今の社会では、変質者よりもネットウイルスのほうが恐ろしいと感じる人間もいるくらいですしね。えーと、でも、ジャッキーは『ヴァンダル殺し』って呼ばれているから、ファンがいたりもするんです」

「ヴァ……。なんだそりゃ」

「ヴァンダルです。えーと、アクセス制限の突破やその制御機能の破壊を特に好むクラッカーをアタッカーっていうんですけれど、アタッカーのうち、サイトの荒し行為を行う者を『ヴァンダル』って呼ぶことがあるんです。それで、噂では、メールボムやスパム投稿を続けた人がとんでもないウイルスに感染させられて、血祭りにあげられたって」

「血祭り?」

 蓮太郎が首を傾げると、友花は慌てて文字通りの意味ではないと補足した。

「えーと、あーと、多分、ネット上に赤裸々に個人情報を流出させられたって意味だと思います。それで、「ニュービーの分際ででしゃばるな。母親の乳でもしゃぶってマスでもかきやがれ、童貞野郎」っていうメールが届くとか」

「君、それ人前で発言するの止めなさい。うら若き少女が出しちゃいけない単語が並んでいる」

 なんだか居た堪れない気分になるのは何故だろうか。「これぐらい普通ですよぉ」年端も行かない少女が首を傾げ肩をすくめるので、世も末とつくづく聴覚で体感した。

「えーと、刑事さんはジャッキーが人間だと思いますか?」

「そりゃ、人間だろ?」

 ジャッキーは新種のコンピューターウイルスという噂もあるが、意思のあるウイルスが存在してたまるものかと、その説は全く信用していない。

 蓮太郎の想像するバネ脚ジャッキーは、非合法を恐れず目的に到達し、自分を正義だと信じているような奴だ。社会を騒がせることを快楽とし、見下しているような気分になっている馬鹿野郎。

 生理的に受け付けないせいか、あまり話しの合いそうな奴ではないと思い込んでいた。『バネ脚ジャッキー』という単語を聞くだけで思わず嫌悪感が露になってしまう。

「えーと、あーと、私、最初はジャッキーのことを意識していなかったんですけれど、結構好きだったんです。怖い話じゃないし、願いをかなえてくれるっていう噂もあったから。でも、今は」

 からんと、氷が溶ける。二層になった友花のオレンジジュース。もう手をつける気がないのか、手元から離れている。

 何故か、この沈黙が降りた瞬間に彼女の周囲のみ、ぞくっと身震いするほど冷たい空気を纏っているように見えた。それほどに、彼女は何か気迫のようなものを背負っていた。

「もしかしたら、ジャッキーが杏奈を殺したのかもって……思っています」









































 七月十三日 Tuesday







 Aspect 朝比奈蓮太郎

 アンティークな小物に敷き詰められた店内。

 可愛らしいというよりも、どこか不気味で不思議な雰囲気。それは完全なるアーティフィシャルな世界であり異世界を漂わす魔的な産物の列なり。ここが日本であることすら忘れさせる閉鎖的密閉空間。常連たちの穴場であり、たまたま立ち寄った客にとっての居辛さと好奇心を掻き立てる。蓮太郎は常連の部類なのだろうけれどいつまでたっても慣れないこの場所に溜息を付く。

「午前中からくつろぐなんて、良いご身分でありんすね。税金泥棒」

「これでも被害者の家に出向いて事情聴取をしたあとだ」

 蓮太郎は煙草を咥えると、店主が相変わらず、背伸びした子供が親の煙草をくすねて隠れて吸っているようにしか見えない、と笑った。むきになるとうれしそうにする店主の性格を知っているので、あえて黙る。

「それで相談とはどんな面倒でありんすか?」

 凛とした声と雰囲気を纏う店主はアンティークな椅子に腰掛け、長い脚を組んだ。

 古めかしい丸い眼鏡と漆黒のパンツスーツ。手首までしっかり覆うカットソーは凹凸の激しい肢体を包む。照りつける太陽にさらされない肌は白く、昼間の今でも薄暗い店内はクーラーによって七月あるまじき温度だ。

 世の中省エネブームだというのに、と蓮太郎は呆れつつ腕まくりしていたワイシャツを正す。何から何まで高級そうなものを身に着ける店主と異なり、自分のスラックスもシャツも安いだけが取り柄という哀しい代物。

「面倒事、決定なのか」

「あい、ぬし自身が面倒な奴だから仕方が無いでありんしょう。朝の貴重な時間にゴミの分別をしなきゃいけないことに気がつかされた絶望感に匹敵する、微妙な面倒臭さでありんす」

「……なぁ」

「あい?」

「いつ聞こうか、この店に入った瞬間からずっと迷っていたのだが、その妙な言葉使いはいつ頃終わる予定だ?」

 遊郭で使われているような滑らかな郭言葉ではなく、どこか片言というか、慣れていないのに無理やりに使っているようにしか覗えない。尚且つ、西洋風の店内・彼女の服装・その口調は潔いほどにちぐはぐなのだ。

「生まれつきでおすものを(生まれつきなんだから、しょうがないでしょ)」

「嘘付け! なんて言ったのかいまいち良く分からんが、どうせ適当なこと言いやがっただろ。この出任せ女郎」

「わっち、ぬしみたいなんやぁいやー。(えー、私あなたみたいな人、苦手だわー)」

「やかましい!」

 何故急に郭言葉を使い始めたのだろうか。何年同じ時間を過ごしていても、彼女の思考回路は文字通り奇想天外なのだ。この女ほど「奇女」という二文字が似合う存在は二人と実在しないと断言できる自信がある。

 唐沢黒奈(からさわくろな)。正真正銘本名。彼女と二十年付き添った蓮太郎は、断ち切れない腐れ縁を感謝しつつも嫌悪する。他の誰にも、彼女以上に『黒』を華やかに、かつ優美に使いこなせる女性はありえないだろう。

 天職ならぬ、天名を授かった彼女は陶器のように白くきめ細かい肌を誇り、切れ長の瞳と艶やかなショートヘアの似合う艶やかな美人だ。しかし、奇想天外な行動や言動、気分屋で掴み所がなさ過ぎる性格のせいで人とはとにかく馴染めない。本人も望まず孤立孤独をとにかく愛する。禁忌と呼ばれるものに惹かれ、魔的なものに興味を示す。グロテスクなものを好み、凡人のなかに眠るふとした狂気や、憎しみの開花を見ることを好むサディスト。

 つまりは生粋の変態である。

 そんな彼女がこの「椿屋」で、人間相手の接客業をするなんてどんな心境の変化が起ったのだろう。幼馴染である彼はつくづく疑問に思っていたが、ろくでもない解答が返されそうなのであえて質問しなかった。

「今、警察もなかなか忙しいようでありんしょう? わざわざ尋ねてきてくれたからには、なにかけちなこと(悪いこと)があるんしょう?」

「けちなこと、どころじゃねーよ。いいかんじにサボらないと過労死するぜ」

 メンソールの効いた煙草を咥えると、ポケットの中から新聞の切り抜きを取り出す。

「いくら引き篭りでも、知っているだろ? 全国の学生の相次ぐ転落死……。少なくともウチの管轄では事件と自殺の両面で調査しているんだが、どうにも釈然としなくてな」

「あい」

 黒奈は自分で入れた紅茶を啜る。蓮太郎の冷めたものにも注いだ。

「高梨杏奈、ねぇ? この娘が自殺感染源と呼べるだけの影響力があるでありんすか?」

「話が早いな。……高梨杏奈は芸能人とはいえど児童ポルノ騒ぎを起こしたせいもあって同学年からの印象はすこぶる悪い。仮に熱狂的なファンがいたとしても命を絶つとは考えられない。……言い方は悪いが、影響力自体ないに等しい」

「そういえば、同じ廃墟ビルで一人転落事件を起こしたそうでありんすな。確か、同年代の女子高生」

「詳しいな」

 蓮太郎はろくでもない情報源ばかり使う黒奈を良く思っていない。間違っても幼馴染に手錠など掛けたくないので、一般市民のままでいて欲しいのが正直な感想である。……無謀な望みだと彼が一番自覚しているが。

「そりゃぁ、これだけ大胆に連続する自殺なんて奇怪でありんすからなぁ。好物ゆえにしかたがないでありんしょう?」

 首を傾げた後、彼女は瞼を閉じて沈黙する。彼女は決まって物事を思考するとき、味わい咀嚼するように時間をかける。黙って開口を待った。彼女との会話は、痺れを先に切らしたほうが負けなのである。

「……私が考えるに、謎を残す為、だろうな。自分だけが抱えた理不尽を、どんな形でもいいから他人に与える」

「つまり迷惑をかけてやろうと悪意をもった悪戯か?」

「おそらくはその延長でありんすなぁ」

 黒奈は肩に少しばかり掛かる短い髪を、優雅に払う。青白いほどに白い肌は薄暗い店内によく映えた。ノスタルジアを演出する橙色の電球。そのうちの一つがちらちら点滅している。

「高梨杏奈の事件に続く自殺は、ワザトこの時期に転落死を選んだんでありんしょう。奇妙奇怪のブームに乗った、印象に残る死に方。一種のファッションやスポーツと大差ない流行って奴だ。自殺した者の周囲にいた人間としてはそうとう記憶に残されるだろうよ。日本全国津々浦々。発生・感染・蔓延する転落自殺をした人間の一人が、知人だなんて」

 蓮太郎が「はた迷惑な話じゃないか」と憤慨しようにも、あくまで彼女の考えである。溜息を付いて灰皿に灰を落とした。気が付けばいつの間にか再開されている言葉使い。

「お前さ、言葉使い統一しようぜ。苛々するんだけれど」

「何のことでありんしょう?」

「……」

 こりゃだめだ。そうそうにお手上げした。話を本題に戻すことにする。

「万が一にも、お前の考えが当たるとして……。甘えたなクソ餓鬼ばかりだな。世の中」

「あちきはまだしも、ヤンキー警察が強行犯取り締まるこのご時勢に、何を言ったところで無意味でありんしょう。腐った大人がそれをはるかに上回る数で溢れかえっているでありんす。当たり前のことでありんしょう? 警部補?」

「喧嘩売っているなら買うぞ。誰がヤンキーだ」

「個人名は出してないでありんす。ぬしの勝手な被害妄想をか弱い乙女に擦り付けないでおくんなせぇ」

 黒奈は咽喉をクククと低く鳴らし、彼の煙草を背凭れにかけてある背広から抜き取った。ほっそりとした指。美しく整えられた爪が煙草を摘む。注意も制止も意味を成さないことを既知しているので、溜息を噛殺す。店を出ようかと背広に触れたとき、紙の感触があって、――思い出す。

「言い忘れていた。……正直お前に相談するつもりはなかったことなんだが」

「あちき以外に相談できる相手なんていないくせによう言いよりますわぁ」

「聞かなかったことにしておいてやるよ。――これなんだが」

 背広の内ポケットから白いコピー用紙を取り出す。黒奈は広げた瞬間に顔を顰めた。読みにくさのあまりげんなりしたようである。

「知っているか? 『バネ脚ジャッキー』。今日朝刊と一緒につっこんであった」

 蓮太郎は溜息を吐いて煙草を吸殻入れにねじ込んだ。

 何の変哲もない茶封筒に自分の住所と『バネ脚ジャッキー』と書かれた宛名。中身を開けば、飾り気の一切ないカタカナと漢字の羅列。文面は短く端的だった。



――復讐ハ果タセタカ?



「今頃、か。今更、か……。全く笑っちまうよ」

 手紙を握って固まったままの黒奈を横目に、蓮太郎は厨房に入ると水道から直接水を煽った。口元から滴る水道水を袖で拭えば、自嘲気味に自分が笑っていることに気がつく。

 いつになく黙り込んだ彼女はいらいらしたように前髪を掻き揚げる。手紙を蓮太郎の胸板に押し付け、そのままカウンターの外に追いやった。

「七年……。いや、五年も経過したのか。全く、歳をとった気がしない」

「俺も昨日気がついて驚いたよ。……なぁ、コイツは何が言いたいんだと思う?」

「さぁな。忘れるなってことだろう」

 黒奈は苛々したように煙草をふかす。蓮太郎が怪訝に顔を顰めて「忘れるわけがない」と抗議すれば、黒奈は憤りを無理やりに隠した表情で彼のネクタイを掴んだ。

「そうじゃない。こいつが言いたいのは、お前の過去ではなくお前が払うべきだった代償と、失わせたものだよ」

「は?」

「分からないなら、お前は、分かるまで縛られろ」

 機嫌を悪くしたのか、くるりと背を向ける。

 さっさとでていけ。虫を追い払うかのように手をひらひらさせた。それが客に対する態度かとしばし呆気に取られたが、彼女の気分が山の天候のように掴めないのは今に始まった話ではない。

「……どうりで客がいないはずだ。繁盛するわけも無い。口調戻ってるし」

「何のことでありんしょう? 今日は定休日なのでございまするする。それをぬしが急においでになるものだから、わざわざあけてやったでありんするする」

 返答ができなくなり、畜生と言葉を濁す。口先からでまかせが湯水の如く溢れ出る蓮太郎だが、黒奈に口喧嘩で勝利できる日は、あと二世紀程先の話になりそうだ。敗北の苦渋に眉間の皺を深める。

「二枚目と三枚目の中間かんばせが台無しでありんすなぁ」

「うるせぇよ!」

 自棄になって立ち去ろうとすれば「もちっと待ち」置いたままの背広を投げた。

「すかん話ばかりに花がさきなんし。一つお耳に入れとうことが。――人間は、考えることを止めたときに死ぬ。……死ぬなよ蓮太郎もっと私を楽しませろ」

 それがお前の使命だ。彼女はそう高らかに豪語するものだから、勝手に言っていろと無視することができなかった。

「せいぜい頑張りますよ。中間以下管理職は」

 重い扉の先には太陽がいる。その照りつく熱さに触れた瞬間に、現実に呼び戻された気分になった。

 ふいに、スラックスに突っ込んだコピー用紙を握り締める。

「……やってやろうじゃねぇか、畜生め」



『拝啓 朝比奈蓮太郎サマ。

 月日ノ流レトハ早イモノデ、アノ日オ前ガ切リ捨テタ闇ガ、五年ノ歳月放置サレタママダ。生カスモ殺スモオ前ノ自由。シカシ、オ前ニハコノゲームニ参加シナクテハナラナイ義務ガアル。

 イイカ、コレハゲームダ。参加ソノモノガ×ゲームノ楽シイ狂喜ダ。オ前ハ謎解キヲスル可愛ソウナ主人公。モシクハ傍観スル腰抜ケタマナシ野郎。オ前ダケガ、アノ日カラ逃ゲラレタナンテオモウナ。

 私ハバネ脚ジャッキー。全テヲ記録シ、傍観スル者。ソシテゲームノ法律。

 ――復讐ハ果タセタカ?

 良イ結果ヲ待ツ。バネ脚ジャッキー』



   *



 Aspect 樹要(いつきかなめ)

「えーと……まぁ、とにかく……」

 自分の立場が不利になると口ごもるのは、樹要の悪い癖である。

 刑事課強行犯係に所属する要にとって一番の後悔は「そんじゃ、あとよろしく」と逃げた先輩刑事の朝比奈蓮太郎を取り逃がしたことだった。なんとしてでも捕まえておくべきだったと舌打ちを心の中でする。あの童顔野郎と呪いたかった。

 月館麻緒の事件報告に南高校を訪れた要は、まず真四角の応接間に通された。高梨杏奈についての事情聴取で既に何度も訪れた南高校だったが、広さのあまり慣れることができない。マンモス校と呼ばれるだけあって何に関しても設備が整っているのが覗えた。

 刑事である自分を目の前にしながら、ふてぶてしくソファにふんぞり返った不機嫌な教師は、いい加減しつこいと言いたいのだろう。それに関しては自覚していた。

 しかし今回は事情聴取ではなく報告だった。要は口火を切る。

「先日七月十二日午後四時三十分過ぎ、国道四号線沿い道路の歩道橋から月館麻緒さんが背中にスタンガンを押し当てられ、背後から突き落とされそうになった」

「本人から、我々もそう聞いておりますわ」

 月館麻緒の担任教師、大塚誠二(おおつかせいじ)の顔には「さっさと説明して帰れ」と、でかでか書かれている。何の縁かは知らないが、高梨杏奈の担任でもある大塚とはもう知人と言って良いほど顔を合わせていた。もちろん好意的、友好的に接してくれるわけなどない。

「続けます。背中に静電気のような衝撃があったと証言していた通り、使用されたスタンガンはペン型タイプの痴漢撃退用のもので殺傷能力は一切ないものでした。スカートのベルト部分に押し付けられた形跡があり、そのおかげで静電気程度の痛みで済んだのでしょう。ベルトに残された焦げ目からスタンガンのメーカーの特定ができました。……確か、月館麻緒さんは数日前に護身用スタンガンをなくしたと友人に話しをされていたそうなんですが」

「いや、知らんな。そもそもそんなものは学校に言語道断で持ち込み禁止に決まっているだろう。盗難にあったとしても、申し出るとは思えんな」

「そう、ッスね……」

 敬語が下手な要は思わずいつもの口調に戻ってしまい、慌てた。

 クーラーの効いた真四角の応接間。通例なら校長や学年主任も立ち会うものだろうに、運悪く不在だった。そのため対面ソファに一対一で睨み合うように着席している。気まずさと空気の重さで息苦しかった。

「高梨杏奈の事件もはっきり終わっちゃいないのに、大変だね、警察は」

 ただの嫌味にしか聞こえなかった。

 事情聴取を散々受けた人間は、その後警察にとことん冷たいものが多い。それは同じ質問をくどくど繰り返されるからだろう。しかし、何度も確かめなくてはならないのは警察が無能だからではない。状況も供述も人によってすぐに変わるのだ。真実を追究するために仕方が無いことであり、最終的に彼らの安全を守る為に奮闘しているのだ。ある程度の譲歩は素直に欲しいものである。

「どんなに些細なことでもかまいませんので、何か彼女のことで気になったことはございませんか?」

「そういえば、携帯電話の盗難はあったぞ」

「いつ頃ですか?」

「七月五日の月曜日だ。月館麻緒だけじゃない。二年の生徒の携帯電話……確か二十名くらいがいっせいになくなったそうだ。その日のうちに、全部学校の敷地内で発見されたそうだが」

「怪談話みたいですね」

「高梨杏奈が亡くなって、まだ四日しか経っていなかったからな。そんなことにかまっている余裕もなかった。……今考えてもイタズラとしか思えないが」

 南高校に訪れる前に、先輩刑事である朝比奈蓮太郎と月館麻緒の自宅に寄った。彼女の証言だと、スタンガンを無くしたのは七月五日。その日は高梨杏奈の葬儀だ。ただのいたずらにしては不謹慎で悪趣味極まりない。

「参考までに、高梨杏奈と月館麻緒の交友関係など教えて頂けますか」

 要がきりだすと、大塚は面倒くさいようで、少し渋るような表情を作った。汗をかいたグラスを煽る姿は、酒屋によくいるサラリーマンのようにも見える。勿論グラスの中身はアルコール〇パーセントの麦茶だ。

「……高梨杏奈は常に向上心のある生徒で、協調性は微塵も無いし感受性が欠けてはいたが、勉学においては妥協しない生徒だった。……大体の人間はそう言うだろうよ、聞こえよく、な」

「と、言いますと?」

「個人の意見としては、自我がしっかりしているというよりも、自ら孤立を望んでいるように見えた」

 大塚は額の汗を肩口で拭った。襟ぐりが少したるんでいるが、清潔そうな白いTシャツにジャージ。熊のような体はラグビー選手のように切磋琢磨された筋肉と、年齢が積み重ねた脂肪で固められている。だが、堀の深い顔立ちでなかなかの二枚目だった。

 一方、大塚とは対照的に要の体は細長く、腰周りなど彼の半分くらいしかないだろう。赤みのある地毛のせいで、未熟さや青臭さが感じられる。おまけに天然パーマなので「イマドキの若者」らしさが入り混じっていた。本人の理想は「ハードボイルドなおっさん」と豪語しているので、若さの要素はすべてコンプレックスに感じている。現に、要の言動一つ一つに食い入る大塚は、彼の容姿も含めて受け入れがたいようで、良い印象を与えていないだろう。

 要は手帳に記入しつつ、「では交友関係は狭かったんですね」と確認した。

「我々が知る分にはだがな。少なくとも鏡友花以外に友人と言える友人はいないように見えたな」

 なるほど、と頷いたとき、ふと眼を落とせば大塚の右手の甲に蚯蚓腫れのような線が入っている。要は珍しいところにあるケロイドに眼を奪われた。赤黒く変色しているが完治して随分時間が経過していることが覗える。彼はすぐさま無遠慮な視線から覆うように隠した。

「……昔生徒ともめたんだ」

「すみません。……ほかには何か?」

「俺に言わせれば、小生意気。挑戦的、好戦的な娘だった。常に周囲を警戒しているような眼で見るくせに、一切の恐れや怯えがない」

 大塚の短く切りそろえられた黒髪が揺れるたび、オーデコロンが香る。

「凄まじい集中力の持ち主で、授業中はとにかく黒板と教師を一点に見つめるんだ。まるでエモノを前にした肉食獣のように。かと思えば、授業中に話をそらすと一気に集中力が無くなる。……まぁ真面目といえば真面目なんだが……。明白に眼に見えて態度が変わる。それが面白くないというか、可愛げのない感じだった。俺だけじゃない。他の教師も言っていたよ」

「気の強い子だったのですね」

「強い強い。正直、将来が恐ろしかった。どれくらい化けるのだろうかとね。どんな方面にも才能を伸ばすことができただろうし、何より、物事を吸収することにおいてはかなりの天才だった。だから、恐ろしいと思う反面、楽しみだったよ」

 大塚自身高梨杏奈を嫌っているわけでもないようで、詳しく説明するたび肩を項垂れるように落としてゆく。

「対照的に、月館麻緒は協調性に長けてリーダーシップのあるタイプだ。明るく、周囲に気配りができる。だが、他の生徒と拗れることもあったようだ。……彼女も良くも悪くも目立つタイプだ」

「と、いいますと、どういった意味で目立つのですか?」

「服装検査で再々検の常連だった。スカート丈はどんなに言っても直さないし、髪も赤い。何より授業態度も悪いしな。あと、入学当初、痴漢に出くわしたとかで問題を起こしたこともあったし、不審者云々は今回が初めてではないな」

「不審者、なんですかね、今回のは」

 要が手帳から顔を上げると、軽蔑の眼差しを向けられていた。そんなものは知るか、と言いたげな、いや、そう物語っている視線である。

「それはおたくが決めることだろ」

「ごもっともな意見です……」

 我ながら愚問であったと後悔した。反論できるはずがない。

「少なくとも、月館は自殺じゃないんだろ?」

「自作自演は不可能でしょうね」

 人目に付きにくい場所ではあったが、人通りはそれなりにある所での犯行。傷害事件として処理しているが、それが連続墜死事件と繋がるものなのかはなんとも言えない状況である。しかし、同じ高校の、それもクラスメイトの被害が続いたのだ。全く関連がないとも言い切れない。

「高梨杏奈は勿論と思われますが、月館麻緒も自殺を考えるタイプではなさそうですね」

「二人とも……言い方は悪いが、苛められたら苛め返すタイプだ」

 そういうところは似ているのか。

 要は単純な子供とは程遠い最近の女子高生に恐怖心を抱く。

「……月館は、高梨と仲は良くなかったと聞く。アレだけ方向性の異なる人種同士だから、当たり前なんだがね」

 大塚はまるで懺悔でもするように膝の前で手を組むと、前屈みになった。苦しそうに項垂れて、瀕死の獣のような唸り声で呟やく。

「俺は長年教師をやっているが、まさか、自分の生徒が自殺するなんて思ってもみなかった」



   *



 Aspect 浅月京助

『取調べ』の翌日にしては静かだと感じたのは京助だけではない。修二もそれに同意して気味が悪いと舌打ちをした。東高校二年五組の教室は三時間目の休憩時間にいつもの賑わいを見せていた。談笑する者や昼休みが待ちきれず間食する者など自由に過ごしている。

 誰もがちらりと、里子がいた唯一の形跡となっている座席に眼をやるが、あえて騒ぎ立てることもなければ、ひそひそと噂を口にする者もいない。未曾有の事件に、騒ぎ立てる気にもなれないようだった。

「みんな心配はしているんだろうけれど、関わりたくないのも正直な理由なんだろうな」

 冷静に分析し、文庫本に眼を落とす修二が優雅に眼鏡を正す。京助はそのキザっぽいい仕種を横目で観察しつつ、煮え切らない感情を溜息として吐いた。

 日常の中に普段見ないものといえば、単語帳とむっつり睨めっこしている太一のぴりぴりとした空気だ。常に頭に花を咲かせているめでたい野郎のくせに本日は焼け野原である。

「まだ気にしているのか」

「みてーだよ」

 いつもの天真爛漫のカケラもない。柴犬というよりも機嫌の悪い猫だった。逆立つ毛や尻尾が今にもひょこりと顔を出しそうである。二人は呆れと憐憫の視線を向けるしかなかった。

 前回の英語授業の際、英語教師が問題の回答を間違えた太一を執拗になじった。それを非常に根に持ち、本日また指名されることを予測して予習に励んでいるらしい。

「べつにカミー(英語教師のあだ名)の言っていることなんて気にしなきゃいいじゃねぇーか。俺なんか職員室で教材のダンボール持たされて起立だぞー。三十分間ー」

「それは気にするべきじゃないのか」

「そーかぁ? そーいや、結局修二は志摩の家に行ったのか?」

「いや、明日ってことになったよ。明日は職員会議で午前中授業だけだろ。……でも、昨日お前らが目撃した南校の事件があったばっかりだからな。不審者対策だかなんだか、いろいろまた話し合うらしくて結局取りやめになるかも」

「はー。相変わらずいろいろ大変なんだなー」

 昨日のようにうだうだ時間を持て余しているだけの自分たちは違うと感心すれば「もう、無理だ!」もくもくと集中していた太一がついに匙を……もとい単語帳を投げてきっぱり宣言した。

「前の時間潰してまで集中していたからな。普段教科書を開くこともしない奴がこれ以上やるとパンクするんじゃないのか? 容量が少ないことを認めたほうがいいぞ」

 修二の嫌味は耳に入っていないのか、気にしていないだけなのか。今度は京助の教科書を睨み始めた。長文を指なぞりしながら眼で追う。

「今やるくらいなら、家でじっくりやればいいだろ」

「うるさいよ眼鏡委員長。俺は眼鏡に萌えないからな」

 太一は予鈴が鳴っても一向に移動しようとしないので二人一斉に一蹴する。確かに集中力はある男なのだが、方向性や時間配分を明らかに間違えている。修二は呆れてため息をつくが思い出したように京助に向き直る。

「そういえば京助。電話のことなんだけど、気にしなくていいと思うぞ」

「は?」

「電話、来たんだろ? あの人から。お前が決めることだから。この先、どうするとか」

 修二は英語教師の神岡が現れたと同時に号令をかけた。

「……」

 釈然としない京助は、修二が着席した瞬間に背もたれを蹴った。

「偉そーにすんなぁ」

 聞こえる程度の小声で悪態を付いてやるが、彼は肩を揺らして笑っている。一応笑いをかみ殺しているつもりなのだろう。舌打ちをして、過保護すぎる親友に「余計な心配だ」と耳打ちする。

「じゃぁ今日はぁ、この前間違えぇたぁ相模からぁ読んでもらおうかぁ」

 馬鹿でかい神岡の声に太一の背筋が正されるのが見える。本当に英語の教師なのか、と疑問に思うくらい訛っている日本語。一瞬とまどった様に立ち上がった彼の手にした教科書には浅月京助と書かれていた。

(あの野郎っ! 俺の教科書じゃねぇーかよー!)

 どうやら自分の教科書を家に忘れたようで。不自然な行動に注意力を使うべきだったと舌打ちしても後の祭り。英文を読み終わってウインクを投げる太一に睨む気力も失せる。とりあえずこの一時間、神岡に指名されないよう願おう。そう思った刹那「次ぃ、浅月よろしくぅ」指名されたのは単なる偶然とは思えない。



「まぁまぁそう怒るなって。ほら。苺カステラやるからよ」

 上機嫌の太一はむっつりと弁当を頬張る京助に食べかけの鈴カステラを突き出した。巻き込まれずにすんだ修二はそのやり取りを……正しくは一方通行にまくし立てられている状況を呆れて、それを見つめる。

「苺カステラなんて邪道なものがあるのか」

 修二が胡散臭いものを見る眼で着色料以外の何でもないピンク色を睨んだ。邪道という言葉にピクリと眉を吊り上げる。

「食ってみろ。上手いから」

「俺、甘いの苦手」

 修二はふいと顔を背け拒否するが、すかさず胸倉を引っつかみ、口元に砂糖の香り漂わす苺の鈴カステラを押し付けた。

「苺はなににだって合う万物の食い物だ。甘いの苦手でもいけるって」

「お前、苺愛好家だったのか。てか、白飯を食っている俺に普通勧めるか?」

「ご飯にも合うぞ」

「嘘付け!」

 そのやり取りの際も、ひねくれたままの京助はひたすらに飯をかきこんでいた。あまりのあからさまな無視に太一が先に痺れを切らした。

「あぁもう。無視すんなよ京助ぇ! 俺が悪かったって! ごめん!」

「最初から言えよ!」

 数十分前の授業中、英文を読めと言われても教科書がない以上無理な話。忘れ物など言語道断の神岡の眼光が鋭く光る。隙を見て渡そうと修二も試みたのだが、盗むほどの隙もなく「立っていろ!」と唾を飛ばして激昂した。授業始まりにしてものの二分でその場に立たされたのである。

「頼むから機嫌治してくれよ。俺、すげぇ話たいことあってさ」

「どーせろくでもねぇーことだろ?」

「そう言うなって。これなんだけれどさ」

 太一が取り出したそれに、促されて眼をやれば新聞の切抜きや雑誌、インターネットの記事をもとに作られたレポートだった。その記事が全て、高梨杏奈の事件であることは一目瞭然なわけで。

「ちょっと俺と一緒に真相究明しない?」

 ちょっとそこまでコンビニに行こうぜ。同じくらいのノリであっけらかんと誘われる。

「しねぇーよ」

「無茶言うな」

 綺麗に息が合い、声がそろった。太一はいつかのように二人の顔に手を翳すとまぁ、待て、と続けた。

「昨日、月館麻緒が突き落とされそうになったのって、転落事件と全く関係ないわけじゃないと思うんだよね。少なくとも自殺ではないし」

「あのなぁ太一。俺たち素人が首突っ込んだくらいで解決できるような事件なら、警察なんていらないだろ」

「解決することが目的ってわけじゃないさ」

 怪訝な顔つきをする修二にさらに他のレポート用紙をずいと差し出す。そこには高梨杏奈の死体があった廃墟ビルの写真が様々なアングルで貼り付けられている。

「志摩っちがこの場所に行ったのってさ、高梨杏奈の後を追うためだと俺には思えないんだよね。それこそ、志摩っちは高梨杏奈が誰かに殺されたと思っている」

「……真犯人に始末されそうになったってことか?」

「俺はそう思っている。京助は?」

「……」

 煮え切らない表情の修二はともかく、太一はちらりともこちらを覗わずそっぽ向いたままの京助に苛立つ。せめて話ぐらいは聞けと肩を叩けばその手を振り払われた。

「……京助が乗り気じゃないのはよ、志摩っちに何かをしようと思う感情がないからなわけ?」

 この薄情者め。口にこそしないが、うっすらと嫌悪の混じる口調。太一は落ち着いていたが、確かに憤然としていた。

「俺はさ、正直高梨杏奈の死どうこうじゃなくて、志摩っちの墜落が自殺未遂か事件かが知りたいんだ。でもそれに辿り着くためには、やっぱり最初から洗わなきゃならない。志摩っちが高梨杏奈を追うように消えたことも、荒いざらいにしなくちゃならない。そのためにはお前らに協力して欲しいんだよ」

 彼に誠心誠意頼みごとなどされたことがなかったせいか、あまりの懇願ぶりに修二は面食らう。まぶしいほどの真剣さは、いつもの軽率でお茶目な彼の性格とは程遠かった。

「本当はこんなこと言いたくないけれど」

 一瞬口ごもる。修二は嫌な予感がして、制止させようとしたが手遅れだった。

「こういうの、一度被害者を経験した京助が一番分かるだろ?」

「やめろ太一!」

 修二は太一の肩を即座に掴んだ。だがそれを振り払い必死な形相で京助に詰め寄る。

「なぁ、聞いてんの?」

「……だから、だ」

「は?」

「だから、全てを明らかにすることが賢明なのか、分からねぇーんだ」

 京助はやっと顔を上げたかと思えば、異常なほど冷たい瞳をしていた。

 修二は頭を振り、戦慄く唇がわずかな隙間から空気を漏らす。「もうやめろ、うんざりだ」今にもヒステリックに叫んでしまいそうになる自分を、理性で押さえつけた。そのせいで、思うように言葉が咽喉を通過しない。太一のように、「本気で言っているのか」と問うことができない。京助は苛立ったようでも、怒ったようでもなく、嘲笑うように口元だけを歪めた。

「嘘言ってどーすんだよ。志摩は死ななかった。……それだけが真実じゃねぇーか。高梨杏奈を殺した人間がいるとして、志摩がそいつを殺そうとしているのならば……外野の俺たちは志摩の復讐を止めることが賢明か? それとも復讐を手伝えばいーのかよ」

 項垂れるように、うわ言のように口にすると肩を掴んだままの太一手首を握る。その瞬間、太一は全身の産毛が立つのを感じた。恐ろしいほどに冷たく、人の肌という感触がなかったのだ。

「異常だって言われても、正直な話後悔をしているかどーかなんてわからねぇ」

「京助もういい。太一だってそんなこと聞きたかったわけじゃない!」

「ちょっと待て! なんの話だ!」

 蚊帳の外の太一が喚いたが、二人とも眼もくれなかった。

「きっと、あのときだって俺がやらなくてもほかの誰かが」

「京助!」

 修二がどんなに呼びかけても、その声は届いてないようで、京助は目を剥いて、どこにも視点をやらない人形のようにぼんやりしている。半開きの唇を動かすことなく、壊れたレコーダーのように言葉を吐き出すことを止めようとはしない。

 ――それは正しく、異常だ。

「もういい!」

 太一が立ち上がり、机を蹴り飛ばす。賑やかな教室は、女生徒たちの短い悲鳴に包まれる。しかし、すぐさま水を打ったように静まった。

「どうせ俺は、お前のことなんてなにも知らない。でもな、俺が考える以上に薄情で嫌な奴だってことはわかった」

 太一の搾り出すような声音は誰も聞いたことがないものだった。周囲はことの異常さに怯み、すごすごと三人を避ける。

「もうお前みたいな異常者に、何も頼まない」

 京助が正確に、太一の声を聞いたのはそれが最後だった。次の瞬間には、頬に鈍い痛みが走っている。

(あぁ、殴られたんだ)

 気が付くまでに、かなりの時間があった。ただぼんやりと、教室の天井を見上げていれば修二が太一を羽交い絞めにして、殴りつけている残像を眼に焼き付ける。

 哀しくもない。切なくもない。怒りもない。今の京助にあるものは痛覚だけだ。













































 七月十四日 Wednesday







 Aspect 浅月京助

 黄色と黒の縞模様。踏み切りの前に立つ少女は通過する列車の吐き出す風に長すぎる前髪を揺らした。

「えーと、あーと。感染する自殺、高梨杏奈の呪い、かぁ」

 学校で現在騒がれている噂について、鏡友花は考察する。

 傷害事件にあったと、月館麻緒本人が騒いでおり、高梨杏奈の呪いだと噂が立ち始めている。もし彼女が化けて出たとしたら、何人かのクラスメイトは間違いなく呪い殺されても文句を言えないくらいの嫌がらせをしてきた。友花は鼻で笑った。

「そーだよ。殺されちゃえばいいよ」

 底の磨り減ったスニーカーをぺたぺた鳴らして、誰にも届かないように呟いた。

 電車が去ったばかりの線路は熱いのだろうか? 触れてみようとは思わなかったが気になった。ふと、線路を渡り終えたところで空を見上げる。紫外線がキツい本日は快晴。焼け付くような光の中で、見覚えのあるシルエットを見つけた。

「えーと」

 中肉中背。しかし遠目でも分かる、手足の長さ。コンクリートで固められた橋の上にいる存在に向かって思わず小走りになる。

 その人はどこか眠そうで、無気力な瞳。あぁ、変わっていないな、と思わず立ち尽くし見とれてしまう。名門校ならではの古ぼけた制服に身を包み、少しだらしなくはだけさせている。綺麗な首のラインが覗えた。

「なんか用ー?」

 彼は一瞥もせずに、相変わらずの間延びした口調での質疑をした。少し低い、よく通る声と端整な横顔は微動もしない。

「えーと、まだ正午前なんだけれど、こんな時間にうろつくなんて不良予備群?」

「その台詞そのまま全力投球で投げ返しとくー。ちなみに我ら東高校生徒は成績会議につき午前中授業だ。だから早めに抜け出すという裏技を使うとサボりに見える」

「あーと、気が合うね。南も職員会議で生徒一斉下校。全校集会をサボるとこういう時間に下校することになるよ」

「で、お前はなんでわざわざここまで来たんだー? 鏡友花」

「えーと、あーと。名前、覚えていたんだ。浅月京助くん」

 久々に会話したにも関わらず、違和感が無い。それがなんだか可笑しくて肩を震わせれば、ゆっくりとした動作で振り向いた。やっと視線を絡ますことができた京助。対面するのは一年三ヶ月ぶりくらいのことだが、何年も会っていないような懐かしさがある。

「えーと、変わってなさそうだね。相変わらずの間延び口調。すごいやる気のなさそうな寝起きの感じ」

「人のことは言えねーだろー。優柔不断の化身みてぇーなその口調」

 むき出しの嫌味や悪態でも、懐かしの馴れ合いである。

「小田切君は? 一緒じゃないの?」

「なんで俺と修二をセットにしたがるんだ?」

 別に常に一緒にいるわけじゃない。心外そうに顔を顰めた。彼女は釈然としないまま隣に寄りかかると小さく息をつく。

「ところで鏡。隈、あるけど疲れてんのかぁー?」

 友花は無遠慮に目元を示され、思わず赤面した。彼は妙に思慮深いところがあるのだが、オブラートに包まないというか、後先を考えないというか……つまりは気が利かないのである。

「えーと、あーと? ちょっとね」

「あぁ、お前南高だっけー?」

 彼女の制服を確認した後に口にする。襟ぐりにラインの入ったシャツとチェック柄のプリーツスカート。悪戯っぽく友花は笑い「言いたいこと、当ててあげようか?」と意地悪く上目使いに京助を見上げた。

「高梨杏奈は私の友達。月館麻緒はどうでもいいけれど。あと佐々木彩とも仲いいかな」

「最後の名前は初めて聞いたなー」

「そう? 結構騒がれているよ。自宅マンションから飛び降り自殺未遂。生きているけれど全国で……えーとあーと? 十一番目?」

「いつだ?」

「えーと、七月十日。つい最近」

 里子の転落事件と近い。京助は顔を顰め、穏やかじゃねぇなぁと空を仰ぐ。街は相変わらず安穏としているように見えても、実は危険や怪奇と隣合わせなのだ。

 災難、というわけではなくても連日のストレスが募りに募って、京助は確かに弱っていた。もちろん、自殺願望で線路を睨んでいたわけではない。学校では太一と気まずいままで、帰宅すれば『バネ脚ジャッキー』からのコールに怯えなければならない。苦痛そのものの板ばさみ状態をどうすることもできないまま、鬱々と悩める子羊だった。

 京助が黙り込むと友花が「あーぁ」と掌を空に向けた。

「みーんな、さ。えーと、この重苦しい空気とか、嫌な感じとか、連続自殺とか、『バネ脚ジャッキー』が悪いのよ」

「は?」

「知っているでしょ? バネ脚ジャッキー」

「まぁ一応な」

「あいつが、みんな悪い。『ジャッキー』は、許せない」

「……どーしてそんなに疑っているんだ?」

「こんなに不自然な自殺が、当たり前のように続くわけがないじゃない」

 彼女にしては珍しい断言は、口を挟む余地も隙間もない。だが、質問の答になっていなかった。聞く耳を持たないのか、食い違っているのか、彼女は「『ジャッキー』だから」と不明瞭な回答を当たり前のように口にした。

「電子器具を通す『ジャッキー』に、姿形はないって聞くけれど?」

「それは見られていないだけでしょう? 都市伝説だもの。これまでに口裂け女や首なしライダーが表舞台に引きずりだされたことがあった?」

 オチは必ずあるけれどそれを隠し続けることが当たり前だ。実相しないからこその伝説ではない。白日に晒されないからの伝説なのだ。

「生きた人間以外のナニモノでもないよ、きっと。自分を正義だと信じ込んだ下種か、ピカレスクロマンに酔ったトチ狂いの馬鹿野郎。狂った殺人犯よ」

 まるで見てきた事実であるかのように、毒牙をむき出しにして唸った。京助から見ればそこにあるのは狂ったリアリズムにすぎない。何かの逆恨みさえ感じさせる偏見だ。黙った彼を咎めるように、通過する貨物列車がちょうど二人の間を走る。わずかな振動を足裏から感じる。痺れに少し似ていた。ごうごうと騒音を轟かせて、やがて音は消えてゆく。

