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作品ID:268

こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約26631文字 読了時間約14分 原稿用紙約34枚


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こちらの作品には、性的な表現・内容が含まれています。18歳未満の方、また苦手な方はお戻り下さい。

孤独の太陽

作品紹介

孤独、自己嫌悪、兄妹、初夏、衝動、葛藤、背徳、不毛なる十代の自意識、迎えるいつもの朝。



一部やんわり性的表現あり。




 夏の朝の匂いはどこか青臭い感じがして、何となく違和感を感じる。そんな違和感も日差しの照りが続く間は、とぼけた顔で僕達の日常の中に徐々に溶け込んでゆくのだ。季節というのは大体がそんなもので、時間の経過をはっきりとさせない奴らだ。終わり際だって、気付かれないようにゆっくりとその身を引いて行く。

 いつもの目覚めの朝を迎えて、僕はいつものように顔を洗う。カレンダーを見ると日付はもう六月の頭で、いつの間にこんなに日が経ったのだろう、と今頃思った。

 『彼女』はもういなかった。部活の朝練で早くに出掛けて行ったのだろう。僕の朝食と弁当は座卓に用意されていた。

 朝食を取り、煙草を一本吸ってから、制服に着替えて家を出た。外は朝から少し茹だってしまう暑さだった。でも天気は快晴で日差しも良いので、気分がまぁまぁ良くなった。いつからか、朝を迎える度に気持ちが沈んでしまうようになっていたのだが、今日はちょっとだけ特別だ。

 僕が通う高校は家から徒歩三十分ほどの距離にある小山の上に建つ、創立から七十年以上経つ公立校である。学校の質は県でもまぁまぁ中間の方だ。

 他の生徒達に混じって校門をくぐると、グラウンドから運動部の掛声が聞こえた。見ると、声の主達はどうやらサッカー部のようだった。僕は昇降口で上履きに履き替えてから、自動販売機で飲み物を買うついでにそちら側に回って、しばらく朝練の風景を傍観した。

 広い青空の下、輝かしいユニフォームを着た部員達は並んでランニングをしている。それが練習の締めだったようで、顧問の言葉で解散したのはそれから十分も経たない後のことだった。部員がぱらぱらと校舎に向かって散漫していく。何人かは僕のほうを見て仲間内でひそひそと何か話していた。その中の一人、知った顔の少年がユニフォーム姿のまま、笑顔で僕の所に駆け寄ってきた。

「見てたんだ、優クン」 彼はそう言ってから、愛嬌のある童顔をまずい表情に変えた。 「学校では先輩って呼んだ方がいいかな」

「構わないよ、翔太」 僕は微笑みかける。

 そっと自分の上履きの色を盗み見た。紺色の、僕が三年生であることを示す色だった。目の前の童顔の彼、翔太は一年生である。『彼女』と同い年で、そして僕達の近所に住んでいた幼馴染である。

「俺の最近のテク、どう思う?」

「まぁまぁじゃないかな。中学生よりかは上手いと思うよ」

 僕がそう言うと翔太は渋面を見せる。

「ちぇ、普通はお世辞でも“かっこいい”とか“すごい”とか言うもんだよ。サッカーのこと何も知らないくせにケチつけて」

「そう言われたかったんなら次から心がけるけど」

「その言い方がすごく厭味だ」

 僕は小さく息を漏らして笑った。彼もすぐに表情を和ませてから、腰に手を当てふぅっと息を吐いた。

「どうした?」 僕は訊く。

 下を向いたとき、彼の表情がほんの一瞬だけ翳った。何か思いつめているような、暗い顔だった。終始明るい彼がそんな顔をするのは珍しいので、僕は無意識に尋ねていた。

 翔太はすぐにその表情を打ち消して、ケロッとした面を上げる。

「なにが?」 彼はあからさまにしらを切った。

「いや……」

 僕は追及しようとしたが、そこまで踏み込むような話題ではないかもしれない、と思い留まって、言葉を切った。

「……中学生の時と違って練習も幾分かハードでね、疲れてるかも」 彼はこちらが気付いたのを察したように言った。

 僕は肩を竦めて微笑む。それが本当の理由かどうかなんて、正直どちらでもよかった。むやみに干渉することでもないかもしれない。きっと彼も、僕の下手な世話などいらないだろう。まだまだ互いに未熟だが、でも、それが自覚できるくらいには僕らは大人へと成長したのだ。

 適当な世間話をしてから彼と別れた。まだ朝のHRが始まるまで時間はあったが、教室で過ごすことにした。

 教室に入って窓際の自分の席に着くなり、友人達が僕の机を囲った。適当な挨拶を交わして、取り留めのない話を始める。テレビや漫画に疎い僕を気遣ってか、話題の主は常に友人達だ。僕も普段から聞き役に回ることにしている。

「昨日の野球、すごかったな」 眼鏡をかけた矢沢が言う。

「あぁ、七回裏からの、巨人の逆転な!」 その横の大野が頷いた。

 僕は、野球に関してはルールすらもよく知らなかったので、ぼんやり窓の外の風景を見ていた。斜向いの校舎の窓に、登校したばかりの生徒達が行き交っているのが見える。

 本当にいい天気だ。

 抜けるような青空を仰いで、陽射しに目を細め、今度は地上の青々しい彩りの木々を眺めていた。昨夜確認した予報では、今日は夜から雨が降るらしい。そして、明日の朝にはまたこの晴天を取り戻しているそうだ。途中の雨には何か意味があるのだろうかと思ってしまう。それほど極上な天気だ。

「おい、相原」

「え?」 呼ばれたので友人のほうへ振り返る。今までこの囲いに参加していなかった別の奴だ。おそらく今、登校してきたのだろう。

「嫁が呼んでるぞ」

 彼が親指で差した方向、教室の入口に牧野ゆりかが立っていた。壁にもたれるようにして立って腕を組み、僕の方にクールな笑みを向けている。

「まったく、熱いね、お二人」 遅れてやって来た友人、原田がニヤニヤして言った。

「式には呼んでくれよ」

「亭主関白にはなるなよ。お前向いてないし、こっちが折れといたほうが上手くいくから」

 矢沢と大野も囃した。

「どいつもこいつも最初から違うよ……」 僕は呆れて呟き、席を立った。

 ゆりかは僕が近付くと、壁から背を離して、こちらに笑いかけたまま教室から出た。廊下に来てくれ、ということだろう。クラスメート達の視線を強く感じ、僕は溜息を一つ吐いて教室から出て行った。