 巻き上がる疾風に持ち上げられた二人の前髪。同じ黒に部類する色の筈なのに、何かが違う黒。

 道行く人の視線は、二人に捧げられていた。誰もが一瞬だけ、ちらりと。襟ぐりに二本。紺色のラインが入った南高校指定のシャツ。どこに行ってもその視線が捧げられるのだろうか。彼女は一切の視線を無視していた。京助は彼女の制服と対照的にシンプルな制服を風に泳がしながら何気なく自らの頬に触れた。左の、少し熱帯びた肌。若干腫れているのだろう。噛み合わせがすこぶる悪い。

「……えーと、あーと? さっきから気になっていたんだけれど、殴られたの? 痛そう」

「痛てーよ」

 同じようになってみる? 笑えない冗談を一つ。友花はあまりのユーモアとセンスのなさに呆れを通り越して感心した。彼女はぺたんこのリュックサックを下ろし、缶飲料を取り出す。

「えーと、あげる」

 押し付けるように手渡した。冷やせ、ということらしい。

「ありがてーんだけれどさぁー。なんで二個も持ってんだー?」

 プルタブを爪で引掻く彼女は「えーと、あと三つあるけれど?」と自慢げにバックの中身を見せた。平坦なそれには確かに同類の飲料が無造作にある。ポーチとペンケース以外の何もないリュックサックは自分の通学鞄とさほど内容量の差がなさそうだ。

「自動販売機のくじだよ。連続六回」

「すげぇーな!」

 身を乗り出して感心するので、そう? と首をすくめる。

「あーと? 良くあることじゃない」

「嘘だね。俺、目の前で連続三回売り切れたことがあるくらい、見放されているんだぜー?」

「えーと、見放されているって、誰に」

「自販機の妖精に」

 真顔で淡々と口にする。馬鹿じゃないの、と一蹴することもできないくらい真剣な顔付きだった。

「……寧ろすごいと思うよ。ある意味強運だよ」

 運とは生まれつき備わるものなのだろうか、京助はひたすら缶を頬に押し付けた。運を金で買えるのならば迷わず大人買いしたい。頬の痛みは運とは関係ないが、思わず連想してしまう。そこは一日経過してうっすら変色し始めている。青痣になるかもなぁ、とぼんやり溜息を吐くが、できたところで特に問題はない。

「えーと、誰に殴られたの?」

「友人……?」

「なんで疑問系?」

「……みてーな奴」

 同じ問いをされたら、太一が自分を友人と回答してくれるだろうか。それが気になった。

「なにそれ。喧嘩とかなの? カツアゲじゃないんでしょ?」

「ねぇーな」

「ならばいいや」

 友花は一気に飲料を煽った。カラになったそれをスニーカーで潰す。気持ちが良いほどに潰れ、音を上げたそれは小さくコンパクトにまとまった。

「えーと、何かができるわけじゃないけれど、許せないじゃん。そういうの。早く治るといいね」

「なぁー、鏡。お前さ」

 それじゃ、とあっさり背中を向けて遠ざかって行く彼女を咄嗟に呼び止めた。

「『バネ脚ジャッキー』を探しているのか?」

「もちろん」

「何がしてーんだ?」

 京助は手首を握り締めて、予測できる返答に覚悟した。なんとなく分かっていても聞かずにはいられなかった。

 どれくらいの時間、錆びだらけの橋の上に立っていたのかは分からない。何度目かの電車が通過する。音の唸りは聴覚を苦しめる。巻き起こされた風が視界を遮った。

 傾き始めた正午の太陽。照りつける日差しの下、長いようで短い静寂が降りる。

 彼女の周囲にまとわりついているように見える穏やかな怒気が、ガラス玉の瞳には蠢いている。京助はそっと息を呑んだ。ぞくりとするほどに精悍な顔つきで、鋭い刃のようなあからさまな殺意を込めた眼。潔いほどの悪意を、彼女は包み隠さず晒した。

――決まっているでしょ? そんなこと。

「殺したい」

 

   *



 Aspect 志摩里子(しまさとこ)

『バネ脚ジャッキー』が敵か味方かは志摩里子にとって大きな議題である。



「ほんと、放任主義の親でよかったよ。普通なら絶対許してくれないもんなぁ」

 わずかな荷物を入れたショルダーバックを肩から提げ、松葉杖を頼りにえっちらおっちら左脚を引きずりながら呟いた。

 医師にむちゃくちゃな説得をして、なかば脱走にも似た形で里子は強制退院したわけだが、さすがに引け目はあった。それでも彼女のモットーは「思い立ったら即行動」であり、意地はあくまで曲げるつもりはない。

 こげ茶色の髪を三つ編みに結わえ、デニム生地のミニスカートとお気に入りのミントブルーのシャツに肢体を包んだ彼女は考察する。

「私は」

 実は、自分が思う以上に馬鹿なのかもしれない。

 せっかく、『バネ脚ジャッキー』が「気をつけろ」と警告してくれたにも関わらずあっさりと転落し生死を彷徨ったのだから。

「ほんとありえない」

 現在学生は学校にいる時間帯だ。無遠慮な視線を向けられることにはもう慣れていたが居心地の悪さに溜息を零す。太陽に照り付けられて陽炎の生じたアスファルトに更にげんなりさせられた。

 ふいに、すれ違った男から妙な臭いを嗅ぎ取る。

――アルコールの臭いと、コロンの臭い。

 里子にとって何よりも嫌いな、芋焼酎に似た濃厚で肺にたまる臭い。ねっとりとしていて、同じ空間にいるだけで酔いが感染してしまう気分になる。

 固い松葉杖を握る掌を広げた。その香りは、いつもある男と高梨杏奈を思い出させる。汗ばんだそこに、杏奈と繋いだ手の感触が残っている気がして乾いた瞳が潤んだ。

――美しく笑う、艶やかな黒髪の美少女。

 長い睫と大きなこげ茶色の瞳。弾力のある唇。すっきりとした輪郭と線の細い肢体。ショートカットに切りそろえられた一切の不純を許さない髪。手抜かりのない完璧な、悪意の堕とし子。

「無邪気で残酷な、私の……共犯者」

 彼女の死体と対面した瞬間から、いや『バネ脚ジャッキー』からのコールを受け止めたときから里子は覚悟を決めていた。『ジャッキー』は願い事を叶えてくれる。実際は要求を聞くことすらせずに、まるでチェス板の駒を進めるように誘導するだけだったが確かに頼りになった。勿論完全に信用したわけではないが、約束通り警察にも学校にも黙っていた。

 灼熱のアスファルトを、かつんかつんとひたすら松葉杖で打つ。皹が張った右膝頭は痛みこそ無いが妙に熱が篭っている。わずかな頭痛は昨日からずっと続いていた。汗を拭うと自らの三つ編みに結い上げられた長い髪が揺れる。蒸し暑さに癇癪を起こしてしまいそうなとき、やっとそこが目に止まる。

「……あった」

 どんな場所かも分からないくせに、まるでオアシスに辿り着いたように胸が躍った。

 外見からすると、営業しているのかどうか分からないほど店内は薄暗い。……普段出入りはしないだろう、高そうな喫茶店だ。藁半紙に刻み込んだ店名と照らし合わせ確認する。

――間違いない。此処で合っている。

 重々しい扉を思わず睨む。深呼吸か溜息かも分からない息をつく。黴の臭いと、異国を思わす香水が看板から怪しげに漂っていた。

「ここが、椿屋」



 こげ茶色の床は滑らかな光沢を放つ。何所もかしこも、古ぼけた匂いの漂う店内だが、清潔に保たれた空間だ。日本にいることすらも忘れる異質で異様な演出に思わず息を呑む。

「わぁ……」

 物珍しさに目移りし、美術館にいるような気持ちになり感嘆を一つ。まるで御伽噺の世界だ、と、黄色い声が思わず毀れた。

 もとより少し廃れた裏通りやノスタルジアな雰囲気を好む里子にとってなんとも言えない嬉しさがこみ上げるのだが、胸騒ぎがして落ち着かない。

 古ぼけたガラスケースには蝶の標本と洋風の本が並んでいる。明らかに高価そうなティーカップ。オブジェと思われるアンティーク調の机には、おそらくガラスで作られている優美なチェスが飾られている。『Reservation seat』と書かれたカードが椅子に置かれていた。

「いらっしゃい」

 カウンターの奥から、凛とした声音が響いた。

「あ……」

「志摩里子、でありんすね? よう脚を引きずっておくれましたなぁ」

 黒いシックなワンピースに黒いストール。高価そうな服装をした女性が微笑みかける。妙な郭言葉に思わず眉を顰めたが、どうも、と間抜けに返事をした。

 妙に薄暗い店内で、彼女の病的なほどに白い肌は浮かび上がるように見える。官能的にも見える美しさにしばし圧倒された。常に体調を心配されるほど青白い自分と、同じように彼女は白い。

「唐沢、黒奈さん」

「あい」

 短い黒髪がさらりと揺れると、何か懐かしいような不思議な香りが漂う。

「好きな所にお座りなんし」

 妖艶な笑みに従うままに腰をかけると透明な水が置かれた。

「お、お構いなく」

「一応客でありんしょう? もっと楽にておくれなんし。『ジャッキー』から私のことは説明されているでありんすか?」

「はい。椿屋の魔女に会え、と」

 異型とも呼べる美しいかんばせに笑みが浮ぶ。魔女という言葉を控えようかと考えたのだが、里子は黒奈を見たときから自分のイメージする御伽噺の魔女とまるで重なったので納得してしまった。黒奈は害されたような顔をせず寧ろ嬉々としている。たいそうな変わり者。と噂されることは本当のようだ。

「黒奈さん。私、『ジャッキー』に此処へ来るように言われたんですけれど」

「そりゃそうだ。私が『ジャッキー』に頼んだんだ。お前に合いたいと」

「え?」

「私は奇怪なことが好きでね。今回の事件も独自に情報を集めている。昨日も隣の県で二名も自殺志願者が飛んだそうじゃないか。それにお前、転落したそうだな。なかなかいい情報を持っていそうだから、話して貰おうかと思ってね」

 彼女はにやりと笑う。悪戯を思いついた子供のように。

 里子は呆れた。彼女に対する好感が急落する。それと同時に、自殺志願者と指を向けられた気がして耐えられなくなった。

「そういうことなら帰ります」

「まぁ、待てよ。交換条件と行こうじゃないか」

 いつの間にか煙草を咥えた黒奈が意地悪く笑っていた。まるで手品のように優雅に焔を灯し、座れと顎で示す。

「望む方向は同じはずだよ、志摩里子。ならば」

「あなたの力なんて必要ありません! 自分でなんとかします!」

 正直、『ジャッキー』に頼らないと手がかりなどなにもない。そして以上味方してくれるとは限らない。それでもこの得体の知れない女に情報を与えられることは屈辱だった。のこのこジャッキーを信じた自分への嫌悪と羞恥のあまり、苛立ちが下腹で疼く。

「……騙された」

 松葉杖を握り締め立ち上がると、すっと弱い炎が灯る煙草を突き出される。思わず身を引けば、里子を捕らえる漆黒の瞳は酷く冷たいものだった。 

「誰が協力しようなんて言ったんだ?」

 怒鳴られているわけでもないのに、威圧と迫力が静かな瞳の奥にある。思わず、怖気づいた自分を叱咤した。

「従え、と。そう言っているのならばまっぴらご面こうむります」

「極端な奴だな。私はこんなにも利用価値がある人間にも関わらず、野放しにするお前の気が知れない」

「利用?」

「そうだ。互いを互いの為だけに利用すればいい。其処には何も存在しない。後腐れも、非難も。何もできない餓鬼ならば、それなりに力にすがり付けばいいだろう。くだらないプライドなんて捨てろ。自分の常識なんぞ檻に過ぎない。堕落しろ。小娘」

 黒奈の表情は一変もしないように見えたが、どこか楽しそうでもある。

 突き出された言葉に、里子は眩暈すら覚えた。あぁ、人はこうして穢れて大人になるのか、と。覚悟を固めて着席した。満足そうに嗤う黒奈は嬉しそうに頬を吊り上げる。

「さて、問いたいことなのだけれど、君と高梨杏奈の関係とはずばり?」

「えぇ、まぁ。あなたもその様子だと度存知で。プライバシーを破ることが趣味ですか」

「誰が張ったかも知れないような、生暖かい牛乳の膜のように薄いデリカシーなどあってないようなものだよ」

「否定しないんですね。節操なんて、有って無いようなものですか」

 興味本位にしては手が込んでいることに違和感があり、軽蔑と警戒を胸に秘め伺う。我慢できずに額の包帯に触れた。汗で濡れた包帯は気持ちが悪かった。全身に作られた傷が疼くように痒い。膿をしみこませた右肘の傷は彼女が微動するたびに乾いてガーゼに付着したことを感じさせる。

「愚問だね。志摩里子。そんなこと言ったら、お前の友人である相模太一なんて私以上のパパラッチだ」

 黒奈は咽喉を引きつらせるように笑いながら、パイプ椅子に腰掛ける。カウンターを挟んで向かい合う形になった。悔しいが、改めて美しいと感心させる美貌が視界に入った。

「あなたは」

「黒奈。名前で呼べ」

「黒奈さんは、どうしてこの事件に興味を持ったのですか? 異常な事件なんて、世の中いっぱいあるじゃないですか。確かに連続墜死する学生の事件は話題性がありますけれど、現在騒がれていることでも、あと一月も経過すれば風化されてしまうと思います」

 少なくとも、この県内で続くのは自殺ではなく事件だと里子は核心している。それは、高梨杏奈がそんなことはしないという否定ではなく、自分が突き落とされたからだ。

「つまり、何が言いたい」

「他県のものが自殺なのか事件なのか、はたまた事故なのかは、私には推測しかねます。ただ、自殺ならばそれは単なる話題に便乗したに過ぎない。……あなたが興味を持ったのは連続墜死をする学生ではなく、高梨杏奈なんじゃないんですか?」

 黒奈は相変わらず貼り付けられたような笑みのまま、一切の表情を微動させなかった。改めて真剣な瞳で、店内に溶け込みそうなほどに闇色の瞳で里子を射抜くように見つめる。

「へぇ」

 しばらくの沈黙を破ったのは黒奈の感嘆だった。

(なるほど、ただの感情任せな馬鹿な娘ではないようだな)

 里子を見縊っていたことを少し恥じた。

「……お前には悪いけれど、私は虐待していた大人が、自分の子供の死にどう反応するのかを知りたかったんだ」

 哀しそうに微苦笑した顔は、ひどく幼く見えた。少し前まで話していた人間とは全くの別人に見えるほど雰囲気をがらりと変えて、彼女は煙草を灰皿に落とす。

 里子は虐待という言葉を耳にした瞬間に、胸の前で絡ませていた指に力を込める。何かが張り裂けそうな想いだった。

「……高梨杏奈の母親に、私の友人の警官が事情聴取をしたんだ。事件と事故と自殺の三面で調査を進めていると説明したときに「もし殺されたのならば損害賠償とか取れる?」と口走ったそうだな。まったく、馬鹿だよなぁ。そんなことを言ったときに、身内がもっとも疑われることすら分からないんだ」

 里子も杏奈の母親を知っている。

 金にがめつく、アルコールとニコチンにひたすら依存する腐った雌だ。女であることを武器にした、露出を表に出す服装……其処から香る煙草の香りと混じる香水は思い出すだけで吐き気がする。杏奈と同じ大きな瞳と綺麗な二重瞼なのだが、彼女を美しいと評価したことは一度もなかった。

「もしも、高梨杏奈の母親が、少しでもあの子の死を病んでいたならば」

 これは唐沢黒奈の懇願。

 里子はそう悟ったとき、今同じ時間を共有する彼女もまた、見えない何かと戦い続けているのだと悟る。同じところにいるのに、同じ方向を見るわけでもなく、同じ希望を望むわけでもない。

「少しでも悲しんでいたら、私も少しは、救われた」



   *



 Aspect 月館麻緒(つきだてまお)

 夕日は血のように赤く、光は夏蜜柑を連想させるほどに鮮やかで、色の強いオレンジ色を放つ。雑木林の側の歩道で麻緒は速まる心臓を押さえた。手汗でぐっしょり濡れた携帯電話に何度も呼びかける。

「ねぇ、本当にできるんだよね?」

「当タリ前ダヨ」

 騒がしい国道の脇。鬱葱とした雑木林の奥にある小さな公園を突っ切って父親のゴルフクラブを大事そうに握った月館麻緒はボイスチェンジャーにひたすら確認していた。

「お願い、あなただけが頼りなのよ『落下姫』」

 明るい茶色に染めた髪。校則違反承知の上だったのだが、素行が悪いと生徒指導担当の教員にしつこく注意されつい先日ダークブラウンに染め直した。何度もカラーリングしたにも関わらず、艶を失わない美しい髪は、彼女にとって自慢なのだ。しかし、今は艶が覗えないほどに痛み、肌も酷く荒れていた。

 握っていた携帯電話が振動し、メールが届いた。件名は無題。一昨日からその名前だけがフォルダに刻まれている。

――コンクリートハ硬クテ冷タク無愛想ナンダヨ。

 最初の文面だけで噴出す脂汗。逆立つ全身の産毛。

――知ッテイルカナ? 転落死ハ辛クハナイ。一瞬デ決着ガツク。全テノ人生ノ清算ヲタッタ一瞬デ支払エルノ。月館麻緒。貴女コソ、飛ブベキデハナイノカシラ。

「いやぁっ……」

 携帯電話を思わず投げ飛ばしそうになったが、ぎりぎりのところで踏みとどまる。外の空気に当てられて挙動不審が一層のこと酷くなっていた。彼女はすぐさま電話をかける。相手はワンコールもしないうちに応答した。

「もしもし? 『落下姫』?」

「ウン。ソウダヨ。マタ『バネ脚ジャッキー』カラノメールカナ?」

「うん……。どうしよう。私また殺されそうになるの? どうにかしてよ! あなたも都市伝説でしょ!」

 公共の場ということも忘れて、ヒステリックに叫んだ。幸い周囲に人通りはなくて、忙しそうに自動車を走らせるサラリーマンばかりだった。

「落チツケ。君ハ大切ナコト、忘レテイルダロ?」

「え?」

「アナタハ『バネ脚ジャッキー』ニ望ンダ。高梨杏奈ヲ殺セト。『バネ脚ジャッキー』ニハ覆セナイルールガアル。……アナタハ払ウベキ対価ヲ払エズニイル」

「だって、だって! 知らなかったのよ、本当に願いを叶えてくれるなんて思っていなかったの! あの女は目障りだったけれど、冗談だったのよ! 消してとは言ったけれど、殺してとは言っていないじゃない! 私のせいじゃないわよ!」

 ボイスチェンジャーは奇怪な音を上げた。それが笑い声とは理解できない機械的で気味の悪い音声。しばし流れるそれを耳に入れながら、眩暈を覚える。

「『落下姫』ハ、『バネ脚ジャッキー』ノ対価ニ興味ハナイヨ。デモネ、セッカク君ヲ助ケテアゲヨウト思ッタノニナァ」

「いや、いや……! ごめんなさい。なんでもするから見捨てないで!」

「君ハ結局、『バネ脚ジャッキー』ヲ使ッタヒトゴロシノ癖ニ」

 違う。否定したかった。それでも、今『落下姫』から見放されたら本当の意味で自分は終わる。

 先日歩道橋で突き落とされそうになった恐怖が蘇り、脚がすくんだ。

 それでも、『落下姫』の要求を呑まなかったらどうなるか分からない。都市伝説『落下姫』は『バネ脚ジャッキー』のせいでどん底にいた麻緒に救いの手を伸ばした。都市伝説なんて頼りにしたくないのが心境ではあったが、警察も両親も、学校も友人も頼りにできない今『落下姫』に従うしかない。脚を引きずるようにして、目的地まで進んだ。

 やがて見えてきたマンションは、廃墟と呼べるくらい錆びだらけで今にも崩れそうな場所だった。汗ばんだ手でゴルフクラブを握りなおす。

「殺られるぐらいなら、こっちから殺ってやるわよ……! 『バネ脚ジャッキー』!」

 携帯電話のラインストーンは殆ど禿げてしまっている。一端『落下姫』との通話を切った。ポケットにねじ込むと風に暴れるプリーツスカートを押さえる。軽すぎて頼りなく感じるゴルフクラブに念を込めた。

 一発目が肝心だ。絶対に命中させなくてはならない。確実に急所を、動きを封じる為の場所を狙う。その後は叩きつけろ。とにかく、己の起動が制止するまで、懇親の力で。

 グリップの握りごこちに違和感はあったが、武器になるものなどこれぐらいしか用意できない。

 麻緒はあくまで普通の女子高生だ。ヒトゴロシになる覚悟なんてあるわけが無い。これまでに誰かに殺意を抱いたことが無いなんて言えば完全な嘘になるけれど、実行に移すことは……ある意味二回目だった。

 胃がねじ切れそうなほどのストレスを抱いて、取り壊しの決定されているアパートの螺旋階段に慎重に脚をかける。全て『落下姫』の指示だ。ここにいる、バネ脚ジャッキーを殺せ、と。

 住人に見られては困る。噴出す汗を拭った。四階まで到達したときに、あまりの高さに膝が笑う。再び携帯を手にした。

「も、もしもし? 付いたわよ。五〇七号室の前。聞こえている? 『落下姫』」

「ウン。モチロン。サァココデ君ニ質問ガアル。君ノクラスノ井川勇一(いがわゆういち)君ハ君ノ恋人ダヨネ?」

「そ、そうだけれど……」

「彼、ホームレス暴行事件ノ犯人ダヨネ」

「え?」

 怪訝に首を傾げた刹那、黄色と黒の縞模様のロープが背後から投げられた。

 反応することもできない素早さで、ロープが猿轡となり遠慮なく口元を括られる。抵抗すれば腕に鋭い痛みが走った。一直線に赤い線を引いている。

「うう、う!」

 斬られた、と理解が追いついたとき、そこには迸る熱と血があった。

「今度騒いだら、顔斬っちゃうかもよ」

 鋭い剃刀を眼に刺さるように見せ付けられ、青褪める。

(こいつが――バネ脚ジャッキー?)

 押さえつける人影は全く見えない。しかし剃刀を握る手には見覚えがある。日に焼けた丈夫そうな腕。太く長い指。なにより、手首に結ばれているのは青と黒のミサンガ。

(まさか!)

「お前。俺のこと売ったらしいな」

 視界に写ったのは、同じ南高校の生徒で恋人の井川勇一だった。

 部活で鍛えた筋肉が制服から覗くほど鍛えられており、かなり長身な少年だ。自分が進めて空けさせた耳のピアスはどこか田舎くさい印象のある彼には似合わず、今や塞がりつつある。どんなときでも麻緒に優しかった彼は、一度だって手を上げられたことなど無かったのに無骨な指で麻緒の胸倉を掴みあげる。

「言うな、って言ったはずだぜ? てか、お前も俺らと一緒にホームレスぼこったじゃねぇか。今更一人だけ逃げようとしてんじゃねょ!」

 怒りに耳まで赤く染めた形相は今までに見たことが無いもので恐怖のあまり息を呑んだ。がくがくと震えだす膝。冷や汗が吹き出て思考回路が正常に機能していない。……それでも、話が噛み合いそうにないことは分かった。売るも売らないも、本日ここに来たことに井川勇一は一切関係ない。

 猿轡のせいで何も喋れずに固まっていると下腹部の辺りを蹴り飛ばされる。

「うぅっ!」

 体をくの字に曲げてもがけばガムを飛ばされる。顔面に張り付いた生温いそれ。屈辱のあまり睨み返した。 勇一は落ちていたゴルフクラブを拾い上げると、薄ら笑いを浮かべている。

「へぇ、これで俺のこと、殺そうとしたわけ? それで高梨杏奈の殺害に自分は関係ないって証明するつもりだったわけだ」

 恐怖のあまり後ずさりすれば、「動くな!」と顔のすぐ脇をゴルフクラブが飛んだ。

「ひ!」

「お前一人が逃げるなんて、無理に決まっているだろうが!」

 埃や泥で汚れたコンクリートに押し倒される。そこは酷く汚れていたが、そんなことを気にする余裕はなかった。……勇一の殺気は本物だった。冷や汗が全身から吹き出る。謝罪をしようにも、逃げようにも体が一切動かない。

「俺を裏切ってまで逃げたかったのかよ! てめぇ!」

 一切の迷い無く、彼女めがけてゴルフクラブが振り上げられた。

(――殺される!)

 その刹那、隣の五〇六号室が勢いよく開放された。

「な」

 勇一の注意が五〇六号室に向けられた瞬間、一斉に何かが彼を取り囲んだ。地べたに這い蹲っている麻緒をよそに、黒い雨合羽のようなものを着たそれぞれは勇一を毛布のようなもので頭から覆いかぶす。勇一はゴルフクラブで牽制しようにも、手首を千切られん勢いの蹴りが放たれ、カランと音を立てて落ちた。

(なんなの……!)

 麻緒は幸い体は拘束されていなかったので自力で猿轡を解くと気付かれないようにゆっくり後退りする。毛布でもみくちゃにされている勇一の叫びが轟いた。

 その場から逃げることなんてできなかった。雨合羽の集団は彼女を完全に無視していたが、味方とは到底思えるわけが無い。ただ下半身全てが縫い付けられたように微動もできない。

 ふと、思い出したように通話状態のまま放置されている携帯電話を手に取る。どういうことだと問いただす前に、相手は、『落下姫』はくすくす笑っていた。

「私ヲ殺シタヒトヲ探シテイルノ」

「え……?」

「コレデ、トリアエズヨカッタンジャナイ?」

「何言っているのよ! 言いわけ……」

 言いかけて、詰まった。麻緒は思い出した。バネ脚ジャッキーは自分になんと、対価を求めたのかを。

「飛び降りて、死ね……」

「ソウ、ダカラ、私『落下姫』ガ君ヲ救エルンダ。君ノ代ワリヲ用意シタダロ?」

「勇一が、私の代わりに……落ちて死ぬ?」

 一方の勇一は麻緒が口をぽっかりあけて、呆けたように座り込んでいるところを毛布の間から垣間見る。「ふざけるな!」叫びは全て言葉にならず前から後ろから、わけの分からない圧迫で窒息しそうだった。異臭を放つ毛布の中でひたすらに呼吸器官を唸らせるが気休めにもなりそうにない。汚物に近い臭いを放つそれの中で、ふと体が浮くような、妙な感覚にあることに気がつく。

 饐えた臭いから解放された瞬間のこと。

「え」

――それは一瞬よりも短い……一時間よりも長い刹那。

 理解することは困難ではなかった。あっという間のことで、戸惑う時間は無かったけれど、落下している。胃が押し上げられているような浮遊感に全身が包まれた。

 勇一は毛布から解放され、肢体を宙に投げられたのだ。まるで普段自分が菓子パンのゴミを放るように。

 長鳴りする少女の叫び。その断末魔の刹那に、物がつぶれるような誰もが聞いたことのない嫌な音がした。それが砕けた骨の音だと分かる人間はそうそういないだろう。そして、勇一の視界が完全にブラックアウトする。

 放置自転車などが無造作に積み上げられた所に、なにか分からない気味の悪い音が響く。

 オレンジ色の夕焼け空。体から生える無数の曼珠沙華。その紅は鉄錆の香りを誇る。

 噎せ返るほどに強く、直視することができないくらい、残酷に美しく。

 誰かが口笛を吹いた。

 それは、通話状態のままの麻緒の携帯からだった。



「言ッタデショウ? 私ハ『私ヲ殺シタヒトヲ探シテイルノ』ッテ」





 七月十五日 Thursday







 Aspect 朝比奈蓮太郎

 午後の日差しは最好調。

 なにかの嫌がらせか、と誰かに訴えたくなるようなカンカン照り。

 だが、クーラーをつけているのに何故か湿っぽく黴臭いその真四角の部屋には関係なかった。唯一の窓もブラインドが閉まっている。

 四つの対面するように設置されたデスクと綿のはみ出たソファー。どこかの事務室と見間違えるような狭苦しい場所。そこは刑事課強行犯係の人間が頻繁に利用する資料倉庫だった。

 所轄のたまり場となっているそこは所謂『下っ端』にとって休憩場のようなもので、蓮太郎と要は住人と呼ばれるほどに入り浸っている。

 蓮太郎は栄養食を貪りながら資料に目を通していた。男ばかりに囲まれる数日。生活を振り返っても、この灰色一色の署内を見渡しても色気もなにもあったものじゃない。

「色気ねぇ」

 いや、一応あるのか。灰色の壁をちらり睨む。どこの誰が張ったのかも分からない、少々劣化し、色の抜けてきたポスターが張ってあった。ビールジョッキを掲げるきわどいビキニ姿の女性。物置部屋とはいえ警察署にビキニポスターはいただけないだろう。誰もが思いつつ、剥がそうとはしない。

「そういえば、起訴されたらしいですよ」

 沈黙を破り捨てた樹要は、ジャムパンを頬張りもごもごと咀嚼している。

「何の話だ?」

「先輩の部屋に空き巣に入ったかわいそうな馬鹿野郎の話ッス。たまたま進入した部屋は金目のものもろくに見つからなければ、警察手帳を忘れた家主が帰宅。結局なにも盗むことなんてできないまま、ベランダから死ぬ思いで逃走。しかし鬼の形相で追いかけてきて、抵抗するも力量明白。コンクリートに頭打ち付けられて脳震盪。家主が携帯電話で救急車を呼び搬送させる。……なんだかどこに突っ込みを入れるべきかわからねぇ話ッスよ」

「俺が悪いのか」

 要はむっとしている蓮太郎にそうじゃないだろうといいながら本日二つ目のメロンパンを開封する。

「所長が前代未聞だって茹でタコになっていたじゃないッスか。いくらなんでも素人にドロップキックかまして十の字固めまでしなくても」

「甘いな要。もし相手が柔道有段者だったらどうする? 北斗心拳の伝承者だったら? はたまた少林寺拳法の達人だったときは?」

 都合のいい妄想だけは頭にぽんぽんと浮かぶんだな、あんたは。そう口にしようとして嚥下したのは、一応彼が年長者であることを考慮した上での賢明な行為だ。

「そう言われたら言い返せないッスけれど……。外見、普通に冴えないサラリーマンだったじゃないッスか」

 五十歳前後の中肉中背。まさにどこにでもいる中年男性。安物のスーツと眼鏡。手馴れた空き巣というわけでもなく。その道が短いわけでもない。

「人を見かけで判断するな」

「……見られちゃまずいものでも、あったんスか?」

 今度はクリームパンを開封する。毎度のことながら良く食うなぁ。とまじまじ観察した。既に開封されたあんパンとつぶあんパンとメロンパン。ジャムパン・鶯パン・カレーパンなどの菓子パンの袋が机には広げられている。

「要、ピタゴラ装置を知っているか?」

「……あの、教育テレビでやっているドミノみたいなヤツですか?」

「そうだ。ここ一ヶ月、あのオープニングのDVDをずっと見ていたんだが、あの流れるように続く一連の動作がどうしても生で見たくなってよぉ」

「あんた、まさか、あの狭い部屋に」

 要の表情が引きつるが、そんなことも気にせずに「作った」と蓮太郎は続ける。

「完成したんだ。が、成功でも失敗でも一人で味わうのは嫌でよ、とりあえずハンディカメラ買って記録しようと思ったんだが……空き巣がぶっ壊した」

「私怨で空き巣に暴行したんかい! 大人げねぇ! てか、大人じゃねぇ! ガキくさっ!」

「要にはわかんねーよ! あの何度も失敗しながら、一人で泣きながら徹夜して作った俺のループ・ゴールドバーグ・マシンはあんなところで壊されていいものじゃなかったんだ!」

「二十七にもなってなにやってんスか! そんなだから彼女できないんスよ! だいたい先月は等身大トトロ作ろうとして失敗したばかりじゃないですか! あんたのブームって一体どこから来ているんだよ!」

「うるせぇ!」

 蓮太郎は煙草を咥えようとしたが、箱には一本もなかった。畜生と短く吐き捨てる。そのまま箱をぽいと投げた。

「ゴミ箱にちゃんと捨てましょうよ! あんたは鼻水拭いたちり紙を投げて捨てたがる面倒くさがりのおっさんか!」

「どこのおっさんの話だよ! こんな若々しくぴっちぴっちのおっさんいるか!」

「ウチの親父ッスよ! だいたい先輩は若いんじゃないッス、幼いんス」

「うるせぇえ!」

 抗議ついでに要の座るパイプ椅子の足を蹴る。すると要は「クリームが零れるじゃないですか!」真剣にコロネを頬張りつつ迷惑そうに抗議した。

「まったくもー。おっさんの癖に大人気ない。いいじゃないッスか。先輩と違って俺は三日間近くここに缶詰ッスよ? やっと外に出たと思えば、あんたが逃げたせいで熊みたいな教師と二人きりの、ガチにらめっこ。一度だって家に帰っていなくて毛がもさもさ生えた腹を一生懸命引っ込める年齢の中年たちと共同シャワーなんだ。ストレスだってあっちのほうだって溜まるもんですって」

 下品な単語は聞き流すことにした。

 要が菓子パンを頬に詰めるように頬張るしぐさは兎を連想させる。一八〇をオーバーする身長の男が甘い菓子パンを吸い込んでゆく様はなんとも言えない。

「なんだその俺はサボっているみたいな言い方。だいたい、またおっさんって言っただろ」

「適度にガス抜きはしているみたいじゃないですか。俺が南高で大塚誠二の事情聴取をしていたとき、何所に行っていたんです?」

 じとっとした目で睨まれれば、なんの話だと抗議する前に、なるほど。すぐさま既知した。

「黒奈は彼女とかじゃねぇぞ」

 蓮太郎の口から零れた女性の名前。ピクリと要は反応すると目を逸らす。

「本当だって。あいつとはただの腐れ縁」

「忙しい合間を縫ってまで会いに行きたい女性が、ッスか」

 ずいぶんとご機嫌斜めである。思わず溜息をついた。なんだ焼餅か。などとからかう気分にすらなれない。

「なんだ、お前。死体の解剖につき合わせたのがそんなに根に持っているのか」

 高梨杏奈の司法解剖は、本来蓮太郎が立ち会うはずだった。しかし面倒臭さのあまり「体調が悪い」と仮病を口にし無理やり要を出向かせたのだ。

 高梨杏奈の死体は誰が見てもあからさまに転落が原因である死体で、全身の穴という穴から血を噴出していた。破裂した水風船のようになった心臓もや粉砕された骨は本当に酷い状態だった。

 検死官は口にした。この死体は、まるで水風船のように心臓が破裂していると。

 とにかく形を崩していて、それを見るだけでも根性を奮い立たせたのに、それをさらに切り刻む……。要は検死官にだけはなれないとつくづく思った。

 スプラッタやホラーの類が苦手な要。それはそれは酷い顔色で、酔っ払いの如くふらふら覚束ない足取りでデスクまで戻れば、蓮太郎はこの部屋のボロソファーで寝息を立てていたのだ。彼が上司であること、理性がまだ健在していたことが引き金となり、握られた鉄のような拳が凶器になる、という最悪の状況からは回避された。

「それより、煙草買ってきてくれ。マルボロのメンソール」

「自分で行けよ」

「先輩に対する敬意はないのかね、樹要くん」

「おっさん。メンソールって、吸いすぎるとアレが使い物にならなくらしいよ。まぁ使用することもそんなに無いでしょうけれど」

「え、マジで? ……って、おい。既に敬語でもなんでもないなお前。反抗期か。だいたい要、すげぇ言いにくいこと一つ言うぞ?」

「何スか」

「井川勇一と月館麻緒の件。ウチが扱うことになるから多分検死またあるぜ」

 手にしていたファイルから菓子パン、全て落とすと面白いくらいに青褪める。

「勘弁してくださいッスよ! 俺井川勇一の死体見るだけで吐きそうだったんスから!」

「今もりもり元気に食ってんじゃねぇか」

「全部リバースしそうッス」

 口元を抑えて腰を曲げたので便所に行け! と怒鳴った。

 七月十五日早朝に発見された井川勇一は完全なる変死体だった。

 脳裏から眼球へと貫通された自転車のサドル。それが決定的原因なのは誰が見ても明白だが、傷口周辺の腐敗以外は殆ど腐っていない状態。頭部の著しい腐敗は死後三日近くを思わせるものなのに、胴体部分は直後といっても過言ではないくらい綺麗なまま。一重に『ありえない』死体だった。

 一方、月館麻緒は井川勇一が発見されたアパート傍の車道で発見された。目撃者がいない以上交通事故で処理する方向ではあったが、轢いてしまったトラック運転手曰く、まるで最初から死ぬつもりでいるように自ら飛び込んで来たらしい。

「不可解ッスよね。なんであんな取り壊しが決まったマンションなんかで……」

 誰が持ち込んだのかも分からない綿のはみ出たボロソファーに横になり、ぐったりしている。よほどトラウマだったのか、未だに顔色が優れなかった。蓮太郎もさすがに心配する。

「あと、二人の携帯電話がまだ見付かっていないらしい。誰かに呼び出された可能性もあるから、通話記録を今調べているところだそうだ。……月館麻緒の最後の通話した相手は鏡友花らしい」

「鏡……? あー……南高校の不思議ちゃんだ」

 偏屈な覚え方ではあるが否定はできない。

「彼女がさっき署に連絡をくれたみたいだ。月館麻緒と死亡直前まで会話していたって」

 毎回巻き込まれているというか、首を突っ込んでいるというか。ぎりぎりのラインで『重要』参考人ではない彼女。人懐っこい笑みには何か隠されているのではないかと疑ってしまう。

「最後、なんて会話したって言っていたんスか?」

「当人も意味不明だと思ったらしいぞ。そもそもそんなに深い交友があったわけでもなかったそうで、最後に電話をかけた相手が自分であることに鏡自信も驚いているそうだ。ただ、何度も助けて、とか、追われている。と訴えていたらしい」

「月館麻緒はストーカー被害とかにあっていたわけじゃないッスよね?」

「被害届は出ていないな。井川勇一と交際していたようだが、周囲から見るぶんには順調だったようだし」

 長い間彼女のいない成人男性二人。羨みと僻みを込めて「爆発しろリア充」と呟く。休みのなさのあまり大人気なさと人間性が大きく欠陥し始めた。

「ただ月館麻緒は都市伝説と関わってから不可解な行動を見せるようになったらしい」

「『バネ脚ジャッキー』ッスよね?」

「いや、他にも『落下姫』とかいう、ネットでは有名な奴との関りを持っていたらしいな」

「ネットの都市伝説……どんなヤツですかねぇ?」

「さぁな。どこにでもいる馬鹿野郎だ」

「先輩みたいな?」

「あぁ。お前みたいな天然パーマ野郎かもな」

「世界中の天然パーマに謝ってください。天パの過酷な宿命はお前みたいなストレートにわからねーッス」

 後半はただの八つ当たりである。口喧嘩を始めるとお互い一歩も譲らないので埒が明かない。蓮太郎は話を無理やり戻した。

「高梨杏奈は自殺で、零体となって蘇り、数々の若者を殺している。……まぁ大体似たり寄ったりの内容でネット内に出回っているらしい」

 前髪を掻き分け、頭皮に爪を立てた。禿げるという忠告は耳に入ることはない。

「彼女が自殺ということはまだ確定していない。だが週刊誌ではそれを思わせるような内容で書いてある。だから『自殺』に関してはまだ眼を瞑るとしよう。だが、以上に一人歩きしているだろ?」

「『落下姫』が、高梨杏奈ですか」

 要は蓮太郎が差し出した藁半紙を凝視する。ふざけた絵文字で書かれているそれらは、おそらくどこかの掲示板やツイッターなどをコピーしたものだろう。他人の死について中傷し、面白可笑しく騒ぎ立てる根性がわからない。理解もしたくない。嫌悪を覚えるその記事に、確かに共通するワードがあった。

「この世への、恨み?」

「そうだ。高梨杏奈はこの世に恨みがあって、蘇ったことが前提になっている。日本全国津々浦々。転落自殺した人間全て『落下姫』もとい高梨杏奈の仕業だと。……個人名を使うと警察が厄介だから、あえて名前をつけたんだろう。『落下姫』、ってな」

「落下姫、ですか。随分ひねりのない名前にしたッスね」

 センスを求めるところだろうか。要の観点はいつもどこかずれている。

「落下姫から、メール。または電話が掛かってくると、その人間は必ず転落死する。落下姫と名乗る彼女は必ず『私ヲ殺シタヒトヲ探シテイルノ』というらしい」

 何を回答しても、最終的には死ぬ。今のところ対処法はない。『バネ脚ジャッキー』と類似した、信憑性のない新しい都市伝説。

「幽霊説がもし、真実で、落下姫が存在したらえらいことッスね」

「馬鹿言うな。問題は、落下姫が本当にいるのかどうかだ」

「は?」

「高梨杏奈が蘇って人殺しをしている? そいつはすべての未解決事件に決着つけちまう一言だろ。落下姫が存在するとしたら人間だ。百パーセントな」

「憶測で物事を判断するのは先輩の悪い癖ッスよ。都市伝説様ヶに呪われちまう。……現に日本全国で高梨杏奈が転落してから十一人も墜落自殺を図った学生がいるんスから」

 要はろくに信用していない都市伝説を、それも馬鹿にして鼻で笑っているくせに庇う姿勢をわざわざ見せた。

「単純に幽霊説を信じてみるとなると、高梨杏奈はこの世に恨みが合ったことになるんスよね?」

「そうだ。家庭事情以外で単純に考えればいじめだろうな」

「その事実はないと担任は否定しているッスけれど、信用できないですからね。実際生徒が何をしているかなんて把握できるわけもないんだから。つまりは、高梨杏奈が自殺しても誰も疑わない状況に彼女がいた可能性があるってことッスよね。自殺に仕立て上げられても不自然にならない理由とか」

 二人とも現代のいじめの問題が陰湿なものに変わってきていることは分かっている。

 要は以前、厚生労働省地方厚生局麻薬取締部で勤務していたときもいじめが原因で自暴自棄になった人間を多く担当してきた。深刻化しているが、それを止める方法も対処も今のところ無い。

 蓮太郎は何故かふいに、高梨杏奈の死に顔を思い出した。死体袋に収められた彼女の頭はひしゃげていて、頭蓋骨が粉砕されていた。詰め物をしても、葬式で顔を見せることは出来なかっただろうし、死に化粧を施すこともままならないほどに酷いものだった。眼球のない眼窩。前歯のない空虚な口。おかしな方向に曲がった鼻。正直思い出したくも無いが、忘れることができない。数年で死体は見慣れたはずの蓮太郎でさえ嘔吐しそうになった。

「あんな死に方じゃあ、成仏できるものもできないよな」

 死体袋の中で永久の眠りに付いた彼女は、生前、美しさのあまりに散々好奇の眼に晒されていた面影は一切無かった。

「あ。もしかして、高梨杏奈って死亡していないんじゃないッスか?」

 馬鹿じゃないのかと呆れるより先に、疲れているのか、と心配が勝る。

「整形して彷徨っていたりして。幽霊より実際、生きた人間のが怖いッスからねぇ。……あ、それか『バネ脚ジャッキー』関連とか」

「急にどうしたんだよ。ついに脳内までくるくるになったか。パーンってなったか」

「脳はあっても皺がなくてつるつるの二十七歳独身には言われたくないッスね。……だってほら、鏡友花は『バネ脚ジャッキー』が犯人だと思うって言っていたじゃないッスか。それに、何か似ているでしょう? 『落下姫』と『バネ脚ジャッキー』。バネ脚ジャッキーVS落下姫。新星の都市伝説対決ですか」

「だから、そんなこと言ったらどの事件も迷宮入りしちまうだろうが。だいたいなんだ? その売れない推理小説みたいなタイトル」

 都市伝説の力量はどれほどのものか既知していなくても、蓮太郎は一切信用をしていない。あやふやで姿のないもの。それがなんとも腹立たしく感じる。

「そもそもあの手紙はなんなだ……」

 手紙一枚だけで音沙汰無く、悪戯目的を疑い始め、それらを考えるだけで苛立ちが増した。ひとり言は要の耳に届いていなかったようで、首を捻りながら勝手に一人連想ゲームを続けている。

「じゃあ、こういうのはどうッスか、先輩。『ジャッキー』の関連する事件は全て繋がる。だから、ホームレス連続暴行事件も学生連続墜死事件も、全て『ジャッキー』が解決する為に仕組まれた事件」



   *



 Aspect ?

「痛ってぇ……」

 角田巧(つのだたくみ)は殴られた頬に手の甲を当てる。しばし口内をまさぐれば、どろりと血の味がした。歯は折れていない。

 日はとっくに暮れており、月も真上に君臨する。蛙と自動車と踏み切りの音だけが田舎町には立ち込めていた。

「……馬鹿だよな。見放しておけば、こんなことにならなかったのに」

 誰に言ったわけでもない独り言は蒸し暑い夜に溶ける。

 がらんとした、人気のない木々に覆われた暗闇の公園。街灯に集る蛾がバチっと鈍い音を何度も立てても光に体当たりする。錆びたブランコは風でかすかに揺れてぎぃぎぃっと奇怪な音色を奏でる。古臭い自動販売機の前には、巧含めて三つの人影があった。

「こんなことに巻き込まれずにすんだ、の間違いじゃないか? まぁ巻き込んだ俺たち首謀者のセリフじゃねぇけれど」

 長身の椎木海斗(しいきかいと)は、巧を覗き込むよう屈めた。落ち着いた物腰の彼は高校生とは思えないほど大人びている。二枚目で賢く、口調こそきついが器用でなんでもそつなくこなせる椎木のことを巧は日々羨ましいと感じていた。

 思えば、先ほど自分を殴った……。自分たちが喧嘩を売った少年も利発そうな顔立ちをしていた。

 歩道橋から身を投げようとするサラリーマンを助けようとしたあの少年。

「死のうとする人間なんて、放っておけばいいのに。……でも、さすがだよ椎木。あの場であんな作戦思いつくなんてさ」

「ふん。もっと誉めろ」

 鼻を鳴らして、上機嫌そうに笑う椎木は満足そうだった。巧は自分たちのせいで警察に連行された少年に少しばかり同情する。名前も知らない彼は、今頃事情聴取でも受けている頃だ。カツ丼でも差し出されているのだろうか?

「アイツ、マジむかつく! オレのケータイぶっ壊しやがってよぉ!」

 一方、普段から落ち着きのない信楽良(しがらきりょう)はゴミ箱を蹴り飛ばした。ステンレス製のそれは変形すると倒れこそしなかったが、中の空き缶を吐き出す。わずかな異臭が放たれた。

 ニキビ面に大きな瞳。茶色よりも明るく染め上げられた短い髪。いくつも空いたピアスなど、信楽は誰が見てもお墨付きの不良だ。百七十センチの巧よりもいささか小柄なのは、幼い頃から飲酒禁煙を繰り返したことが理由だと本人は豪語する。それが恥じるべきことだと思わない彼とは意見が食い違うことが多いが、長年の幼馴染だった。

「落ち着けよ。いくら人通りがなくても派手に騒いでいたら目立つって」

 溜息と同時に信楽を宥めるが、ぎょろりとした視線がこちらを鬱陶しいと言わんばかりに捉える。

「あぁ? そんなんだから巧はヘタレ何だよ。いつまでたっても童貞のくせに指図すんな」

 かっと頭に血が登った。お前のような甲斐性無しと一緒にするな。詰め寄って胸倉を掴みあげようとしたとき「やめろ信楽。巧に当たるなよ。落ち着け」椎木が腕を掴んだ。

「おうおう! てめぇはいいじゃんよぉ! 殴られもしなければ、ケータイも壊されなかったしよぉ! だいたいなんでおっさんを助けようとしているアイツに喧嘩売ったんだよ?」

 深い溜息の後に落ち着けよ。と再度復唱する。

「分からないのか? お前。あのリーマンが自殺をしようとしているのが分かるのは俺たちのように数時間前、あの場を通り歩道橋に立ちすくんでいた姿を見た者だ。 もしあの高校生とリーマンがもみ合っているところから拝見すれば、襲われているように見える」

 中年の、醜く腹の出たサラリーマンは、飛び降りを止めようとした高校生に向かって「来るな!」だの「助けてくれ!」だの叫び、発狂していたのだった。

 残り少ない髪を振り乱し、眼鏡がずれ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったサラリーマン。巧はあの姿を見ると、何故だか嫌悪と苛立ちがこみ上げた。自分は弱者だと、人に見せ付けるかのような、姿勢。それがまるで自分の父親を連想させたのだ。

 椎木は続ける。

「連続墜死が流行している今だ。すぐにでもあの高校生は犯人扱いだろうよ。俺が呼んできた交番の警察も、高校生だけ捕らえてそそくさ消えただろ。だから、この墜落事件解決を防ぐ、警察に仕掛けた罠だ」

「あぁ? 犯人庇ってどうするつもりだよ」

「俺たちも犯人みたいなものだろう」

 何でもないことのように口にする椎木と「あぁそうか」と納得する信楽。頭が良くても道徳のない男と、思いやりという言葉の意味すら知らない男。巧は軽い頭痛に見舞われる。ふと、左耳のピアスをなくしたことに気が付き更に重くなった。街灯が点滅し始めて、一瞬暗闇が降りる。繁華街のない田舎町の夜はたいそうさびしいもので、住宅の明かりも少なくなる今、ほぼ全ては闇に包まれている。

「あの、三つ編みの女。東高の奴。マジ俺たちの顔覚えていねぇーよなぁ?」

 信楽は急に何を考えたのか話題を変えた。珍しく弱気な彼を椎木がからかう。

「なんだ、不安なのか?」

「違げぇよ! トドメさすべきだったって言っているんだ」

「馬鹿! 誰かに聞かれていたらどうするんだ!」

 巧が慌てて制止したが、それをけたたましい笑いでかき消し「マジ、小心者すぎじゃーん?」と馬鹿にする。

「そうだぞ。巧、お前もう少しどっしり身構えていないと、いざとなったときに対応できない」

 椎木がそう口にして、煙草を取り出す。ポッキーを摘むように信楽は摘み、咥えた。巧は差し出されたそれを拒否した。気分じゃないのである。浮かない顔を見て、彼は面白くなさそうにする。

 その刹那、あたり一面にすさまじい光が迸り、同時に奇怪な笑い声が響いた。

「うわっ!」

「な、なんだ?」

 三人とも目をすぐにかばったが、青白いその光は強く、目を眩ませる。

「ヨウ、テメーラ! コチラ『バネ脚ジャッキー』。オ前ラノ悪事、シカトコノ眼ニ焼付ケタ!」

 光の方向から聞こえたのは、ボイスチェンジャーだった。スピーカーかなにかを使っているようで、ひどくかすれて聞こえる。

「バネ脚ジャッキーだと? ふざけんな!」

 椎木が咄嗟に怒鳴り返すが、ジャッキーは悠々とした様子で「フザケテナンカイナイ」と続ける。

「イタイケナ男子高校生ニ罪ヲ被セヨウトシタソノ会話。スベテ記憶サセテ貰ッタゾ」

 突然、森林の奥でシャッター音が響いた。同時に今度は小刻みな青白いストロボの光が迸る。

「まずい、カメラだ!」

 巧はいち早く光に向かって地面を蹴った。光のせいでわずかな頭痛がして、嫌な汗が噴出す。

 光からは二十メートルも離れていない。運動神経が人より優れている巧は走力に自信があったが、木々の根で足場が悪く、腐った落ち葉がぬかるみになっている。後ろで追いかけてくる二人の様子を確認する余裕はなかった。

 ふいに、ストロボが止まる。一気に周囲は暗くなるが、公園の点滅する街灯がかろうじて光をさし暗闇にはならなかった。陰だけでみえる目標は、体躯こそ分からないが、どうやら身長は低めのようだ。

「あいつが、バネ脚ジャッキー? まさか……あの高校生か?」

 巧は即座にそんなはずはないと頭を振った。あれから、まだ一時間も経過していない。そんなに早く、警察から釈放されるわけがないのだ。

 雑木林を抜けると、硬いコンクリートで舗装された駐車場に出た。既に静まり返っている製麺所。巧が上がった息を整えつつあたりを見回すと、懐中電灯が顔面めがけて飛んできた。

「うわ!」

 それはかなりの送球だったが、中学時代野球を経験している彼にはキャッチできた。

「この野郎!」

 一気に間合いを詰め、渾身の力で殴りつけようとしたが、標的は身を屈めて避け、肘を巧の腹に叩きこんできた。あまりのすばやさに反応できず、体を屈折させて、ぐぅっと唸りを上げたとき今度は蹴りが飛んできた。そのままコンクリートに倒れこむ。

「てめぇ」

 何者だ、本当にバネ脚ジャッキーか、と問おうにも、仰向けになるよう再び蹴り飛ばされ、質問を遮られる。ぬっと現れた標的の顔はよく見えない。しかし街灯が照らす光は、赤いラメの施されているピン留めを照らした。

「お前が、里子を落としたのか」

 巧は咽喉元を踏まれたまま問われたが、自分の呼吸がうるさくて聞き取れなかった。落とした。という単語だけが聞こえ、耳の奥でリフレインする。苛立った怒鳴り声が頭上から降ってきた。

「聞こえてんの? 東高の三つ編みの女の子を殺そうとしたのか? って聞いているんだよ!」

 つま先に体重が込められて、苦しさのあまり脚をばたつかせる。巧の視界が朦朧としてきたときだった。

「そうだったら、どうするんだよ?」

 追いついた信楽が、巧の首を踏みつけるそれめがけてタックルしたのだ。赤いピンの標的はよろめくと、飛んできた蹴りを受けて吹っ飛ぶ。一眼レフカメラが同時にコンクリートの上を滑った。

 蹴りをかました信楽は標的を掴み上げようとするが、彼は即座に抵抗する。信楽の胸倉をつかむと、軽々しく投げてコンクリートに叩きつけた。そしてそのままカメラを拾うと、製麺所の駐車場を後にしようとフェンスをひょいと飛び越える。

 後に続く椎木は、無残にコンクリートに潰れる二人に目線をやり、忌々しそうに舌打ちをしてフェンスに脚をかけた。



































































 七月十六日 Friday







 Aspect 相模太一(さがみたいち)

 太一はぜぇぜぇ肩で息をしつつもひたすら走り続けた。

 嘗てない迫力の鬼ごっこに心臓を破裂させそうな感覚に陥る。 デジタル腕時計が日付の境目を越えたこと電子音で告げたが、そのわずかな音にさえ背筋を凍らせた。

「ありえねぇって」

 自分で仕掛けた喧嘩だ。負けるわけにはいかない。負けたらおそらく

「殺されるだろうな」

 太一は蹴り上げられた右腹に手を当てる。肋骨の辺りが悲鳴を上げていた。殴り合いの喧嘩なんて初めてである。と豪語したいところだが、つい先日、ひっぱたいた友人のことを思い出した。

「……」

 その友人、浅月京助が、警察に取り押さえられている瞬間を目の当たりにしたのは当然偶然ではない。

 

――先日。太一は南高校に通う知り合いの生徒にローラー作戦をしていた。

「いい加減にしてくれよ、俺、あんまり関わりたくないんだって」

 電話の向こうで今にも電源を切ろうと虎視眈々と狙う友人。太一はすかさずに口にする。

「ばらしちゃおうかナァ」

「わー! ヤメロ頼む!」

 にやりと笑うと「じゃぁ続けようか」と脅した。弱みを握った相手を脅すことは太一の十八番だった。メモした確認事項をすらすら口する。

「確認するぞ。月館麻緒は読者モデルをしており、いずれ大きな舞台で活躍するモデルを目指していた。そのため、自分を差し置いた高梨杏奈に逆恨みをしていた。

 井川勇一は高梨杏奈にフラれた経験があり、月館麻緒との交友が深い。て、いうか今は付き合っている」

「あ、あぁ。そんな感じ」

 そわそわしているであろう電話の向こうの存在は早口だった。「この電話が終わった瞬間に相模太一とは縁を切ろう」と溜息を一つする。運命を変えるのであれば、この男とであった四年前からリライトしたいものだ。「畜生」などほんのわずかな悪態すらも拾う彼は到底敵う敵ではない。

「つーか、太一も月館と同じ中学出身じゃん。なんとなく分かるだろ? あの性格……」

 太一は月館麻緒に関して特に関心はなかったが、嫌ってはいなかった。責任感が無いくせにリーダーシップを発揮しようとする幼稚さが垣間見えても、行動力は人一倍ある。小悪魔的なところが可愛らしく見え、明るさや協調性に長けている。良くも悪くも、どこにでもいるタイプの女子高生だ。交友関係こそ深くなかったが、彼女が死亡したことを今朝のニュースで知ったとき、衝撃と喪失のあまり青褪めた感覚は未だに残っている。

 友人は変わらず、おどおどした様子で続けた。

「……高梨さんは児童ポルノ法だかでかなり報道機関騒がせただろ? だから嫌がらせは酷いつーか、なんつーか……」

「まぁ、そのへんは言わずとわかるよ。こっちのデータでも、月館麻緒はプロダクションの応募とか、よくやっていたってされているし」

「お前のデータってなんだ! あ、話すな? 聞きたくなんかないぞ!」

 すでに友人の声は涙声だ。

「で。単刀直入に言うんだけれど、月館と井川以外で高梨杏奈の加害者になりそうな人物名前挙げてくんない?」

「そ、そんなこと」

「できない、とか言わせないぜ?」

「な、なぁ太一。やめろって。転落事件なんかに首突っ込んでもいいことないだろ? 悪いコトと言わないから、な?」

 友人は本気で身を案じてくれている。太一は彼の性根が優しく真面目であることを気に入っている。だがその優しさは今の太一にとって鬱陶しいものであることこの上なく、「やめるかよ」と低く聞こえないように唸った。

 胸の高鳴り。と表現すれば不謹慎だろう。それでも、自らが挑む大きな存在を前にして、一瞬の物怖じもすることなく望むつもりでいた。だから足枷になる優しさも、怖気も必要ない。

「……俺の友達のたーいせつな人なの、杏奈ちゃんは。俺は会ったことないけれど」

「でも、もしこんなことがばれたら」

「その言い方だと、いるんだな?」

 有無を言わさず攻めた。この尋問でまた一人友人を失うことになりそうだったが構わなかった。

「俺が、言ったなんて絶対言うなよー!」

 おそらく半べそだ。それでも語ってくれた名前。太一はそれを何度もリフレインさせ、データと照らし合わせながらPCに打ち込む。通話が切れた後、同じことを複数名に繰り返したのだ。



「高梨杏奈殺しの容疑者なんだよ。お前ら三人」

 太一は走りながら呟く。志摩里子に手をかけた時点で、もうほぼ確定していると。

 南高校に通学する全てのツテに脅迫……ローラー聞き込みをして割り出した結果、二名以上から名前の挙がったものを徹底的に調べた。そして五名以上から指名された三人を実際に張り込むことにしたのである。

 彼らの行動パターンを観察し始めたと同日。思わぬ展開で京助と彼らが接触し、まんまとカモられる。警察に連行された京助がどうなったのかは不明だが、上手くやったと信じよう。実際彼は無実なので簡単に釈放されると確信があった。

 太一は入り組んだ古い団地を抜け、隠れられそうな場所を探す。脚を引きずるようにして街灯が二十メートルごとに儲けられている道路まで走ると、一端コンクリートに膝を突いた。後ろに人影はない。冷えたアスファルトに爪を立てる。

「いってえよ。痛ぇ。泣いていいですか、畜生」

 吹き出た汗なのか、激痛による涙か分からない雫がぼたぼたと。

「ちくしょ、改良に改良を銜えたオリンパス E-330が……」

 コンクリートに打ち付けられたせいで傷だらけだ。フラッシュ機能を強くする為にいろいろと入り組んだ仕組みにしたため、重量がかなり増えたことを呪う。しかし写真は撮れた。

「志摩っちがもし犯人の顔を覚えていれば、この写真も役立つだろうけれど……」

 そうでなかったらこの努力も半減か。

 溜息をつけば、肋骨の痛みも増す。

「俺だってやるときはやるんだよ、畜生。情報屋ナメんな!」

 汗を拭うと、立ち上がる。整った呼吸を潜ませた。辺りには虫の鳴き声しかない。

 太一はふいに、京助との喧嘩を思い出した。

「間違ってなんかいない」

 そう、自分の選択は正しくはなくても過ちではない。薄々、京助にとって誰にも知られたくないことがあるのは既知していた。両親がいないこと……事故か事件かは分からないが、それが関連することも分かっている。

 それでも『過去』からも『今』からも逃げようとする彼は気に入らないのだ。

 誰かが助けてくれないと生きていけない。その助けが当たり前だと無意識に思っているのではないだろうか、そんな傲慢さが垣間見える感じがするのだ。

 太一は「自分が言い過ぎた、ごめん」と素直に謝罪しようと何度も思った。しかし、意固地になってやろうとも思う。

「とりあえず」

 どっちにしろ、大手柄を立ててやらなくては、この肋骨が名誉の負傷にはならない。祈るように闇を睨む。一人だけ拉致するつもりでいた。三人も一気に捕らえて尋問するのはさすがに無謀からだ。しかしその願いも虚しく、影は三つ現れてゆれる。一番危険な香りのする信楽の手にあるのはどこで拾ったのか、スパナだった。

「やばいな」

 太一は咄嗟に建設途中の建物の敷地に身を隠したが、ばれているようだ。

「なめてンのかぁあああ!」

 信楽の怒声に舌打ちする。

「舐めるか、男なんて気持ち悪い」

 得意の下ネタを口内で呟いた。それぐらいの余裕はある。良好、と自画自賛は哀しいが気休め程度には役立った。建設中の建物にかかっている青いブルーシートで遮られる視界。骨組みの間に体を滑り込ませ死角であろう場所でもう一度膝をく。

「相模太一だろ。お前」

 椎木の声だ。見ずして分かったのは彼の声に特徴があったから、などではなく一人だけ落ち着いていたからだ。

「……椎木海斗。剣道で関東大会優勝者。二枚目のため女子に人気……」

 知りえる情報を広げた。痛みから集中を逸らさないと泣きそうなのである。「情けないことに、膝はがっくがくの大泣きだけれどな、畜生め」震える唇を噛み締めると、大声を張り上げた。

「よくわかったな。俺の名前」

 風が出てきた。夏の生温い風は妙にべたべたする。ブルーシートがばたばた音を立てるたびに鈍る聴覚。全力で此処から逃げても、多分追いつかれるだろう。周囲を見渡すと、建設工事中のこの土地は想像以上に狭く、建物同士が密接していた。そのどれもが事務所であり助けを求められる民家などない。そのくせブロック塀で区切られた壁が災いし窓ガラスを突き破り建物に侵入することもできない。しくじった、と舌打ち。

「東で、柴犬と呼ばれている赤いヘアピンの男なんてお前ぐらいなんだよ。青瓢箪野郎」

「柴犬が、狂犬で驚いたかぁ?」

「躾のなっていない馬鹿犬の間違いだろーが!」

 信楽の声だった。アイツにだけは馬鹿と罵られたくなかったなぁと引きつる頬。その間にも着々と三人は歩み寄ってくる。太一は仕方なく塀によじ登ろうとするが、

「嘘だろ」

 腕を上げれば肋骨の悲鳴が無視できないほどだった。どうすることもできず、結局建物の桟橋に脚を掛けた。ひどく不安定な足場だったが覚悟を決めてよじ登った。強風に煽られるブルーシートが視界を遮りバランスを脅かすが、それでも諦めなかった。

 巧は殆ど血の唾液を吐き捨てると、太一を見上げた。

「おい! 何がしたいんだてめぇ!」

「もう聞いただろ! 志摩里子を落としたのはてめぇらか? って。ついでに聞いてやる! 高梨杏奈達を殺したのもお前らだろ!」

 五つほどの桟橋を駆け上がり、三階ほどの高さになったその場所で一度止まる。足元を見れば、ちょうど椎木と目が合った。彼は笑う、にやりと。

「……否定、しねぇのかよ」

 太一の膝が、体が、思わず戦慄いた。目の前にいるのは、本当に殺人犯だったのだ。

「証拠がないだろう」

 スパナを振り回す信楽が充血した眼でこちらを捉える。太一はついに行き止まりまで進んでしまった。

「もう、これ以上の質問に意味はないだろ?」

 距離にして十メートル程しかない。がたがたと音を立てる灰色のパイプが鈍く輝いて見える。太一は自我崩壊を引き起こしそうなほど恐怖していた。

「冥土土産に教えてやるような、そんな事実もないんだ」

「はは……。そうかよ。ホームレスに火をつける事件の犯人もお前らだろ」

 この三人を追い詰めることに、多く協力してくれたホームレスたちを思い出す。コレではまるで走馬灯だと思いながら、じりじりと後ずさった。「『バネ脚ジャッキー』を恐れて、最近活躍していないけれどな。臆病者」肩口から伺うのは、隣の雑居ビルの屋上だ。距離にして三メートル程だろう。落下すればうちっぱなしのコンクリートだ。ごくりと息を飲む。

「ホームレス、ねぇ。それも証拠のないことだ」

「証拠なら、あるだろ。今、この場所に」

 椎木の眉がピクリと動くと、それに反して太一は笑った。ポケットから取り出したのは、小さな――掌に収まるほどのボイスレコーダーだった。三人が手に納まっているそれに表情を変えたとき、太一はさらに声を上げて笑う。高らかに高らかに。狂った雄叫びのような笑いに唖然とするしかない。

「俺こそが、証拠になるんだよ!」

 太一は夜空に向かって叫んだ。それが自分への合図だった。

――飛び移るなら今しかない!

――鉄を蹴る。精一杯蹴る。

――助走三メートル。隣のビルまで幅五メートル。一気に踏み切り、宙に躍り出た。

「なっ!」

「馬鹿か!」

 三人はあんぐりと口をあけた。まさかまさか、と見つめる。相模太一の影は小さくなる。

 バランスのとりにくい桟橋にいることも忘れて、詰め寄るが既に太一の姿はない。しかし、隣の雑居ビルの屋上にも姿はない。足元を見ても生い茂る新緑色の木々があるだけで何も見えない。

「……」

 ――消えた。完全に消滅した。まるで手品でも見ているかのようだった。三人は口にこそしないが、分かっていた。

 相模太一が落下した。



――……。

 じわじわと血を吸い込んで行くコンクリート。あぁ、最近雨降らなかったもんなぁ。せめて濡れたコンクリートの上ならば良かった。濡れたコンクリートって、普通のよりなんか柔らかく感じないか?

――否定してくれよ。俺だってそんなの、嘘っぱちで言っているんだ。だって、何か余計なことでも考えないと、泣いてしまいそうになる。

 太一はぼんやりと考える。視界は真っ暗だった。そもそも目蓋は開いているのだろうか? 生い茂る木々の真上から落下したわりには……衝撃は強かった。隣のビルに飛び移るつもりではいたが、落ちてもクッションのように受け止めてくれると自分の浅はかな考え故に誤算が生じた。

 自分の血で濡れてゆくコンクリート。柔らかくなってゆく気がする。誠意いっぱい嘯く。気の利いた嘘が言えない。早く、誰でもいいから指摘してくれ。なにか、喋ってくれ。「馬鹿だろお前」って呆れてくれよ、京助・修二。

 酷く泣きたかった。なんで、痛いのに、泣きたいのに、苦しいのに。こんなときに浮かぶ顔が喧嘩別れした友人なのか。

「やめてくれよ。素直に、もっと早く謝ればよかったなんて後悔しちまうじゃねーか」

 声にならない叫びで、咽喉が張り叫ぶまで発狂したい。まだ生きたいまだ生きたいとすがりつきたい。

 どうしよう。もう痛みもない。感じないのではなく、分からないのだ。これまで感じてきた全ての感情が理解できなくなる。麻痺が脳にまで及んでいるようだ。

 自分は死ぬのか。コレも自殺になるのだろうか。死にたくない。死にたくなんかない。かろうじて、唇が動くのを感じる。

「……けいすけ……ぇ。しゅー……じ」

 助けてくれよ。何でもするから。見つけてくれよ、この暗闇の中から。

 太一はただ懇願した。神とも、運命とも違う。二人の友人に。

「……死に……たくない……」



   *



 Aspect 朝比奈蓮太郎

 嫌な夢だった。

 水中で足首を掴まれて、ずるずる水底へ引きずりこまれてゆく。

 黴と鉄錆の臭いが肺を満たし酷く息苦しい。全身に纏わり付くうっすらと赤い羊水に似たそれが、鼻空や口から体内に入り込む。

 不通音ばかりが脳に響くその中で、蓮太郎は確かに懐かしい声を聞いた。

 それが、誰のものかはわからなかった。

 ただ、自分は、その相手は、血生臭い匂いに包まれている。



 蓮太郎は仮眠室で目を覚ました。

 悪夢のようなそれは、昔、五年前よく見ていた夢だった。

 なぜ今頃、とは思わない。バネ脚ジャッキーからの手紙を受けて以来、たびたび快眠は邪魔されている。

「……あぁもう。最悪な気分だよ」

 着替える時間すらもどかしく、スーツ姿で寝たせいか肩や背中の疲れは一向にとれそうにない。スラックスの皺を見つめ、頭をガシガシと引掻いた。

 ふと外の薄暗さに気がつく。つけたまま寝ていた腕時計を見ればまだ六時にはなっていない。示した時間が、午前中なのか午後なのか。すっかり感覚の失われたため、しばしぼんやりとする。小鳥の囀りと肌寒さで朝だと理解したとき、自分がいささか寝すぎたことに気がついた。

「まずい……。起きろ要」

 安い二段のパイプベットの上に声をかけたが、しばしの沈黙が降りる。どうやら彼の目覚めも最悪な気分のよう。

「……あぃ……このままだと永眠しそう……したいッス」

 要は無精髭のせいで蓮太郎よりも年上に見えた。口元をむにゃむにゃさせつつ、起きようとしない。

「髭、いい加減剃れ」

 カバーの付いていない剃刀を投げてやり、洗面台まで引っ張る。

「立ち寝するなよ」

 蓮太郎はカルキ臭い水道水で顔を洗うと、両頬を引っ叩き、伸びをする。四日目になるネクタイを締めて、一足先に仮眠室を出た。

 署内には蓮太郎や要のように家に帰っていない者も多く、真夏に片足突っ込んでいる気候であるため、心なしか饐えた匂いがあちこちで漂っていた。

 デスクに戻ると、自分より年配刑事の光川(みつかわ)が煙草をふかしていた。

「レン。お前。何時間寝ていたんだ」

 蓮太郎をまるで飼い犬のように呼ぶ不機嫌そうな表情。光川の目の下のくっきりとした隈を見て、「まずい」と背筋を緊張させる。もっとも、色黒で堀の深い彼はいつも隈があるように見えて、仏頂面なのだが。

「えーと、あー……三時間ぐらいですね」

 本当は四、五時間なのだが、サバをよんだ。

「そうか。昨夜のガキはどうだった?」

「命に別状はないです。なんでも建設現場にいた猫を保護しようとしたら強風に煽られて転落したとかで。意識が鮮明になるや否や自らぺらぺらと話してくれましたよ」

 二つ返事に信じるつもりはないが疑うつもりもない。暗闇の建設現場に猫がいたことは疑わしいが、中途半端な高さからの自殺は考えられなかった。

 昨夜のガキ、こと東高校二年五組の相模太一。

 三階の高さからコンクリートに落下したとはいえ、木々やブロック塀が思わぬ形でクッションになったらしい。そもそも近所の人からの通報により蓮太郎が駆け付けた頃には、自分の名前を細々名乗った。そして自ら救急車も頼んでいた。

 実際蓮太郎は付き添いと、自宅への連絡を済ませただけだった。そこまで手の掛からない怪我人は前代未聞。つくづくタフな少年であった。

「本当に事件と関連なさそうなのか?」

「さぁ……深夜一時頃にうろついているのは十分妙ではありますが」

 今までつかの間の仮眠を貪っていた自分に問わないでくれ、それは言い訳にならないと分かっていてもげんなりしてしまった。

 光川は五十を過ぎたというのに衰えることを知らない屈強な肉体の持ち主だ。口癖は「そんな細腰で犯人を投げられるか!」で、蓮太郎は刑事課に配属されてからというもの鍛えるという名目で柔道やら剣道のサンドバック代わりになってきた。ちなみに彼は新人に武術を叩き込むことで有名な年長者のわけなのだが、背が高く、細くても鍛えられている要よりも、小柄な蓮太郎を未だに付け回している。

 蓮太郎だけは新人どうのこうの問題ではないらしい。そもそも何故光川が犯人を「投げる」ことに執着するのかは誰もよく理解できていない。

「ところで、まだマスコミには知られていない話なんだが、今オネエが一連の事件の犯人候補の少年に事情聴取をしている。確認は取れていないが、本人は東高校の学生だと言っている。制服をわざわざ変えているとは思えんから真実だろう。歳は相模太一と同じく十六だ」

 オネエとは光川のパートナーであり、蓮太郎の先輩刑事だ。そのあだ名のとおり、口調がオネエ系でなのある。光川はとにかく人にあだ名を付けたがるため、強行犯係のメンバーには一通り付けられていた。

 煙草を挟む指は太く、掌は野球のグローブのように大きい。この手に平手打ちされたら死ぬだろうな、とぼんやり連想する。ちょうどそのとき髭を剃り終えた要が入ってきたので光川は「ちょとこい、ボク」と手招きした。ボク、とは要のあだ名であり、『トーヘンボク』の略である。光川は誰かまわず新人にはこのあだ名を使うのだ。

 要は剃刀負けしたのか、顎に手を置いていた。一連のことを手短に説明するが眠気眼のままなので思い切りわき腹を肘で突いておく。

「で、続きだが、少年Aは歩道橋から中年のサラリーマンを突き落とそうとしているところを取り押さえられたんだ。だが、少年Aを取り押さえた学生ってのはガラの悪い連中だったみたいで、少年Aを羽交い絞めにしてタコ殴りしたらしくてな。少年Aがやり返したとき、相手の携帯電話を壊しちまってヒートアップ! 野次馬が止めるまで乱闘騒ぎだったらしい。……っておい、レン。なんだその微妙な表情」

「いや、月館麻緒も一度歩道橋から突き落とされそうになっているから……ちなみにそのリーマンは」

「逃げたらしい。見物人が沢山いたらしいが、なんでも少年Aとの取っ組み合いですんなり身を引いて逃げたそうだ」

 光川はふぅっと紫煙をあげた。要は器用に風向きを考えて避ける。茶色の天然パーマは海草を思わせるほどよく波打った。本人の前で口にしたら靴に画鋲を忍ばせかねないので口にはしない。

「それ、逆に言えば少年があっさり身を引いたってことになりますよね? 本当にサラリーマンを落とすつもりならば、失敗したときに真っ先に自分が逃げるべきでしょう?」

「そうなんだよなぁ」。

「何時間前の話でスか?」

「通報があったのは十五日の十一時頃だ。最初は悪戯かと思ったんだけれどなぁ」

 頻繁にいただく、辟易極まりない偽物と思われる目撃情報・クレーム。適当に見逃すことで対応しているが、そんな時間の悪戯には何かしら理由をつけて手錠を掛けてやりたくもなる。

「よくそんな時間に見物人なんてよくいたッスねぇ」

「場所が場所なんだ。新しく作られたばかりの二十四時間漫画喫茶が備えられているビル。それを挟んで二十四時間経営のラーメン屋と、セルフサービスじゃないガソリンスタンド。ついでに、その近くには」

「交番がある」

 光川の二の句を遮った要は、ははは……と心ない笑いを浮かべた。

 蓮太郎はたとえ一連の犯人が少年Aだとしても、すこし同情した。取調室を一瞥すると三人よりは血色の良い、黒縁眼鏡のオネエが取調室から顔を覗かせる。

「光川さぁーん。終わりましたわぁー」

「お疲れ様、です」

 要は鼻を摘んだままふがふがとさせた。要と同じく禁煙家のオネエは白く曇っている光川と蓮太郎の周辺を睨み、「煙い!」と一括する。

「換気扇くらい回したらどうですか? 煙充満しすぎですわぁー」

 口調からすると明らかにオカマのオネエだが、髪型は角刈りで身長は百八十センチある要より大きい。激しすぎるギャップは初対面の時、トラウマになった。

 光川は「小姑め」などと悪態を付いても、素直に灰皿に煙草をねじ込む。大きな体を反転させた。

「完全に潔白。シロよ、シロ。先ほど交番から連絡があったけれど、自殺しようとしていた中年サラリーマンを止めようとしたら間違えられたんですって。現場にいたガソリンスタンドの青年や駆けつけた目撃者の意見も、ほぼ全員一致しているみたいですぅ」

 そこまで分かっていて、何故勘違いされたままだったのだろうか。その疑問はオネエの補足によると、少年Aを取り押さえた学生の風貌が恐ろしく、周囲は止めることも口出しもできなかっただけらしい、とのこと。なんにせよ、少年Aは災難だったようだ。

「よほど運のないガキなのか」

「運がない。なんてことだけで、捕まるなんてこと、本当にあるんスねぇ」

 他人ごとのようにしれっとした蓮太郎と要だったが「あなたたちも警官でしょ?」とオネエに尻を掴まれ同時に背筋を正した。

 事態は訴えでも出されたら反論などできない不祥事だ。その幸の薄い少年Aがおおらかな人物であることを心から願うしかない。

「ただねぇ……。未成年だから、保護者に来てもらわなきゃ困るんだけれど、「いない」の一点張りなのよ。困ったわねぇ」

 オネエは口調のわりに困った様子がなく、二人をこれ見よがしに見つめてきた。

「分かっています。引き受けますよ」

 蓮太郎はしぶしぶ頷くが、また尻を掴まれそうだったので即座に要の後ろに隠れた。

 光川はわるいな、と言いながらも一目散に部屋を後にする。実際断ってもこうして仮眠室に引っ込んだだろう。オネエも「頑張ってネ」と微笑み部屋を出た。

「俺。もう少し寝ていたかったッス」

「なんなら光川さんの添い寝をしてこい。寝技掛けられて永遠の眠りにありつけるだろうよ」

「じゃあ朝比奈先輩はオネエ先輩の添い寝ッスか。別の寝技掛けられるんじゃないッスか?」

 互いの発言がそれぞれ体験談や噂であることを既知し合っている。笑えない冗談に眼をそらして耳を塞いだ。

「あのー帰ってもいーですか?」

 割って入ってきたのは不機嫌そうな聴き慣れない声だった。口調はどこか眠そうに間延びしている。解放されたまま無防備な取調室。そこから顔を覗かせた少年A。

 蓮太郎はどう言い訳をして言いくるめようかと意気込んだ。だが、振り向いた瞬間、

「え?」

 一瞬、眼を疑った。鈍器で殴られたような衝撃を受ける。それは互いのことのようで

「嘘だろ」

 思わず零した声は、どちらのものかも分からない。互いに眼を限界まで見開き、硬直する。微動もできないまま、見詰め合った。

「朝比奈先輩?」

 要の怪訝そうな質疑も応答できず、ただその場に靴底が縫いつけられたように佇む。柿崎の言葉が、一瞬にしてフラッシュバックした。

『ただねぇ……。未成年だから、保護者に来てもらわなきゃ困るんだけれど、「いない」の一点張りなのよ。困ったわねぇ』

 あたりまえだ。彼に両親など存在しない。保護者など、どこに生息しているのかも分からないような者なのだから。少年Aは嘘を付いていなかった。少年Aは「朝比奈、蓮太郎ー……」と唸るように呟く。蓮太郎も思わず返した。「浅月京助」と。

 少年は、酷く疲れた顔をして、いくつかの殴られた痕跡が見えた。それは、五年前の初めて出会った日のように。

 こんなことが、ありえるのか。こんな対面がただの偶然でありえるのか。

 思わず「畜生」と唾を吐きそうになったが、それは誰に対しての悪態かが分からない。



   *



 Aspect 小田切修二(おだぎりしゅうじ)

 鬱陶しい湿気と分厚い灰色の雲。泣き出しそうな空の下はまだ午前中であることを忘れてしまうほどに暗い。

 病室で、修二は盛大な溜息をつく。睨む気力さえも失っていた。

 里子と太一は「ははっ」と引きつり笑い、お互い手にした写真の束をおずおずテーブルに戻す。まるで学校に漫画を持ち寄って、休み時間にこっそり読んでいる小学生のようだった。修二は注意する教師側の気分を仁王立ちで味わう。

 里子の右脚膝にはギプスが付けられ、左腕と額に純白の包帯が巻かれている。

 ごたごたのせいで結局見舞いには行かなかった……というより、彼女の強制退院のせいで会いにいけなかったため、実に何日ぶりの再会だろう。

 一方、太一は服から覗く包帯やガーゼ以外に目立った外傷は無いようだが、同じく額を覆う包帯に視界を遮られているようである。

 修二は掌で額を覆うと、静かな声音で開口した。

「怪我」

「え?」

「怪我、大丈夫なのか?」

 ぶっきらぼうに言いながらも、心配はしているようだった。

「ちなみに、どっちに言ってんの?」

 太一は喧嘩の最中であることを忘却したフリをする。

「両方だ」

 修二は堂々とベッドの傍まで来ると、太一を挟んで里子と対面するようにパイプ椅子を設置した。病室には四つのベッドが存在するが、現在この空間に入院患者は太一だけだった。

「私は……見てのとおり。歩き回れるくらいには元気だよ。第三の脚ができたけれど」

「それは元気とは言わない」

 頑固親父の如く一喝する。有無を言わさない剣幕に「はい」と里子は押し黙った。久しぶり、元気だったー? なんて間違っても言えない。

「右膝の皹以外はかすり傷みたいなものだから、命に別状はないです。はい。心配かけてすみませんでした」

「最初からそう言え。……それは何より。で? そっちの馬鹿は?」

「はは、怪我人にも容赦ないねぇ」

「いいから手短に答えやがれ」

「はいはい。左肋骨二本骨折に付け加えて右腕を切りつけたことによる出血。あとは座礁と打ち身と殴られた青タンくらい。頭も軽い脳震盪みたいだし。……ってか、修二はどこからの情報でここに来たわけ?」

「警察と学校から連絡が来た。文句あるか」

「さいですか」

 太一は微妙な表情をしたが案外ケロっとしている。学校に知られたことは問題ではないのだろうか。里子は「そんなにあっさり受けとめていいの?」としばし疑問に思うが、今焦ってもどうしようもないことなのだろうと諦める。

「お前、警察で俺の名前を出したのか」

「あー。うん。お前の家から帰宅するときに猫見つけて助けようとしたって言った」

 ケロっと何事もなかったかのようにしている太一に修二も里子も呆れた。

「適当に話を合わせた俺の順応力を褒め称えろ。突然かかってきた警察の電話に、嘘付いてまで対応したこの精神力を」

「ところで話遮るけれど、小田切君。今普通に学校の時間じゃない? まだ午前中だよ」

 おずおずと言いにくそうに里子が口を挟めば激昂が飛ぶ。

「志摩! 七月になって一回しか学校に来ていないお前が言うな! 担任と保険医に頼んで任欠貰ったんだよ。少なくともそこのベッドにいる馬鹿と違って素行がいいからな」

「ひでぇ!」

 太一の抗議は無視される。

「で、そこのアホでマヌケな相模太一は俺が事件にかかわるな、余計な首突っ込むなと止めたのに聞かず、結局志摩を転落させたと思わしき連中に喧嘩売って返り討ちにされた、と」