 牧野ゆりかは隣のクラスの女子である。背が男子並みに高くて、とても綺麗な顔立ちだ。モデルにしたっていいくらいの美人である。長い髪をいつも後ろで束ねていて、格好は昔から変わりがない。全く飾り気のない快活な性格で男子のみならず女子のほうからも手堅い人気を誇っている。僕と同じ三年生である彼女はバレー部の部長を務めていて、後輩からの信頼もかなり厚い。勝気なのと余計な事を言う口を除けば、非の打ち所がない完璧な女性だ。

 僕と彼女は幼馴染の仲である。というより彼女は、先程僕がグラウンドで会話した一年生、牧野翔太の実の姉だ。その辺の事情があって、僕達は親しい。周囲が思っているような、うらやましがられるような関係では決してない。

「どうした?」 弟にも同じように訊いたな、と僕は思い出す。

「ヒトミちゃん、すごくいい筋してるよ。エース、狙えるわ」 ゆりかは何の脈絡もなく、いきなり切り出した。

 急に『彼女』の話題が出たので、僕は驚いて目を見開いた。心臓を強く打たれたような衝撃が走って拳を握る。冷静さを装いながら跳ね上がった鼓動を成す術なくただ聞く。

 小さく息を吸って、ゆっくりと吐いた。 

「えっと、何を言いにきたのかな?」 興味がないことを示す為、目を細めて眉を吊り上げた。でも、脈はまだ疾駆している。

 ゆりかは翔太と同じように、こちらは少し前屈みに覗き込むような姿勢で、腰に手を当てて僕の方へ一歩寄った。

「なによ、妹の活躍ぶり、聞きたくないわけ?」 彼女には一切他意がないように見えた。

 僕はもう一度、息を吐く。鼓動はやや落ち着いたが、手が汗ばんでいることに気付いた。

 くれぐれも悟られてはいけない。

「あいつがあいつなりにやってることくらい知ってる」 僕は笑う。きっと、セメントで固めたような笑顔だったはずだ。

 バレー部の部長であるゆりかがここにいるということは、とっくに朝練は終わったということだ。『彼女』も今は教室に戻って友人達と話していることだろう。

「将来の部長は断然、ヒトミちゃんで決定って言いたいのよ。あんた、兄なのに誇らしくないの?」

「たとえば、翔太がレギュラーになった、と僕が君に伝えたとして、君は誇らしく感じるかい?」

「あんな馬鹿はどうだっていいわ」 ゆりかはばっさりと切り捨てる。

「そんなことより、何の用?」 ちょうどよい節目だったので僕は話題を変えた。

「そうそう、この間貸した映画、そろそろ返してくれない?」 彼女は思い出したように言う。

 そういえば、とゆりかに洋画のDVDを借りっぱなしにしていたことを僕も思い出した。僕と彼女はどちらも自称の映画通で、時々同じタイトルの映画について議論を交わしたりする。そんな大人びた遊びを始めたのは、少しでも背伸びをしたがっていた小学校時代からのことだった。

「観終わってる?」

「とっくに。なかなか面白い内容だった」 僕は頷く。 「でも今日は持ってきてない、明日持ってくるよ」

「これ以上借りると延滞金が発生します」 彼女は片目を瞑って言った。

 僕は困って頭を掻く。

「えっと、どうしろと?」

「今日、ちょっと私用で部活休むから一緒に帰って。あんたの家に取りに行くから……」

「いや、僕の家引っ越ししたから遠くなってる」

 僕と『彼女』は昨年、それまで住んでいた家を引き払って小さなアパートに移り住んだ。近所だった牧野家から離れたのだ。

「近いわよ、遠く感じてるのはあんただけ。それに、学校からの距離はあんたの家のほうが近いわ。帰るついでに寄るだけよ」 彼女はべらべらと話す。

 その時、ホームルームの開始を報せるチャイムが鳴った。もうすぐ教師がやってくる。ここでいつまでも立ち話をしていると遅刻扱いにされてしまう。 

「じゃ、頼んだわよ」 彼女は手を振って、教室に戻っていった。

 僕も自分のクラスに戻った。友人達の茶化すような目線に耐えながら自分の席に着く。ほぼ同時に担任の教師が入ってきて朝の号令を促したので、幸いにもそれ以上はからかわれなかった。

 舌打ちする。なぜ、明日では駄目なのだろうか。

 僕は一瞬だけ考えたが、すぐにやめた。どうせ理由なんかないのだろう。それに今日は僕もバイトが休みだ。時間はある。狂ってしまうほどに……。

 座りながら、未だに湿っている自分の手の平を見つめる。それだけで心臓が縮み上がるような気がした。



 それから今日も、いつも通りの退屈な授業が始まった。一限目は現代文。

 僕はノートと教科書を開いたままにしておいて、窓の外ばかりをずっと眺めていた。

 五十分授業が半ばほどに差し掛かったころ、名前も思い出せないほど影の薄い中年男の教師が黒板に向かい、カンカンと乾いた音を立てながらチョークで文字を記した。僕は頬杖をついたまま、何となくそちらを見る。大きく“孤独”という二文字がそこにあった。

「えー、森鴎外のこの描写は、主人公である太田豊太郎が抱える孤独を表したものなんですね。冒頭は太田の回想という形で始まり、読み進めていく内に、なぜ彼が今このような心情にいるのか、というのがわかるわけですが……」