「喧嘩両成敗。ひきわけだっつの!」

「そこ、こだわる所なのか。……だいたい合っているようだな」

 修二はテーブルの上に散らばる写真をいくつか手にする。

「で、後先考えない無茶で阿呆な相模太一君がそこまで大怪我して得た情報がこのチンピラ写真集ってわけだ」

「おいメガネ! その腹立つ言い方止めてくれない? 俺一応病人だからね」

 少し笑っていた修二だったが、一つの写真を手に取ると眉を顰めた。

「……こいつ、椎木海斗だろ?」

 それは煙草を咥えて、談笑している写真だった。

「友達?」

 里子が怪訝そうにしたが、即座に否定する。

「間違っても違う。中学時代、剣道の関東大会の試合相手だ」

 胸糞悪ぃ。投げるように戻したことから、あまり良い記憶がないようだった。太一は深入りしないでおこうと緩和休題する。

「名前と住所と生年月日は全員もう調べ上げた。ただ、決定的物的証拠がねぇんだよなぁ。ボイスレコーダー壊れたし」

 さすがに高性能のカメラで撮影されただけあって、暗い状態でも鮮明である。斜体を的確に捉えているそれらは太一の腕前だ。数十枚のそれらを並べてみると顔の特徴までもはっきり捉えることができる。

「志摩、実際どうなんだ?」

「はっきりは分からない。突き飛ばされたことは分かっているんだけれど……」

 里子は明るく染め上げられた男を指差す。無数のピアスが耳に付けられている、目の大きな男。コレだけのアクセサリーがぶら下がっていると重そうだな。と修二は関係のないことを思いながら思わず己の耳に触れた。

「この人は廃墟で何度も見ているし、突き飛ばされた日も杏奈の家のそばで二回も見たよ」

「な? 無駄じゃなかっただろ?」

 勝ち誇ったように笑う彼を「な? じゃねぇよ」と後頭部をひっぱたいた。

「あだ! てめ! だから怪我人」

「知ったことか馬鹿野郎! お前の脳味噌はスポンジ級に軽いから幸いその程度で済んだのかもしれないがな、打ち所悪かったら死んでいたかも知れないんだぞ! 住所なりなんなり短時間で調べ上げられる行動力と頭脳があるくらいならばもう少しやり方ってモノを考えやがれ! てめぇの危機察知能力は微生物か? ミトコンドリア級か? それともミジンコかコノ野郎!」

 修二は容赦なく胸倉を掴みあげる。里子が止める隙もないそのすばやさは豹の如く俊敏で獰猛だった。太一は呆然と真剣な眼差しに圧倒され言葉を詰まらせる。

 小田切修二は感情的な少年だが、決して短気ではない。人を怒鳴りつけることなんて滅多にしない。しばらくそのままにしていたが「……ミトコンドリアは微生物じゃないし、ミジンコは動物だぜ」と指摘した。

「ごめん。軽率だった」

「……一応許す。俺もお前をぶん殴ったわけだし」

 二人は同時に、ぶっきらぼうに顔を背けた。

――素直にごめんなさいといえばいいのに。

 里子は自分だけが蚊帳の外で、仲間には入れそうに無いことが少し悔しかった。肩をすくめて、微苦笑する。なんにせよ蟠りが溶けてくれたせいで居心地の悪さは薄れた。

「ところで、さっきから気になっていたんだけれど、浅月君は? 小田切君、一緒じゃないんだね」

「それが、学校に来ていないし、連絡が付かない。ケータイ持っていないんだよ。あいつ」

「なんで持っていないの? 電子危惧だから壊れた?」

「いや……確かにあいつは買った瞬間便所に落とすタイプだが……。今の保護者にあまり迷惑を掛けたくないんだろうよ」

「ちょ、ちょいちょい! 二人とも! あのさ、京助のことなんだけれど」

 太一は二人の間を切るジェスチャーをしつつ、心底京助に申し訳なさそうに事の成り行きを説明する。「実際何かをしたわけじゃないから、保護者が引き取りに来ればそれで事が収まるだろ?」と言いつつ太一は冷や汗をかいた。もしかしたら保護者とうまくいっていないのかもしれない。だとしたら悪いことをした、と罪悪感でいっぱいだった。そんな様子も知らず、里子は「なんていうか、やっぱり幸薄なのかな、浅月君って……」と口にする。誰も否定できなかった。

「どれだけ世渡り下手なんだ、アイツは」

 修二は呆れのあまり額を大きな掌で覆う。これでは太一と大差ない。

「あの馬鹿野郎。やはり首を突っ込む気でいるのかよ」

 修二は知っている。京助は義理硬く、情に熱い。だから、里子が怪我を負わされたことにおいて「はいそうですか」と簡単に引き下がるような男ではない。何を考えているのかはとことん掴めないが、何がしたいのかは手に取るように分かるほど単純な奴だ。

 おそらくは、自分ひとりで事を収めるつもりだとわかった。修二や太一に、厄災の火の粉がかかることのないように。

「あいつ、興味ない素振りしやがって、絶対なにかしている」

 太一が悔しそうに呟いた。

「そうだろうな……。志摩。お前、高梨杏奈が誰かに殺害されているとして、その犯人を殺したいと思うか?」

「え?」

「なんだよ、急にそんな質問」

 急な話題に戸惑う二人をよそに、修二は深く溜息をついて頭を振る。

「……つまりはそういうことだ。……知っているだろうけれど、アイツは両親と死別している」



――ふいに思い出す。濡れた鉄錆の匂い。

 横たわる、死体。

 あたり一面の、紅の花を体にいっぱい咲かせた死体。空っぽの、魂の器。

 彼が、引き裂いた肉片。彼が突き刺した肉片。

 京助にも修二にも、決して失うことができない記憶。なくならない時間。巻き戻すことのできない過去。ずっと京助と一緒にいた修二だからこそ、なにもできずに傍観し続けた修二だからこそ、その闇を、知っている。



「あいつは、自分の両親を殺した男を……殺したんだ」



   *



 Aspect 朝比奈蓮太郎

「知り合い、なんですね?」

 取調室の机で、要はむっつりと黙る二人に割って入る。自分の分のパイプ椅子はないのでドア付近に立つ。

「あ、まさか先輩がこの子の保護者……」

「ねぇよ」

「違げーます」

 同時の否定が即座に返ってきた。

「さいですか」

 すごすごと引き下がる。文法の御幣を指摘することすら躊躇われる威圧が黴臭い取調室に充満した。同席したのはいいが身動き一つ監視されるような静寂。自分がいてもおそらくどうしようもないだろうと、要は取調室をそそくさ後にする。

「……久しぶり」

「……そーですね」

 想像通りの返答。

(……そりゃ話題の返しようがないわな)

 納得しつつも気まずそうに、おずおずと京助に視線を向けた。神妙にかしこまった端整な顔立ち。少年らしかぬなんともいえない雰囲気は、今も昔も変わってはいない。少し薄い唇はただ一直線を横に描き、きゅっと結ばれていた。

「変わったのは、顔つきだけだな」

「……そー、ですか」

 京助は晴れ上がった左端の唇を舐めた。鉄錆の味がする。先ほどから右目蓋がどうにも重い。物貰いになったとは思えないのでこちらも殴られたときに腫れたのだろう。

「痛そうだな」

「殴られましたからねぇー」

 きつく締めすぎたネクタイを少し緩める。煙草が無性に吸いたくなったが、相手は高校生なので我慢をすることにする。

(どろどろの修羅場で喧嘩別れした彼女と再会するよりも気まずいな)

 蓮太郎がため息をついたとき、ちいさなノックが飛び込んだ。間が持たないであろうことを、気を利かせた要が三人分の缶コーヒーを手に敷居を跨ぐ。ちいさな会釈の後、京助はいつかのように青痣のできた頬に冷たいコーヒーを押し当てた。

 蓮太郎はプルタブを開けると一気に煽った。ブラックのそれが空っぽの胃に流し込まれる。

「……何年」

「……五年?」

「そうじゃない。何年生だ」

「あ、……あぁー。高二ッス」

 一瞬戸惑うような表情を見せ、指折り数えることを止める。

「……まるで離婚した奥さんに引き取られた思春期の息子との会話みたいッスねぇ」

「要。黙っていろ。コーヒーで洗顔されたくなかったらな」

「眼ぇ覚めそうだなー」

 京助は眠気眼を擦りながら口を挟んだ。相変わらず何を考えているか分からない。

「相変わらずだな、お前」

「あんたもねーぇ」

 京助は傍にあった灰皿を、ずいと差し出す。怪訝な表情でその銀色を見つめれば「吸いたいんだろ」と意地悪く笑った。

「あんたってー、吸いたいときや吸っているときはネクタイを必ず緩めますよね」

 蓮太郎にはどうやら自覚があるようで「五年前に一度会ったきりで、よく覚えているな」遠慮なくシガレットケースを出した。「吸うなら出て行きます」と要は睨んだが「じゃあ消えろ」と短い返答を相変わらず一瞥もせずに告げた。「ニコチン中毒者め。肺から腐っていけばいい」舌打ちして退散する。憤慨するタイミングすら与えないそのすばやさと行動力は尊敬に値した。

「あんた、アノ人に嫌われているんスかー?」

「まさか、愛情表現だろ」

「ポジティブシンキングは見方によれば哀れですよー」

「黙っとけ」

 ああいえばこういう。天邪鬼は唐沢黒奈に及ばないが、アイロニーに対する才能があるようだ。五年の月日は確実に流れていることを感じる。

「まぁいい。とりあえず、カツ丼でも食うか?」

「……取調べは終わったんじゃーねぇーんですかー?」

「気分だけでも味わうといい」

「嫌ですねー」

「奢ってやるよ。知っているか? 取調べに出されるカツ丼は、自分で払わなければならないんだぜ」

「がめついなぁー!」

 京助が噴出して少し笑うと、八重歯が見えた。

「……まだ、あそこに住んでいるのか?」

「まさか」

 おどけたように体を少しのけ反らせた。そして自嘲気味に、ゆっくりと、ゆっくりと紡ぐ。自らの罪を懺悔しているように。

「……人が三人も死んだ場所に、とどまれるわけがねぇーだろ」

 蓮太郎は即座に己を叱咤した。何も考えずに聞いたとはいえ、馬鹿な質問をしたことに大きく後悔する。

「すまない。……だが、俺はてっきりお前は別の町に移り住んでいると思っていた」

「生憎、親も身寄りがないに等しくてさー。ろくに相手してくれる親戚は叔父しかいねぇー。その叔父の家もこの町なんだ。家に滅多にいないけれど」

「そうか、まさかまた会うなんて思ってなかった」

 それは、紛れもない本心。

 また会いたいと思わなかったが、もう会いたくないとも思わなかった相手。しかし、二度と巡り合うことはない。そう勝手に確信し合っていた。頷き、京助も静かに同意を重ねる。

 煙草の紫煙。消えて行くそれを眺めながら空虚を無心に傍観する。

「高梨杏奈が死んだ後から、俺の友達が不登校になったんだ」

 蓮太郎は一度目を見開くが、「あぁそういうことか」と眼を伏せ灰皿に煙草をねじ込む。瞬時に、彼が何を言いたいのか、これまでのいきさつなどを悟った。止めておけ。そういうことには関わるな。忠告を続ける前に「そうじゃねぇーです」と遮る。

「……邪魔、するつもりだった」

「何故だ」

「そいつは、高梨杏奈となんらかの関係があり、犯人を捕まえようとしている。だから、俺みたいに殺しちまうかもしれねぇーと思った」

 蓮太郎は目を見開く。京助は相変わらず居心地悪そうにしていた。

「ばかげていると思う。たかが女子高生に何ができるって。犯人まで辿り着くことができねぇーって。そもそも高梨杏奈が自殺か事件かまだわかっていないし。

 ……でも万が一事件だとして、志摩が俺と同じ思いを知るってことが怖かった。だから俺はまた、あんたから奪ったように、志摩からも復讐を奪おうと思った」

 誰も知らないところで、誰にも気が付かれない形で終止符を打とう。その考えが、間違いだとは思っていない。

 しばし、長い沈黙が降りる。やっと二の句を続けた京助は、ひどく悲しい目をしていた。

「アンタは、復讐を奪った俺を憎いと思ったことは、ある?」



 遠慮なく煙草をふかせば、くゆり上がる紫煙を見つめる。白乳色のそれは溶けるように消えるのだ。

「先輩」

 白乳色の奥からすっと現れた要は一瞬顔を顰めた後、蓮太郎に冷たいコーヒーが入った紙コップを差し出した。またコーヒーか、と胃のもたれを感じても好意には素直に甘えておく。

「あの子に何を言ったんスか」

「あ?」

 ぐいと、酒を煽るように一気に嚥下する。ちびりちびりと口に含むように呑む要は、もう少し味わえよ、と微苦笑した。

「聞かれたんですよ、あなたはよく嘘を付くのかと。いやなガキッスね。少し会っただけで、全部見透かされたような気分になる」

 要は嫌悪を露にしていた。お互い人を食ったようなところがあるから、波長が食い違うのかもしれない。

「……面白く育ったじゃねぇか、浅月京助。で、なんて答えたんだ?」

「口から出任せが湯水の如く溢れ出ているから、七割は甘言虚言と言っても過言ではないかもしれないね。って」

「もう少し気の利いた返答はできねぇのか。てめぇ」

 空になった紙コップを潰す。

「で、何喋っていたんスか?」

「知りたいんだとよ。相次ぐ学生転落の事件、全ての真相を」

「そいつは」

「あぁ、俺たちにとっては、見逃すわけには行かない事実だろう? 善良な市民が危険な事件に首を突っ込んでいるんだから。だから俺は、お前を応援することはできない。これ以上踏み入るならば、俺はお前に手錠をかけることもありえるんだ。と言ったんだ」

 灰皿に煙草をねじ込む。二本目に手をかけようとしたが、その手の甲をぱちんと叩かれる。吸いすぎだ、という彼なりの注意だ。悪戯がばれたときにすねる子供のように、舌打ちをするとしぶしぶポケットに手を突っ込む。

 要は紙コップの縁をわずかに噛んだ。

「朝比奈先輩。俺は、あんたのことも、あの子のことも、何も知らないんですよ。あんたたちだけが互いに悟りあった世界で傍観者にもなれない俺はどうすることが懸命なんですか」

「嫉妬かよ」

「俺はね、自分にとって未知なことは全て嫌いなんです。我侭ですから」

 要はにこりと、恐ろしく魅力的に嗤った。その表情に見覚えがある。それは要の一歩も譲るつもりはない、という無言の催促だ。蓮太郎は観念したように、ひとつ大きな溜息をつくと、念押しはあえてせず口火を切る。

「……五年前に、この町で終わった連続殺人事件を覚えているか?」

 怪訝に眉を顰め、さぁと首を振った。

「記憶の片隅にはあるんじゃないか? 多くの死体がバラバラになって……。あぁ、一つの胴体に、異なる人間の頭と手足が縫い付けられた件があったな。それのうちの一つだ」

 唐突な切り出しだったが、そこで「あれか」と肯定する。猟奇殺人という言葉が頭に浮かんで、身震いするほどの悪寒が背筋を駆け巡った。

 その出来事は、三年に渡り全国各地で犯され続けた大罪だった。死者数は総勢二十二人。日本の犯罪史上に大きな歴史を刻んだ三年間の悪夢的大量猟奇殺人。世界的にもニュースになり、「切り裂きジャックの再来」とすら言われた最悪の事件だ。マスコミも連日大騒ぎし、無差別のそれは老若男女震撼させ、不登校・不出勤を続出させる社会現象をも巻き起こした。全く手がかりのない犯人は「カニバリズムの疑いがある」ということ意外なにも残さない。一人なのか複数名なのか、テロ集団かカルト教団か、それすら分からないままだった。

――だが

「最後の夫妻の家で犯人が自殺していたという結末に終わった……」

「そうだ」

 誰もが想像を追いつかせることが出来ない結果で勝手に幕を下ろした。恐ろしいことに、風化されることが異常なスピードだった。おそらく、あまりに残虐すぎて長きに渡る追求が出来なかったのだ。

 蓮太郎の意図がわからず、要は表情を伺うと少し顔色の悪い彼が笑っているようにも、怒っているようにも見えた。

「……俺の母親は、二人目の犠牲者だ」

「は?」

「それで、浅月夫妻……京助の両親は最後の犠牲者なんだよ」

 息を、呑むことすら忘れる。

 ただ時計の針が、静寂に包まれた部屋に響く。時間の感覚が失われた要は、どれだけぼうっと立っていたのかも分からなかった。

「……なぁ、要。人は、本当に大切なものを失ったときって、頭が真っ白になるんだ。その喪失と絶望の世界で、ただ渦巻くのは、殺してやろうという気持ちだけだ」

 なんでもないことであるかのように続ける蓮太郎は要を睨みつけるように見据えた。

「その気持ちだけが俺を奮い立たせて、気丈に、強く、逞しく、生きるということを諦めさせないでいてくれた」

「……犯人を捕まえる為に警察になろうと思ったんですか?」

「そうだよ。単純だろ?」

「えぇ。でも……」

 続く二の句がなかった。言葉に詰まる。怪訝そうな顔の蓮太郎に、「何でもありません」と謝罪した。無言で続きを促す。

「俺は父親と言うものを知らずに育った。だから、母親は大切というより、守ることが当たり前の存在だったんだ。だから、警察になって、犯人を捜して、逮捕するんじゃなくて殺すつもりだった。逮捕して、手錠を掛けて、はい終わり。あとは検事様に任せよう? そんなことできるわけない。人間がもっとも苦しむ方法で殺してやることだけ、それを連想することだけが俺の生きがいで、全てだったんだよ」

 乾いた唇ですらすらと原稿を読むように口にする。口火が途切れることはなかった。まるで栓が壊れて溢れでた水のようにとどまることはない。

「……結局、俺はその全てを否定され、その目標にを他の人物に踏みにじられた」

「……水川銀二(みながわぎんじ)、でしたよね? 捕まったほうの犯人は。目撃情報だともう一人いて五年経過した今でも素性が知れないまま。手掛かりが一切無く指名手配すらできないらしいと耳に挟んだッス」

 自殺。もしくは仲間割れを疑われている。

 蓮太郎にとってどうすることもできない残酷な真実だったのだろう。そう悟ったつもりだった。しかし、彼はそうじゃないと要を噤ませる。

「奴は、自殺でもなければ仲間割れでもない」

「まさか」

――あなたが殺したんですか?

 言葉にできるわけもない質問を、彼は笑って否定した。

「横取りされたんだよ。浅月京助に、な」



――……。

 狂った男が、強靭の刃を女性に振りかざす。夫はすかさず止めに入ったが、それは虚しくも意味を成すことはない。夫は心臓の辺りを何度も刺されると、大量の血を吐いて倒れた。それでも止めようと、男に噛み付く勢いで拳を振るったが、心臓に大きな包丁を刺し込まれてしまった。

 夫は床に伏せると、陸に上がった魚のようにびくびくと跳ね、口をパクパクとひたすらに動かす。

 その様を遠くから眺める一人の男は、その『サツジン』を只傍観していた。玄関口で、夫妻が逃げることが出来ないように。しかし男は手伝うことをしない。少年のような童顔と笑みをぶら下げて、まるで近所のコンビニにでも出向くような軽装でそこにただ君臨する。

 妻は悲鳴を上げた。血に塗れた夫が、ひゅうひゅうと咽喉を鳴らして、「逃げろ逃げろ」と声にならない叫びで告げるが、やがて白目を剥いて動かなくなった。刃を握る男は、妻が泣きじゃくる姿を見て、美しいと欲情した。

 燃え滾った血が、股間に流れる。女の魅力的な肢体を包むように触れると、血溜まりの中で押し倒し、服を切り裂き、決め細やかな肌を少しずつ切りつけて楽しんだ。

 美しい顔を歪ませて、ぎゃぁぎゃぁとわめく女の首を閉める。指に力を入れるのではなく、全体重を首に押し付けるように。何度も力を緩めては、何度も切りつけてゆっくりといたぶる。妻は美しい顔を歪めて、何かを叫びながら泣いた。それはどんどんか細いものに変わってゆく。

 それをどのくらいの時間を掛けて楽しんだのかは分からないが、この女性は最高だった。

 やがて、眼を剥いたまま舌をだらりと出して呼吸を制止したとき、男はたまらず女の唇を貪った。夢中で、官能的に、生きた女にもしたことがないありったけの情熱。男の涎をぽかりと空いたまま閉じることない口内は受け入れ、溜まってゆく。

 やれやれと首を振った玄関口の男は「見付かるなよ」と一言。その場を後にしようと背をむけた。殺人者である男が死体の女を陵辱しようとしている。相変わらずの性癖だ、とカラカラ嗤う。

――残された男は、夢中になりすぎて、気が付くことができなかった。

 部屋を出ようとする男すら、あまりに静寂すぎる怒りに気がつくことができなかった。

 振り向いた瞬間に、二人の男は確かに見た。

 全てを目撃している少年が、父親に刺さった包丁を引き抜き、母親に群がる男の真後ろに立っているということを。

「……おいっ! やめ……!」

 男の制止もはばからず、少年の刃は唸りをあげた。



 そして

 

































 七月十七日 Saturday







 Aspect 浅月京助

「無事ならば、それでいいけれどよ」

 想像以上にあっさりと事実を受け止めた修二に、京助は申し訳ない気でいっぱいだった。

 京助はが帰宅すると、留守電に何本も修二から電話が入っていた。リダイアルすると、心底心配そうな声音が帰ってくる。

 幼馴染であり唯一無二の親友。どんなときも京助を支えて、そばにいてくれた。

 だからこそ、京助は普通とは異質な自分が彼のそばにいることに引け目のようなものがった。だが、修二は京助にどんな隠し事もしない。信用してくれた。それがこそばゆく、居心地が良かった。

「ごめん、修二」

 そのため、多分一番自分の身を案じてくれた修二に、これからもっと危ない橋を渡ろうとしていることを自分からは言えなかった。

 察した彼は止めなかったが、一つだけ約束を申してきた。

「京助。頼むから、俺の見えないところには行かないでくれ」

「は?」

「約束だからな」



 結局、それがどういう意味なのか、京助には良くわからないまま日が明けた。





 この田舎で唯一の祭りである盆踊りは連日の事件のせいで中止となった。夏休みを間近に土日連続で行う祭典を楽しみにしているのは子供だけではなく、今日に備えて街灯にぶら下がっている提灯やら団扇やらの装飾がなんとも切ない。例年なら賑わう駅前も今年は奇妙にがらんと静かだった。それは街ぐるみで廃墟になったかのようだった。

「廃墟、ねぇー」

 高梨杏奈が絶命した廃墟ビルは、嘗て宝石店だった。その向かいは不動産。ビルというには高さ大きさが足りない右隣の建造物は、インテリアショップ。三つは昭和六十年代に起こった大火災により一度朽ちた。しかしバブル景気が起こり、三つの建物全てを買い取った企業が一度立て直したのだが、バブル崩壊も間近になった頃完成した翌日に再び火災。結局殆どの骨組みがむき出しになった状態で工事は中止され、企業も倒産する。

 他にも、殺人事件があって人気のなくなったアパートや、役目を終えた保育園。町役所跡など、探せば探すほどに廃屋は見付かる。第二の夕張と呼ばれたこの県はなんとも発展が鈍い。

 廃墟マニアとまでは行かなくても、廃墟にただならぬ魅力を感じる京助にとって廃墟で起きる事件は全くもって迷惑である。取り壊しが次々と進む街は改造されて、大きな何かを失ってゆくように思えるのだ。

「そもそも、なんであそこなんだぁー?」

 飲み屋が立ち並ぶちゃっちな繁華街が傍にあるビル。そこは路地裏に入り組んだ場所を使わない限り人通りが目立つ。高梨杏奈の自宅から十キロ近く離れた場所だ。彼女は生前に自らの足でビルに踏み入れたのだろうか?

 京助は駅のバスターミナルに隣接する寂れた公園で鬱々と思考回路をめぐらすが、頬に貼った湿布の匂いで気が散ってしまい、舌打ちして剥がした。今朝見たとき、くっきりと青痣になっていた。

「浅月君……怪我、大丈夫?」

 振り返れば久々に顔を合わすことになる里子がいた。そちらこそ大丈夫かと、体調を心配してしまうほどの肢体のか細さと青白さは相変わらずである。

 滅多に代わることのない編みこまれた三つ編み。噂をすれば、とは言わない。そもそも呼び出したのは自分である。

「怪我がなんたらって、ギプスを脚に巻きつけたお前の台詞じゃねーだろー」

 桜色のワンピースにレースのカーディガンを羽織った彼女の額には絆創膏が貼られている。傷の治りが良いのだと、彼女は少し微笑んだ。

 京助は廃墟の話を持ちかけると「行ってもなにも分からないままだった」と里子は行動力を見せ付ける。

「あそこ、ね。警察の立ち入り禁止テープ張ってあるけれど、結構人が入っている形跡が合ったよ。もとが、ホームレスのたまり場だったみたい」

「なんだそりゃー」

 杜撰な管理に呆れた。機会があったら朝比奈に抗議してやろう。

「ホームレスの人に聞いたんだけれど、六月の二十八日に寝ているホームレスを焼かれる事件があったんだって」

 線路を走る電車の音。二人の傍でごうごうと音を立てて通過する。しばし黙って、静寂が訪れるまで灰色のアスファルトを眺めた。

「報道は小さかったけれど、一応知ってる」

「その場所、ね。杏奈の住んでいるアパートの傍の河川敷で起こったんだ」

 思わず彼女を見直せば、小さくても高い鼻の、幼さが残る横顔があった。

「まさかとは思うが、そのホームレス殺害を目の当たりにして、口封じとかー?」

「でも、杏奈が殺されるまでに二日もあいているんだよ? 変だよ」

「それでもタイミングよすぎると思わねぇーか? 七月になって暴行事件は一件も報告されてねぇーんだぞ」

 そんなことを里子に問うたところで何にもならない。愚問である。しばしの沈黙の間、BGMのように流れるのは、電車が線路を滑る音声と、踏み切りの注意音。耳を澄ませば国道を走るトラックの音も拾える。機械的で耳障りな雑音ばかりに囲まれていた。

 陽炎が立ち上る暑さの中で、二人は小さな小学校に到着する。血が足りないのだろうか、汗を拭うと込み上げる眩暈にふらつきそうになりなった。京助より病弱そうな里子は松葉杖を使っていてもしっかりしていた。彼女が言うには、なくても歩けないわけではないらしいが一応不安なので装備しているらしい。

 大きな影を作る大木が聳え立つ小学校は静かだった。京助は木陰のベンチに腰掛けている、見覚えのある背中に声をかけた。

「鏡」

 小さな鉄棒。塗装のはげたジャングルジムは使用禁止と書かれたプレートをぶら下げる。木で出来たレトロな雰囲気のベンチはニスが塗られていてテラテラと光沢を放った。真新しいそれは、何年か前の卒業制作作品のようだ。ちょこんと腰掛ける鏡友花は握った白い携帯電話をぱたんと閉じる。

「浅月くん」

 相変わらず踵を潰して履いたスニーカー。紺色のパーカーをはおり、デニム素材のショートパンツを着用している。程よく日焼けした露出した肌は里子の死人のような白さと潔いほどの大差だ。

「えーと、会うたびに怪我が増えているのは気のせいじゃないね?」

 青痣を作った少年と右足にギプスを巻いた少女。友花はじろじろと遠慮のない視線を送り込む。大きな瞳の迫力に負けた里子は、おずおずと身を隠すように京助の影で縮こまった。

「えーと、あーと? 彼女の紹介?」

「なんでわざわざお前に紹介するんだー」

 やり取りに動揺する里子は友花と同じように「彼女?」と質疑する。人見知りの里子は小柄な体をさらに小さくしていた。

 小首を傾げて揺れる三つ編み。可愛らしいしぐさではあるが精一杯の嫌悪を込めた表情を形成した。

「こいつが俺の彼女ならば、俺は自らの右手を愛していると囁きながら毎晩眠れる自信があるぜ」

 鏡友花も青筋を浮ばせて反論する。

「この男を彼氏と誰かに紹介するくらいなら、私はダンゴ虫を愛人と呼んで、てんとう虫と結婚するわ」

 なだらかな胸を反らして高らかと。京助はばつの悪そうに顔を顰め勝手に紹介した。

「こいつー、俺と同じ中学だった鏡友花。んでー、今南高校ね」

 紹介を受けた友花はちょうど顔を半分くらい隠す里子に「どうも」とはにかむ笑みを向けて会釈する。今更可愛い女の子を演じたところで手遅れだ。余計な一言のせいで鉄拳を食らったことがあるので、二度目の失敗をしないよう噤む。

「でー、この昭和の女学生的なー三つ編みっこは志摩里子。高梨杏奈のー……えーと、なによ?」

「……異母兄妹」

「へーそう……。て、え! まじでー?」

 聞き返したのは友花ではなく京助だ。慣れないノリ突っ込み。こくりと頷き肯定する。友花も身を乗り出した。

「えーと、あーと。じゃあ、あなたも大塚誠二の娘なの?」

「えっ……!」

 里子は目を見開いた。わなわな震え、ワンピースの裾をぎゅっと握り締める。もとより悪い顔色がみるみる蒼ざめてゆく。

「どうした? 志摩?」

 京助が顔を覗き込むと頭をふるった。

「ごめん、えーと、もしかして悪いこと言ったかな」

 申し訳なさそうに友花が歩みよると、里子はすっかり憔悴しきった表情で「そんなことない」と否定した。だが明らかに動揺している。京助と友花はいぶかしんで思わず顔を見合わせた。

「……なんでもないよ。……そうだよ。アレが……。なんで名前を知っているの?」

「えーと。今の、担任。杏奈と大塚先生が話しているのをたまたま立ち聞きしちゃって……。えーと。多分、学校でこのことを知っているの、私くらいだと思うけれど」

「そう……」

 すっかりうつむいて、里子はそれきり口を噤んだままだった。予想していなかった展開のあまり京助はたじろく。友花は、居心地がこれ以上悪くなるまえに、と切り出した。

「えーと、あーと? で、なんで彼女と私を合わせたわけ? 『バネ脚ジャッキー』についていいたいことがあるって聞いたから来たんだけれど」

 京助は助け舟に安堵しつつ、右手首をぐるり掌で覆い、脈を潰すように握り締めた。

「それなんだが、鏡は『バネ脚ジャッキー』についてどこまで情報を掴んだ?」

 京助は隣に腰を下ろすと、里子も座るように促す。

 友花は「何故急に気になりだしたの?」と怪訝に思ったが、最後に会ったときに散々自分が悪態を吐露したことを思い出し、肩をすくめた。

「全然わかんないままだよ」

「そうか。『落下姫』は知っているか?」

「えーと、あーと、うん」

「あれは、どーして疑わない?」

「あーと、信憑性がないよ。なんていうか、本物だとは思えない。杏奈のファンか、『バネ脚ジャッキー』を敵対している誰かが作って、噂が大きくなったんじゃない? 実際そんなに信用している人、いるのかな?」

「『バネ脚ジャッキー』と『落下姫』。都市伝説対決といわれるほどには人気みたいだけれどな」

「ばかげている」

 きっぱりと否定した。そもそも『落下姫』というもとのネタが、殺された少女が犯人に復讐していくという題材。『バネ脚ジャッキー』のような曖昧さと複雑さが無い。怪談的ではあるが、単純なそれは、噂話にしかならないと豪語する。

「なるほどねー」

 京助は彼女もまた他人とは共有しない世界観を持っていると感じた。個性的な人間が多いせいで、普通という感覚が麻痺してしまう。

「鏡は高梨杏奈を殺害した人物を『バネ脚ジャッキー』だといったなー?」

 京助の質問に、里子が先に反応した。身を乗り出し、何か言いたげに口を開くが京助は友花に気が付かれないように制止させる。そっと目配せした。

 友花はその様子に気が付かず、頷く。

 何か言いたげにそわそわしている里子をよそに京助は質疑を続けた。

「じゃあー、月館麻緒と井川勇一も『ジャッキー』に殺されたと思うのか?」

「違うと思う。だって、月館麻緒はジャッキーを味方につけて杏奈を殺させたんだって言っていたもの。だから、もしかしたら井川勇一が麻緒の言う『ジャッキー』なのかもしれないって、考えている」

「ならばここで、事件は終わったと思うのか?」

「えーと。どうだろう。うん、もしかしたらそうなんじゃないかな」

「嘘だね。お前は今でも『ジャッキー』を探しているんじゃねぇーのか?」

 意表を付かれたように、友花は眼を丸くする。里子は全ての合点が行き着いたのか、膝の上で手を叩いた。

「……仮に彼が『バネ脚ジャッキー』だとするならば、井川勇一自身の死亡理由が分からない」

「そーいうことだよ、志摩。それに、俺は生前の月館麻緒に合っているんだ。彼女は『バネ脚ジャッキー』に脅されていた。味方につけたはずの『ジャッキー』に、な」

 友花は急降下した機嫌を一切隠さなかった。睨むようにして、唸る。

「……えーと、あーと。何が言いたいの」

「確かに月館麻緒は『バネ脚ジャッキー』に殺人を依頼した。だが、それは『ジャッキー』が見てると噂の掲示板に書き込みをしただけ。つまりただの悪口に過ぎねぇー。そんなことをしているヤツはごまんといる。ただ、彼女だけ偶然にも願いが叶い、それを冗談めかしに話したら面白いほどに蔓延しちまった」

 里子は京助の言いたいことが手に取るようにわかった。友花も察しているようで、口を噤んだまま微動もしない。

「月館麻緒が、『ジャッキー』に頼んで高梨杏奈を殺した。噂を聞いたある人物は、月館麻緒に『ジャッキー』を使ってやり返そうと思った。だが、『ジャッキー』が自分の味方になるとは限らない。だから『ジャッキー』に成りすまし、『ジャッキー』のルールを使った」

「……願いを叶えてもらったら、対価を払わなくてはならない。無茶な要求をして、困っているところに救いの手をさし伸ばす……」

 里子が代弁すると彼は頷き、続けた。

「自身を『バネ脚ジャッキー』と対立する都市伝説と名乗り、『ジャッキー』の敵として戦う姿勢を見せればいい。鏡、お前はそうやって、『バネ脚ジャッキー』と『落下姫』を使い分けて……殺したんじゃないのか?」



   *



 Aspect 相模太一

 中学時代からの友人から着信が入ると思えば、見舞いではなく非難だった。

「お前、××や○○に何かしたのか!」

 憤慨する受話器の向こう側の友人は、なにかと自分をトラブルメーカーにしたがる。的外れな事件もたまに押し付けられるので野暮用かと疑った。一瞬なんのことやらと本気で分からなかったのだが、彼の言う名前は全て自分が尋問した人間の名前だった。あまりに大々的に徴収したせいで苗字を聞くだけではわからなかった。

 何とか自分は関係ないとその場を収めたが、解決したわけではない。すぐさま修二に頼んで抗議があった名前の家に出向いてもらった。電話で自分が謝罪しようかとも考えたが、聞けば友人たちは電子音に怯えるようになったらしい。

 修二は呆れつつも享受し、汗だくになりながらもそれぞれの家へ出向いてくれた。

「そもそもお前のところにかかってきた電話はどんな感じだったんだよ」

 ことを終えて携帯電話片手に病院に向かっている修二は、「どうせまた、なにかやらかしたのだろう」という苛立ちをありありと表情に浮かべる。受話器を通していることをいいことに「そうでもないよー」おどけて見せた。

「たしか『それじゃなくても気が弱い超ド級のガラスのハートの持ち主で、普通に行動していてもびくびくおどおどと挙動不審なのに、七月十四日以降いっそう酷くなったらしくてな……。呼吸一つで死にそうな状態らしい。そこで、××の親が「様子をみてくれ」って連絡が入ったんだ』って言っていた。もう一件も同じ感じ。実際、そいつそんなにその二人と仲良くないらしいから、俺に直接謝りに行かせようと思ったらしいぜ」

「死ぬ程追い詰めているだろうが!」

 通行人の目はばからず受話器に怒鳴った。太一は携帯電話を耳から遠く離して汚物に触れるように摘む。彼にとって人の迷惑も考えろ、など耳にタコができるほど言われていることだ。考えようなんて一考に思わないけれど。

 修二は飄々としている太一が眼ニ見えるようで、溜息をついた。幸薄の幼馴染とトラブルメーカーの友人に囲まれ、心労が絶えない。

「はぁ……白羽の矢に当てたのが、お前ではないというあたり、両親は友人を見る眼があるといえるな。……友人代表だと適当に名乗った俺をあっさり家に入れたのはどうかと思うが」

 修二は得意の口八丁で騙せたことに優越を感じつつも罪悪を抱いている。

 突然現れたとはいえ、「借りていたノートを返しに来ました。××さん、大丈夫ですか」と、心底心配そうな表情で、神妙とした顔つきの息子の友人(仮)を拒むことはできないだろう。

「まぁ、そう言うなよ。で、様子はどうだった?」

「二人とも完全な引きこもり。俺を相模太一のマワシモノって知った瞬間の顔は本当に怯えていたぞ。殺されるかと思った」

「はあ? 俺ってそんな悪役?」

 荒らげた言葉の刹那、太一の病室に足音なく顔を出したのは看護師だった。咄嗟に隠す。

「携帯電話使っている? 話し声聞こえたんだけれど」

 不機嫌そうに眉を顰める中年ナースがそこにいた。口煩いと名高い彼女に没収されると面倒だ。

「テレビ見ていましたから」

 愛想笑いを浮かべ、頭からタオルケットを被る。液晶画面は真っ黒だが、それを指摘しようと口を開ける彼女に向かって「寝ます」宣言をする。つまりは、出て行けという牽制だ。

 荒々しく鼻を鳴らす彼女が去ったのを確認してカーテンを引いた。

「悪い修二。 続けてくれ」

 受話器の向こう側で、自動車の音や電車の通過する雑音が耳に入る。そろそろ病院に着くと説明していることから、国道の傍にいるようだ。さまざまな馴染みのある雑音が次から次へと拾われる。

「……二人とも、お前との電話の後『落下姫』に接触されたそうだ。お前と同じような尋問をされて、気味が悪くなって無視し続けたらウイルスに感染させられたらしい」

「ウイルス? どういうものか、説明できるか?」

「カーソルもキーボードも動く。だが、背景とスクリーンセイバーに文字が流れていて……。ちょっと待て、念のため書き写しておいたんだ」

「でかした! 珍しく気が利くな。脳味噌まで筋肉で出来ていないことにびっくりだ。さすが眼鏡委員長!」

「お前後で吊るす」

 そう言いながらも受話器の向こう側でごそごそと何かをまさぐる音が拾えた。しばしの沈黙の間、蝉の声だけが病室に充満した。受話器の向こう側からも蝉の声がやかましく聞こえる。

「……いいか太一。読むぞ。『It is an iron hammer to the person who did not keep the promise. From the spring leg jack』」

「すまん。和訳してくれ」

 最後のほうは被っていた。あまりに瞬時のことだったので、「少しは考えろ!」本日何度目かになる激昂をとばす。怒鳴りすぎて少し酸欠気味なるくらいだ。

「お前。よく東高校入学なんて難関クリアできたな。……『約束を護らなかった者への鉄槌だ。バネ脚ジャッキーより』だ」

「バネ脚ジャッキー?」

「そ。接触してきたのは『落下姫』なのに、ウイルスは『バネ脚ジャッキー』のものだ。ま、そういうわけでお前の分の謝罪くらいはしておいてやったよ。二人ともお前のことを『バネ脚ジャッキー』だと思い込んでいて、それを弁解するのに苦労したけれどな」

「うん。それについては素直にすまん。お疲れ修二」

「……なんだって、俺の周りには人に悪影響を感染させる野郎ばかりなんだよ……。悪いが電池がそろそろやばいから切るぞ」

「あ、おい!」

 制止も虚しく不通音が流れる。太一は「『バネ脚ジャッキー』か」とつぶやくと髪をぐしゃぐしゃかき混ぜた。ピンをしていないので長い前髪は垂らしたままで鬱陶しい。

 既に日は沈みかけていた。夕日は相変わらず綺麗だったが、眺める気にはなれなかった。

 太一は松葉杖か車椅子がなければ満足に便所へもいけない。大きな悔しさと劣等感に歯を食いしばる。

 なんとなく、わかる。そろそろ終焉だ。近いうちに決着がつく。だが、自分はその瞬間を目の当たりにすることもできなければ、エンドロールを下ろすことも、傍観することも出来ない。

「畜生。相模太一のままでは、やっぱりただの情報屋のままかよ……」

 悔しそうに、携帯電話を握った。すると、背後から「よう」と聞きなれた声音がする。立っていたのは修二だった。

「修二お前いつから」

「さっきついた」

 悠長な様子で眼鏡を正すと、太一の携帯電話を奪うように取り上げ、有無を言わさず、タオルケットの中にそれを潜り込ませる。怪訝に首を傾げれば、親指が示すのはドアのむこう側。

「この病室、あのおばさんに狙われているぞ。俺が入る前も出入り口でうろうろしていた。右手になに持っていたと思う?」

 小声で、悪戯を思いついた子供のように耳打ちしてくる。

「青酸カリ? 硫化水素?」

「アホ。ビニールだよ。透明の」

「ってことは薬か」

「……たんまり没収した携帯電話だよ。あの人、入院患者の電話を回収してはメールボックスとかを開いて一通りプライバシーを踏みにじった後に返却するって噂だぜ」

 修二の妹の小田切優子は体が弱く、この病院の常連だという。長年通い続けたせいで、勤務している看護師や医師に少しばかり詳しくなったそうだ。

 それにしても、と肩を落とすほどに呆れる。見舞い品を用意したわけなのだが、想像以上に元気なので安心するというよりもどこか落胆してしまった。

 修二は持ってきた紙袋から白桃を取り出すと紙皿や小さなナイフを準備した。無造作にぶら下げていたくせにそれは傷んでいない。

「おかまいなく」

「俺が食いたいだけだ」

「さいですか」

「一応詫びに持っていったんだよ。それの残り」

「相変わらずマメな男だね」

 膝に乗せられた白い紙皿。白桃は、いとも簡単に皮を脱いでゆく。くるくると円心を描き、熟れた証拠の透明の汁を零しながら、つるりぬるりと。手馴れた様子で、鮮やかだった。太一は細かく削がれ、ナイフに突き刺さった桃をぐいと差し出される。鈍く銀色に輝く刃が覗き、呆気に取られた。

「……普通、人に刃物を向ける馬鹿がいるか。怪我人だぞ」

「横から食えよ。爪楊枝がもったいねぇし、手で触るとべたべたして気持ち悪いだろ」

 そう言いながら自身は手掴みで頬張る。汁が白いシーツに滴り、あわてて刃先を避けて歯を立てる。それは甘く、よく熟していた。素直に美味いと感想を述べれば「だろ?」得意げに笑う。二つ目は指で剥ぐことが出来そうなほど熟れている。

 男同士のあーんなんて気持ち悪い。本来なら指摘の一つも入れてくれるだろう京助は一度も病室を訪れていない。ただ警察から釈放されたという事実だけはその日のうちに耳に挟んだ。

「……怒ってる? 修二の表情は崩れないから分かりにくいんだ」

「それは、京助が警察にお縄になったのを庇わなかったことか?」

「ほかになにかあるのかよ。意地わりぃ」

 ぐい、とまた差し出される。先端にナイフの刃が伺えないことが余計に恐ろしい。

「仕方が無いんじゃないのか? 京助だって自業自得なわけだし。昨日の電話では元気そうだったぜ」

 それは親友とは思えないほど薄情にも聞こえるが、信頼しているから余計な心配などいらない、と見せ付けられた気がして、眼をそらす。どうしようもない羨ましさが、僻みと妬みのようで自分の無いものねだりを恥じた。

「だいたい、あいつバネ脚ジャッキーに狙われているらしいよ」

「は? なんだよそれ」

「過去をバラされたくなかったら、高梨杏奈が自殺ではないことを公表しろって、な。全く意味わかんねぇ」

 嫌悪に顔を顰める。そんな表情すら絵になるほど美景な修二を見て、太一は己をひどく惨めに感じた。しばし黙り込むと、「どうした?」と顔色を伺われる。蒼白となり、少し紫帯びた唇を、震わせた。

「修二……こんなときに言うようなことじゃないんだけれどさ。『バネ脚ジャッキー』って……俺なんだよね」

「……は?」

 ――嘘だろ? とは聞き返されない。唖然と固まっている。膝に置かれた紙皿が零れ落ちそうになり太一が慌てて止めた。

「……マジ?」

 あからさまに引きつった顔がずいと近付けられられ、怯んだが「マジ」と頷いた。

「じゃあお前」

「今回のことには関与してない!」

 修二が何を言いたいのか、分かっていた。

「その前のホームレス暴行事件を糾弾したのも、……俺じゃないんだ。少し前に、人に頼まれ、学校裏サイトや荒し……不法書き込みなどを削除したりウイルス感染させたりしていた。その頃、ネット都市伝説って呼ばれ始めてさ……。正直悪い気はしなかった」

 しかし、ことはどんどん大きくなり、多くの人が『バネ脚ジャッキー』と接触を求めるようになった。ジャッキーは凄腕ハッカー。ジャッキーはどんな願いも叶えてくれる。ジャッキーは弱者の神。――根も葉もない噂がそれこそウイルスのように蔓延し、やがて

「本当になったんだ」

 太一よりも優れたハッカーが『バネ脚ジャッキー』を噂通りの英雄にした。つまり、ジャッキーを名乗った第三者が現れたのだ。

「俺なんかじゃ敵うわけないんだよ。だって犯罪を一つ解決するなんてありえないじゃん。俺が本物なのに、最初のジャッキーなのに……負けたんだ」

 偽者に負けた屈辱。

 それ以上に、絶望するほどの力量の差を見せ付けられた。顔も知らないその人間は、太一から『バネ脚ジャッキー』を奪ったのだ。情報屋と呼ばれ、どんなに正確なそれらを収集したとは言え高校生にできることなどたかが知れている。だから自分にできることを最大限に試してみようと思った。自分にしかできないことをしているつもりだった。

「……太一は『バネ脚ジャッキー』を取り戻したかったのか?」

「うん……志摩のこと心配したのは本当だけれど」

 太一が恐れたように、修二は軽蔑の色を見せなかった。ただ、そうか。と頷く。

「それに俺、ずっと修二のことが羨ましかったんだ」

「俺が?」

 怪訝に、そして胡散臭そうに顔を顰めたので少し憤慨する。からかっているつもりもなければ、誠心誠意の本音を疑われたのだから。

「修二と京助って理解できないような繋がりっつーか、絆っつーか……。出会った年数が違うだけなのに、俺だけ蚊帳の外じゃん」

「俺にはそんな風には見えないぞ。だいたいお前は京助と違って顔が広いんだから友達なんていくらでも……」

 生温い風に煽られると皮だけになった桃の香りが充満した。爽やかな香りと対照的に、難しい顔して首を捻るばかりの修二は、心底理解できなそうにまじまじ太一を眺めている。無遠慮な視線に苦笑いで返した。

「京助は俺には本当のことを言ってくれない」

「太一?」

「あのとき、俺が殴ったのって、嘘付くなって意味もあったんだ。俺だって馬鹿じゃない。あいつは、嘘つきだ」

――誰よりも、自分と向き合おうとしない嘘つき。

 利益を生まない嘘。自分を大きく見せるためではない。誰かを護る為の、自己犠牲の嘘。

 その全てが、太一にとって気に入らない。

「一緒にいた月日なら修二に敵わない。でも、俺だってそれなりに仲良くなったつもりでいたんだ。……なのにあいつ。俺には本音、話してくれないんだって……ショックだった」

 修二が口をぽかんと空けたまま、沈黙が降りる。ヒグラシの鳴き声と、風が木々をすり抜ける音ばかりがしばし流れて……。赤面した太一がいきなり「あーもう!」と叫びタオルケットに包まった。耳まで真っ赤にしていたことを目敏い修二が見逃すわけも無く。

「それ、ヤキモチだよな?」

「わ、悪いかよ!」

 タオルケットの中でもごもごとする姿はハムスターのようにも見えて可笑しかった。

 天真爛漫で素直。トラブルメーカーの癖に人に好かれる太一は京助とは真逆に等しい。

 だからこそ、憧れを抱いたのだろうか。表情は豊かでも、滅多に子供っぽく拗ねたりしない彼の新しい一面に自然とほころんでしまう。本人としては相当恥ずかしいのか「ガキくせえ」と自己嫌悪していた。修二はため息をつくと「俺だって、何でも正直に話してもらっているわけじゃないよ」フォローではなく、素直に答えた。

「京助には昔からそういうところがある。何でも背負い込もうとして、誰にも理解されようとしない。だからどの道、今回のことは京助に必要なことなのかもな。――あのときは、ついかっとなって売り言葉に買い言葉で手が出たけれど」

 修二がべたべたしている指先を、ウェットティッシュで拭えば、想像以上に暑かったのか、それともまだ恥ずかしいのか赤面したままの太一がタオルケットを吹っ飛ばして向き直る。

「修二は京助のこと止めないのかよ?」

 事件に取り組む気になった京助に肯定している彼が、不思議で仕方がなく恐る恐る伺う。巻き込もうとしたことへの罪悪と、己の無知さを悔いて顔をまともに見ることができなかった。

「なんで? もう今更だろ。俺もここまで来たら志摩に全面協力するつもりだし」

 なんでもないことのような二つ返事。あまりにあっさり腹を決めているため寧ろ不安になった。

「なんでって……。また親友が殺人事件に巻き込まれるかもしれないんだぞ?

「だから同情するのか? 巻き込もうとしたくせに? 今更何もなかったようにあいつをそっとしておくのか?」

 もっとも触れて欲しくなかった痛恨の一撃。彼に言われなくても、己の無知を散々呪っている。

「京助が恐れているのは、志摩が犯人に復讐することだ。……はじめから誰にも協力を求めてなんかいない。自分が体感した罪悪を志摩に経験させたくない己のエゴと正義のために、勝手に全てを一人で完結に導くつもりでいる」

「そんなの! 自己犠牲と自己満足じゃねぇかよ!」

 身を乗り出せば、落ち着けと宥められた。それは呆れている様子ではない。寧ろ太一に同調しているようで静かに怒っている。

「そうだよ。だからお前があいつに対して苛立った気持ちは分かる。殴りたくなる理由もな。……昔からそういう傾向がある奴でそういうところが大嫌いだんたんだ」

 吐き捨て、拳を握った。銀縁のフレーム眼鏡の奥にあるのは、あからさまなむき出しの嫌悪。その表情は太一ですら見たことがない怒りだった。

 静かで、青く煌々と燃える強かな灯火。酷く冷たいのに、愛情ゆえの切なさがある。修二にしか分からない、哀しくも寂しい愛情と憎悪があった。

「京助は無意識にいろんなものを諦めている。死にたがっているわけじゃなくても、死んだように生きることを望んでいる」



 人を殺した過去。

 殺人犯を殺した過去。



 それが何故そんなにも京助を苦しめたのか。太一には理解できない。

 見方を変えて無理やりに考察するならば、被害者遺族たちが犯人への反省を、謝罪を、裁判での叱るべき裁きを邪魔した後ろめたさなのだろうか。

 それでも理解できない。両親を殺害した外道を殺して何が悪い。何の引け目がいるというのだろうか。

「わけわかんね……。京助だって、被害者なのに……」

 世間が彼をどんな眼でみるのか。どんな眼で見たのか。太一はそんなものを知りたくなかった。

 修二は目を伏せたまま、静かに続けた。

「母親を殺された男はな、犯人を殺すという復讐心から刑事になった。父親を殺された女は、裁きを与えるために検事になった。……それぞれが、事件を踏みにじり、そこから理由をつけて立ち上がり、頑張ろうとしていた」

 歪んだ理由。

 正しくない選択。

 それでも、そうでもしないと、血でぬかるんだ大地の上に立ち続けることはできない。そう悟ったときから、決意は固められたのだ。

「人間は、お前や俺が思うほど強くなんかないんだよ、きっと。目の前にした真実だけでは、生きられない。自分のためだけに強くなれないから、何か理由が必要なんだ。……その理由を、京助が殺したことで失わせた」

 人に疎まれる。嫌悪される。その視線がどんなに残忍なもので、耐えがたいものであるか修二も太一も知らない。京助だけが横取りし、果たした復讐の後に待っているものは、罪悪と罰だった。

「報道機関では、犯人は京助の両親殺害後に自殺したことになっているだろ? もしくは、現場にいたらしいといわれる不審者がもう一人の犯人で、仲間割れしたかもしれないと。実際のところ京助が犯人である水川銀次を殺害した目撃者がいないことと、京助の精神状態が崩壊寸前だったことから、警察がそう発表した。小学生の京助が自分で殺したんだ、と言っても何の説得力もなかったし、証拠もなかった」

「じゃあ、実際京助が殺したかどうかなんて」

「あぁ、わかっちゃいない。てめぇの両親の惨殺死体を目の当たりにして、発狂した小学生の発言なんて誰が信じると思う?」

 確かに根拠のない言葉である。誰もが錯乱したせいだと思うだろう。それでも、誰が好き好んで「自分が殺した」などと虚勢を張るものか。

「事件の後、京助はな、被害者になった全ての人間に会いに行き、ことの真相を話すと言い出した」

「なんでっ! そんなことしたら何言われるか分からないじゃないか!」

「俺も叔父も止めたんだ」

 京助がしようとしたことは、将来どころか現在の立ち位置さえ危うくさせることだった。だが、それを発言したときから、彼は将来なんて諦めていた。自ら過去に縛られることを望んでいたのである。

「……結局、全員とは会えなかった。ちゃんとマトモな会話を成立させたのは五人だけ、……らしい」

 精神異常になった被害者は「この人殺し!」と発狂した。うんうん頷いて理解してくれた素振りをみせた後「もう二度と現れないでくれ」と拒否した者。「ありがとう、殺してくれて」と手を取って喜ぶ者。

 京助は泣くことも嘆くこともせず、それが当たり前なんだと受け止めていた。

「……狂いそうだったのは、同伴し続けた叔父や、話を聞いているだけの俺のほうだった」

 コントロールできない感情が溢れ出る。支配することができない感情が決壊する。

 醜いばかりの人の思考に幼い少年はどうして向き合い続けることを望んだのだろうか。自分に対する裁きだと決め付け、何故許しを請わなかったのか。

 両親を殺した人間を殺すことに、何の引け目がいる。何故殺してはいけない。――殺人が犯罪だからか。

 きっとそうではない。多くを殺した者も、人間であるから、人間を殺したということ事態が、京助に大きな罪の意識となっているのだ。

「わけわかんね……」

 だがそんな理論、納得など行くわけがない。

「人が生きることなんて、間違いばかりを繰り返し続けることみたいなものだろ」

 過去から這い上がることができないのは、這い上がる気力がないからではない。這い上がってしまったら本当の意味で穢れてしまい、殺人を犯した自分を享受することになってしまうからだ。だが、理不尽すぎる環境の中で、京助自身が誇り高く生き続けることを諦めさせなきゃならないことなんてない。

 だが、彼に何をしてあげればよいのか、わからなかった。無力を目の前にして、悔しさにタオルケットを握り締める。

「蔑むな、あいつの問題なんだから。あいつが変わるのを、俺たちは待つしかない」

 修二は冷静に告げる。それは、俺たちにはどうしようもないことだと宣告したのと同じことだ。

「……人間が、そんなに簡単に変わるかよ……」

「変わるさ」

 二つ返事の即答だったが、はっきりと断言する修二は強く、頼もしかった。

「変わる。人間は、生きていれば必ず変わる」

 信じることしかできないけれど、信じなければ何も始まらない。それが覚悟なのだと知ったとき、二人はどちらからとなく微苦笑した。

「俺たちも腹ぁ、括るしかねぇんだよ」



   *



 Aspect 浅月京助

「友達のこと疑うって、どういう気分なの?」

 薄暗くなった空。友花のいなくなった小学校の校庭に、いつまでも残っていた二人はぼんやりと上の空のまま時間の流れを感じていた。ベンチからやっと重い腰を上げると、「帰るか」の合図で里子の自宅に向かう。その道中、ほぼ会話はなかった。

「いい気分じゃねぇーよ」

「……ごめん。責めているわけじゃないの。ただ……」

 二の句を詰まらせた里子が松葉杖をに頼りながら背中を追いかける。頭半分ほどしか差のない身長だが、とても背中が大きく見えた。

「浅月君は、私のことも疑っていたよね?」

「お前が『落下姫』だと思ったよ」

 ばれていたのか。京助は溜息をつくと包み隠すことなく吐露する。

「いつから違うと思ったの?」

「お前、昨日俺と電話で話したときに『バネ脚ジャッキー』に手助けされたって言っていたじゃねぇーか。『ジャッキー』は都市伝説の頂点に君臨することしか考えていねぇー。だからほかの都市伝説なんて蹴散らすと思った。つまり、『落下姫』には協力しねぇー」

 ヒグラシの盛大な合唱で聴覚が遮られる。自然と声の音量もあげた。これだから田舎は、とここ以外に住んだことがないくせに舌打ちをする。

「私が嘘を付いているとは思わなかったの?」

「単純に、信じたかった。だから今日同伴させたんだー。鏡の事だって信用している。だから鏡に同伴してもらった」

 それだけのことだ。短く告げると疑ったことへの謝罪もなく、京助はぼんやり空を仰ぐ。蝙蝠が羽ばたく夕闇に、豆腐屋の笛が耳に付いた。

 空に星はなかった。泣き出しそうな分厚い雲に覆われている。蒸し暑く、たいそう過ごしにくいべたべたとした嫌な空気に包まれる。生温い風に踊る里子の桜色のワンピースの裾は、ひらりひらりと踊りながら脚に纏わり付く。

「悪かった」

「え?」

「鏡。悪気はねぇーと思うから、許してやってくれねぇーか」

 里子はいきなりのことで一瞬何のことだろうと戸惑うが、すぐに下腹に疼く嫌な感情が込み上げて察した。記憶とともに、今にも思い出しそうな、アルコールの臭い。

 ……あの、男のことである。

「大丈夫。気にしていないわけじゃないけれど」

 ぽつぽつと点灯する街灯。ちらちら頼りないそれらの光の下。灰色のコンクリートの上。里子は誰も視界に写らないこのひっそりとした場所に、世界で二人だけ取り残されたような気分になった。馬鹿らしいと頭を振るう。いつの間にか、ヒグラシの声が聞こえなくなっている。時間は刻々と流れているようだが、足早に帰宅したところで何もない。

 里子は、喉の奥が息苦しくなるような感じがして、ひどく窮屈な気分だった。自分の抱えた闇が、今になって膨大している。苦しくて、悲しくて、悔しくてたまらない。もう自分ひとりで抱えることはできそうになかった。水道管が破裂してしまったかのように、言葉があふれ出してゆく。自分でも無意識のうちに口を開いていた。

「……人を殺そうと思ったことがあるの」

――京助になら話してもいいだろうか。

 発言して良いワードではないと知っておきながら、話さずにはいられなかった。逃げてしまうのではないかというわけの分からない不安のあまり、京助の服の裾をぎゅっと掴む。彼は払わすに享受した。

「私は、杏奈は、二人で、殺そうとしたの」





――……。

 それは七月十四日。椿屋を訪れたときに唐沢黒奈が口にした言葉だった。



「……お前はいいね、純粋な気持ちを一切持たずに、彼女の死を労わるヒロインを演じることが出来るから」

 彼女は里子の反応なんて気にせずに続ける。

「お前にとって只の共犯者に過ぎなくて、利用する価値の高梨杏奈。その死をお前がほじくり返す理由は……これだろう?」

 やめろと、叫びそうになった。胸が張り裂ける思いだった。

 さぁっと引いた血の気。冷たい指を絡ませる。氷のように体温を失ったそれらはじっとりと嫌な汗で湿っていた。黒奈は黒衣からそっと掌で包めるくらいの『何か』を取り出して、メジャーを伸ばすように引っ張る。――ネガフィルムだった。





「なんで、今さら蘇るのよ。……過去なんてただの記憶に過ぎないのに」

 里子は一通り思いふけると、あぁと小さく嘆いた。

 京助の手を、おずおずと裾から伝うように握る。想いきり爪を立てた。一度も彼の顔を見なかった。彼がどんなふうに自分を見ているかなど、知りたくもない。京助には悪いが、話を聞いてくれる人間ならば正直誰でも良かったのかもしれない。ちょうど良く、隣にいた京助を掃き溜めに選んでしまったのは運でしかない。

「ねぇ、お願い」

「……なんだ?」

「懺悔させて」

 京助の掌は案外小さく、そっと握ると体温が伝わった。それに身をゆだねるようにして、一つゆっくり瞬きをする。子供に絵本を読み聞かせるような優しい声で『懺悔』をはじめた。

「……――。私と杏奈は望まれず生まれた子供だったから、望まれて育つべきだと、あの男に言われたの。それが具体的にどんなことかも知らずに、二つ返事で享受した」

「……脅されたんじゃねぇーのか」

「違う。寧ろ、自ら望んだの。望まれる子供になれば、愛してもらえると思ったから」

 内臓ごと吐き出したいほど、むずむずする。それほどに嫌な記憶でしかない。改めて言葉にすればする程、自分達はどうしようもなく愚かだった。

「私たちは淫乱な母の股から落とされ、ロクデナシの父親を共有した姉妹。かんばせがいくら似つかなくても、母親が認めなくても、父親に引き連れられて出会ったときから、互いが姉妹だと気がついたよ。だって、おなじ境遇の……体に染み付いた腐った臭いがするんだもの」

 世界で一番嫌いな臭い。アルコールとニコチンが混ざり合って、おまけに皮脂まで漂ってくるような……。抱きしめられるたびにそれを感じる。はたまた、外で会うアレは、オーデコロンに包まれていた。そこからは臭いを嗅ぎ取ることはできなかったが、吐き気を催すほどに嫌悪を感じた。

 ……腐敗した臭いを互いから感じても、愛情に飢えた少女たちは互いを愛さずにはいられなかった。

 助け合わずにはいられなかった。

 一人は普通であるために。

 一人は異常であるために。

「……幼女趣味の父親に、体をいじくりまわされる『杏奈(いけにえ)』と、その場で生贄となる姉妹を傍観し続ける『里子(ぼうかんしゃ)』。あるいは、逆」

 杏奈(あんな)になる者が生贄と決められ、交互に里子(さとこ)と杏奈を共有し、互いがどちらか分からなくなるほど入れ替わりを続けた。誰に決められたわけでもない、暗黙のルール。

「……なんだよそれ」

 そんなふざけた話があるか。

 京助は驚愕と衝撃のあまり怒りさえ込み上げてこなかった。正常に脳が機能していないのか、上手く言葉を咀嚼することを拒んでいる。

 そして里子もまた、京助の言葉を拒んだ。黙って聞いて、と人差し指を唇にそっと当てる。妖艶で、美しく、曇り夜空の下で、これほどにない色香を漂わせた笑みを向けた。

「ある日、どちらか傍観をする側の少女が犯される少女を撮影したの。そして脅したのよ。晒されたくなかったら自分たちの目の前から消えろと」

 里子は黒奈の手の内にあったネガフィルムを思い出す。どうして彼女がアレを所持していたのかは分からない。あの日、二人は写真とフィルムをそれぞれ分けた。

「どちらがどっちだったのか、もう忘れちゃった。でも、ずっと計画していたの。いつか二人で逃げ出そうって。だから二人で、どうやったらあいつを殺せるかばかり話あったの。でもね。大きくなるにつれて、自分たちの非力をありありと見せ付けられるようになって、行為もエスカレートして……。殺すことは無理でも、今から逃げようってことにしたの」

 里子は急に両手を広げると、くるりとその場で回った。松葉杖がコンクリートに落ちる。桜色のワンピースがふわりと舞った。

「その後が笑えるんだよ。自分の娘を強姦する父親が教師だって、私たちは後で知ったから。聖職者に属していながらなんてザマ」

 あの時、手を繋いで、写真を奪おうと殴りつけてくる『ソレ』に向かって、姉妹はただ叫んだ。

「死ね」と。

 たった二文字の単語を、それしか知らない赤子のように繰り返して。

 殴られても決して手放さなかった。

 蹴られても決して従わなかった。

 どちらかが持ち出したカッターナイフが『ソレ』の右手に突き刺さり、ひるんだ隙に叫んだ。「警察に突き出されたくなかったら、今すぐ消えろ!」「これまでもこの先も、絶対許さない!」男の影に怯えながら、姉妹は成長した。別々の道を選び、狭い町で、二度と顔合わせることがないように思慮深くなりながら。

 だから里子は杏奈を失った全くの被害者ではない。『ソレ』がまだ、杏奈のそばにいるかもしれないとわかっていても助けに行かなかった。杏奈の異変に気が付いていても見てみぬフリをした。杏奈を見捨てたのは里子も同じことだ。

「……駆け引きのない、無償の愛情を求めたの。愛されることを望みながら、愛することを知らないくせに」

 二人は嘗て、寂しさを愛に変えた。愛すれば愛するほどに、愛情ではなく同情を与えてもらえた。

「私は杏奈から解放されたくて逃げたくせに、今になって助けたくて、真実を知ろうと思った。懺悔も贖罪も望まれないことかもしれないけれど、全てを知っている私が、これ以上高梨杏奈を見捨てるわけにはいかない。もう、片割れの姉を孤独のままにしておきたくなかった」

 紛れもなく、己のため。嘗て彼女を守ることができなかった自分のために、里子は死んだ高梨杏奈を護ると、棺の中で体温のない彼女に誓ったのだ。

 一切の涙は、彼女の真実を掴むまでは見せない。

 一切の弱音は、彼女を救うまで吐露しない。

 自分のためだけに誓いを立てた。

「自殺ならばそれでいい。事件ならば犯人を警察に突き出す。……それだけだったのに」

 里子は自分の過去の非力を咎め、背負い続ける為に。生きる為ではなく、死んだ姉妹に懺悔し続けるために立ち上がったはずだった。ただそれだけだったはず。

「なのに、どうしてアイツが今頃私たちの前にいるのよ! どうして今になって現れるのよ!」

 湿った夜に、張り裂けそうな声が長鳴りする。咆哮は哀切帯びているくせに発狂しているようで……歪んだ里子の表情はもとの穏やかな性格を一切感じさせなかった。

 コンクリートの上にただ君臨して、膝を折って崩れた里子は呻く。京助がおいと声をかけて肩に手を乗せれば、彼女は震えていた。

「どうしよう。どうしよう浅月君。このままじゃ私、杏奈の事件なんて関係なく大塚誠二を殺しそうだよ」









































 七月十八日 Sunday







 Aspect 浅月京助

 眠った感じなんてろくになかった。だが、それでも朝は来る。蒸し暑く、不快な湿気に包まれて迎える翌日は鬱々とした雲に囲まれている。

「朝からすみません」

 京助は鳥の巣のようにはねた頭の要に声をかけた。彼は迷惑そうにしたわけではなかったが、表情を崩さずに京助を一瞥もしなかった。

「いや……別にいいけれどさ。何で朝比奈先輩じゃなくて俺をご指名なんスか?」

 要の運転するミニバンの後部座席は人が乗れるような状態ではなく乱雑としている。シルバーのそれを見たとき、所謂覆面パトカーか、とまじまじ眺めたが違うようだ。かろうじて座れる助手席に居心地悪そうに収まる京助はもごもごと口籠った。

「そのー……なんて言うかー」

「ま、あの人横暴だもんねぇ」

 要はとばっちりでお咎めを食らったり、どうでもいいことに巻き込まれたりしていた。そのくせ蓮太郎は自分が原因であることは都合よく忘れる。これまでに、子供のような先輩に愛想を付かしそうになること数多し。正直あまり良い印象を持っていない京助の電話があったときも「また何かやらかすつもりかあの男!」と身構えた。

 飄々としているというよりも、意図的に上の空を気取っている。

 それが要の、京助に対する第一印象だった。

 無理やり自分を押し殺し、外界からの影響を遮断して己の殻に引き篭もろうとしている。その理由が、彼特有のつらい過去が原因と知っても、要にはどうしても京助が気味悪く思えた。

「つーか、『バネ脚ジャッキー』絡みだしー……」

「え?」

「俺脅されいているんです。過去をバラさられたくなかった従えって。あの人、……朝比奈さん。そーいうことに対して合理的判断に欠けそーじゃねぇーですか」

 なんでもないことのように答える京助に、なんとなく溜息が漏れた。

 昨日帰宅してすぐ京助の元に届いた、『バネ脚ジャッキー』からの二枚目の手紙は「高梨杏奈ノ廃墟ビル屋上ヘ七月十八日十時マデニ来イ」と端的にプリントされていた。

 今更、と疑り深いと感じたのが正直な感想だが、無視できるほど根性は据わっていない。罠覚悟で腹を決めた。

 事情があるとはいえ、事件現場に踏み入るわけなのだから、警察に連絡を入れることにした。皮肉にも、一昨日の件で面識のある人物が二人も出来た。心強い味方となるかは別として、気休めぐらいにはなるだろうと立ち入り許可の電話を入れたのである。要が対応しなければことがあっさり進むことはなかったと思い、二つ返事で了解を得た為拍子抜けしたが感謝する。危険を回避する為に立ち会うとまで申し出てくれた。



「ところであのー……なんでこんなに荷物……」

「あぁ、俺はまだ強行犯係に配属されて日が浅いんス。だから麻薬取締時代に使っていた資料とか、まだ片付けが終わっていなくて」

「へぇー……ってことは、厚生労働省だったんだー」

「まぁ、どこにいても結局今とやっていることは変わらない気もするッスけれどね。でも、考えてみると……この荷物のほとんどが朝比奈先輩の私物ッス。触らないほうがいいッスよ。何出てくるかわからないッスから」

「……」

 どういう状況で、どういういきさつで荷物が積まれたのかは知らないが、要に同情してしまう。

「雨、降りそうッスね……」

 砕けた敬語のようなものはどうやら要の癖のようだった。年上の、それも頭一つと半分くらい背丈が異なり二枚目の男性が使うには違和感があった。曖昧に返答する自分はさぞかし愛想の悪いガキに見えただろう。

 目的地がフロントガラスに映し出されていく。薄汚れた灰色の外壁。国道の賑わう自動車の背景となるそれの周囲はまるでそれを避けるかのように、だだっ広い田んぼが続くだけ。のっそりと君臨する、周囲の空気でさえ重くさせるような暗い場所だ。

 車の通りの激しい国道にて、混雑のあまり要は舌打ちした。脇に反れようとしても上手くいかないので、信号待ちの参列に参加する。自動車を運転する機会は多くても、交通量の多いところで四斜線道路の右折などには余り慣れていない。

 京助は車内の蒸し暑さのあまり口元の絆創膏を剥ぎ取った。痒かったのである。まだ肉色と血色の伺える傷。青タンを摩る。

「要さん。『バネ脚ジャッキー』って何者だと思いますかー?」

「……さぁ。正直想像もつかない」

「何が目的で、俺なんかに近付くんだか……」

 要はぽつりと、自暴自棄になったようにぽつりと呟く隣の少年を一瞥した。そこにある端整な顔立ちは、どこか苛立っているように見える。

――日本全土を震撼させた大量猟奇殺人の犯人を殺害したことで、全てを強制終了させた少年。

 実際、迷宮入りしたその事件は、死亡した水川銀二や逃亡した男のみが犯人とは考えにくい。日本各地で発生する事件は、明らかに移動が不可能な距離で数時間内に行われたものもあった。おそらく、犯人はまだ何人かいるのだろう。溢れかえる人間の渦。その中で、同じように時の流れに従いながら、鉄の臭いを侍らせて。

 考えるだけで嫌気がする。要は頭を振った。

(浅月京助は、いつ他の犯人から命を狙われても可笑しくはない)

 例え相手が仲間意識の強いメンバーでなくても、京助はもっとも恐れるべき敵だ。狂った殺人集団にとって子供一人、浅月京助を殺すなど簡単なこと。勿論それを京助自身理解している。

「……君はさ、周りの人を頼ればいいんじゃないの?」

 雨が降りそうだ。曇天の空はいささか、昨日から引き続きぐずっている。

「朝比奈先輩は、なんだかんだ君を心配しているっス。たしか、転落事件に巻き込まれた志摩里子さんや相模太一君も友達なんだろ? 小田切修二って子は、君の事を心配して署に電話をかけてきたくらいだ。別に、君一人が『バネ脚ジャッキー』と戦う必要なんてない」

 なにについての投げかけか、要自身わからずに困惑する。ただ、短い時間、ろくに会話も成立していないこの相手のことを、自分が確かに気に入らないと感じたのは本当だ。

 京助は愛されているくせに、その愛情から目を背けている。誰からの助けも放棄する。要には、今を生きて欲しいと願っている全ての思いを馬鹿にしているようにしか見えなかった。

 京助は突然の閑話休題に戸惑いながらも、窓の外を睨んでいた。

「どーして頼る必要がありますか」

 微苦笑するしぐさまで、要には偽りに見えた。子供の癖に、なにもできない子供の癖に背伸びして大人を演じているような……。演じる必要もない役目を自虐のために選択しているように。

「彼らは、多分頼って欲しいと思っているッスよ?」

「自己満足に他人をつき合わすなんて迷惑も甚だしいでしょーに」

「……そんな風に思わないッスよ」

 慰めのつもりではなかった。だが、京助は生ぬるい返答に苛立ちを覚えたのか、とげのある声で切り出した。

「要さんは、どーしてそう思うんですか」

「は?」

「あいつらに俺は、必要ねぇんだよ。俺がいたって、余計なことばかり……結局迷惑をかけるだけだ」

 京助は、自分に言い聞かせているかのように呟く。

 自嘲するように、自己嫌悪しているように。

 要から見ると、それは京助が自らに「死ね」と暗示をかけているようで……ひどくひどく、腹立たしかった。

「どーせいたっていなくたって変わらねぇ。どっちにしろ、今回のことくらいは自分で何とかしないと」

「だったら今すぐ此処から降りろ!」

 怒鳴った要が一番驚くような、外にも聞こえるくらいの怒声がついに腹の奥底からこみ上げた。拳をハンドルに打ちつけたせいでクラクションが響き、乱れる走行。無論スタートしたままの自動車で回転しているタイヤ。止めるつもりは一切ないようだ。「無理だろ」なんて常識的な反論ができないくらいの怒気が伝わる。意表を付かれて眼を見開いている京助の視線を感じつつ、フロントガラスの先を噛み付くように睨んだまま続けた。

「自分一人なんでも出来るから誰も頼らない? 自分がいなくなってもなにも変わらない? 迷惑ばかりかける? そんな自暴自棄と自己完結と自己犠牲を押し付けられている他の人間の身にもなってみろ、そのほうが迷惑だ!」

 息をつく間もなく、マシンガンのような途切れない羅列が飛び出た。滅多に人を怒鳴ることなんてしないくせに、交友の深くない壮年相手にムキになっている自分が可笑しく思えても止まらなかった。

 廃墟ビルの脇。対向車が来たらバックしなくてはいけないくらい細道を荒々しい運転で突き進み、乱暴に停車すると唖然としている京助の胸倉を掴みあげる。

「いいかガキんちょ! 生きてりゃ必ず誰かと関わる。それが自分の好んだ相手ではなくても、不快で望まないことでもだ。お前の胸倉を掴む俺がお前の視界に写るように、思い通りにいくことなんかねぇんだよ! たかが一度のつまずきで、何所までも引っ張りやがって……! 間違うことがそんなに悪か? そんなに駄目なことか? 躓いた状態で立ち上がることすら諦めたお前が人生悟ったような顔するんじゃねぇ!」

 乱した呼吸。興奮で乱れた茶色い髪は、好き勝手に跳ねている。

 京助にとって……いや、誰でも胸倉を掴まれるなんて行為、滅多にされるものではない。しばし呆然としていた京助だったが、はいそうですか、ごめんなさい。心機一転します。と謙虚で素直な性格であるわけもなく、みるみる顔色を上気させてゆく。そして、

「だったら俺に関わるな! こんなクソガキほっとけよ!」

 負けじと胸倉を掴み返した。

「てめーは俺が気に入らねぇーんだろ? だったら最初から協力なんてするんじゃねぇーよ! どうせ殺人犯の餓鬼なんて相手にしたくないんだろ? 俺が嫌いなんだろ!」

「あぁ嫌いだね! お前みたいにネクラで過去をいつまでもズルズル引きずるようなヤツ、大嫌いだね!」

「だったら中途半端に構うんじゃねーよ! 最初からほっとけ! こっちから願い下げだ!」

 要の胸倉を掴んだ瞬間、苦しそうに顔を歪めた彼にざまあみやがれと思う反面、何をしているんだ自分は、とどこか冷めていた。

 普段から平然と、端整な顔立ちを崩さない京助がむき出した怒気。掴みあげられた胸倉への力に対向するように、首を締め上げるような気持ちで力を込めた。だが、やがてみるみる哀しそうな、泣きそうな表情へ変わってゆく。

「結局、大人なんてみんなそうじゃねーかよ……! 自分に火の粉が掛からないように人のこと化け物みたいに指差すくせに、俺が享受したら卑屈になるなとか、逃げているとか否定しやがって……!」

 要の襟を、力なく解放する。わなわなと唇を震わせ、怒りに見開いたままの瞳に要を写した。怒鳴ってきたのは彼なのに、ぽかんと眼を丸くした青年がそこにはいる。あまりに綺麗な瞳の中に、泣きそうな自分が写ることが悔しく、みじめだった。

「……!」

 途端に、助手席から飛び降りるように外に駆け出た。

 要が呼び止めたかもしれない。しかし、京助はそんなことを気にする余裕もなかった。どうでも良かった。ただ一色に広がる灰色のビルに向かって、灰色のコンクリートを蹴り上げるように踏みつける。硬さのあまり跳ね返る力。それほどの加速。荒くなる呼吸に従い暴れだす心拍数。それの苦しさと、胸の痛みと。

――……どこへ行けば、痛みは終わるのだろう。

「……大人なんて、結局みんな勝手じゃねぇーか」

 水川銀二と、玄関口で傍観していた男は京助の人生をめちゃくちゃにして消えた。

 父方の親戚の一人は、蔵の仲に京助を押し込めて生活させようとしながら、京助が嫌がるそぶりを見せることなく、生活に慣れるようになるとぽいと捨てた。

 二人目は名前を変えるように強制し、人目ばかりを気にしてノイローゼになった。

 中学生の頃の担任教師は、高校受験とともに家庭事情を知ると散々自らの正義と善意を重圧し、「ご両親の為にももっといい進学先にかえよう」と提案し、否定するたびに嫌な顔をされた。

 何より、両親は京助を護って勝手に死んだ。生きることのほうが、死ぬことよりも遥かに辛い苦痛であることをわかっていて、息子にのみ苦行を授けた。



 大人はみんな自分勝手だ。



 自らの持つ歪んだ常識を子供に押し付けておきながら、それが道理道徳から反れたものだとしても平然とすましている。

 自らを分かってくれと訴えては、分かるまで諦めない。そのくせ、子供の表面ばかりを見て、かわいそうと同情し、歪んだ正義と非合理を振りかざすばかりだ。ちっとも理解してくれない。しようともしてくれない。

 京助は愛など求めていない。

 どうしようもない空虚を、罪悪を、認めることでしか自分でいることはできない。自分を許してしまっても、咎め続けても、もう向上を願うことから外れてしまった。

「ははっ……」

 力なく、笑う。

 ただ、京助は立ち入り禁止の黄色いテープを潜り抜けて、曇天に一番誓い場所まで走った。

 足場の悪い階段。むき出しの構造。剥がれた塗装とコンクリート。

 妙な音を立てて踏みにじり、光のない空へ手を伸ばす。履き馴らしたスニーカー越しに感じる石やアスファルトに似た感触がある。カッターシャツで額の汗を拭い、最上階までただ脚を勧めた。

 絡み付く湿気も、滴る汗も。

 生きているからではない。罪悪に生かされているから感じるのだ。

 あの日から、一度たりとも生や幸福を願わなくなった。

――ならば、何故自分は、過去を『バネ脚ジャッキー』に公開されることを、こんなにも恐れているのだろう。

 他の被害者に迷惑がかかる?

 自分が好奇の眼で見られることが怖い?

 これまでどおりの生活が望めなくなる?

 どれも違う、どれも違う!