 僕は再び目線を外に移した。教師の言葉が耳元を過ぎていく間に、僕は目にした二文字の単語を心の中で復唱していた。

 孤独、か……。

 僕は胸の中で呟いた。何かが身体の内側で立ちこめる感覚がした。靄のようなものが僕の身体の空洞を埋めていくような、不思議な感覚だった。

 『彼女』の輪郭を思い浮かべる。

 寂しく笑う顔。

 もしかしたら僕も彼女も本当は孤独なのかもしれない、と思った。

 そうであることを隠して僕は、この教室にいる大勢の生徒の中に紛れている。誰かに見つかって、制裁が下されるのを恐れているのだ。

 罪を犯した者は、誰からも庇ってもらえず、ずっと独りだ。

 僕はゆっくりとうなだれて、そして小さく笑った。

 くだらない……。

「相原君」 教師の声。

 僕は顔を上げる。

「ニルアドミラリ、という言葉の意味はわかりますか?」

 どうやら問題を出されているようだ。そういえば僕の前の席の奴が先程当てられていたので、順番が回って来たのだろう。周囲の視線が集中するのを僅かながら感じた。

「物事に対して一切の感動を抱かず、無関心でいることです」 その言葉は知っていたので、というより予習をしていたので答えることができた。

 僕が答えられるのを予期していたように、教師が即座に大きく頷いた。そしてまた黒板に向かい、文字を書き写していく。他の生徒達もノートに向かった。それを眺めていると、その内の一人だった大野と目が合った。彼は笑いながらこちらに目配せする。無難に過ごせてよかったな、という意味だろう。

 僕は苦笑で応えた。

 孤独……。

 誰も僕を知らない。

 誰も『彼女』を知らない。

 誰も僕達の罪を知らない。

 誰も僕達に罰を下さない。

 ゆりかも、翔太も、学校の連中も。

 誰も気づいていないのだ。

 そういう自意識があったから、きっと、僕は自分が孤独なのだと錯覚するに至ったのだろう。十代にありがちな、不毛なる自滅意識でしかない。心の片隅で自嘲しながらも、そうであることを祈っていた。

 

 午前の授業が終わって昼食の時間となった。弁当も飲み物もあったが、大野達が購買へ行こうと誘ったのでついて行くことにした。購買へ行くには、向かい校舎への渡り廊下を通って一階に向かわなければならない。

 その途中で僕らは不意な場面に遭遇することとなった。

 一階の中庭へ通ずる廊下で、三人の三年生男子がどすの利いた声を上げて、背の低い、気の弱そうな一年生の男子を囲っていたのである。察するにカツアゲというやつだろう。眉根をねじ上げて凄んでいる三年のほうは、どれもピアスを開けて髪を脱色した、見るからに不良男児だ。一年の男子は可哀そうなくらいに震えている。行き交う生徒に目線で助けを求めているが、誰もが見て見ぬふりをして過ぎるか、離れた場所で傍観しているだけである。

「うわ、かわいそうに……」 矢沢が気の毒そうな表情をして言った。他の二人、大野と原田も同じような顔で見ている。

 三年が何か喚いて一年の胸倉を掴む。その時、その一年生の子と目が合った。懇願するような目だった。僕は迷わずに一歩、そちらに寄った。すぐさま背後で三人が僕を引き止めようとしたが、僕はそれを振り払う。

「その辺にしろ」 僕は睨みつけて言う。

「あぁ?」 三人とも、入念に練習したような強面でこちらに振り向くが、僕を見るなり、ぎょっと表情を強張らせた。

「あ、相原優斗……」 不良の一人が呟く。

「その子は、僕の知り合いだ。何か用があれば僕が聞くけど?」 睨んだまま、さらに一歩近づく。

 自分で言うのもなんだが、僕は喧嘩が強い。少なくとも、こいつらに負ける気はしない。三対一だって勝つ自信がある。あと僕は目付きがとても鋭いとよく人に言われる。この三人の目力にだって負けないだろう。

「お、おい……」 不良の一人が、隣の奴に呼びかけるが、どちらも動こうとしない。

 やがてきまりが悪そうに、三人とも静かに退散していった。意外に物分かりの良い連中だった。その点に関してだけは好感だ。

 僕は残された一年生を見る。彼は乱れた制服を直すよりも先に、僕に何度も頭を下げた。

「別にいいよ。次から気をつけるんだ」 僕は言う。

 一年生は礼を述べ、そそくさと小走りで去っていった。

 落着したので、僕は後ろで指をくわえて見ていた友人達のほうへ戻ろうとしたが、その前に誰かに肩を引っ張らっれた。唐突だったのでさっきの不良だと勘違いして、振り向きざまに拳を構えた。

「あたしよ、あたし」 視界に映ったゆりかがニコッと笑いかける。

「見てたの?」 僕はきっと、げっそりとした顔だっただろう。

「本当はあたしが行こうと思ったんだけどね、あんたが来たから」

「えっと、相原、俺達先に行ってるわ」 友人達が揃って手を振って行ってしまう。

「あんまり、ああいうことはしたくないんだ」 僕は友人達を恨めしく思いながら、ゆりかに言う。 「君がやっつけてくれると嬉しかったんだけど」

 ゆりかは壁にもたれて腕組みしながら立つ。朝の時と同じだ。そうしているほうが落ち着くのだろうか。

「あたしより、元空手部の大戦力が行ったほうがいいに決まってるじゃない。あいつらのビビりよう、見たでしょ」 ゆりかは自分のことのように誇らしく言う。僕にしてはいい迷惑だった。

 僕は元々、この学校の空手部に在籍していた。空手自体は子供の頃からやっていたので、他の部員は既に相手ではなく、何の栄誉も実績もなかった我が校の空手部を県大会優勝まで引っ張ることができた。初めて表彰の快感を味わったし、学校の英雄になれたのもなんとなく気持ちが良かった。

 今となってはそんな過去に何の価値も見出せない。プレゼントの箱に巻きついたリボンくらいにどうだっていいものだ。空手部を辞めて、バイトに勤しむようになったのは昨年の夏の終わりから。だけど今でも筋トレは欠かさず続けている。幾分かの外見的な虚勢は必要だ。

「でもあんた、今ので結構な数のファンを作ったわよ」

「はぁ?」 僕は何の事かわからず、首を傾げて彼女を見返す。

「いっぱい立ち見の連中がいたでしょ。そいつらからすれば、あんたは不良を退かせる実力を持った英雄。しかもその英雄は、背が高くてルックスがよくて、頭のほうも超優秀。惚れない子はいないでしょ」