 かぶりを振って否定する様は、まるでいやいやと聞き分けのない子供のように滑稽だ。

 屋上の扉を前にして、冷たい銀色のドアノブを握って、乱れた呼吸を整えた。咽喉のあたりで絡みつく、暴れる吐息が咽喉から抜けてゆく。ぽたぽた音もなく、汗が滴り落ちてゆく。それは、汗だけではない。

 畜生。

 誰にも聞こえないように呻いた。聞こえてはならないように助けてと願った。

「畜生ぉッ……!」

 ぎゅうと胸が苦しくなる。それは急な運動で暴れだした心臓のせいじゃない。

 京助は、自分は子供だと分かっている。

 理解されないことに憤慨し、他人に愛されることを拒絶した。思い通りに行かないことを他人に八つ当たりして、結局は全て大人のせいだと甘えている。

 情けないとは思わない。ただ、自分自身が嫌いになるだけだ。

 灰色の建物の中に溢れる、荒い呼吸と自動車の音・そして、こつこつと階段を上り、接近してくる歩行の音。

「……小田切修二や志摩里子。相模太一と過ごした日々が、そんなにも愛おしいものだったか?」

 最上階手前の踊り場。そこに、樹要は起立する。振り返れば、そこにあの優しい眼をした青年がいることがたまらなく恥ずかしかった。

 ただ、足音を背後にして、ドアノブを回せないまま、俯く。眼をぎゅっと瞑る。

「過去を暴かれたら、今の日常を失うことになる。だから、お前は『バネ脚ジャッキー』と対面することすら恐れない」

 背後に、影が伸びる。真後ろにいる気配がした。

「お前は、愛されているんだよ」

 大きな掌。それは頭部にそっと置かれた思わず顔をぱっと上げる。要のかんばせは……歪んで見えた。

「愛されていい。愛していい。お前は化け物じゃない」

 京助は声もあげず、顔を顰めることもなく、汗だと名付けた虚勢の雫を落とす。要に拭われて分かる。間違いなく涙だった。要の目の前にあるのは、他人を遮断するための外壁を捨てた、ただの子供だった。普段のすました顔つきよりもずっとずっと幼く、愛しく見える。

 要は銀色のドアノブに両手をかけたまま離せないでいる彼の頭から、そっとうなじにかけて掌を滑らせた。

「俺は、浅月京助という男をよく知らない。だが、おそらく不器用なんだろう。愛情を拒むほどに傷つき、愛することを恐れたから、他人と距離を置かずにいられなかった。それでも、あの三人だけは拒めなかった。……本当に、護りたいものだった」

 京助の瞳に、もう涙は消えている。要は小さく微笑んだ。

「護りたいなら、彼らのために愛してやれ。不器用でいいから本当の意味で愛しなさい。君が貰えなかった、君が欲しかった形のままで」

 しかと掴んだまま、彼が離さないドアノブを包み込むように要も手をかけた。ゆっくりと、二人は同時に力を込める。

 扉が開放されたとき、京助は強く踏み出した。



「……!」

 生ぬるい風がひゅうっと渦巻くように通り過ぎて視界を遮る。前髪を持ち上げられ、思わず眼を細めた。灰色の町並みが広がる。

 うちっぱなしのコンクリートの世界が広がる。単純に一色塗りされた場所。黒く焼けたフェンスが今にも崩れそうに設置、いや、放置されている。風に揺れてはぎいぎいと嫌な軋みをあげて唸った。それはひどく不安定である。

「……ひでぇー場所」

 京助が正直な感想を一つぼやいたとき、要の携帯電話が鳴り響いた。 通話ボタンを押した瞬間に飛び込んできたのは怒声だった。

「要ぇ! てめぇ今どこほっつき歩いていやがる!」

 耳を押し当てていたら間違いなく鼓膜が切れていただろう。様子を伺っていた京助でさえ頭に鳴り響いていたのだから。

 唖然としている京助をよそに、要は受話器に拾われないように舌打ちし、「バレたか」と悪態を付く。そのまま電源ボタンを押した。慌てたのは傍観していた京助である。

「いや、あんた後で怒られるんじゃねぇーですか? 急用でしょ、これ絶対」

「拳骨食らうのは今に始まった話じゃないんス」

 飄々と何事もなかったかのようにポケットにしまう。けろっとした顔に一切の悪びれはなかった。京助は思わず溜息をつく。先ほどまでは横暴な蓮太郎につき合わされているだけの男だと思っていたが、要もそれなりに曲者のようだ。

「行ってくださいよ」

 何か言おうと口籠ったままの要の胸板を押した。

「……大丈夫……俺は大丈夫。ここまで、あんたが来てくれたんだ」

 真っ直ぐに見据えれば、観念した様子で微苦笑を浮かべる。再び艶のある黒髪を撫でてやり、背を向けた。

「負けんなよ」

「当たり前じゃねーですか」

――あんたが、こんなにも背中を押してくれたのだから。

 京助は踵を返して、要に背を向けた。想いっきり酸素を取り込み、青痣のことなど忘れて両頬を引っ叩く。屋上を改めて注意深く見渡せば、一つの携帯電話が中央に置かれていた。

「……」

 白い携帯電話は、確かに振動している。

 生唾を嚥下した。携帯電話までの距離が何千メートルにも数センチにも感じる。

 しゃがみこんで、そっと指先で触れた。携帯電話は随分と使い込まれている跡がある。

――早く出ろ。

 せかすように震動している。可愛らしいヒヨコのマスコットが付いた白いそれを拾い上げ、震える指先で通話ボタンを押した。

「……もしもし」

「やぁ。はじめまして。僕は『バネ脚ジャッキー』だ」

「てめぇー……!」

 飛び込んできたのは、無機質なボイスチェンジャーではない。少し深みのある男の声だ。年齢を推測するならば三十代くらいだろうか。妙に上ずった、はしゃいだ感じが判断を鈍らせる。

「噂どおりの間延びの口調。持ち前のやる気に掛けた気だるさは誤報じゃないみたいだね。君も随分成長した。是非とも面と向かって会話がしたいなぁ」

「……最初に俺に接触して来たのは、あんたじゃーねぇーな?」

「ご名答」

「『バネ脚ジャッキー』は複数名ってことかよ」

 受話器の向こう側は、咽喉を鳴らして笑っていた。何が可笑しい。むきになる自分を押し殺す。どうにも腹立たしい食えない者ばかりのようで『バネ脚ジャッキー』達との交友は難しそうだ。

「さあね。『バネ脚ジャッキー』の正体を知ることはタブーなんだけれど、万が一知ってしまったものには別の罰が与えられるんだ。『正体を暴いた人間も『バネ脚ジャッキー』の一人にならなきゃならない』――ありがた迷惑なのか、好都合なのか微妙だよね」

 それで、僕は晴れて『バネ脚ジャッキー』になりましたとさ。

 勝手に盛り上がる男に向かって、「黙れ」と一蹴する。まったく癪に障る話し方をする。気に入らなくて、苛々してたまらなかった。これならばいつものボイスチェンジャーの『バネ脚ジャッキー』のほうが可愛げがある。

「……五年前。お前はあの場にいた奴なのか?」

 電話が軋むほど、強く握った。明白な殺意をむき出しにして、ぐるりと周囲を見渡す。

 おそらく、相手は自分のことを観察している。

――面と向かいたい?

(馬鹿言うな。こっちの台詞だコノ野郎!)

 このビルはかなり背が高い。同じくらいの高さから見られているのならば、おおよそ建物に見当が着いてもおかしくはないはずなのだ。それなのに、それらしき人物は一向に見付からない。京助が縦横移動する様子をあざ笑うように「はは」と笑声。

「どうだろう、ね?」

 相変わらず、生ぬるい風が吹き抜ける。それは強いものだった。空を見上げればごうごうと蠢く曇天の厚い雲が流れている。  旋毛風が大きくなり、京助の長い前髪を掻き上げたとき、全身に痺れのようなものが走り、研ぎ澄まされた五感がびくりと反応する。

「まさか」

 嫌な予感がした。恐る恐る、フェンスの縁に歩み寄れば高梨杏奈の死体が発見された場所に人影がある。

「てめぇええええ!」

 京助は飛びかかるような勢いで、今にも崩れ落ちそうなフェンスに飛び掛る。曇天の空に鳴り響く怒声はその影に届いたのか、受話器からは笑い声が流れた。

 まるで京助に落ち着けと諭しているように、大空から音もなく涙が捧げられた。しっとりと全てを包み込むそれが、酷く冷たい。

 影は、依然として移動する様子を見せなかったが、濡れるの嫌いなんだよね、といいながら黒い傘を花のように開く。

「お前、何をしようとしていやがる! ことによっちゃ本気でブッ殺すからな!」

「五年前の水川銀二と同じように?」

「それがお望みならば腹ぁ掻っ捌いて切り刻んでやらぁ!」

 咽喉が枯れそうだった。普段口数の少ないせいで会話が長々持続することに慣れていない。畜生、と分けのわからない悔しさを吐露する。上がった息を整えたころに男は「冗談」と切り出す。

「あの二人には何もしない。あの事件の時だって、僕は誰も殺しちゃいない」

「……」

「言っただろ。『バネ脚ジャッキー』は複数名いるんだ。『バネ脚ジャッキー』同士の対立は認められていないからね、君を事件に巻き込んだ『ジャッキー』を敵にするわけにはいかないんだ。あの『ジャッキー』は君の味方だからね」

 頭上から降り注ぐのは霧雨のような細かい雨粒。髪をしっとりと濡らし、水分で重くさせられた。視界はみるみる白いベールで覆われてゆく。まるで何かを見るな、と目隠しされるように。

「……信用できるわけねぇーだろーが」

「それは君の勝手。信じるかどうかは自分で見極めるといい。閑話休題するけれど、その携帯電話は高梨杏奈の仕事用のものでね、ある資産家の画家さんが彼女専用に持たせていたものなんだ。それを妹の志摩里子さんに渡してもらいたい」

「……! なんで志摩のことを」

「知っているさ。僕らは君の事、ずっと見ていたんだから」

 遠くの空で、わずかに雷が轟いた。まだ遠い。雷光は見えていない。

「だからこそ、この風景を君に見せたかったんだよ。天国に一番近い、高梨杏奈が死んだ場所を」

 絶景とは言いがたい場所。灰色の空と灰色のコンクリートに挟まれて、息が詰まりそうな気分だ。まるでコンクリートの中で溺れているような感覚に陥る。もがいても足掻いても、灰色の水。鼻腔と口から体内に流れ込み、灰に着々止まる。満たされたときに気が付く。……もう手遅れと。

「君だけが過去から解放されることがないように、逃げることなんて出来ないって教えてあげようと思ったんだよ」

「ありがた迷惑だ」

「そう言うなよ。つれないなぁ」

 くくっと痙攣したように男は笑うと、ゆっくりとした動作で動き出した。おいと制止しようとしたがのどで声が留まる。止めたところで、今の自分に何ができるというのだ。

「僕が……そう、少なくとも僕は、君の前に現れることはおそらくこの先ない。でも、僕らは互いを忘れない。君がもし、僕を殺したいと思うのならば、そのときは僕を探すといい。僕は全力で歓迎するよ」

「……死にてぇーのか」

 黒い傘に、黒い服。どうやらそれは喪服のようだった。隅には白い百合の花束がそっと置かれている。

「違うよ。君を引きずり込みたいんだ。こちら側の闇に。君がいつか、五年前の出来事を誤りだと呼ばない日が来ることを、願っているんだ」

 貨物列車が通過するごうっと聞きなれた音がした。静まり返った屋上からは、町中のいろんな音を拾うことが出来た。だがどんな生活の音からも、阻害された気分になる。

「まぁ、とりあえず、今はがんばれ」

 有無を全く言わせず回線は無情にも途切れた。すぐさまリダイアルをしても、「おかけになった電話番号は……」と女性のアナウンスが虚しく、無機質音声が流れるだけ。黒い傘は、もう見えなかった。

 ふいに、壊れたフェンスの合間をすり抜けて、ぎりぎりの縁に立ってみる。

 高さのあまりに膝が笑った。だが、不釣合いなその場所が、何故だかとっても心地よい。哀しくなるほどに、切なくなるほどに。ただ、絶望だけを目の前にして。

 新緑色の田んぼ・喧騒を撒き散らす国道・寂れた町並み・踏み切りと電路・何所にでもあるコンビニとスーパー・白塗りの病院・色あせたクリーム色のような学校・せわしなく働く大人・何ごとにもきゃたきゃた笑う子供。

 ポケットをまさぐると、いつのものか存在を忘却した飴玉が入っていた。一つ、手に取ると地面に向けて軽く放る。蝉と蛙の鳴き声でコンクリートに叩きつけられた音はしない。

 京助は遺品である白い携帯電話を握り締めた。



   *



 Aspect 朝比奈蓮太郎

 便所、と言ったきり三時間近く行方を晦ました樹要はケロっとした顔で……むしろすがすがしいほど爽やかな表情をぶら下げて署に戻ってきた。

 行き先を咎める気にもなれず、蓮太郎はそのままシルバーのミニバンに乗り込んだ。

「せーんぱーい。いい加減無視するのやめてもらえます?」

「……」

「ガキかあんた」

「てめぇが言うなてめぇが! 井川勇一を殺害したかもしれない奴らのところだ」

「奴ら?」

 複数名なのか、と首を捻る以前に怪訝に思ったのはアスファルト舗装されていない獣道を突き進んでいることだ。いくらか広いスペースの脇に路上駐車する。蓮太郎は仔細を説明する気はなく、雨でぬかるんだ泥道をずかずかと先陣切る。

 辿り着いたそこは立て看板によると一応公園のようで、だだっぴろいわりにろくな整備もされていなければ遊具もない。河川敷傍に設立されているため住宅もない。雑木林と川に挟まれ田んぼと橋が傍にあるだけ。雑木林のせいで日当たりも悪く、よくもまぁ人が集まりそうにない場所に公園など建設したものだ、と嫌味の一つもこぼれそうだった。そのような場所に土曜日の昼間から革靴にスーツ姿の男など滅多に現れるわけもなく。住民らしいホームレスたちがそれぞれいぶかしげな表情をする。

 五人のホームレスが円陣を組むように座り、傍にはテントが二つ建てられている。今にも崩壊目前の臭いを漂わせながらもよく見ると、鉄のパイプなどで補強され見方を変えれば芸術作品にも伺えなくはない。ダンボールで作られたその城は某アニメ巨匠の映画を思い出す。にょきっと音をたてて脚を生やし、歩き出しそうなダンボール城のまえで鍋をつつく彼らに、蓮太郎と要はつかつかと無愛想に詰め寄った。

 この真夏に鍋ですか。声をかけようか迷ったが、水に浸された満杯の素麺のようで納得してしまう。

「少し話しを聞かせて欲しい」

「……なんでしょうか」

 白髪の初老と思わしき男が対応しようとすると、周囲がそれを止めた。男を護るようにして野次を飛ばす。

「先にやったのはてめぇらだろ!」

「高校生のガキに話すようなことはねぇよ。さっさと失せろ!」

 状況がつかめない要がぽかんとするより先に蓮太郎が無言で警察手帳を掲げた。その手は小刻みに震えていて、要が止めるよりも先に激昂した。

「誰が高校生だこの老いぼれ共! 俺は今年で二十七だ!」

 ホームレスたちは蓮太郎が警察であるということより先に、年齢に驚愕したようでいっせいにのけぞる。

「そ、そいつはすまねぇ。俺はてっきりそっちの茶髪で天パの兄ちゃんの弟かと……」

 ねじり鉢巻をした男が悪気のない様子で口にする。要が「天パ感染させてやろうか」と憤慨したが、男に髪の毛はなかった。悔しそうに言葉を詰まらせると、ホームレスたちは居心地悪そうに顔をしかめる。

「はぁ……。とりあえずその様子だと、俺たち警察がなんで来たのか、わかるようだな」

「井川勇一の、件ですね」

 立ち上がったのは、先ほどの人のよさそうな老人だった。白髪の混じった髪を一つにまとめ、広い額が夕焼けの光に映える。白いガーゼで覆われた頬をさすり、すっと両手首を差し出す。

「咎め立ても重々承知。これでカンベン願えませんか?」

 丈夫そうな歯が揃っているせいか、聞き取りやすい声音だった。蓮太郎よりも身長のある男は、少し背を屈めるようにして情けなく笑う。

 あっと口を開ける他のホームレス達だったが、背中で男は制止する。誰もが死刑宣告されたかのような絶望的な色になった。

「手錠、ねぇ。悪いが、この場合、任意同行だから枷を付けるわけには行かない。そして、あんただけが全てを償うということは不可能だ」

「そんな……」

 悲しそうに、悔しそうに歪められる。

 蓮太郎はがしがしと頭を爪で引掻く。

「この中にいる全員かどうかは知らねぇが、井川勇一と月館麻緒の殺人に関することで、俺たちは事情を説明してもらう為に来た。逮捕状は降りちゃいない。勿論今日現在じゃなくても現行犯でしょっぴくには、未来の青い猫型ロボットを必要とすることになる」

 つまりは、証拠がないから疑っていても今日現在捕まえることは不可能なのだ、ということを要が補足した。

「刑事さん」

「朝比奈だ」

「朝比奈、さんは、何故我々に辿りついたのでしょうか?」

 投げられた疑問に、にいっと悪戯を思いついた子供のように笑った。

「ある命知らずなとんでもない大馬鹿高校生からの垂れ込みだ。井川勇一がホームレス暴行事件と関連があるとわざわざ連絡してくれてね」

 蓮太郎はゆっくりとした動作で煙草に焔を燈した。要の無言の制止には気がつかなかったことにしておく。

 ねじり鉢巻の男が、もしかして、と身を乗り出した。

「相模太一とかいう、額に赤いピンをつけた高校生か?」

「そうだ。知っているのか?」

「あ、あぁ。そいつが、俺たちの仲間を放火した犯人と連続墜死事件が関係するかもしれないと言って協力を求めてきたんだ。ろくに相手はしなかったんだが……。あのガキ、まさか本当に犯人に追いついたのか?」

「確信はまだできないらしいが、検討をつけることができた、とは言っていたよ」

 それは要にとっても初耳だった。怪訝そうな彼をみて、蓮太郎が「お前が逃げていた数時間前に相模に聞いたんだよ」と耳打ちする。要はさいですか、と言いつつも嫌味他らしい彼に舌打ちする。

 一方、ホームレス達は互いに顔を見合わせつつ、どこかうれしそうにしていた。

「話を戻すぞ」

 二人も鍋を囲むように腰掛ける。スラックスが汚れると、ブルーシートをすすめる白髪頭の男に構わず、そのまま着席した。ぬかるんだ形跡のある砂だったが、完全に水分を飛ばしているようだ。蓮太郎は警察手帳を開く。

「七月十五日早朝。井川勇一が死体で発見される。死因は自転車のサドルが脳裏から眼球へと貫通したことによる……何死なんだ? これ」

「刺死……? とにかく変死体ッス」

「そう、とにかく変死体で見付かった」

 その同日に、事件のあったアパートのすぐ傍で月館麻緒がトラックに轢かれた。警察は事後処理に追われ死体のそばにいたものの、同じ時刻に行方不明になった井川を発見できたのは翌日だった。

 井川の第一発見者はアパートに郵便配達をしていた学生だった。発見されたときには傷口が腐っていて、蛆が湧き、ひどい有様だったという。

 事件現場となったアパートは昭和四十年代に建設されたもので、耐震偽造されたものと最近になって判明した。間取りの悪さと正面に建設された新しいマンションのせいもあり、一つの階に七つまである部屋も、殆どがら空きの状態だった。現在は取り壊しが確定し、九月には完全に立ち退かなくてはならない。

「アパートの構造はかなり変わっていてな。屋上へは四階の五〇六号室から上がれる仕組みになっているため、五〇六号室は部屋として使われておらず鍵のかかっていない扉だ。参考までにだが、各部屋八号室の鍵は全て同じもので、三〇八号室の鍵は盗難に合っている。

 建物内部の階段を使用すると、東側・各階の八号室。外の螺旋階段を使用すると北側・一号室付近。螺旋階段のほうは、屋根もなければ軋みが激しい。錆と歪みが眼に見えるようになってからは、使用禁止になったそうだ」

 一本目の煙草が短くなり、携帯灰皿にねじ込もうとしたら歯のかけた舌足らずの老人が手を差し出す。くれ、ということらしい。新しいものを点火してくれてやれば「ありがたい」と神様を拝めるように禿げ散らかした頭を下げる。

「ともあれ螺旋階段は完全に使えないわけじゃない。つまり」

「……簡単に挟み撃ちが可能な構造ってことッスね」

 要は言葉を盗むと「もったいぶらずにそう言えよ」とぼやいた。無視を決め込む。

「おそらく、お前らは井川勇一になんらかの方法で脅し、五〇七号室へ来い、と誘導した。彼が来る前に、あらかじめ鍵のかかっていない五〇六号室と三〇八号室の鍵で開けておいた五〇八号室に待機し、訪れた彼を落とした」

 その落下先は、不法投棄廃棄物の山となっている場所。たまたまあった自転車に頭部串刺しとなった。……半分に折れた竿が空に向かって伸び、むき出しのチェーンソーの刃は錆か血かも分からない色で銀色を汚す。例に挙げたら数え切れない凶器の山。不法投棄の山に落ちれば、たいした高さはなくても確実に助からない。

「頭のいい方法だよ。まったく」

 蓮太郎は髪をかき混ぜるようにガシガシ引掻き、暑さのあまりネクタイを緩めた。要がだらしないと口を挟んだが、彼は最初からネクタイなどしていない。

「見事な推理力ですね」

「そうでもないさ。あくまで現場と情報を練りこんで生まれた想像に過ぎない。井川勇一の体には抵抗した痕も暴行した痕もなかったからな」

 通例ならば、被害者の遺体に抵抗した痕跡が残ることが多い。特に爪の中に相手の皮膚や血・手すりならば錆などが付着する。だが、体躯が大きく生きたまま落とすのが明らかに困難な井川勇一にはそれが一切なかったのだ。

 そこで蓮太郎は、布かビニールシートに包み込み、落とす瞬間にはずしたと考えた。だが、もしも井川の衣服に使用された毛布などの繊維が付着したとしても、それで犯人を割り出すことは到底不可能である。何故なら大体の繊維品は何所にでもある大量生産の輸入品だからだ。

「推理することはできた。だが、証拠がなければ逮捕できても告訴できない。もちろん見逃すつもりはないがな。願わくば自首をおすすめする」

 一通り話すと、うつむいたままのホームレスたちは顔を見合わせながら困ったような表情を作った。

「……こんなこと言っちゃなんだが、あんたたちは俺たちをここで一気に逮捕でも検挙でもしないと、逃亡するぞ」

「それはありえない。本気で逃亡する気ならば、今現在此処にいないだろ。それに、今から逃亡を図ったところで只の時間稼ぎにしかならない。無駄な抵抗だ」

「……全く優秀だな」

 今まで一言も口にしなかった、菜箸を握った男が茶化すように拍手する。眼はぎらぎら充血しており、蓮太郎や要に対する嫌悪が滲み出ていた。

「俺たちの仲間がクソ餓鬼共に火をつけられたとき、お前らサツは、少しも相手にしてくれなかったじゃないか! なのに、相手が餓鬼ならば何をやっていても味方になるのか!」

「おい、やめろ!」

 ねじり鉢巻の男が止めようと声をかけたが、顔を熟れたトマトのように真っ赤にした男は薙ぎ払い、胸倉を掴み上げた。背の低い蓮太郎は宙吊りのようになったが乱されたネクタイとシャツを正すこともせずに、切れ長の瞳で睨みあげる。

「餓鬼じゃない。被害者の味方だ」

「先輩!」

 要が咎めて声を荒らげるが、悠長に構えたままだった。

「正義の味方気取りやがって!」

 突き飛ばすと、拳が飛んできた。蓮太郎は右の掌で包むようにそれを受け、左手で手首をねじり上げる。流れるように鮮やかな動きに周囲は圧倒された。ぐうっと獣のような唸り声が上がる。

「公務執行妨害及び警官侮辱罪でしょっぴかれたくなかったら大人しくしてくれ」

 男を解放するとブルーシートに座らせた。男の顔は紅潮したままだったが他のホームレス達が宥める。

「何をしに来たんだ、と聞いたな? ――お前らは、六月二十八日に放火された仲間の復讐で、井川勇一殺害を目論んだようだが、その計画を提供した人物を聞きたい」

 水を打ったように、沈黙が降りる。それぞれの顔をゆっくり見回した後、続けた。

「……お前らは『バネ脚ジャッキー』か、もしくは『落下姫』から井川勇一が遠山ユキジの放火をしたと教えられ、与えられた計画に行動したものの……放火魔は別の人間だったことを後に知った。だから、井川勇一に対する罪悪感から逃亡をためらったんじゃないか?」

「ちょっと待ってくださいッス先輩。どーいうことですか?」

 要が割って入ったが、答えたのは白髪頭の老人だった。

「公衆電話からボイスチェンジャーの『落下姫』を名乗る都市伝説に言われたんです。君たちの復讐したい相手をみつけたよって。そいつを懲らしめないか? って。……もともと、警察は我々を相手にしてくれなかった。それで、一人頭一万円でそのバイトに乗ったんです」

「裁判所に訴えを出すという考えはなかったんスか?」

「……もともと、彼は放火が直接の原因で死んだわけじゃない。もとより肺を悪くしていて、煙の吸いすぎが時間差で体を蝕み、搬送された病院で死亡したんです。だいたい訴えを出したところで、我々には資金がない。弁護士を雇うこともできないんだ。ならば、その弔い合戦は自分で起こすしかない、でしょう」

 後日人伝いに渡された、『落下姫』の手紙には彼らにとって見覚えのある写真が入っていた。それは、自分たちに暴行を加えていた少年、井川勇一だった。そのため誰もが「犯人は南高校の井川勇一だ」と口にした『落下姫』を疑わず、彼を突き落とすことに誰も疑念や躊躇いがなかった。

「でも、どうして井川勇一が犯人じゃないってわかったんでスか?」

 歯の抜けたホームレスが挙手をする。それが何の意味を示すかわからず首を捻ると、ねじり鉢巻の男が代弁した。

「この男が、ユキジさんの事件が起ったときに目撃し公衆電話で通報したんだが、歯が無い上に舌が回らんからまともに取り扱ってもらえず、交番まで自らの足で出向くことになってな。こいつ、気が短いからあまりに物分りの悪い警察官に殴りかかっちまって公務執行妨害で十五日まで拘留されていたんだ。だからこいつだけ俺達の起こした事件に関与していない」

 要はなるほど、と推考する。

「それで、唯一犯人を見ているあなたは釈放後仲間が殺したはずの放火魔を発見し……人違いだと判明したってことッスね。でも、自業自得もいいとことろじゃないッスか」

 同情はない。それ以上に警察の怠慢さが恥ずかしくなった。

 後日、三人分の報酬を持ってきたのは、南高校の制服を纏った少女だったという。彼女にことの全貌を明かしたとき、「私は使われているだけだからわからない」と短く返答した。それ以降、『落下姫』からの連絡は途絶えたままであり、犯人に疑われることもなかった。

「……我々の落とした井川勇一は放火魔ではなかったが、確かにホームレス暴行に関わった少年だった。この人もね、彼に集団で暴行されたんですよ」

 悔しそうにうつむくジャージ姿の男。目立った外傷は、現在は伺えないが、相当な恐怖を植えつけられたのだろう。説明の最中に何度もびくっと背筋を緊張させている。

「……あんたらからすれば、汚い老人の集まりに見えるかも知れないが、俺達にとって大事な仲間だったんだ」

 蓮太郎はどう言葉を返せば賢明か悩んだが、どんな言葉も安く意味はないと悟り、ホームレスたちに頭を下げる。白髪の男はよしてくださいと微苦笑した。

「放火した犯人ではなくても、井川勇一に対する謝罪は微塵も、我々にはない。だが……逃げることにも疲れた。どうせ失うものなどもうない」

 一同が肩を落として、項垂れた。オレンジ色の夕焼けは哀しそうな彼らを咎めるように照らす。疲れきった顔の蔭がくっきりできた。

 要は彼らを気の毒に感じたが、相手はあくまで犯罪者である。「自首と捉えるべきですか?」と口を挟むと一同は頷いた。あまりの潔さに二人は面食らう。だが、彼らもまた同じように内心驚いていた。

 彼らは、いつかは暴かれる真実と感じながら、一秒でも長く動かないまま、息を潜めないまま逃げようと思った。その誓いを踏みにじったのは仲間の裏切りではなく、全員の自首だったのだ。

 この奇妙な刑事にならば、手枷をされてもいいと、それぞれは信用した。短時間の出来事だったがこれまで自分たちを社会のゴミだと虐げ、暴行されてもろくに取り扱ってくれない警察たちとは何かが違うと心から信じることが出来たのだ。

 蓮太郎は静かに、そうか、と眼を伏せる。背広の胸ポケットに手を入れたので、いよいよかとホームレス達は息を呑み、覚悟を固める。……だが、取り出したのは相変わらずの煙草の箱。

「すまんが、逮捕はあとにしてくれ」

 発言したのは他でもない。刑事課強行犯係警部補の、朝比奈蓮太郎だった。

 そして一番驚愕したのは、そのパートナーである樹要だった。



   *



 Aspect 浅月京助

 オレンジ色の夕日が沈みかけている。さすがに一時間以上歩き続けたせいで足の裏が熱く、すこし痛む。

 距離にして十キロ以上離れている自宅と廃墟ビルだが、実際歩いてみるとかなり遠くに感じることが分かった。

 歩き詰めの生活が続き、足の裏のマメは増えるばかりだ。もとより運動神経は優れているのだが、持続して何かを成し遂げることに経験はない。運動不足の証拠に太腿が若干筋肉痛である。

 急いで帰宅したところで待っているのは暗い部屋。おまけに冷房器具は未だに壊れたままなので温度は外と変わらず湿度は寧ろ高い。思い出すだけでげんなりしてしまった。

 中途半端に賑わう……繁華街とはお世辞にも言えない飲み屋の通りの傍、裏路地の墓場に差し掛かったとき、背中に何かがぶつかった。何気なく振り向こうとしたとき

「浅月京助さんですね?」

 正面に京助と同じくらいの年齢の、京助より少し高い身長の少年が歩み寄ってきた。どこかで見た顔だと眉を顰めた瞬間、腹部に強烈な衝撃が走る。

「がはっ!」

 それは少年の膝だ。息が詰まり、目を限界まで見開く。京助はその場に膝を折ると激しく嘔吐した。

「汚ねぇなぁ」

 頭上から罵声が浴びせられる。本日は朝食しか口にしていないため殆どは黄身がかかった胃液だった。顔を上げようとすると頬を拳で殴られた。そこで合点がいく。

(こいつ、あのときの!)

 歩道橋で京助を殴り、取り押さえた三人組。暗さのせいではっきり顔を認識できないが……付け加え京助はものすごく人の顔を覚えるのが苦手なため、言い切ることはできないが、確かに味わったことのある痛みだった。

「椎木……?」

 後に修二に教えてもらった三人の名前。その一つを噎せながら呟けば「へぇ。俺のコト知ってるわけ」と嘲笑う。それ以上有無を言わすつもりは無いようで、京助の襟首を掴みそのまま墓場の中へ引きずられた。

「俺らのこと嗅ぎまわるの、ホントやめてくれない? このままでしゃばり続けると俺達なにするか分からないからな?」

 勿論椎木海斗一人ではないようで他の二人も視界に入る。京助にはどちらが信楽良で、角田巧なのかは分からなかったが今度こそ顔を認識した。

「声、出すんじゃねぇぞ」

 にきび面の、信楽がナイフをちらつかせる。そのときになってやっと事の重大さに気が付いた。

(殺されるかも……。って墓場でかよ)

 大人しくなった京助を満足そうに見下ろした信楽は得意そうに鼻を鳴らした。だが、京助はナイフが離れた瞬間に即座に立ち上がり信楽の手首を蹴り上げる。狙いどおりナイフは手元から離れた。しかし背後にいたもう一人の存在……角田が横腹に肘打ちを飛ばした。よろけてふらつくと、

「大人しくしろって言っているのがわからねぇか!」

 激昂した椎木に再び蹴られた。どこを蹴られたのかすらわからないほど全身が悲鳴を上げる。石畳に転がった状態で、文字通り袋叩きの暴行が浴びせられた。叫び声など出るわけもなかった。ふいに蹴りや拳が止むと、今度は髪を摑まれ顔を上げさせられる。小さく呼吸する京助の口内に角田がいくつか錠剤を入れた。

「……!」

 苦味に我に返り、吐き出そうとしたがペットボトルが詰め込まれる。そのまま腹に拳が叩き込まれた。その衝撃で無理やりそれらが体内に取り込まれる。液体はスポーツドリンクだった。散々盛大に噎せた後、京助は虚ろな視界の中三人を睨みあげた。

「てめぇーら……何飲ませたんだよ……!」

「ドラッグじゃねーのは確かだ。よかったなぁ!」

 信楽のはしゃいだ声の刹那、背中に電流が走る。それがスタンガンによるものだと察する前に、京助は遠退く意識をあっさり手放した。















































 七月十九日 海の日 Monday



   前編







 Aspect 小田切修二

 京助の二回目の失踪は里子にとって、勿論修二と太一にとっても予想外のもので、すぐさま対策本部が作られた。(京助の自宅の庭)

「だーかーらー! なんだっていつもあいつはああなんだ!」

 憤慨した修二は受話器に向かって怒鳴りつける。敷地内とはいえ屋外である為ほぼ公共の場と変わらない。近所の住人が好奇の目を向ける。里子がその場を宥めるがそんなことを知る由もない太一が受話器越しに「俺がそんなもん知るかぁ!」負けじと怒鳴った。

 里子はわずかな頭痛を覚えた。ぜぇぜぇ息を切らして肩で息をする修二を宥めつつ溜息を付く。そのまま受話器を奪う。

「つまり、太一君のところに京助君を誘拐したって……椎木海斗から連絡があったんだね?」

「本当についさっきだ。『バネ脚ジャッキー』を装っていたんだが、あまりに噂と違うものだからカマかけたらあっさり手の内明かしたよ」

 病院にいるだけあって人目が気になるのか、それとも先ほどの怒声で注意されたのか太一の声はとても小さなものに変わっていた。

 里子は携帯電話を手ぶら機能に切り替えた。

「椎木の用件はこの件から俺達全員が手を引くこと。さもなくば、京助の……過去をバラすって」

「ありえね……。どんだけ腐った奴なんだよ……!」

「でも、なんで浅月君のこと……」

 心底嫌気がさしている表情で口を挟んだ。

「事件があってから苗字は変わっているが、この街に長く住んでいる人間なら気が付く奴がいても可笑しくないさ」

 眼鏡を外すと、項垂れるように肩を落とす。依然として通話中の太一が続けた。

「正確な居場所の特定はできないけれど椎木は多分南高校の周辺から電話をかけてきたはずだ」

「なんでそんなこと分かるの?」

「爆竹だよ。この地域って最近鴨が以上に大量発生しただろ? 完全に生態系が狂っている。それでも今まで見逃していたが、南高のそばにある製鉄所の機会に鴨が挟まって機械が故障したらしいんだ。それで今日の九時から十一時にかけて何度か花火や爆竹を鳴らすって昨日地域放送が入ったはずだ。……聞かなかったのか?」

 里子は指で×マークを形成していた。彼も同意である。

 この市では正午と六時にそれぞれ音楽が流れるようスピーカーが設置されている。選挙のときなどは勿論、放浪癖のあるお年寄りや迷子の放送などに活躍するのだが、長年聞いているせいで特別注意していないと聞き逃すことが多い。

「あと、会話中ほぼずっと踏み切りの音が聞こえた。ダンプカーも何台か通過している。つまり線路と、大きな道路が隣接しているところにいるってわけだ」

 騒音が激しいで有名な南高校には、確かに国道沿いでJR線とローカル線の踏切が一箇所ずつ隣接している。確信するにはたりない理由ではあったがほぼ疑いようがなかった。

「京助は監禁されているのか?」

「いや。そこまでは言っていなかった。でも拘束されている可能性はあるな」

 約束といっても口約束。それも電話を通してだ。見せしめに京助を殺すなんてこと、きっとやってのけるだろう。現に里子は殺されかかったのだから。

「俺はとりあえず、椎木のGPSを探ってみる……。修二。行くのか?」

 おそるおそる、といった感じの問いだった。修二は愚問として即答する。

「当たり前だ」

「分かった。無茶するなよ」

「お前が言うな!」

 修二は携帯電話をポケットにねじ込んだ。あの野郎、と口にしないように静かに唸る。

 一方的だったかもしれないが、確かに京助は約束した。修二の見えないところには行かないと。

 修二は何が何でも、彼を護るつもりでいた。だが、あまりのやるせなさに舌打ちする。再開したらまず殴ろうと誓う。そして松葉杖を頼りに立ち上がった里子を、止めた。

「志摩は、残れ」

「え?」

「間違いなく奴らと対面することになる。俺は剣道をやっていたからそれなりに鍛えているが、お前を護りきれる自信はない」

 そのまま敷地内から出る。里子は背中を追いかけて掴み返した。

「なにそれ……。当事者は私だよ? なのに、私だけ、無事を祈って逃げるなんてできないよ」

「足手まといだ」

「!」

 修二は、里子にとって一番言われたくない、痛恨の一言だと知りながら言葉を選ばなかった。

 彼女は己を、強くなければ意味はないと、意地だけで強く保っている。それでも決して戦力にはならない。それを自身が一番わかっているのだろう。一人で望んだはずの闇に、いつの間にか自分が一番脚を引っ張っているのだと。

 修二は溜息を付くと彼女の顎をぐいと乱暴にとる。

「――生き残らなきゃ意味はないだろ」

 呆気にとられた表情の里子の両頬を、包み込むようにしっかり固定した。

「裏切るつもりか」

「え……?」

「お前に命をかけた俺たちを、裏切るつもりか?」

 告げる修二のほうが痛そうに哀しそうに歪ませていた。

「お前は護られた分だけ、生きろ。それは義務だ」

 修二にとってその理由は、友情や愛情という綺麗なものだけではない。それぞれの感情や、醜い思考が渦巻いている。それでも、里子を思う気持ちだけは、紛れもない真実だと胸を張れる。それほど、浅月京助は、相模太一は、小田切修二は単純なのだ。

 背を向けて、今度こそ立ち去ろうとしたとき、後頭部を小突くように殴られた。振り向けば携帯電話を耳に押し当てている里子がいる。

「すみません。タクシーお願いします。えぇ。今すぐ」

「志摩!」

 すらすらと住所を口にする彼女にいつものおしとやかで穏やかな雰囲気はなかった。そこにあるのは気丈で意地悪そうに笑う少女。

「知らないよ。小田切君」

「は?」

「だって、これは志摩里子と高梨杏奈の問題だもの。家族の問題なの。それに、あなた達が足を踏み入れるのは野暮じゃない?」

 呆れた? と肩を竦めて見せた。ただ唖然としている修二に向かって、彼女は裏切りにも似た二の句を続けた。

「小田切君の優しさも、常識も、義務も、今の私にはいらない。誰が何を言っても、私は行く。自分で過去を殺すって決めたんだから。――だから、邪魔するな」



   *



 Aspect 浅月京助

 鉄錆びの臭いがする。むせ返るほど、濃い臭いだ。ふと、目を瞑れば、幼い日の自分が写る。

 化け物のように顔を血で汚した自分。相変わらず、……嫌な夢だった。

 全身に纏わり付く赤い水。ずるずる水底へ引きずりこまれてゆく。逃げたくて、頭を振るえば電話の不通音と――声が聞こえる。



「大塚誠二を殺しそうだよ」

 里子の言葉だ。

 実の両親を殺した者に復讐した自分と、実の父親に復讐したがる彼女。



 繰り返される理不尽な暴力は、自分たちに何を齎したのだろう。

 鉄錆の臭い。大量の血の海で、あの日京助は一体何を後悔したのだろう。

 すぐに逃げようとしなかったこと?

 一人だけ押入れに隠れたこと?

 両親を庇わす震えて逃げたこと?

 一緒に死なず自分だけが生き延びたこと?



 犯人を殺したこと……?

 待てよ。

――本当に後悔しているか?



「うわあぁっ!」

 視界いっぱいに広がったのは、見知らぬ天井。

 眩暈を起こしたように視界が歪み、脳裏ががんがん殴られたように痛む。自らの叫び声で起きるなど初めての体験だ。憂鬱な脳味噌のせいで悪夢から目覚めた気がしない。

 京助は暑さに項垂れる犬のような荒い呼吸の音が自分のものだと気が付くのにしばし時間を必要とした。胸元に掌を置けば今にも飛び出しそうなほど心臓が異常な活動をしている。

「随分うなされていたでありんすなぁ」

 頭上から降りかかるその声は聞きなれないものだった。

 京助が無理やりに上体を起こそうとすると体中のあちこち……特に腹部から痺れのような激痛が走る。

「無理するな。体中三毛猫みたいになっているでありんす」

 京助の視界いっぱいに広がったのは椅子とテーブルとカウンター。素人目にも高価だと分かるアンティークなつくりのものが敷き詰められた異空間のような場所。紅茶と何かの香水の香りが妙に落ち着かせる。

「はじめまして、だな。浅月京助」

 黒衣を纏う、長身で色白の美人な女は京助の被っていたタオルケットを剥ぎ取った。制服のシャツは何故か前が完全に肌蹴ており――確かに三毛猫柄に変色していた。

 青く変色したところと、赤く腫れ上がったところ。随分賑やかじゃないか、と笑いかけてくる女につられて京助も笑った。

「ありえねぇー」

「薬はこれでも塗ったし、十分冷やしたんだがな」

 ほっそりとした長い指が体中をまさぐるように触れてくる。女性に普段衣服に包まれているようなところを触れられるなど未体験だ。羞恥とくすぐったさに身を引いた。

「あー、すんません。……えーと」

「名前? 唐沢黒奈だよ。浅月京助。朝比奈蓮太郎の自称親友だ」

 美人なのに変な奴。その印象はおそらく間違っていないだろう。

「お前が墓場でくたばっているところを鏡友花っていう娘が保護してね。何故だか知らんがここまで引きずってきた」

「あのー。此処は?」

「外見りゃ分かるよ。墓場の裏なんだ。あと、これが落ちていたでありんす。――運がよかったね、浅月京助」

 妙な喋り方……間違ってもただの郭言葉ではないそれを使う黒奈が見せたのは青いラベルのスポーツ飲料と薬の銀紙だった。

「何錠飲まされたのかは知らないし、市販の睡眠薬だが……。吸収がいいスポーツ飲料で嚥下すると眼覚めないことがあるからねぇ」

 彼女はけたけた笑っていたが、背筋が凍りつくような事実だ。頭痛はこれが原因か、と溜息を付く。当分スポーツ飲料は口にできそうにない。

 立ち上がるのにかなりの時間を必要とした。だが脚は痛めていないようである。安堵しつつ扉を開けば見慣れた駅が傍にある路地だった。

「椿屋?」

 何度かこの店の前を通過したことはある。重々しい扉と独特の雰囲気のせいで横目に見る程度だった。改めて店内を見回す。ちょうど中心部分に自分が寝かされていた白い布団があった。

「ありがとー……ございます」

 黒奈は真っ白い指をひらひらさせながら気にするなと言った。

「いいよ別に。迎え、呼んどいたから。今に来るだろうよ」

「あの、鏡友花とは知り合いなんですかー?」

「いや。昨日が初対面。だが私は、お前のことは知っている」

 煙草を咥えた黒奈は意地の悪い笑みを浮かべた。それがどういう意味か分からないほど京助も間抜けではない。

「そーですか」

 好奇心でいろいろ訪ねられるのかと身構えたが、彼女にそのような素振りはなかった。興味がないふりをしているというよりも、ただ知っている、ということだけのようだ。

「病院に行きたきゃ自分で行きな。私は車を持ってないし、救急車を呼ぶつもりもない。おそらく鏡友花も同じ考えだったんだろうね」

「は?」

「あの子、今自分のことで精一杯でお前にかまっていられないんだよ。もしくは、自分の敵になるかもしれないお前を助けたくなんかないんだろうね。……理性ってやつが放置するのを否定したみたいだが」

「あんた一体何を知っているんだ!」

 京助が詰め寄ろうとした瞬間のこと、外に車が止まる気配がする。そしてクラクションが鳴った。

「迎えじゃないか?」

 まるで魔法のようなタイミングだった。黒奈は唖然としている京助に白いシャツを一枚投げる。

「私のものだが、お前の身長ならば着られるよ。……行きな」

 それだけ伝えるとカウンターの奥に姿を消す。

 京助は自分の制服を改めて見る。汗のせいでまとわり付く制服のシャツはひどく気持ち悪く、匂いも気になる。おまけに血と泥で汚れたシャツは糸が解れたり擦り切れたりしていた。洗ったところで、二度と袖を通せそうにない。素直に制服を脱いで、糊のきいたシャツを羽織った。

「……ありがとーございました」

 重い扉を開けて、曇天の空の下へ。其処にはシルバーのミニバンがあり、樹要が待機していた。



「ちょ……! その怪我」

 肌蹴たシャツからのぞく三毛猫柄の腹を、要は指差した。

「見た目ほど痛くねぇーから大丈夫」

 助手席に飛び乗ると、「相模太一のいる病院までお願いします」と告げた。要はエンジンをかける前に、京助の胸板を軽く叩く。

「……っ!」

 痣が、悲鳴を上げた。それも叩かれた幹部だけではなく、波のように全身に伝わる。

「な、にす……」

「全然大丈夫じゃないッスね」

 要はしれっとして、黒い携帯電話を京助に渡した。液晶画面には相模太一と記されている。

「相模太一の事件……いや、事故か? あれ、俺はどうしても墜落事件がらみだと思ったんス。だから、あらかじめ番号を控えておいたッスよ。今、朝比奈先輩が君に暴行を加えた椎木海斗達の家に出向いているッス。でも、君の友人の安否、確認したほうがいいッスよ」

 警察なのだから、刑事なのだから当たり前なのかもしれないが、彼らの行動力には目を見張るものがあった。圧倒されつつも、京助は感謝する。少し震える指先で電話を掛けると、太一はワンコールで出た。



――……。

「は?」

 耳を疑ったのは京助ではなく、太一だった。

 京助は慌てて声を上げる。

「だから、俺は拉致られてなんかいねぇーよ! フルボッコされたけれど! 鼻血出しすぎて貧血になるくらい殴られたけれど!」

 状況が掴めないのは互いのようで、困窮のあまり声音が荒々しくなる。

「太一。お前のところにあった電話、全部嘘だ」

「マジかよ! 修二も里子もお前探しに南高に行ったぞ!」

「要さん! 方向転換! 病院じゃなくて南高校までマッハよろしく!」

 ミニバンを運転していた要は一瞬何のことかわからなかった。ただ形相に怖気て「わかった」と安易にこくり、雰囲気に任せて頷いてしまう。少し煩いエンジン音とガソリンの臭いを充満させた。

「つーか。キョーは今どこから電話してんの。これ誰の携帯番号?」

「イケメンの刑事さんとデートちゅーだ。また掛け直す。樹要で登録しとけ!」

 一方的に切ると要の背広に手を突っ込み、戻した。

「……必ず終わらせねぇーとな」

「え?」

「わかった気がするんですよ」

 要は突然細道に入ると、アクセルを踏んだ。タイヤの跡がアスファルトに刻まれるくらい荒い運転で国道をめざす。対向車が来たらお互い間違いなくお陀仏であろうスピードで裏路地を突っ切った。覚悟をしていなかったため、京助は顔をガラスに思い切りぶつけ潰れた蛙のような奇声を思わず上げる。

「シートベルトしろッスよ」

「今このタイミングのどこにする暇があったんだー!」

 抗議しようとしたが、スピードを緩めず右折を決め込んだので、今度はフロントガラスに向かって体をつっこみそうになる。咄嗟にダッシュボードを蹴るような体制を作って耐えた。「足跡!」指摘されるが「知るか!」迷いない即答。くっきり残ったその跡を掌で振り払い消した。シートベルトをやっと装着できた頃に、国道を走行する。普通の乗用車の一員に加わった。

「で、なにがわかったんスか?」

 要が怪訝に首を捻る。京助が口を開いたとき、踏み切りの傍に差し掛かった。その瞬間に急停車した。フロントガラスに再び叩きつけられそうになるが、シートベルトに支えられる。

「今度はなんだよー!」

 運転席に向き直れば、呆然と前を捉える瞳。京助の角度からは伺えなかったが、身を捩ってみると信じられない光景が視界に写る。

「……事故だ」

 赤い車が民家の塀に激突し、蜘蛛の巣状態になったガラスが当たり一面に散らばっている。後部座席を突き刺すように突っ込んだ軽トラックと、トラックの荷台に噛み付く自動車。計三台の玉突き事故だ。

 凍結したアスファルトでもないし、自然災害に悩まされるような場所でもない。見通しが悪いわけでもない。それが異常に腹が立った。この忙しいときに、何故玉突き事故など起る。

「畜生が!」

 要はハンドルに拳を打ちつけた。凄まじいクラクションが唸ることは言うまでもない。

 急にブレーキを踏んだ要のミニバンは、ギリギリ前方の車と衝突するのを避けた。後方も同じように急ブレーキを踏む。注意していればそんなことにはならない。要に抗議・反感・悪態・怒声が向けられたことは言うまでもない。普段は温厚で人を食ったような笑みを浮かべていたりしても、怒り焦りという衝動に駆られたときは人格が変わるようで

「うるさい! こっちは急ぎだ!」

 後車に向かって怒鳴り返す。紛れもなくただのチンピラのようだった。

「あんたが悪ぃーよ」

 何をどうひっくり返しても前方不注意だ。

「あぁ畜生! こうなったら走れ、浅月京助。此処からなら全速力で五分だ」

 搾り出すような声音で呟いた。額を掌で覆っている。京助があたふたとシートベルトに手をかけたとき、ロックが解除された。

「サンキュー!」

 弾丸の如く飛び出す。突然開かれたドアに通行人が迷惑そうに顔を顰めたが、かまわず乱暴に閉める。

 踏切が遮断される。だが構ってなんていられない。

 迷わずに黄と黒の縞模様ポールをハードルのように飛び越えた。事故の野次馬や通行人をはじめ、周囲がどよめく。後ろ指差されようとも関係なく、線路を駆けた。

「京助ぇええ!」

 反対側のポールを飛び越えたとき、要の大乗音が轟いた。

 ひゅっと風を切る音する。

「!」

 目にも止まらぬ速度で何かが飛んできた。それが何かもわからなのに、掌で覆うようにしかと受け止めれば「……これ」黒塗りの、飾り気のない携帯電話だ。

「持っていけ!」

 その声は電車の轟音に被せられる。だが、確かに耳に届いた。要の姿は通過する電車に遮断される。凄まじい温風。髪が乱され、眼を細めた。ワイシャツの裾と襟が白旗のようにひらひらはためく。

 携帯電話を開けば朝比奈蓮太郎の文字があった。

 制服のスラックスで眠る、白い静寂の携帯電話を確かめる。京助は祈るように右手首を握りしめた。

 今すぐに行く。だから

「頼むから、生きていろ」



   *



 Aspect 小田切修二

 一階の職員便所の窓から侵入した修二と里子は多目的塔二階の国語資料室で息をひそめていた。しんと静まる休日の学校は明るくても気味が悪い。時々聞こえる爆竹の音が心臓に悪かった。

 修二は自分の服装と里子のものを見比べる。たまたま二人とも制服を着ていた。南高校のものを事前に入手しておくべきだっただろうか、としばし後悔したが潜入するなど思ってもいなかったことなのでしかたがない。

 四階建て校舎の学徒塔と呼ばれる南側の棟。渡り廊下で各階繋がっている、特別塔と呼ばれる西側の棟。そして多目的塔と呼ばれる北側の棟。コの字を描くように建設されており、広い中庭とサッカー場・野球場・陸上トラックが別々に存在する。県立高校にも関わらず、ものすごい待遇で設備の充実さは報道機関に取り上げられるほどであり部活動等の形跡も群を抜いている。

 今はどこの部活動も活動していなかった。当たり前といえば当たり前なのかもしれない。この学校だけで、三人もの死者が続出したのだから。

「太一からの連絡だと、最後にGPSが確認したのはここらしいんだけれど」

 そもそもハッキングなんてできたのか、と驚き少し呆れたが、今頼れるのは太一しかいなかった。

 国語資料室は施錠してあったので扉のガラス或を里子の松葉杖で叩き割った。だが中には人の気配もなければ何かを隠せるような場所ではなかったのである。

「太一から連絡はないし……」

 このままどうしようかと部屋を出たときだ。

「小田切君!」

 切羽詰まった声の里子が手招きし、人差し指を立てた。息を潜め耳を欹てると、少し、いやかなり離れたところからだったが足音がした。

「誰かいる」

 里子は松葉杖そっちのけで右足を庇いながら駆け出し、片端から教室の扉に手をかける。

「駄目だ……全部鍵がかかっている。何でこんなに整備がきっちりしているのよ、盗まれるものなんてどうせないくせに」

 明らかに人の気配がする廊下はひどく湿気に包まれている。焦りのあまり冷や汗が何滴も背中を滑った。やはり警察を頼るべきだっただろうかと考えたとき、唯一鍵のない場所を閃く。

「便所……!」

 二人は顔を見合すと、慎重に廊下を進んだ。

 十一時を過ぎて、爆竹が止んだ。廊下も階段も静けさでつつまれ、学校の外から聞こえる蝉と蛙のみが合唱する。ひどく蒸し暑かった。窓から窓を見上げれば、曇天の鬱々とした厚い雲がなおのこと不機嫌そうに空を覆っている。

 湿度で湿った廊下はきゅきゅっと音が成りやすい。響いているそれに気遣いつつ、便所を目前にしたとき同時に安堵のため息が漏れる。しかし

「えっ……」

 里子は視界が大きく揺らぐのを感じた。頭部を殴られたのだと気が付くより先に振り向けば

「また、お前かよ」

 そこには、少年がいた。

 茶色に染め上げられた短髪。浅黒い肌。背丈は修二よりも小柄だが、京助よりは体つきがよい。里子は体感したことのある感覚に目を見開き、思い出す。

 あのときも、落とされたときも、このように不意を付かれたのだと。

 里子は咄嗟に構えた松葉杖をバットのように構えてスイングする。

「う、わっ!」

 まさか反撃されることは想定外だったのか、少年は反応が遅れ腹部を殴打した。里子自身、始めて人を殴った感触に戸惑い、手に残る衝撃のあまりひるむが、

(やらなきゃ、やられる!)

 己を懸命に奮い立たせた。恐怖のあまり膝が笑っている。ギプスに覆われた右膝は痙攣している。それでも背中を向けなかった。もう一度、と構えた刹那、足元に修二の肢体が滑る。

「小田切君!」

「逃げろ志摩!」

 額を押さえる修二の目の前にいるのは大きな瞳をぎょろぎょろとさせる少年だった。明るい髪を立たせた彼が、信楽良であることは一目瞭然だった。修二は壁伝いに立ち上がると、外れた眼鏡を正し里子を渡り廊下へ押しやった。

「行け! こうなったらもう警察呼ぶぞ! 刑事課強行犯係の朝比奈蓮太郎を要請しろ!」

 修二は里子を背に、信楽の前に立つ。里子を追おうとする彼とほぼ取っ組み合いのような形になった。修二は柔道の要領で脚払いをして信楽のバランスを崩す。そのまま殴りかかろうとしたが、背後にいた少年にタックルされ再び壁に頭をぶつけた。

「巧ぃ! お前はあの三つ編みを追え!」

「分かっている! 助けてやったんじゃねーか!」

「頼んでいネェよこの童貞野郎!」

 修二と信楽が体制を立て直したのは同時のことで、信楽に飛び掛られるより先に、修二は巧に回し蹴りを食らわせた。巧はそのまま顔面から転ぶようにコンクリートに打ちつけ、四つんばいのようになる。

「誰が行っていいなんて許可した」

 ぐらつく視界の中でも、ろくに喧嘩をしない銀縁眼鏡の美少年は、的確に急所を狙う。

「野郎!」

 修二は紙一重で信楽の拳を避けたが、足元が酷くふらついた。最初の一撃で頭をぶつけたことが後を引いているようで、視界が揺れている。立ちくらみのような感覚と吐き気がした。

 信楽は緩慢な動きになった修二の前髪を掴み、そのまま膝蹴りを腹部に与える。その隙に立ち上がった巧は既に姿の見えない里子を追い始めた。修二は制止しようと腕を伸ばすが、信楽に再び蹴り上げられる。

「う、ぁぁああ!」

「ハンデがなければ、お前もっと強いんだろ?」

 信楽は心底楽しそうに笑いながら、血まみれになった修二の顔面に唾を吐き掛けた。胸倉を掴み上げ、首を絞めるように見上げさせる。

「浅月よりは楽しめそうだな」

 その一言は修二に火を点けるのに十分な言動だった。

 余裕を感じて饒舌になった信楽の腹を、脚の底で思い切り蹴り上げる。

「ぐ」!

「……楽しむ? 馬鹿いうな。それに、志摩はハンデじゃねぇよ」

 血の混じった唾液。それを嚥下した。うずくまる信楽の顔面に吐きかけてやろうかとも思ったが、下品だと己を嗜める。ちょうど鳩尾を蹴り上げた為、苦しむ彼は酷く噎せていた。ぎらぎらとさせる眼球が修二を捉える。まるで血に飢えた獣のようだった。

(――上等だ)

 恐怖はない。寧ろ、この異常を楽しめるくらい、リラックスしている。アドレナリンが止めどなく分泌されているようだ。

「かかって来いよ。気が済むまで相手してやらぁ」

 

   *



 Aspect 志摩里子

 長い廊下を、息も絶え絶えに里子は走る。

 握り締めた松葉杖と桃色の携帯電話。連絡を入れる余裕が全くない。

 右膝はとうに限界を超えている。もう痛みなど無い。ただとろとろ血が体内であふれ出しているような、凄まじい熱を帯びている。

 まだ走れる、まだ走れる。

 己を奮い立たせるアドレナリンは基準値から決壊しているようで、笑い出しそうな、狂いそうな自分を嗜めた。

 三つ編みが好き勝手に暴れ、スカーフのないセーラー服はひらりひらりとはためく。七月十日事件当時に来ていたものではなくリサイクルショップで買い直した物だった。両親は怪我について心配もしなければ追求もしない。基本的に里子に興味がないのである。

 高梨杏奈と志摩里子は母親の浮気、または強姦の末生まれた望まれない子供。

 血の繋がらない父とのわだかまりと、母からの痛ましい眼差し。彼女にとって何も知らない弟だけが支えの息の詰まりそうな『家族』。

 病院通いは決定的。……もう面倒くさいと、今此処で全てを投げなければの話であるが。

「絶対、諦めてなんかやらないけれど!」

 長い廊下を何度も転げそうになりながら進み、一階の学徒塔まで着くと背後を伺う。まだ誰も追いついてきていない。しかし足音は確かにする。咄嗟に近くの教室の扉にしがみ付くが、盗難防止用の南京錠がかけられており開かない。

「なんで……!」

 どの教室にも重々しい、金色のそれがぶら下げてあった。檻を連想させる無機質な金属。パニックに陥りそうな自分を深呼吸で落ち着かせると、松葉杖で南京錠を殴りつけた。

「早く!」

 大きな音を立てて変形する。扉が悲鳴を上げるがびくともしない。痺れる掌。痛む腕。打撲から開放されたばかりの左腕が痙攣しそうだが、構わなかった。何度も何度も殴りつける。

「ひらけぇええ!」

 懇願の叫びと、追ってきた巧に発見されたのは同時だった。そして衝撃に耐えられなくなった扉が外れたのも刹那のこと。

「てめぇ! 待ちやがれ!」

 振り返ることはしなかった。里子は教室に入ると震える左手で窓の鍵を外す。上手く力が入らなかった。自らを叱咤して解放する。しかし教室に踏み入ってきた角田が里子めがけて椅子を投げた。

 凄まじい音を立てて窓ガラスが崩壊する。 

「きゃぁあああ!」

 思わず頭を屈めて叫んだ。椅子は的をそれており、当ることは無かったがガラスの破片を浴びる。いくつかの破片で皮膚を切り裂かれるのを感じながら、ひたすら恐怖するしかない。それでも、なんとか這い蹲るように立ち上がる。

「お前、何なんだよ」

 拳で頭を思い切り殴られた。床に肢体が滑る。割れた窓ガラスの破片が制服に突き刺さり痛みに耐えることができず、叫びを上げた。

「高梨杏奈がそんなに諦められないのかよ」

 あんな女の何がいいんだ。巧は里子を仰向けにするように蹴り飛ばすと、胸を踏みつけた。

「あぐ……!」

「父親に最後まで強姦されて死ぬなんてな、可愛そうに」

 心臓の辺りに体重をかけられたせいで身動きが取れない。

「う……ぁ……?」

「どうせ、知らないだろ? あの女、死んでからも陵辱されたんだぜ?」

 虚ろな視界の中、巧の輪郭を捉えることはできない。

「大方、あの女も楽しんでいたんだろうけれどな」

 その言葉のあと、すうっと何かが消えて頭が酷く冴えた。里子は、手足をじたばたさせて抵抗することを止める。ただ降参したというように、だらりとさせて、両手を広げる。彼はその異変に気が付くことができないまま、続けた。

「売女が」

 刹那のこと、大きなガラスの破片を握りしめた里子が、巧の踝に思い切りそれを突き刺した。

「ぎゃああっ!」

 胸の上で血飛沫が上がる。

 発狂とともに心臓を踏み潰されそうになるが、か細い脚をふんばじって体をスライドさせた。床に彼を倒した後、盛大に噎せる。

「げほっ、ごほっ!」

 里子は血の味がする唾液を零した。胃液に似た苦味掛かったそれも吐く。松葉杖を拾い、何とか膝に力を入れたが、何度も転げる。右足が熱い。体中が痛い。

 額から溢れる血が視界を遮っても、それを拭って窓を再び目指す。ガラスの割れていない窓の鍵を開放して、其処から外へ身を投げた。

「くぅっ!」

 左膝だけで重心を支えた為、痺れが残る。四つんばいになりながらも、何とか校舎内から脱出した。

「ま、て……!」

 もうここまで来たら執念なのだろう。真っ赤な顔をした巧が鬼のような形相で里子を睨み、窓を飛び越える。窓枠から地面はたいした高さではないが、ガラスで切り裂かれた踝から血が噴出した。里子か噎せつつ、ずるずるアスファルトを這うが、それよりも早く、ひしゃげたような踝を引きずった角田が追いついて襟首を締め上げた。

「いやぁあ!」

「死ね!」

 懇親の力で暴れても、首に巻かれた手は骨を粉砕するかの如く力を込めている。酸素が頭に回らない。苦しいかどうかさえわからない。視界が白く染まってゆく。

――もう、だめだ。

 里子はそれでも泣かなかった。巧を睨み続けた。手に、腕に、爪を食い込ませては切り裂くように引掻いた。生きる為、生き残る為。

「死ねぇえ!」

 雄叫びのような怒声の後……厚い雲と夕焼けの色をうっすらと侍らした空に、――破裂するように鮮血が踊る。

(……え……?)

 ゆるゆると圧迫が開放されてゆく。アスファルトに体を打ち付けるように倒れると、赤い雨を浴びた。

(なんで)

 生温い。鉄臭い。人間の中で暴れるように巡っているもの。誰もが持つその鮮やかな深紅。

(私)

 里子はそれを血液だと最初から認識していながら、肯定しない。

 そんなことがあるはず無い。

 どさっと、自らに覆いかぶさるように倒れてきた巧の肢体。思わず甲高い悲鳴を上げて、振り払った。

「いや、いやぁあああ!」

 ずるずる後ずさり、花壇に衝突する。もう噎せることも忘れた。マラソンの後のように上がった呼吸と心拍数。吹き出た脂汗。胸の辺りの襟をぎゅうと抱きしめて、巧を後ろから刺した人物に恐怖した。

「えーと、あーと?」

 聞きなれないその口調。先日初めて聞いたばかりの口調。

「大丈夫?」

 履き鳴らしたスニーカーを、踵を潰して履いている。襟ぐりにラインの入った、南高校の制服を着用した細身の体。グレーのパーカーを羽織って、真っ赤な包丁をぶら下げた彼女は里子を見下ろす。

 サイコロのヘアゴムでサイドテールに結い上げた鏡友花は、濁った瞳を里子に向けて、ゆっくりと告げた。

「……えーと、あなたは、私の邪魔を、するのかな?」



   *



 Aspect 朝比奈蓮太郎

 蓮太郎は椎木海斗を始め、信楽良や角田巧の自宅を転々としていた。薄々予測していたことだったが、彼らは自宅におらずろくに帰っていないという情報を何度も確認するばかりで収穫は無い。路上駐車した愛車のレガシィの中でため息をつく。京助を向かえに行かせた要に連絡を入れようと、携帯電話を取り出したとき、ちょうどそれは振動している。

「……非通知?」

 怪しみ、眉を顰めると警戒しながら耳に押し当てた。

「サァ、ゲームノ始マリダ。愚鈍ナ警察諸君。犯人ヲ止メテミタマエ。奴ラハ殺シガ愉快デタマラナイ。人ノ死ガ見タクテショウガナイ。汚ク生キ恥ヲ晒ス全テノ大人二戦線布告スル」

「……おい」

 どこかで聞いたことがあるフレーズだ。そして安っぽいボイスチェンジャーに眩暈がする。

「……模倣犯か。てめぇは」

「オヤ、私ガ誰かオワカリカ?」

「一世を風靡する都市伝説。俺に言わせればピカレスクロマンに酔っ払うクソ野郎。『バネ脚ジャッキー』だろ?」

 耳障りな笑い声がしばし流れた。おいと静止をしても関係ない。天真爛漫を思わせる相手は、まるで少女のように無邪気だった。その笑い声はボイスチェンジャーではない。

「よう、蓮太郎」

「……黒奈?」

「おう。ボイスチェンジャーだからと言って、『バネ脚ジャッキー』とは限らんでありんす」

「何やってんだこのクソ忙しいときに!」

 おおよそ受話器の向こう側で、楽しそうに笑っているのだろう。椿屋店主の幼馴染、唐沢黒奈のにやにやと口元を歪める美しいかんばせを思い出し、蓮太郎はがしがし頭を引掻いた。

「なんだ。犯人候補の自宅へ出向いたはいいが、何もできずいじけたタマ無し野郎の分際で私の声を落胆と受け取りやがった分際で」

 何故それを。まさか発信機でも体に埋め込まれいるのでは、と寒気が走る。

「……知ったこっちゃあるか。てめぇで体張って何もできない、引きこもりのタマ無し野郎の悪態なんざ耳に入れても痛くも痒くもねぇ」

「タマなんて生まれたときからないでありんす。そんなもんぶら下がっているヒト科のメスなんて異常でありんしょう」

「魂の意だっつーの!」

 思わず携帯電話を握る力が強くなった。

 冗談なのか本気なのかは分からないが、どうしようもない低レベルな下ネタである。

「で、何をしても空回りで高校生に助けられないと事件解決なんてできなそうな役立たずの朝比奈蓮太郎」

「警官侮辱罪でしょっ引くぞ」

「おっさんの分際で繊細でありんすねぇ。センチメンタル気取りやがってキモチワリィな」

「最近の警察はみんなガラスのハートなんでね。ざまぁみやがれ。一回二回司法解剖に立ち会わせただけで靴の中に画鋲仕込むくらい意地が悪いぞコノヤロウ」

 黒奈はひとしきり笑うと、憤慨としている蓮太郎に「まぁ聞け」と切り出す。

「樹要が浅月京助を無事引き取りに来たでありんす。浅月京助は体中三毛猫柄に変色するまで殴られて、睡眠薬を飲まされているわりには元気でありんすよ」

 どう反応するべきか、わからなかった。そして返答する間は貰えなかった。

「蓮太郎……大塚誠二を知っているか?」

「高梨杏奈の担任……か?」

「そうだ、旧姓、高梨誠二」

 それが何を意味するのか、察せない蓮太郎ではない。唖然と絶句する数分の時間も与えることなく黒奈は続ける。

「蓮太郎。高梨杏奈の児童ポルノ騒ぎの件。あれは本当に高梨杏奈自身が望んだことだと思うか?」

「……父親に強制された?」

 信憑性はない話だが、黒奈は合理性だけを優先させる、いわば機械のような女だ。無意味なことを好むとは思えない。

「可能性がないわけではないはずだ。それと、もう一つ。確認したいんだが」

「事件のあった日。七月一日にあの男のアリバイは成立しているのか?」

「あぁ。近所の飲み屋で同僚と一緒にいたはずだ」

「……それは、彼女の死亡推定時刻と発見時刻を元にして、あの廃ビルで絶命したことを想定して割り出した時間なんじゃないのか?」

 眼を、思わず見開いた。頭の中で渦巻く謎が整理されていく。そう、根本的なことを疑っていなかった。黒奈の声に重ねて低く唸るように呟く。

「本当に、高梨杏奈はあのビルから転落して死んだのか?」

 蓮太郎は失念していた、と後悔する。彼女の電話が切れた刹那、思い切り髪を掻き混ぜた。

 そう、連続飛び降り自殺のきっかけを作ったのは高梨杏奈の死であることは間違いない。だが、ハジマリの彼女は飛び降り自殺をしたとは限らないし、転落死したとは限らない。あらかじめ殺してあった死体を転落死に見せかけることは、死因を偽装する手段の中でもっとも単純な方法だ。

 現に、高梨杏奈の死体は原型を留めない部分があるほどひどく損傷している。

「完璧な死体に疑問を持つべきだった、ってことかよ」

 蓮太郎が舌打ちをしたとき、着信が入る。ディスプレイには『樹要』と表示されていた。

「要? お前今ど……」

「朝比奈さん。あ、浅月です」

 踏み切りの音が電話を通して聞こえた。上手く聞き取ることができず眉を顰めると、意外な相手が名乗る。

「浅月京助です」

 走っているのだろうか、息も絶え絶えに、珍しく間延びしていない声が届く。

「今すぐ、南高校へ向かってください。国道四号線脇の道で玉突き事故があって、要さんが足止めをくらったんだ」

 蓮太郎は困惑しつつも車をスタートさせた。アクセルを蹴り飛ばすように踏み込み、加速する。パトランプを装着するとハンドルを強く握り締めた。

 京助はひどく困惑している様子で、何度も言葉を詰まらせていた。蓮太郎は電話を通してもわかる、彼らしくない動揺に困惑する。

「南高に、修二と里子が」

「おい」

「あいつら、あいつら俺のせいで」

「落ち着け京助!」

 蓮太郎の胸の鼓動は、自分でも信じられないくらい暴れている。だらだらと冷や汗が噴出した。きっと京助も同じなのだろう。焦った彼の声音は、ひどく震え、怯えていた。

「お前は、無事なんだな」

 焦るなと、己にも彼にも言い聞かせた。

「……はい」

「よかった」

 蓮太郎は胸を安堵させると、見えない京助に向かって告げた。

「すぐに行く。だから、信じて待っていろ」



   *



 Aspect 小田切修二

 モップの柄を握る修二は皹の入った眼鏡を正す。視界が悪い。だが眼鏡がなくなるよりはましだ。修二にとっては命綱みたいなものなのである。

 殺し合う様な殴り合いなど無論初めてのこと。全身のあちこちが痛む。特に最初に殴られ、廊下のコンクリートに打ち付けた頭部が一番酷い。瘤ですむといいのだが、わずかな頭痛があまりに長い時間継続しているので期待できそうにない。

「窓ガラス」

 割れる音がしたが、大丈夫だろうか。

 至る所から外を伺っても様子が見えない。しかし、心配したところで今里子の元に駆けつければ信楽良も引き連れることになる。

「あれは」

 ただの獣だ。正直感じた恐怖に身震いした。ただの馬鹿かと思いきや、とんでもないケダモノだったのである。

「まったく、その凶器に匹敵する拳を生かし、ボクサーを目指せ」

 何とか里子から注意を反らさせることはできたが、修二との力の差は明白で、敵う相手ではなかった。

 力の差、いや、経験の差だ。

 運動神経に優れ、剣道や空手などの武道を心得ていても、修二はあくまで殴りあいはしたことがない。めちゃくちゃな対術でも、経験がものを言うのだ。先ほどはなんとか彼の元から逃げ出すことはできたが、今遭遇したら間違いなく危険だ。息を整え、緑色の、物干し竿のようなモップの柄を二・三度素振りする。竹刀よりも細く、握り心地が悪い。脆いし、長さも異なるので間合いも計りにくい。しかし、贅沢など言っていられる状況にない。

「こういうときは、三十六計逃げるに如かず、ってな」

 現在修二のいる多目的塔の構造は学徒塔などと異なり、階段は中央にしか設置されていない。外に取り付けられている非常階段もない。その上何故か四階にだけ渡り廊下がなかった。非常階段から逃げるにしても、一階まで降りるにしても、信楽のいる階段を使用しなくてはならない。

「……」

 最大限に集中し、息を潜めた。そっと様子を伺うと一目散に屋上へ向かって駆け出す。 ふらつく体を壁に伝わせた。這うように登る。下から追いかけてくる気配を感じ、肩口から振り返れば

「ご苦労だな。小田切修二」

 正面から突き飛ばされる。バランスを崩し、階段から転げ落ちた。

 四階踊り場に体躯を叩きつける。大きくぐらりと揺れる視界。口内に広がる血を唾液と共に口の端から零す。背骨に伝わる激痛に大きく呻く。

「お前の考えることなんて手玉に取るようにわかるっつーの。学徒塔に設置されている非常階段に目をつけたんだろ?」

 人は、自分が優勢になると饒舌になる。ぺらぺらと湯水の如く喋りだす少年は、血色の夕日をシルエットに屋上の扉の前に起立していた。開放されていることから、どうやら待ち構えていたらしい。南高校は学徒塔も多目的等も特別塔も渡り廊下で繋がっているのだが、屋上同士ほぼ隙間無く並んでいる。その気になれば簡単に飛び移ることが出来るのだ。

「お前の考えと同じように、俺は学徒塔の非常階段を登ってきたってわけだ。ついでに言うのならば、屋上の鍵は内鍵だからな。閉じ込められることはありえないようになっている」

 信楽にばかり気に取れ、生じた誤算だ。

「椎木海斗!」

「ご名答。俺の名前、覚えていたんだな」

 黒地に銀色の英字の入ったTシャツ・制服のスラックス。細い体の線が強調される軽装だが、大人びたかんばせを最大限に引き出させている。

「悪いが浅月京助はここにいないぞ」

「な!」

 驚愕に目を見開いた修二の表情を見て、椎木はうれしそうに笑う。

「今頃墓場で寝ているんじゃね?」

 読みをしくじったことに舌打ちすれば、尚もニヤニヤしている椎木は楽しそうだった。

「それにしても……関東大会で顔合わせした相手は忘れないってか」

 竹刀を掌でぱしんぱしん叩きながら、頬をにぃっと吊り上げて笑った。

「いいや、違うな。お前は一度も俺に勝ったことが無かったから、悔しくて記憶から消えないのか」

「……竹刀を凶器にするな」

 ふらふらと立ち上がるが、視界がぼやけている。眼鏡がどこかに消し飛んでいた。

「モップの柄を構える野郎がよく言うな。形は剣道のものだろうに」

 ぼやける視界。ふらつく体。それでも修二はモップの柄を椎木に振りかざす。それよりも早く、彼は修二の鳩尾のあたりを狙い突いてきた。咄嗟にモップで防いだとき背後に何か気配のようなものを感じる。そして、左のわき腹に痺れの衝撃が走り、鈍い音がたった。

「痛ぁあっ!」

 輝く鈍らの金属バットがそこにある。いつの間にか追い付いた信楽に撃ちつけられたのだ。ずっしりとした重みと電気を流したような痺れと熱が、全身に迸る。倒れる体躯は、まるで自分のものではないように言うことを聞かない。体の器官、全てが麻痺したようだった。

「ひゃはは! もう一発!」

 続いて右脛に振り下ろされる。修二は喉が張り裂ける勢いで、自分のものとは思えない叫びを上げた。

「死ね!」

 空間をも遮断する勢いで、ギロチンのように再び金属バットが振り上げられる。

 ――それが修二の頭に下ろされなかったのは

「やめろ」

 熊のようにずんぐりとした体系の、ジャージ姿の男がバットを空中で掴んでいたからだった。

(……誰だ?)

 修二は体を滑らせて三人と間合いを計る。立ち上がることは出来ない。這い蹲るように後ずさりをした。唖然と男を見つめる二人は、口をそろえて大塚先生、と呪いの言葉であるように呻く。

「殺すならば、落とせ。死体処理が面倒だろう」

 まるで汚れ物を見るかのように、大塚は修二に視線を送った。

「ったく、何が目的でこんなところに来たのは知らないが、とんだ厄病を呼ぶな。あの女は」

 それだけ言うと修二に掌を差し出した。

「携帯電話。よこせ。変な気でも起こしたら拷問ですまさないぞクソ餓鬼」

 顔を背ければ拳で殴りつけられた。もうやめろと庇うように、制服のポケットから毀れ出る。大塚は信楽から奪った金属バットを握った。修二が咄嗟に手を伸ばす。

 大塚は指ごと、迷いなく携帯電話を粉砕した。

「あああぁ!」

 あたり一面に嫌な音がした。金属が破裂すように砕けた音と、骨が潰れた音。あまりの衝撃に痛覚が正常に機能していない。痛いかどうかすら分からなかった。

 右手、薬指と中指の第二関節は完全に粉砕されていた。ぷらぷらとぶら下がる状態になったそれは、青紫に変色し、傷口から盛大に血を噴出している。黄色い、少しとうもろこしに似た脂肪が覗いて見えた。

「黙れクズが」

 唾を吐き捨て、大塚の大きな足が至る箇所へ飛んできた。

「クズが、クズが! 次から次へと涌いて出てきやがって! ははっ! なにしにきやがったんだ? え? お前ここの生徒じゃないだろう? 可愛そうなクズだな。死期を自分で早めたか? え?」

「……そのへんにしないと、死にますよ」

 椎木の声音は震えている。熊のようなずんぐりとした体系の大塚の、グローブのような掌が今度は椎木を捉えた。胸倉をつかみ上げ、殺す勢いで締め上げる。

「ぐ、ぅ……!」

「俺に意見するのか? あん?」

「ち、がいます……!」

 大塚の腕を引掻くように爪を立てる。しかしびくともしない。信楽がやめろと二人の間に入るまで首を絞めるかのように力を込めていた。

「ふん。まあいい」

 椎木の軽そうな頼りない肢体を突き飛ばすと、信楽に向かって顎を杓った。それは屋上へ連れろ、という意味だ。修二は抵抗できないまま襟首を摑まれずるずる引きずられる。

「ちくしょ……」

 ここで、こんなところで殺されてたまるか。

 だが、右の脛に凄まじい熱が帯びていて、どうにも動きそうに無い。膝にも力が入らなかった。おまけに脳震盪が、今になって悲鳴を上げている。

 二人の少年が襟首から手を離した瞬間、コンクリートに肢体をぐったり倒すことになった。

「重めぇなぁ。これ以上引きずるの、面倒くせえよ」

 修二はオレンジ色の日光に包まれながら、あぁいよいよかと恐怖する。大塚の手が、伸びてきた……刹那のこと。

――飛び込んできたのは



「止めておいたほーがいいぞー。てめーら」



 呆れるほどに聞きなれた声だった。

 間延びした口調。緊張感に欠けていて、気だるさと眠気を感じさせるそれ。

 修二は希望のあまり目を見開く。眼鏡が無くても、頭を殴られたことで視界がぼやけ歪んでいてもわかる。

「実の娘を殺すことだけじゃ、飽き足りなかったか? 大塚誠二」

 低く、はっきりとしている少し早口の男の声。

 修二は思わず笑った。神様がもしいるのならば、今日という日ほど感謝することはこの先も後も無い。運命の女神は微笑んだ。今確かに、この瞬間に。

 大塚の前に凛然と起立する二人の男。復讐という大きな過ちを犯した浅月京助と、復讐を果たすことが出来ず生きる意味を失った朝比奈蓮太郎。

 ワイシャツにスラックス。黒いタンクトップという、これほどにないまでシンプルな軽装に美しいかんばせを魅せる京助の瞳はいつもの眠気眼ではない。

「そろいもそろって、休日にまで登校なんざ、よっぽどの優等生かい?」

 蓮太郎は軽口を叩きながら携帯灰皿に煙草をねじ込む。新しいものを咥えたが、火は燈さなかった。さらさらと靡く艶やかな黒髪が生ぬるい湿気た風に舞い上げられる。威嚇する猫のように、切れ長の瞳を輝かせた。

「修二」

 京助は大塚の脇をすり抜けて、椎木海斗にも信楽良にもかまわず、修二の下へ一直線に闊歩する。大胆すぎる彼にびくりと収縮しても、そんなことにかまわない。ただ親友の傍で、彼は言った。

「痛てぇーか?」

「……当たり前だ」

 そんな明白なこと、聞くなよ。

 青痣だらけの親友が己の野暮を笑った。ここまでよく粘ったと、彼は額を撫でる。

「やっと、会ったな嘘つき野郎」

「なーに言ってんだ。今、俺はちゃんとお前の見えるところに来たじゃねぇーか」

 京助はそっと音も無く修二をかばう様に凛然と、猛々しく起立する。

「さぁ。全ての種明しを始めよーか」







































































 七月十九日 海の日 Monday



   後編







 高梨杏奈はたいそうシニカルで、現実主義で利己主義で……。子供らしいあどけなさを残す童顔は美しい異型であり、誰もが認めるかんばせをいつも不機嫌そうにむっつりさせていた。

 平均身長くらいの背丈。すらりと長い手足。細い肢体は折れそうで、眩しいほどに肌は白い。美しい獣だと、人は息を呑み、愛でる視線をひたすらに送りながら、妬み、羨む。

 彼女は自らの体を誰かと重ねることに、一切の抵抗をみせないそうで、利益の為には多くを切り捨てた。美しさという毒に犯された芸術家たちが彼女に群がる。まるで甘い蜜をすする蝶のように。

 美しさは甘美で、強く依存させる毒だ。

 彼女を求めるそれらは石膏を眺めるように彼女を描いた。

 咲かない蕾。

 美しいまま死んだ咲かない薔薇。

 ある芸術家の作品が大きく衝撃と反響を生んだとき、どこからか高梨杏奈がモデルであることが明かされた。

 もともと多くのプロダクションから眼を付けられていた彼女は多くのメディアから格好の餌食だった。

 それでも、凛然とした横顔が、毅然とした姿勢が、崩されることはなかった。

 強い少女。弱さのない少女。死んだように生きる少女。美しさに愛された少女。

 ……彼女が死ぬなんて事を誰も予想しなかった。

 そしてそれ以上に、彼女の死がこんなにも大きな代償を伴うことを、高梨杏奈自身知らなかった。



 Aspect 浅月京助

 ゆっくりと紺青に染まる空。背筋をぞくり硬直させる肌寒さを誰もが感じた。

 京助と蓮太郎の顔をみるや否や、身構えるように殺気立った視線を浴びる。それは威嚇している動物のようで、いつ殺しに掛かってくるかわからない。京助は信楽の手にしているバットを見て、これなら自分も何か用意するべきだったと後悔した。

「警察か」

 大塚がじりじり後ずさりしながら、蓮太郎を青ざめた表情で見つめる。彼は視線を鼻で笑うように振り払い、「手帳見るか?」と火の付いていない煙草を噛んだままにいと口元を歪める。

「ちっ! やってられるか!」

 即座に踵を返す背中に、ケダモノのような俊敏さと獰猛さを備えた蓮太郎は遠慮なく掴み掛かる。

「こっちの台詞だ変態野郎!」

 腕を骨折させかねないような力で捻りあげれば、ぐう! と熊のような呻きがあがる。加勢しようとする信楽に向かって大塚を背負い投げ、ぶつけた。

「動くな、って言われないとわからないか、馬鹿どもめ」

 頭と腰をぶつけた大塚と、その下敷きになった信楽がゆっくりとした動作で上体を起こす。いくら喧嘩が強くても圧倒的に経験数の違う現役の刑事には敵わない。力量の差が悔しいのか、高校生にも見紛う小柄な男に投げられたのが屈辱なのか、大塚は額から垂れる血を拭いもせず、ひたすら睨んだ。

「……どうしてここまで辿り着いた」

「想像した」

 京助は右手首を握り締め、己を落ち着かせると補足する。

「それだけか」

「信じられないだろうけれど、本当だ。このがきんちょ、ただの馬鹿ではないらしい」

 蓮太郎は自分のことのように自慢げだった。京助は、いつもの猫背を意図的に改善し真っ直ぐ見つめ返す。高梨杏奈がきっとそうだったように、うろたえることも逃げるような素振りもやめた。一切の迷いを切り捨てるつもりで凛然と望む。それが京助にとって、この世にいない彼女の為の、弔い合戦だ。

「あらかじめ言っておく。俺は探偵じゃねぇーし刑事でもねぇ。だから犯罪者を捕まえることも無ければ、推理することもろくに出来ねぇ。俺にできるのは目の前にある情報を繋ぎ合わせることと、それに屁理屈をこねてなんとか形を作ることだけだ」