 僕は得意げになって話す彼女を呆れながら見つめる。もう戻ろうか、とも思った。

「ヒトミちゃんも鼻が高いわよねぇ、こんなお兄ちゃん持てて。ヒトミちゃん自身も結構かわいいし」 ゆりかがうんうん、と頷きながら『彼女』の名前を口にした。

 鼓動が、またも重力を増す。指の先が痙攣したのをはっきり感じた。



「なんで?」



「え?」

「なんで、あいつが出てくる?」 僕は彼女を睨んで訊いた。少し凄んだ、冷たい口調だったかもしれない。

 ゆりかは茫然としたようにこちらを見つめる。言われたことの意味を把握できていないようだった。

「なんでって……」 ゆりかの唇が動く。 「別に意味はないけど……、兄妹だし、普通のことじゃない?」

 普通。

 普通か、と僕は口の中で呟いた。

 そして、ようやく今の自分を冷静に見つめられるようになった。

「ごめん、なんか今、混乱した」 動揺を悟られないように、軽い口調で言った。

「なにそれ」 不思議がってはいたが、ゆりかも笑顔で返した。



 放課後。

 夕暮れにはまだ早い時間で、空はまだ青い。しかし、暮れなずみへと向かう薄っすらとした桃色もわずかに含んだ空だった。巨大な夏の雲が、僕の視界の遠くでお城のように立ち上がってる。

 ボールが白い砂地のグラウンドを転がる。サッカー部員達は汗を流してそれを追って、蹴って、また駆けていた。

 僕はその様子を、朝と同じ場所で眺めていた。ゆりかを待つ間の暇潰しだ。彼女は部活を休むのだが、顔だけは出してくるとのことで今体育館にいる。

 サッカー部の練習試合はとても見応えのあるものだった。青色と黄色のビブスを着た二組に分かれての試合だ。青色側のチームのフォワードは翔太だった。彼は足元のボールを巧みに操り、向かってくる敵を華麗に避け、ゴールまで一直線に駆ける。その横顔は普段の彼からは想像もつかないほど真面目な表情だ。

 あと少しでキーパーと一騎打ちになる、というところで彼は斜め右方向へ、ふわりとパスを上げる。美しさすら感じさせる綺麗な放物線を描いたボールは、翔太の相棒らしき選手の胸板に降る。一回胸の上で弾んで、そのまま鋭くネットへと吸い込まれた。一瞬のことだった。すべてが絶妙なタイミングで成り立っていた。得点の獲得に青色のチームに歓声が上がった。

 今度話をする時はちゃんと“かっこいい”とか“すごい”と言ってやらないとな、と僕は思った。

 やがて、キャプテンらしき部員が笛を鳴らした。試合の動きが止まる。交代のようだ。後半の選手と手を叩き合いながら、翔太がフィールドから出て行く。こちらに気付いて、まっすぐに向かってきた。

「また見物?」

 試合中の張り詰めた表情は緩み、いつもの、童顔の愛らしい少年に戻っていた。額に汗を浮かべている。

「すごいな」 僕は言った。 「魅了される内容だった」

「お世辞?」 翔太はタオルで顔を拭いながら悪戯っぽく言う。

「そっちは謙遜してる」 僕も笑った。

「シュートを決めたのは相棒のほうだよ」 翔太はフィールドのほうへ向いて言う。

「そのシュートまで繋げたのは、翔太の手柄だと思うけど」

 僕が答えると、翔太はにんまりとしてスポーツドリンクを飲み干した。まんざらでもない顔だ。

「今日、バイト?」

「いや、休み。今、ゆりかを待ってる」

「姉貴を? なんで?」 翔太は意外そうに訊く。

「延滞金が惜しいからさ」

 彼はますます怪訝な顔つきをした。



 それから数分後にはゆりかと共に校門をくぐり、帰路を歩いていた。僕の住居に辿り着くまでの間、僕達二人は一つの映画の評論で盛り上がった。

「そりゃ中身は見応えあったけどさ、謎解き要素の質は低くなかった?」 ゆりかは主に否の意見の担当だった。

 彼女は制服のポケットに手を突っ込んだまま、ちょっと肩を揺らして歩いてる。僕ですらそんな歩き方はしたことがない。

「なんで。どんでん返しの結末だったじゃないか。普通は予想できない」

 僕はフォローを入れるが、彼女は口許を一文字にして首を振る。眉間にはわずかに皺が寄っていて、案外真面目に考えているのだとわかった。彼女のこの表情を僕は、映画の話の時と部活動中でしか見たことがない。何かに打ち込む時の真面目さは翔太と同じだ。意気込むような討論でもないんだけど。

「だから、そのどんでん返しを狙ってる感じが見え見えだったの。大体、宣伝もおかしいわよ、“あなたは絶対騙される”っていうキャッチコピー。ネタバレに等しい言葉じゃない?」

「まぁ、確かに……、正直、僕も途中で結末が読めたけども……」

「でしょ? 確かによく作り込まれたストーリーと表現力だったけど醍醐味がそれじゃあ魅力も半減」

「うん、それは言えてる。あの映画の謎解きは材料も少なかったからね。その辺はもうちょっと手間をかけたほうがよかったかも」

「そうそう、なんとかしてほしいわよね。……っても、最近の映画はロクなのないから結構マシなほうだったけどね、あの映画」

 この手の話題だけは彼女とこれ以上ないくらいに意気投合してしまう。大抵は年を重ねていく内に、幼いころから続く関係には摩擦やすれ違いが生じるものだが、僕と牧野ゆりかの間で行われる映画評論だけはいつまでもその熱を失わない。むしろ僕にとっては、他人とこれほど白熱した議論を交わすのも珍しいことだ。

 そうしている内に僕の家が近付いてきた。彼女を外で待たせようかと思ったら、「お茶くらい出してよ」と言い出してきたので仕方なく家に招き入れた。鍵を開ける瞬間、やっと外界から逃げだせたという奇妙な安堵感を僕は毎回感じる。

「おじゃましまぁす……」 そんな必要はないのに、彼女は声を潜めて言った。

 玄関からすぐに台所へと繋がって、その先に座卓のある部屋がある。お世辞にも広いとは言えない。彼女をその部屋へ座らせて水道場でグラスにお茶を注いだ。その間に、いったいゆりかは上がり込んで何を話す気なのだろうか、と今更ながらに考えた。

「狭いね」 お茶と余っていた菓子を出した時、ゆりかは殺風景な部屋を見回しながら言った。

 肩を竦める。猛烈に煙草を吸いたい衝動に駆られたが、彼女の前なので我慢することにした。

「今探すから待ってて」 僕はビデオテープやDVDを保管してあるケースを棚の下から引っ張り出す。

「本当に二人で暮らしてるのね……」 唐突にゆりかが呟くように言った。

 独り言のようにも聞こえたので僕は無視して返事をしなかった。

 しばらく沈黙。

 僕は中古のレコードを漁るように指先でDVDのケースを探っていく。映画が好きで、趣味もそれしかないので埋もれるほどあるのだ。かなり大きめのケースもそろそろ満杯になってきた。ほとんど中古で買い取って来た品だ。レンタルするのはあまり好きではない。

 ゆりかがお茶を飲んでグラスをテーブルに置く音が何度か聞こえた。聞こえる頻度が多いので不審に思って振り返ると、ゆりかは正座になっていて、はっきりわかるほどにそわそわとしていた。明らかに緊張している面持ちだった。

「な、なんだよ、なんでそんな動揺してるんだ?」 僕は本能的に何かあると感じ、身構えた。

「は、はぁ?」 ゆりかはぎょっとして、赤くなりかけている顔を勢いよく横に振った。 「ど、動揺なんかしてないわよ!」

「してるじゃないか」

「うるさい! さっさと探しなさい!」

 そう言って俯き、もう一口お茶を飲むゆりかを、僕はじっと見つめた。彼女の整った顔が必死で平静さを繕おうとしているのが見てわかる。

 なんなんだ、こいつ?

 でも僕はすぐに気付いて、自分の胸の高鳴りを感じた。猛烈に気恥かしくなって顔を背ける。

 僕達はもう、子供じゃない。相手の気持ちに察しがつかないほど鈍感ではない。だが、あまりにも急であり、あまりにも意外だったので僕の気持ちは嬉しさや恥ずかしさよりも、驚きのほうが勝っていたと思う。 

 ゆりかの様子が変だ、というのは一目瞭然。この部屋に入ってからだ。頬を赤らめて挙動不審、僕の顔をまともに見ようともしない。

 まさか、彼女に限ってそんなことあるはずがない、と僕は常日頃から思っていた。だから、友人達の茶化しにも呆れて冷静に対処できたのだ。

 牧野ゆりかは美人である。性格も良く、人気もある。本人は自覚していないだろうが、学校ではちょっとしたアイドルとして周囲から見られているのだ。なので、彼女と幼馴染で親しい僕に嫉妬する輩も少なくはなかった。

 でも、僕はゆりかと一線越えた関係になりたいと思った事すらなかったし、彼女には他にそういう恋人のような、そうでなくても恋焦がれてる存在がいるのだと僕は思いこんでいた。それに今更、恋人にするには僕はゆりかと仲良くなりすぎてしまったし、互いを知り過ぎている。少なくとも彼女は、僕の前では、昔と同じように男勝りの快活すぎる女子の友達でしかなかった。

 ところが僕は今、急に現れた乙女なゆりかのギャップに頭が白くなるほど見惚れてしまっている。

「今日、何か用事あったんじゃないの?」 僕は半分だけ振り返ってゆりかに問い詰めた。

「あ、えと、それは……」 彼女は言葉に詰まって、こちらを見ながら何かを言いかけて、そしてまた俯いてしまった。

 脳裏に、幼い頃の僕達二人の遊びの風景がよぎった。ゆりかの笑顔は昔と全く変わらない。もしかして僕も、彼女の中ではそんな存在なのだろうか。

「嘘なの……」 ゆりかは静かに言った。 「あ、あんたに、その、どうしても言いたいことがあって……」

 僕の指先が、目当てのDVDを探し当てた。それを僕の目が確認する。僕は彼女に背を向けたままだ。目はDVDの表紙を見つめながら、耳は彼女の言葉に傾いたまま、頭は僕達の幼い頃を追憶していた。