 急に何を言い出すのかと一同が怪訝な表情をつくるが、かまわず二の句を続けた。もとより誰かの意見を聞き入れるつもりなど一切ない。

「つまり証拠なんてねぇし、検証なんて無理だ。妄想と捉えてくれてもいい」

「なんなんだお前」

 苛立ったように椎木が詰め寄る。突然現れた異様でしかない闖入者が気に入らない彼は激しい嫌悪を浮かべていた。

「昨日はどーも。おかげで腹が三毛猫柄だ」

「嫌味な野郎め」

 椎木の舌打ちの後、蓮太郎は手帳を開いた。

「……六月二十八日、河川敷でのホームレス放火事件。事件発生時刻、たまたま犯行を目撃した人物がいた。その人物が何を思って、何をためらってかは知らないが、すぐに通報せず近くの高梨杏奈の自宅に向かった。だが、高梨杏奈はあしらったのだろう。「自分をまきこまないでくれ」と。そのため目撃者は翌日の二十九日に通報した」

「ゴチャゴチャうるせぇんだよ!」

 話を遮り、信楽が蓮太郎に詰め寄り、金属バットをスイングする。京助が止めようと踏み出すより先に、蓮太郎は体を反転させてバットを避けた。そのまま信楽の手を革靴で蹴り上げる。

「バットは人を殴るものじゃないんだよガキ!」

 ひるんだ隙を見て信楽の胸倉を掴み、柔道のように背負い投げる。なにか大きなものを落としたときのような大きな音を立てて、信楽は完全に意識を飛ばした。白目を向いて泡をふき、痙攣したている。

 あまりのど迫力に一同は唖然とした。死んだのではないかと心配するが「大丈夫だ。俺、警察だから」分けのわからない理屈を返される。手加減はできるという意味なのだろう。

「……そーいうわけだ。だいたい当てはまっていねぇーか? ……鏡」

 京助は一瞬ばつの悪そうな顔をするが、学徒塔の剥げた塗装の階段を睨むようにして問いかける。屋上にいた全員の視線が、いっせいにその方向へ向けられると。そこには優雅に螺旋階段に脚をかける鏡友花の姿があった。

「おい、なんであいつが」

 椎木の問いには誰も答えなかった。

 右手に携帯電話。左手に出刃包丁。プリーツスカートを生ぬるい風に靡かせて、踵を潰したスニーカーを履いている。

 全身に血を浴びた鏡友花は「えーと、あーと、うん。そうだね」首を傾げて同意する。矛盾が生じている気もしなくはない。

「あの時、通報しようとしたらケータイの電源が切れたのよ。あーと。だから電話をかしてって近くの杏奈の家に行ったの。そしたら、ここから電話するなって。よからぬことに巻き込まれるから……。今、やっとわかったよ。杏奈はずっと前からそいつらが犯人だって知っていて、私が通報したとばれたら危ないって、心配してくれていたんだね」

 階段の傍から、一歩も微動せずにじっとこちらを見つめている。血に汚れた顔で、首をかしげたままの少女はあまりに異常だった。大塚が後ずさりをして逃げようと、今度は校舎の方向へ突進するが、蓮太郎が逃がすかよ、と前に立ちふさがる。

「……鏡友花は、通報していても放火した犯人が誰であるか、何名かを認識出来ていねぇー状態だった。だから警察も捕まえることは不可能だった」

「えーと、あーと。だって暗かったからね」

 探偵もどきと殺人犯もどきが和解して、事件を答え合わせしている。シュールで奇妙で奇抜。ごほんと咳払いした蓮太郎が言葉を繋いだ。

「七月二十九日午後。『目撃情報から犯人は複数名』という報道が流れ始め、情報提供者がいることを、犯人は、お前らは恐れたんじゃないか? で、たまたま手に入れたのが二十八日に高梨杏奈が、事件を起こした河川敷の傍を歩いていたという情報」

 おそらくは帰宅途中のことである。彼女は三人を通報した人物だと勘違いされたのだ。

「彼女の本当の死因は知らねぇー。俺は階段から突き落とされたんだって想像したけれどな。実際どーなんだよ」

「……そうなんじゃねぇの?」

「なんて奴……!」

 友花が口を挟むと、椎木は鬱陶しそうに彼女を一瞥すると「殺すつもりはなかった」とため息をつく。

「嘘よ!」

「本当だ! 脅す程度、怪我させりゃ少しは大人しくなると思ったんだけれど、高梨が勝手にあっさり死んだんだ」

 黙って聞いていた修二と蓮太郎が椎木を殺しかねない気迫で睨み付けた。京助は冷静にそれを制すると、大塚に向き直る。

「その後、偶然かどうかは知らねぇーが、高梨杏奈の死体を発見したあんたは警察に事件として処理されたとき自分が疑われることを恐れた。……高梨杏奈がヌードモデルとして稼いでいたのはお前が脅迫したんだろ」

「さぁな。忘れた」

 下手な白の切り方。認めたも同然の物言いはもはや投げやりだった。

 大塚が死体処理に協力をしたのは、自分の素性を調べ上げられたとき、彼女との関係を他人に知られるかもしれないと恐れたからだ。現在の戸籍上他人でも、さかのぼればすぐにばれてしまう。

 本来なら死体を自殺に見せかけ、そこで全て終わるはずだった。

 だが、児童ポルノ法について騒がせたとき、散々マスコミが彼女をバッシングしただけあってマスコミが追い詰めて殺したのではないかと囁かれ始めた。

 高梨杏奈は同情の対象になり、杏奈をバッシングした記者は処分を受け、杏奈は『復讐』をした形になった。それは自殺志願者達に「飛び降りれば簡単に死ねる」「飛び降りれば彼女のように同情してもらえる」「飛び降りれば間接的に復讐できる」という影響を与える形となり、全国で学生の自殺が偶然で連続するようになった。

 そして、鏡友花は自分が関わった後すぐに亡くなったという事実に納得するわけがなかった。

 友花は自分が杏奈の静止を無視し通報したせいで杏奈が殺されたのだと考え、暴行事件を調べ井川勇一にたどり着いた。そして月館麻緒が『バネ脚ジャッキー』に頼んで高梨杏奈を殺したという噂を耳にし、井川勇一と月館麻緒が高梨杏奈殺しの犯人だと思い込んだのだ。

 京助はじくじくと痛む腹を押さえた。遠くのどこかでヒグラシの声がした。どんどん冷え込む暗い空の下、誰が味方なのかの境目があやふやな屋上の空気だけがひたすら冷えきっていた。手首を握り締め、続ける。

「そこから先は俺が十七日に言ったとーりだ。鏡は『バネ脚ジャッキー』に成りすまして、月館麻緒に「高梨杏奈を消してやったんだから対価を払え」と執拗に求め、彼女を歩道橋で落とそうとするパフォーマンスを仕掛ける。散々信憑性と恐怖を植えつけた後、『落下姫』として接触し「助けてあげるから言うことを聞け」と要求した。

 井川には、月館麻緒がホームレス暴行について警察に出頭しようとしていると嘘をつき、呼び出す。そして七月十四日、放火されたホームレスの仲間を雇い井川勇一を殺害させた」

 しかしその後、ホームレスたちの証言により友花は、暴行事件と放火事件の犯人が同一人物と勘違いをしていたことに気が付き、高梨杏奈を殺害したのは井川勇一や月館麻緒ではなかったのかもしれないと疑惑を抱く。

 そこから彼女は行き詰まった。高梨杏奈の犯人を推理することができなくなったのだ。

 彼女は自分の的外れな推理を恥じてか、それとも思い通りに行かない根源の京助に呆れてか、つまらなそうに唇を尖らせる。

「あーと。こんなことになるなら、昨日助けなければよかったかな? 浅月君のこと」

「それに関しては素直にありがとう。危うく墓場で朝を迎えることになりそーだった」

 普段あまり口数の多くない京助はこの日は限りなく饒舌だった。

 仔細を見ていけば指摘するところが多く出てくるだろう大雑把な彼の『想像』は大体的を射ていたようで、大塚や椎木にとって戦意を喪失させるには充分だった。言い逃れができないことにか、逃げられないことにか、大塚は苦虫を噛み潰したような表情で、苦渋のあまり小さく呻いていた。遠くでパトカーのサイレンが聞こえ、蓮太郎は遅ぇと悪態を付く。

「あとは、署で詳しく説明してもらうぞ」

 蓮太郎は懐から手錠を取り出して、それを大塚の手首に嵌めようとした――刹那。

「はっ……!」

 一瞬、何が起こったのか誰にもわからなかった。

 衝撃を受けた本人である蓮太郎すら分からなかった。

 蓮太郎は……その場で膝を綺麗に畳むようにして崩れる。そっと掌を、衝撃を受けたほうへ向ければ、ぐちゃっと粘着質な音を立てて何かが引き抜かれた瞬間だった。勢い良く、一面に鮮血が舞う。蓮太郎にとって信じたいことではなかったが、確かに己の腹から飛び出す、血飛沫だった。

 叫び声も、痛みによる呻きも出ない。刺された患部にあるのは信じられないほどの熱。

 とろとろと溢れ出るそれは、ひどく生ぬるい。ぼたぼた音を立てて流れて、とめどなく溢れて、生臭くて鉄臭い。

「朝比奈さん!」

 悲鳴に似た叫び声が京助のものか、友花のものか、修二のものかもわからない。蓮太郎含め一斉にして血の気が引き身動きできずにいる。

「来るな!」

 血のついたカッターナイフで牽制する椎木が震える手で刃を向けていた。

「もう、終わった。みんな終わりだ」

 椎木はうわ言のように、壊れたように言葉にすると髪を振り乱す。雄たけびのような声を上げると、血のついたカッターナイフで空気を切り裂いた。

「みんな俺が考えたんだよ! ホームレスのカス共の一人や二人、放火したところで誰も困らない。人間のカスの癖に、生きていても死んでいても変わらないくせに、よほど死にたくないのか一生懸命逃げようと懇願する。……俺は街を掃除してやってんだよ。邪魔な奴らがいなくなっていいじゃないか。 でもな、高梨杏奈は俺に言ったんだよ!」

 地団太を踏む聞き分けのない子供のように叫ぶ。普段の人を食ったような笑みや、嫌味な表情、大人びた姿は無い。凛とした横顔はただの異常者に変わっていた。

――「あんなことして、何が楽しいの?」

――「理解に苦しむ馬鹿野郎ね。死んでも治らなそうな病気だわ」

 生まれてこの方、何もかもを手玉のように扱ってきた椎木は努力をしない天才だった。何をしても人並み以上。劣ることなど無い。成績優秀・才色兼備・文武両道。だが、何をしても彼を満足させるものなどない。天才故の悩み。ただ、唯一どうしようも出来なかったのは、高梨杏奈という美しい少女。

「あの女は、俺に恐怖も嫌悪も感じちゃいない。俺よりも劣っているくせに、いつでも見下してきやがる」

 あの視線が許せない。

 自分を見ない高梨杏奈が許せない。

 周囲はこんなにも恐怖の視線を自分に送り、道を歩けば慄くほどなのに、彼女だけは屈服しない。

 通報した人間の候補に彼女の名前が挙がった瞬間に、格好の機会とばかりに殺人を決意した。なんでもいい。理由が欲しかったのである。そのため、通報した人物が実際は彼女ではなくてもいいと安易に思ったのだ。とにかく嫌悪しか抱けない不快な少女を、殺さなきゃ気がすまなかった。

「そんなことのために……!」

 理解できるわけもない告白を静かに聞いていた友花は低く唸った。握った包丁を椎木に向ける。血と、鈍く輝く鋭い彼女の怒りの化身が怒りで戦慄く。

「そんなことのために、杏奈を殺したのか!」

 椎木ような自分勝手でくだらない人間の嫉妬に、茶番に、彼女は付き合わされて死んだのならばそれほど浮ばれないことはない。理不尽なことはない。

 友花は怒りのあまりに毛が逆立つのを感じる。対立する椎木も、そんなことと踏みにじられたことに憤慨して地団太を踏んだ。

「黙れ! 元をただせばお前が余計なことをしなければ高梨も無事だったんじゃないのか? 余計なこと働きやがって! お前だって所詮自分のしたことの罪償いで井川たちを殺したんじゃねぇか!」

「違う! 罪悪で殺したんじゃない! 私は杏奈が好きだったから、お前みたいな奴が許せないんだ!」

「やめろお前ら!」

 京助の制止を振り払い、二人の距離は一気に縮まってゆく。修二も京助も唖然と口を開けることしか出来なかった。友花が飛び掛り、彼女の出刃包丁が空を切る。椎木もカッターナイフを突き出すが、彼女は難なくそれをかわした。至近距離から、互いにじりじりと間合いを広げたり、縮まったりする。

 対立する蓮太郎の血を滴らせたカッターナイフと、誰かを殺傷した……おそらく角田巧のものだろう。脂でずるずるになっている出刃包丁。

「ふざけんなよ」

 修二が止めようと身を乗り出すが、右脛は変色して青紫色に変わっていた。何かが生まれそうだと錯覚するほどに腫れ上がり、酷く熱を帯びている。立ち上がれないことは素人眼でも明白だった。

 京助は咄嗟に信楽の金属バットを手にしようと腕を伸ばすが背後から体を強く一蹴される。

「京助!」

 修二が叫ぶが間に合わず、京助はコンクリートの上を滑った。蹴りを入れた大塚は、京助よりも先にバットを手にし、獣のように咆哮したかと思えば、急にだらしなく笑った。

「全部お前のせいだクソガキ! クズの分際で!」

 焦点が合わない眼は血走っている。即座にバットが京助の真上に振り上げられた。逃げなくては、とわかっていても、恐怖のあまり足がすくむ。だが、それ以上になにかわけのわからない怒りのような感情が、京助の中の畏怖をぶち壊す。

「……ッの野郎ぉおおお!」

 立ち上げると大塚の懐に突進し、ヘッドバットを鼻面に食らわせる。確かに感触を捉えると、そのまま懐の中で鳩尾めがけて拳を叩き込んだ。自分より頭二つほど大きい彼の強靭な体躯は二、三歩後退し踏みとどまった。

「観念しゃーがれ」

 その隙に、拳を、顔面めがけて叩き込んだ。大塚が顔面を抑えて倒れこみ、鼻血をぼたぼたと醜く零すのと京助が手の甲の痛みに悶絶するのは同時だった。大塚の前歯を思い切り殴ったことで、甲がぱっくり裂け、歯が刺さっていた。

「痛ってぇ……なれないことはするもんじゃねぇーな」

 金属バットを拾い上げたとき、近くで鳴り響くサイレン。凄まじいパトカーと救急車の音に囲まれている。屋上からでも覗える中庭に、見慣れない量の白と黒の乗用車がずらり並んだ。友花と睨み合う椎木ももう逃げられないのだと、ついに気力を失ったのかその場に崩れる。

 蓮太郎の傍に駆けつけると体を揺さぶって声を掛けた。血みどろになったシャツ。血溜りを形成している。だが、大量の出血のわりに傷は小さいのか、彼に意識はあるようで、大丈夫だ、と口にした。

「……終わった」

 誰かが、そう言葉にした。だが、安堵するほどの時間は与えられなかった。すうっと、音もなく友花と椎木の間をすりぬけ……。

 大きなガラスの破片を手にした里子が、戦意を喪失した大塚の前に立っていた。



「あんただけは、許さない」



 誰もが眼を疑う。

 三つ編みにセーラー服。もう二度と袖が通せないほどに血で汚れている。青白いほどに生気のない肌。か細い指が持つガラスの破片。学徒塔の非常階段から、駆け上ってきただろう彼女に誰一人として、気が付くことなんて出来なかった。

 温風に靡く三つ編みの姿の彼女を、誰もが驚愕の瞳で見ていた。

 ……鏡友花以外は。

「……殺っちゃえ」

 友花が無邪気に口にした。……友花は巧から里子を助けたとき、自分と同じ復讐を望む者と察した。だから殺さずに、しばらく時間が経過したら来て、と伝えたのだ。

「計画通り」

 友花は一人、頬を歪める。

「ねぇ、見てよ、浅月くん。最後に笑うのは『バネ脚ジャッキー』でも君でもない」

 焦点の合っていない眼で、歌うように告げた。

「『落下姫』なんだよ」

 里子は両手に握る、大きなガラスの破片を音もなく振り上げる。大塚がなにやら口をパクパクさせた。それは命乞いだったのだろう。まさしく娘を殺した男が、娘に殺される瞬間。

「やめろぉおおおお!」

 京助の叫びと同時に、ガラスの破片が粉砕される音がした。

「……」

 ヒグラシと蛙の鳴く声。

 あたりは既にオレンジの輝きを失い、血色の残骸を侍らして薄暗くなっている。

 蝙蝠が飛んでいる。あちこちで電気が燈される多くの民家が伺える。全ては日常の光。

 満月の明かりが、割れた窓ガラスをきらきらと照らした。血のべったりと付着した、破片を。

「……なんで」

 疑問を抱いたのは京助だけではない。

「なんで、殺さないのよ!」

 友花のヒステリックな叫びが響く。

 血まみれの掌。里子は、それで顔を覆っていた。大塚はてっきり、ナイフより鋭く尖った角で刺されると恐怖したのに、頭で窓ガラスを割られた。頬や額に小さな傷を作ったが大した痛手ではなく、何が起こったのかわからないままきょとんとしていた。

「どうして、最後の瞬間まで杏奈を眼の敵にしたの? 死体処理なんて手伝うの?」

 誰もが唖然としている中。湿った空気の中で三つ編みがはためいた。

「……どうして、愛してくれなかったの……?」

 静かな声音で苦しそうに呟いた。

「私たちはあなたの子供なのに、どうして愛してくれないの?」

 顔を覆う掌を下げた。血で汚れたかんばせ。

 一重と小さな鼻が特徴だが、華やかな美しさをもつ杏奈とは比べられないほどの格差。それでも、彼女たちは姉妹だった。別の女性から生まれてしまった、姉妹だった。

「愛してくれないのならば、子供なんて作らないでよ!」

――寂しさのあまり、壊れることで己を護った高梨杏奈。

――忘れることで過去と軽蔑した志摩里子。

 大きな傷を背負った二人の少女の願う愛情は、どんな人間から貰っても満たされるものではない。血の繋がった親からしか貰えない特別を願っていた。殺したいと思うほどに嫌いな、嫌悪の対象でしかない父親からの無償の愛が欲しかった。

「杏奈を返してよ! お姉ちゃんを返して! 返してってば! 返せ、返せ!」

「落ち着け志摩!」

「これからもこれまでも、お前なんか許さない! 返せ! 返せ! 返せぇええ!」

 暴れだす里子を京助が抱きとめる。彼女はずるずると崩れると、わんわん声を上げて、嗚咽を散々吐露して泣きじゃくった。玩具をねだっても、買い与えてもらえなかった子供のように。

「返して、返して、返して……」

 そればかり、うわ言のように口にし続けた。京助は胸を叩かれても、背中に爪を立てられても、じっとしていた。あやすことも慰めることもしないで、ずっと力強く抱きしめた。志摩里子という、復讐者を抱きしめた。

「……よく、頑張ったな」

 里子は五年前の京助とは違う。

 彼女は大塚誠二に勝利した。復讐をほのめかせた鏡友花に勝利した。なにより、自分に負けなかった。

 高梨杏奈を思って、初めて涙を流す彼女は誰よりも強かった。

「大丈夫。もう、大丈夫だ」

 京助の腕の中で嗚咽を漏らす里子は、ただ泣きじゃくることしかできなかった。

 声をかけ慰めてくれる京助と、脚を引きずってでもそばにきてくれた修二が、頭を撫でてくれる。優しく、暖かかった。だが、自分だけが救われたことが悲しかった。自分だけが護られていたことが辛かった。

 杏奈には何もできなかったこと、助けられなかったことが悔しかった。

 腹を抱えてふらふらと立ち上がった蓮太郎は、大塚の手首に今度こそ、と手枷を掛ける。がちゃんと無機質な音が響く。本当は娘の目の前で、親に手錠を嵌めるところなど見せたくは無い。しかし、この手械の音こそが、全ての区切りになると信じた。

 それから間もなくして警察手帳を掲げた樹要が屋上に飛び込んできた。





















































 七月二十五日 Sunday







 Aspect 相模太一

 事件の全貌はそれほど大きなニュースとして取り上げられなかった。なんだ、こんなものか、と相模太一は新聞を広げる。

 あの事件現場にいたメンバーの殆どがこの病院に現在入院しており、てんてこ舞い状態の看護師や医師に同情して小さく笑った。

「まさか、全部自分の手柄を『バネ脚ジャッキー』に押し付けるなんてねぇ」

 いい根性している。口笛を一つ。

 浅月京助の受けた傷を見て担当医は「どうして放って置いたんだ!」と激昂した。「体のタフさは医者も匙を投げる。判断基準はとんでもない馬鹿だ!」と散々説教を受けたそうだ。

 結局京助は一日で退院し、その足で太一の見舞いにやって来た。「元気かぁー?」と相変わらず間の抜けた声で、ぶっきらぼうに漫画を差し出した。修二のように手の込んだことをしない。そういう大雑把さがなんとも愛おしく思えた。

 太一が、自分が始まりのジャッキーであることを明かし、殴った理由を話しても、彼は一切太一を咎めず「無事でよかった」と言ってくれた。

 太一は本日退院する。

 里子に続いて三番目だ。白塗りの部屋の空間で一人荷物をまとめながら高梨杏奈の墓へ持っていく花を何にするか、小田切修二への見舞いを何にするか、他愛も無いことを考えた。



   *



 Aspect 志摩里子

「お疲れ様でありんす」

 アーティフィシャルの宝庫。相変わらずのノルスタジアの演出にうっとりしながら志摩里子はことの全貌を唐沢黒奈に伝える為、『椿屋』に出向いていた。

 本日は三つ編みをおろし、ヘアアイロンで真っ直ぐにした髪を背中に垂らしている。制服は八月になるまで届かない。九月新学期まで着用するなときつく母親に叱られた。

 白いブラウスにデニムのベスト。お気に入りの桜色のスカート。二重のサイズに変わったギプスを右膝に巻いて、ところどころに絆創膏を覗かせる。愛着がわくほど、相棒と呼べるほどに連れ添った松葉杖は今日も彼女の側にいる。

「鏡友花は少年院へ行くことが決定されました。実際誰一人手をかけてはいません。角田巧を瀕死の状態まで追い込みましたけれど、彼は三日生死をさ迷って結局生きていました。現在は入院中ですが、角田巧も少年院行きはほぼ決定しています。井川勇一の殺人を依頼した件では、自首したホームレスによって証言が取れたそうです。あと、月館麻緒はあの事件現場から逃亡を図ったとき、トラックに撥ねられたみたいで……本当に事故だったみたいです。その場で死亡しなかったら、鏡友花がなんらかの形で殺害するつもりでいたそうですが。……あと、鏡は浅月君や私に謝罪をしていた、と樹要さんから聞きました。多くの情報は、彼にも入らないそうです」

 勿論私は会えませんし、と掌を晒す。

 これらの事件で、結局彼女の復讐は果たせたのだろうか? 完遂できなかった想いはどこへ行くべきなのだろうか? 同じ想いを抱きながら違う方法で事件と戦った友花を、里子は今でも敵対するつもりはなかった。

「ほう」

 黒奈は興味深そうに眼を細める。何も言わずとも黒奈はアイスティーのお代わりをカウンターから滑らせた。輪切りされたレモンとオレンジに切込みが入っているようで、グラスに可愛らしく飾られている。先ほどの氷の上に小さくミントが乗せられたアールグレイのように苦味や渋みが少なく、甘酸っぱいフルーツの香りが口内ではじける。素直に「おいしい」と口元がほころぶ。

「樹要さんは、やっぱり私たち一般市民が、それも未成年がでしゃばったことが原因みたいで……。この件の担当から外されたそうです。朝比奈さんもまだ復帰していないし、相当忙しいみたいで」

「税金で働いているんだ。少しぐらい無理をしろ」

 手厳しいコメントであった。

 鳥肌が立つほどにクーラーのよく効いた店内。闇と同化する漆黒のワンピースに肢体を包んだ彼女は、相変わらず里子と同じくらい生気のない肌の色をしていた。白いマグに注いだ紅茶を啜っている。白い湯気が上がっていた。なんとも夏とは思えない光景である。

「大塚誠二は逮捕されて、証言を認めているそうじゃないか」

「……はい」

 案外潔く腹を切ったな。黒奈がそう口にしたのは褒めではなく、根性無しめ、という悪態。どちらに転んだところで悪態の対象になることには誤差ない。

「椎木海斗と信楽良は裁判沙汰のようだな」

 高梨杏奈の死体を遺棄した廃墟ビル。里子はその周辺をうろつく姿がたびたび発見されていた。高梨杏奈の異母姉妹ということまでは知らなかったらしいがホームレスに聞き込みをしていたり、ツイッターや掲示板で頻繁に『バネ脚ジャッキー』に接触を求めていたことから危険人物とみなし、殺害しようと決行した。一度人を殺しているという意味の分からない自信のあまり、行動に移すことに迷いはなかった。しかし、突き落として、彼女のコンクリートに横たわる姿に並々ならぬ恐怖を感じて、生死を見分ける前に逃亡したそうだ。

 もしあの時あの場で、里子が殺害されていたとしたら迅速な事件解決には繋がらなかっただろう。彼らにとって大きな誤算は志摩里子だったのだ。

「……朝比奈さんと小田切修二ですが、二人とも全治二週間以上の入院です」

 空洞が肋骨下に形成された、蓮太郎の右横腹。カッターナイフで突き刺されたとは思えないほど、切れ味が良く大量の出血を伴った。骨に到達しなかったこと、大きな血管や筋肉から反れていたことが理由で大事には至らなかった。

 ただの奇跡だと、黒奈は笑った。相変わらず悪運の強い野郎だと言いながらも嬉しそうにしている。

 修二は出血もなく、軽症かと思われたがコンクリートに頭を何度もぶつけていたため精密検査を受けた結果、慢性硬膜下血腫になっていたことが判明した。

 軽いものですんだが、すぐさま頭に穴を開ける大きな手術が行われた。術後ケロリと完治したものの、完全に粉砕されていた右脛の骨は当面治りそうもない。同じく粉砕された右手の指は、完治まで半年掛かる見込みである。

 里子は安静という言葉をフルスイングで裏切ったためギブスを二重にすることになったが、特に支障はなく治りは案外早いものだった。巧に痛めつけられた傷は直りが遅く、蹴られたことが原因の打撲は今も服の中で小さく悲鳴を上げている。ガラス破片で傷つけた掌は包帯に覆われ、それがボクシングの選手のようだ、と京助はからかった。

「なるほどねぇ。まぁ、これでとりあえずは」

「まだ、終わっていません」

 黒奈がおつかれさま、と続ける前に里子は遮った。

「唐沢黒奈。……いえ、あなたは高梨黒奈ですよね」

「……」

「そして『バネ脚ジャッキー』の一人だ」

 降りた沈黙は、里子が嘗て感じたことがないほどの長さだった。

 肯定も否定もない。曖昧な時間が経過する。

 それがしばらくかわずかかは、理解が追いつかない。もともと時間の流れすらも遮断するような空間を演出された店内だ。それらの感覚を体に刻みつけていることのほうが困難である。

 黒奈は小さく笑った。そして「いつ気が付いた」と悔しそうにも、哀しそうにも聞こえる声音で問う。

「想像したんです。浅月君のように――あなたは、杏奈に似ている」

 恐ろしいほど静かに、続ける。

「輪郭もパーツも、表情も、顔立ちは何一つ類似しないに等しい私と杏奈だけれど、お前の姉妹だ。と大塚誠二に紹介されたとき、嘘つきのあの男の言葉が真実だとわかったんです」

 根拠はない。ただ、出会った瞬間にわかった。同じように愛されない、望まれない子供であるということを。

「あなたに対して同じ感情が芽生えたわけじゃないんです。でも、同じ時間を共有しても、同じ場所に立っていても違う方向を見つめ続けるあなたが、けして私と見詰め合ってくれないとわかったとき、あなたが、私と、杏奈と、似ているって感じたんです。

 あなたは私たちが、血が半分繋がった姉妹であることをはじめから知っていたんですよね」

「……」

「あなたは、大塚誠二が高梨杏奈を殺害したと考えた。そして私が椎木海斗に落とされたのではなく、大塚誠二に殺人を図られたのだと勘違いをした。だから、『バネ脚ジャッキー』として事件解決を目論んだ」

 ここには蝉の声も蛙の鳴き声も遮断されている。こげ茶色の木々で出来た椅子の背もたれにぐったり体を預ける黒奈は煙草を取り出した。ほっそりとした長い指が挟み、唇に咥える。オレンジ色の、あの日の夕焼けのような焔が燈った。

「教えて欲しいことがあるんです。……どうして探偵役が、選ばれたのが浅月京助なんですか?」

「簡単だよ」

 紫煙をくゆり登らせる。霧のように色濃いながら、あっさりと溶けた。

「少し、昔の話になるね」

 にいっと口元を三日月に歪めて笑うと、まだ半分以上残っている煙草を灰皿にねじ込んだ。なんとも落ち着きがない。何度も大きく呼吸する様を見せて、やっと開口した。

「……そうだよ。私は大塚誠二の娘で、高梨杏奈の正真正銘の実の姉だ。あの子が生まれるとっくの昔、私に物心が付く以前に、私は親戚の子供に成り代わって唐沢に苗字が変わっていたけれどね。私は自分に旧姓があることすら知らなかった。だからあの子は私を知らないし、私自身お前達を知ったのは二十になってからだ」

 黒奈は確かに思い出す。



――……。

 両親から捧げてもらえなかった愛情は、祖父母も叔父も叔母もくれることはなかった。あまりの乾きと飢えに、自分以外の全ての人間が幸せに思えた。自分の傷が一番だと、周囲を遮断し塞ぎこみ、彼女は孤独を愛することでしか、自分を、生を、感じることが出来なかった。

「そんなとき、朝比奈蓮太郎に出会ったんだよ」

――まだ、ランドセルを背負っていた時代のことだ。

 構うなと牽制しようが、無視を決め込もうが、なついた野良犬のように彼は彼女を一人にさせまいと努力した。その理由を聞いたところで、彼は答えない。ただ己のエゴを押し付ける。

 自身の利益の為のエゴではなく、どこか歪で歪んだ、暖かなもの。

 それが優しさなのだと、気が付く頃には唐沢黒奈は朝比奈蓮太郎という存在を深く享受し、愛していた。

 彼は一風変わっていて、自己中心的な一面が目立つが周囲に好かれる存在だった。彼を羨ましいとは感じなかったがその隣の居心地のよさに、彼女は甘えていた。……蓮太郎の母親が殺害された日までは。

 喜怒哀楽を一切封じ込め、ひたすら新聞記事やら教科書やら、活字ばかりを眺めては時折笑い出す。誰もが彼に同情しながら、異質な彼と関わろうとせず、遠巻きに眺めるばかりだった。異常で奇妙で狂ったような存在だと、何をするわけでもなく煙たがられ彼は孤独になっていった。

 黒奈には何もすることはできず、ただ彼の中に渦巻く復讐の念を見てみぬフリをした。彼がもし、犯人に復讐を望み殺人犯になるのならば手伝ってやろうとすら思った。

 だが、その二年後。彼らが大学に入学した頃に、一人の少年が蓮太郎のもとを訪れた。

 彼は復讐の念だけで生きていた蓮太郎に、生きる糧を失わせた。殺すことだけを考えていた蓮太郎を、やっとの思いで生きた二年間を踏みにじった。



「それが、事件の全貌を被害者全員に伝えたようとした少年。浅月京助だ」

「……」

 一切の感情を表情に見せない黒奈が、眉間に力を込めて苦悩を物語る。姿勢を正して向き合った。

「それからしばらく蓮太郎とは音信不通になっちまって、てっきり自殺でもしたのかと思った。だが、奴はなにか取り付いていた疫病神を追い払ってきたような顔をぶらさげて、すがすがしいくらい、忌々しいくらい綺麗に笑って私を呼んだ。……あの日から見ることが出来なくなった様々な表情を、少しぎこちなく取り戻して、私に心配をかけたと謝ったんだ。……わかるか? 志摩里子。何十年も連れ添っていたのに、私は朝比奈蓮太郎の力には微力もなれなかった。……それなのに、突如現れた浅月京助はわずか一時間足らずであいつを人間として救うことができたんだよ!」

 悔しい、という感情にはあまり似ていない。どうしようもない醜い嫉妬。蓮太郎が笑えばそれでいいと認めることができない醜い感情。それを抱く自分に嫌悪を感じ、嫌で嫌でしかたがなかった。

「私は浅月京助をこの五年。忘れたことはなかったよ。最初は嫉妬。だが、単純な同情に変わったとき、あの子は救われなかったとわかったんだ」

 蓮太郎をはじめとする、すべての被害者の復讐の念。それを京助は達成し、人として堕ちた。多くを救った存在。多くの絶望となった存在。犯人に裁きを与えることなく殺してしまったこと。

「だから、浅月京助が救われないままで死んだように生きてゆくことが、私には何より許せなかった」

『バネ脚ジャッキー』の名前を借りて、京助にとって一番向き合いたくない題材と対峙させ、決別させる。朝比奈蓮太郎に、浅月京助を助けさせるために。

 五年という時間が過ぎて、救われ・護られた人間が、今度は別の形で救いの手を差し伸べさせる。それこそが『バネ脚ジャッキー唐沢黒奈』の目的。

「計画自体は相当大雑把で荒治療そのものだ。だが、勝手に動いてくれたからね。おおかた成功でいいだろう。……軽蔑するか? 志摩里子」

「――いいえ」

 彼女は首をゆるゆると左右にした。大きな涙の雫を、瞳いっぱいにためながら、微笑む。

「私は」

 今、目の前にいる姉を。偽りの愛情で認め合った姉妹を。何より、自分を支え続けてくれた友人たちを――強く強く、思った。

「ただ、全てが愛おしい」













 某日(エピローグ)







 Aspect 浅月京助

 腹に穴を開けられた男が横になる病室から、かすかに煙草の臭いがした。喫煙したのか、彼の体臭なのかはわからない。五分五分と言ったところだろうか。どちらにせよ、あっけらかんとした表情で他人と接する彼はおそらく自分が重症患者であったことなど忘却している。

「……元気そうじゃねぇーか」

 すれ違いに病室から出て行く看護師に会釈した後、溜息を漏らせば刹那に枕が投げつけられた。

「こっちはニコチンとアルコールとカフェインに飢えている」

 先程とは態度が一変した、不機嫌そのものの表情をぶら下げる蓮太郎は、変色した林檎を爪楊枝で串刺しにした。

 京助は枕を呆れながら拾いあげる。かんしゃくを起こした子供じゃないんだから。などと悪態を付けば、亭主関白の練習なんだよ。と呆れた言い訳。

 二人分の見舞い品を詰め込んだ紙袋は軽くなっていた。京助は有無言わさずずいと差し出す。

「なんでモナカなんだ?」

「俺の好物だからじゃねぇーですか?」

「ずうずうしいな!」

 蓮太郎は箱に敷き詰められた六つのモナカを一つ手に取ると、お茶を要求する。少し嫌そうに噛み付いて「糖分の塊だなこれは」すぐさま顔を顰めた。噛み付かれたモナカにはくっきり歯並びのよい後が残っている。

 口の中に張り付くような甘さに耐えられないようで、咽喉仏の辺りをさすり、眉を顰めていた。大方予測できた反応である。京助はお茶を差し出した後、微苦笑しながら「ばれるなよー」煙草を一箱手渡した。銘柄はマルボロメンソール。

「……気が利くな。自分で買ったのか?」

 相変わらず気崩した制服姿の京助は「まさか」と肩をすくめた。

「叔父が帰ってきているんです」

「マジか! あの世界を飛び回るパパラッチ野郎」

「本業は小説家だけれどねー」

 彼はどこからか事件について耳を挟んだようで、血相変えて帰宅してきた。きょとんと目を丸くして驚いた京助は彼に散々説教をされ、よかったよかったとさめざめ泣かれて一晩明かしたのである。そんなに簡単に死なないと口にしたが、京助の両親が死亡したことのショックは叔父も未だに引きずっている。馬鹿にするようなことはせず、ただ素直に謝罪を述べた。

「いつになく気がきくな、あの野郎」

「中学の同級生だっけー?」

「あぁ」

 吸いすぎるなよ。と念を押すと蓮太郎は微苦笑しつつベットサイドの引き出しを開けた。そこにはぎっしりと煙草の箱が詰められている。中にはカートンすらあった。京助は唖然と口元を引きつらせ、唖然とする。

「みんな見舞いにこんなもん渡しやがるんだよ。困ったものだな。貰ったはいいが吸うに吸えん。なんならアルコールとカフェインも歓迎なんだがな」

「なんでそー、依存性の高けぇーものばかり……」

 何を渡してもお前はたいして喜ばないから。中にはそんな風に言う友人すらいたそうだ。

 ベットの傍には、多くのパイプ椅子が並んでいる。先ほどまで人がいたのか、簡易テーブルには菓子の袋やら花やら乱雑に置かれていた。

 見舞い品の量から見て、彼がどれほどの人に慕われているのかがわかる。チンピラ刑事、なんて愛称も憎まれ口から生まれたに過ぎない。自由奔放・短気で子供っぽい。そんな十歳も年上の男が可愛く見えた。

「……あんたに、話があるんだ」

 京助は一息つくと、頭を下げる。蓮太郎は眉を顰めていぶかしむ。

「……何のマネだ」

「すみませんでした」

「どういった意味での謝罪だよ」

「全部。含めて」

「かしこまったわりには適当じゃねぇか」

 蓮太郎は腹を押さえて笑った。傷は塞がっていても、大きな声で笑うと腸やらなにやら、臓器がはみ出るような感覚に教われるためほどほどに堪える。

「座れよ」

 椅子の一つを勧めれば、おずおずと腰掛けた。

 京助はしどろもどろに、眼を少し泳がせる。いつになく緊張してしまい、硬い表情のまま膝で拳を形成した。

「実は、俺、あんたが警察になったこととか、刑事になって、すげーいろんな人からチンピラ警察なんて言われてたりすること、全部知ってたんだ。でも、二度とあんたには会っちゃいけねぇーと思った。ずーっと他人のままでいよーと思った。それなのに、どうしてもあんたに嫌われたまま、恨まれたまま、決別することが我慢でねぇーんだ」

 それが何故、蓮太郎だったのかはわからない。

 報告したときに、死んだ魚のような眼を並べた被害者たちはどれも同じように生気がなく、その周囲だけどんよりとした空気に澱ませていた。だが、連太郎には最初、ぎらぎらとした復讐心やただならない殺気があった。それをへし折って、死人のように変えたのは京助だった。

「あんたに謝りたかった。あんたにだけには、許して欲しかった」

 許される身分ではないとわかっていても、理解して欲しかった。叔父や修二のような愛情でなくてもいい。ただ、自分という存在を認めて欲しかった。

 要に言われなくても、京助は知っていた。

 自分は強く愛されている。だが、捧げられる愛情が怖かった。それだけの期待に答えることが出来ないと、素直に受け止めることができず、愛することを酷く恐れた。それでも、心のどこかでは孤独になりたくないと思っていたのかもしれない。

 結局、人は一人にはなれない。生きている限り、必ず誰かと繋がっている。それが絆といえるほど確かなものではなくても、強さのある洗礼された美しいものではなくても。



 理解されたい。

 友達になりたい。

 自分を受け止めて欲しい。



 あのとき声に出すことができなかった懇願は、やはり今も口にすることはできない。それでも、今なら真っ直ぐ蓮太郎を見据えることができる。

 見つめられた蓮太郎はそっと掌を京助の頭にのせると旋毛をなぞるように撫でた。

「お前は」

「……」

 浅月京助は、決して強くはないけれど、志が美しい。真っ直ぐではないけれど、慈悲深い。

 五年過ぎた今だからこそ、人間らしい矛盾を携えた京助の未熟さが愛おしく感じる。嘗て彼へ抱いた憎悪を忘れたわけではない。だが、朝比奈蓮太郎は浅月京助に救われたのだと胸を張って言える。

――いつだって、護られていた。五年前から、ずっと。

「京助。人は、生きていれば必ず変わることができる」

「……」

「お前が、誰かからの愛情が怖いのならば、お前が誰かを愛せばいい。いつかきっと享受できる。愛し愛される脆さと強さが、きっと理解できる。そのときまで、俺たちはお前の傍にいる」

 蓮太郎にとって、その言葉は同情ではない。何もない今の状態から、友情とは少し異なる関係を始めようと素直に思える。

「蓮太郎さん。俺は」

 京助は自然と微笑んだ。一切のおべっかのない、周囲からの視線を降りはらった彼自身の本当。

「俺は、あなたと話がしたい」

 他愛もないこと。いつかは忘れてしまうようなこと。そんな刹那を抱きしめる為に、理解し、愛し、愛されたい。今、ここにいる自分のことを許すために。

 京助は蓮太郎に、自分を支えてくれた全ての愛すべき人に誓う。自分らしく生きることをもう二度と諦めない。



 今、ここで生きている。

 全ての人との繋がりを誰よりも愛おしんで、ここにいる。

後書き

未設定


作者 麻梨
投稿日:2010/10/17 21:56:44
更新日:2010/10/17 21:56:44
『Link/連鎖復讐怪奇談(れんさふくしゅうかいきだん)』の著作権は、すべて作者 麻梨様に属します。
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