「急にこんなこと言っちゃったら、引いちゃうかもしれないけど……、そ、その、察しつくでしょ……、あんた頭いいんだから……」 ゆりかは言う。

「わからない」 僕はゆっくり振り向いて言った。僕にも余裕はなかった。

 彼女はちょっと顔を歪めて、本当に困った様子で頭をかいた。

「だ、だから……」

「なんで、僕なんだい?」 僕は話の核心に迫って、さらにその先の疑問を訊いた。

 ゆりかは息を止めるように口を塞ぐ。また俯いた。

「あ、あんたしかいないわよ……、ずっと……」 彼女は下を向いたまま。 「い、今までだって、ずっと、言いたかったけど、でも……」

「そう……」

 その時、僕は頭の熱が急激に冷めていくのを感じた。

 余韻を残す早い鼓動。それを冷静に聞く。

 手はDVDのパッケージを掴む。

 滑らかな動作で、ゆりかへ差し出した。

「これ」 僕は、低く抑えた声。

「え?」

 ゆりかは目を開いて僕を見つめる。信じられないような表情。

「これで合ってるだろ?」 僕は彼女と目を合わさなかった。

「あの……」 彼女の声は縋るような響き。

「早く帰れよ」 僕は遮った。

 息を呑む音。

 冷徹な沈黙。

 遠くでカラスが鳴いている。

 ふと外を見ると、空は完全に茜色に染まっていた。

 その赤みはまるで宝石のようで、とても美しかった。

 そう、きっと、ゆりかの心を表した空色だろう。

 僕とは違うのだ。

「ごめん……」 彼女はふっと笑う。 「迷惑、だよね」

 ゆりかを見る。彼女の笑顔は記憶の中のまま。だけど、その目許は――。

 僕は何も答えなかった。もう一度、西日の日差しに目を細めて、その輝きを焼き付ける。街は切ないオレンジ色に染まっている。

 ゆりかは良い奴だ。

 純粋で、明るくて、綺麗だ。

 だが、彼女は知らない。

 僕達の罪を。

 本当の僕達を知らない。

 きっと忌み嫌うだろう、その醜態を。

 それが、僕と彼女を隔てる壁。

 そして、それが、僕と『彼女』を繋ぐ糸。

「帰る」 ゆりかの声は震えていた。彼女の涙を、僕は見なかった。

 彼女は立ち上がって、急ぐように出て行った。乱暴に玄関の扉を開けてアパートの通路を走って行く。その音を僕は聞いていた。

 やがて、開けっ放しのドアを閉めに行って、また部屋に戻る。

 窓の外には夕暮れ。

 小学生だか中学生だかのはしゃぐ声が聞こえる。

 大型トラックのうっとうしい振動。

 溜息をついて、今までそこに座っていたゆりかの姿を見つめていた。

 隠していた煙草を取って、一本抜き取る。

 その時、座卓の上に置かれたままのグラス、余ったお菓子、そして彼女が忘れていったDVDを見つける。

 どうしろと言うのだ、これを。

「迷惑だよ……」

 僕は独り呟いた。



 それからずっと、ゆりかのことを考えていた。女の子から告白されたのはこれが初めてではない。その中の一人には、ゆりかが仲介した子もいた。もちろん僕は他人にかまっていられるほど生活に暇がないので全て断っていた。

 あの時から、もしくはそれ以前から、ゆりかは僕に特別な感情を抱いていたのだろうか。少なくとも僕の目にはそうは映らなかった。

 なぜ、今になって……。僕は怨恨にも似た感情でそう思った。

 きっと彼女の中では様々な葛藤があったのだろう。言い出せない条件は多い。僕はバイトに明け暮れて自身の生活を養わなければいけなかったし、それを見て彼女も邪魔はできなかったのだろう。それにゆりか自身にも女子バレー部部長としての重荷があったし、もうすぐ大会も始まる。集中する時期だ。彼女は半端なことはできない性格である。その大会が終われば次は受験だ。大学に行ってしまえば、もう僕とゆりかが並んで帰るなんてことは恐らく二度とない。

 もしかしたら、だから今日だったのかもしれないと思った。きっと彼女にしたら、今までずっと抑えてきたものの、今日が最後のチャンスだったのだろう。だから、賭けたのかもしれない。

 でも時間は、ゆりかが考えていた以上に早く経っていた。

 全てが歪んでしまう前に彼女が僕に気持ちを告げてくれたら、今の状況は変わっていたのかもしれない。僕だってゆりかを受け入れただろう。想像は全くできないが、今はそんな予感がした。

 もう遅い。なにもかもが僕の中で変わってしまった。

 僕も『彼女』もきっと戻れない場所まで来ている。背徳を尽くしてしまっている。

 だけど。

 もしかしたら、まだ戻れるだろうか?

 ゆりかを好きになれたら、まだ間に合うだろうか?

 でもそれは逃げるということではないのか? 『彼女』を独り残して……。

 このままではいけないというのはわかっている。だけど、『彼女』が僕ではない誰かを見て生きることができない限り、きっと終わることはない。

 そこまで考えていた時、玄関の物音で僕は我に返った。胸が一瞬だけ高鳴る。それはすぐに落ち着いたものの、僕の指先は小さく震えていた。扉が開く。小柄な影が入ってきた。

 『彼女』はこちらを見て、少しだけその瞳を見開く。靴をゆっくり脱いで、制服のまま僕の前にまできた。

「バイト休みだったんだね」 そう言って、『彼女』は僕の身体を抱く。 「よかった」

「早かったね」 腕に抱かれたまま外を見た。いつのまにか暗くなっていた。どれだけ時間が経っていたのかわからなかった。

「今日、ゆりかちゃんがいなかったから、練習早く終わったの」

 さっきまでここに居た、と僕は言おうか迷ったが結局やめておいた。何となく、そのほうが良いと直感したのだ。

「大会前なのに、何やってんだあいつ」 僕は白々しくそう吐いた。はっきりと自己嫌悪を感じた。

「そんなこと言ったら駄目だよ。ゆりかちゃん、ずっと忙しいんだから」 彼女は僕の肩に頭を預けたまま、静かな声で言った。今にも眠りそうな声だ。

 僕は抱き返さず、ずっと黙っていた。『彼女』の髪が香る。部活で汗をかいてきたはずなのに、シャンプーの良い匂いだ。『彼女』の顔が離れて僕を見た。短く切られた黒髪を僕は指先で少し梳いてやった。大人しい瞳がそれに合わせて細くなり、微笑んだ。

「早めにご飯食べる? すぐに作るけど」

「うん……、そうだね」 僕はいい加減に応答する。

「じゃあ、ちょっと待ってて」

 彼女は制服を脱ぎ、ワイシャツとスカートの恰好のまま台所に立った。僕はその後ろ姿をぼんやりと見ていた。

 そっと座卓を見るとゆりかの使っていたグラスと、DVDが目に留まる。さりげなくDVDを学校の鞄に、グラスを台所のシンクに戻した。



 夕食が済み、風呂に入った後、僕は狭いベランダに出て煙草を吸っていた。『彼女』が家に居る間はベランダで喫煙するのが僕の中の取り決めとなっている。

 住宅街は夜の闇に染まっていてとても静かだ。ぽつぽつと点在する街灯や家の窓に映る光がその雰囲気を強く醸し出している。幼い頃からずっと知っている街並みである。空を見上げれば月もあるし、ぎりぎりではあるが星も見える。その風景が僕は堪らなく好きだ。ただ、今は空に暗雲が立ち込めて星も月もあったものではない。湿気も増してきている。予報は当たっていたようだ。

 『彼女』は食器を洗っている。その水の打つ音しか聞こえない。僕は吸い終えて居間に戻り、座り込む。『彼女』の小さな背中を見つめた。華奢な身体で、それでもバレー部では奮闘している、将来の部長候補だとゆりかから聞いている。あのゆりかにそこまで言わせるなんて、今思うとなかなか誇らしいことだった。

「お兄ちゃん?」 『彼女』は視線に気づいたのか、ふと手を止めて振り返る。 「どうしたの、ぼんやりして」

「いや……」 僕は首を傾けて、ちょっとだけ表情を崩す。 「ゆりかがお前のこと褒めてた」

「ほんと? なんて?」

「エース狙えるってさ」

「うそ、本当に?」 『彼女』の顔がパァっと晴れる。 「うれしいな」

「僕も誇らしい」

「うん、でも、今に満足しちゃ駄目だよね、もっと頑張らないと……」

 僕は鼻息を漏らしながらゆったりと微笑んだ。一緒に育った十五年間、こうやって妹が成長していく様を見ると、僕は兄としてとても嬉しく思う。否、両親が死んでからは僕は父親のような気持ちで『彼女』を見つめているのかもしれない。今、『彼女』を守るのは僕しかいないし、『彼女』の将来を後押しするのも僕の役割だ。

 周囲の人間は生活の為に勤労する僕に同情してくれるのだが、でも、僕には元々具体的な人生の目標というものがなかったから周囲が思ってるほど僕は苦労を感じない。両親が事故で亡くなって、親戚の手を借りずに生きていこうと決意してから、僕はその事実に気付いたのだった。ただ両親が喜ぶから僕は勉強をしたし、趣味の空手も修練したし、妹の面倒もよくみた。だけど、気づけば僕が本当にやりたいものというのはなかったのだ。学校の教師は僕の学力を見て奨学金を使ってでも国立大学へ進学することを強く薦めるが、働きに出るという理由で僕は全て断っている。ただ、妹には進学してほしいのでその時は面倒を見てくれと頼んだ。教師の一人は涙ぐんで僕を讃えてくれたが、でも僕は自分を不幸だとは思わないし、立派であるとも思っていない。肉親のために働くことが僕にとって、いたって普通な、義務的なものだと割り切っていた。妹の成長を見る限りそれは決して苦痛にはならない。

 しかし、困ったことが今ある。

「……大学は決めたか?」 藪から棒にではあるが、僕はそれを訊く。

 『彼女』は笑顔を打ち消して、首を振った。

「いかないよ、わたし」 打って変わった静かな口調。 「これ以上、お兄ちゃんに迷惑かけたくないもの」

「そんな心配はいらない。本当に行きたくないならいいけど、金のことで行かないのは無しだ」

「でも……」

「なんとかする。お前一人くらいなら養える」

「お兄ちゃんは行かないんでしょ?」

「僕はまぁ……」

「じゃあ、わたしも行かない。だって、そんなの、不公平じゃない」

 『彼女』もだんだんと大人に近づくにつれて、遠慮というものを覚え始めた。働いている僕を気遣ってか、休日に友達と遊ぶことも高校に上がってからは無くなって、その代わりに家事をするようになった。一時は学校を辞めて働くだとかアルバイトをするだとか言って聞かなかったものだが、僕はなんとかそれをすべて諭してきた。そんな『彼女』が進学しないと言い出すのは至極当然のことであった。

「僕だって行こうと思えば行けるさ。奨学金でもなんでもあるし、お前よりかは頭いいと思ってる」

「だったら、お兄ちゃんも大学行こうよ。わたしの為に、将来を潰すことなんて……」

「進学しなかったら人生真っ暗ってわけじゃないだろ」 僕は場違いにも吹き出してしまった。 「でも、お前にはどちらかというと行ってほしい。なりたいものになりな」

 『彼女』はそれ以上、何も言わなかった。洗い物を終えて、僕のほうを一度も見ずに風呂場へと消えた。

 僕は溜息をついて、なんとなく天井を見上げる。吊り下がったぼろい蛍光灯が僕たちの生活の灯りだ。

 正直言って、『彼女』が気遣いしてくれるのは嬉しいのだが、でも、それは僕の兄としてのつまらないプライドを少なからず傷つける。

 僕は妹を恨んだりなどしない。そんなことできるはずがない。

 ただ、もっと信頼してほしかった。

 気がつくと、閉めた窓の表面に水滴が伝っていた。耳を澄ますと小雨の降る音が聞こえる。

「今夜中には止んでくれよ」 そんな言葉が口から出た。

 予報通りなら明日の朝には晴れているはずだ。もし雨なら、明日の僕は今日と違って沈んだ気分で登校することになるだろう。

 濡れた暗い窓をぼんやり見つめていると、一瞬だけゆりかのことを思い出した。

 あいつは今どんな気持ちでこの雨を見つめているのだろう。

 笑ったゆりかの目許に浮かんでいた雫。

 僕はその意味を考える。

 そしてすぐに思考を切り捨てた。

 やめよう。

 僕にはもう関係のない話だ。

 今更、何事もなかったかのように普通の恋人を演じるなんて到底無理だ。

 さっきまで台所に立っていた『彼女』の顔が次に浮かぶ。今はシャワーを浴びている。

 今夜もきっと、僕達は過ちを犯す。

 そんな悪魔の囁きが、暗い窓の中に確かに潜んでいた。



 室内にいるのに、雨に濡れたコンクリートの匂いがした。じめじめと湿気が増して、頭の中に黴が生えてしまいそうだ。

 起きていてもすることがないので、僕は早めに眠ることにした。『彼女』はテレビを居間で観ている。その漏れてくる雑音を枕にして僕はまどろみに沈みかけていた。

 瞼の裏に浮かぶのは、ゆりかの顔だった。僕はそれを沈んだ気持ちで見つめる。そうしていると、さざ波程度に過ぎなかった考え事が大波となって押し寄せてくる。

 しかし、ふと目を開けて、暗い天井に浮かぶのは『彼女』の顔だった。僕はその突き付けられる現実と、割り切られた自身の思考回路にささやかに絶望する。

 テレビの音が消えたのにはすぐに気付いた。勢いを増した雨の音だけが部屋に染み入る。

 襖の開く音。僕は決して目を開くまいと決意していた。『彼女』の気配は僕のすぐ傍にまでやってくる。

「寝たの?」 静かな声。

 僕は答えずにただ目を閉じていた。右手に手触りのよい衣服の感触。『彼女』の寝巻の繊維だ。

 『彼女』の細い指が僕の頬を撫でた。体温が顔に近づいて、唇に柔らかいものが触れた。僕の目許に『彼女』の髪が触れる。静かに高ぶる相手の鼓動が伝わってくる。

 僕は目を閉じたまま、口づけに応えた。

 『彼女』も呼応してその行為に熱が籠る。細い腕が僕の首筋に絡みつき、『彼女』の身体が僕の上に被さった。

 漏れる呼吸の中、『彼女』はすっと唇を離して僕を見下ろした。

「お願い、抱いて」

 僕は薄闇に映る『彼女』の顔を見上げる。

「ヒトミ」 僕は狼狽にも似た口調で『彼女』の名前を口にする。僕が発することができたのはそれだけだった。

 もう一度、『彼女』の唇が僕に触れる。僕は諦念にも似た感情で再びそれに応える。

 これが、僕達の罪だった。

 肉親の間で行われるこの行為。

 いったい、どうして。

 いったい、いつから、こんなことになってしまったのだろう?

 『彼女』の冷たい指が恋人のような愛しさを込めて僕の胸板を這う。

 なぜ僕らはこんなにも互いを求めて、そして傷付け合うようになったのだろうか。

 手には妹の、否、女の柔肌の感触。

 熱い吐息。

 欲望の波。

 僕は段々と抗えなくなる。道徳心だけでは抑えつけられない。



 四、五歳の頃、『彼女』の小さな手を取って山道を歩いた記憶がある。両親がこちらに振り返って微笑んでいたのも覚えている。牧場だかなんだかを見に行った時のことで、それが僕の最も古い記憶だ。

 いつの間にかその当たり前の手の繋がりを忘れかけていた小学校四年生の時、『彼女』の帰りが遅くて、母親から捜しに行けと言われたことがある。僕はその時テレビのアニメが見たくてちょっとだけ愚図ったものだが、渋々行った。街は既に夕暮れを過ぎていて、真新しい闇の中に街灯が灯っていた。夏場の蒸し暑い夜を歩いていると、僕でさえ少しだけ心細くなって、この中を彼女が歩いているのかと考えたら急に恐ろしくなった。もし不審者に連れ去られていたり、どこかで事故にあっていたらどうしようと幼い心ながら真剣に思ったものだ。でも、『彼女』は自宅近くの公園のブランコに座っていた。僕はそれをすぐに見つけた。友達と遊び終わった後もここでずっと独りでいたのだという。

 今思い返すと、『彼女』はその前日に母親にこっぴどく叱られていたのだ。叱られた理由は忘れてしまったが、とにかく、それに対するデモンストレーションのようなものだったのだろう。僕は昔から大人しいほうの人間だったのだが、この時ばかりはさすがに憤慨した。『彼女』のそんなくだらない抵抗のせいで僕は観たいアニメも観れなかったし、こんな暗い場所まで歩かされた。だが、それより何より『彼女』に対して抱いたささやかな心配の念が裏切られたと思う気持ちが最大の要因だった。

 僕が凄い剣幕で怒鳴ると、『彼女』はわぁっと泣き出した。僕はさっさと一人で帰ろうかと思ったが、公園の中でずっと泣いているままの『彼女』を置いていくわけにもいかず、仕方なく僕は二言三言声を掛けてやり、彼女の手を取って家に連れて行った。『彼女』は家に帰ってもやっぱり叱られた。

 僕が高校生になって『彼女』が中学二年生になった時、毎年近くの土手で開かれる花火大会に行ったことがある。僕は行く気はなかったが、『彼女』と翔太、それにゆりかがしつこく誘ってきたので行った。夜空に鮮やかに咲く花火を見上げながら四人で屋台を巡っていた時、出し抜けに『彼女』が僕の隣にきて手を握ったことがある。

「おい、なんだよ」 僕は驚きと少々の薄気味悪さを覚えて訊いた。

 ゆりかと翔太は僕らから少し離れた屋台で焼きそばを買っていた。

「お兄ちゃん、昔、わたしのこと怒った時あったでしょ」 『彼女』は屈託なく笑いながら言う。浴衣姿だったが女の色気というものは全くなくて、逆にいつもより幼く見えた印象が残っている。 「ほら、わたしが日が暮れても帰ってこなくて、お兄ちゃんが捜しにきたの。もう随分前だけど」

「あぁ、うん、そういえばあったな」 その時の記憶はなぜか強く残っていた。

「あの時ね、わたし、本当はお兄ちゃんが来るの待ってたんだよ」

「は?」

「わたしがどこか遠くに行きたいって言ったら、お兄ちゃんなら聞いてくれると思って」 『彼女』は空いているほうの手で頭を掻いた。 「そしたら、こっぴどく怒られちゃったけど」

「当たり前だろ、何考えてんだ」

「だって、子供の発想だもん」 『彼女』は舌を出して言った。

 今でも子供だろ、と僕は言いかけてやめておいた。

「でも、あの時ちょっとだけ嬉しかったよ。やっぱりお兄ちゃんがきてくれたから。それで、暗くて怖い道の中でわたしの手を握ってくれて」

 僕は握られた自分の手をなんとなく見る。

 当然ながら、あの時よりも『彼女』の手は大きくなっていた。その時、初めて僕は、決して抗うことのできない年月の流れというものを確かに実感した。それと同時に湧きあがった僅かな哀愁も。

「というわけで、なんだか二人で歩くの久しぶりだから、ちょっとセンチメンタルなこと言ってみました」 『彼女』は繋いだ手を離して少し前へ出る。こちらに振り返って、頬を薄く染めた悪戯っぽい笑みを向けた。

 僕はきっと気の抜けた顔で返していただろう。そんな僕を余所に、『彼女』はゆりかと翔太のところまで駆けて行った。

 あれからまだ二年ほどしか経っていない。



 『彼女』がいつの間にこれほど妖艶な身体に成長したのか、僕は知らない。薄闇であることが幸いして、僕は妹ではない他の女を抱いているような錯覚をする。でもそれは逃避と願望に過ぎない。

「好き、だよ」 『彼女』は途切れ途切れにそう囁いてくる。

 記憶の中で幾度となく繋がれた妹との手。今、この瞬間も繋がれている。『彼女』の快楽の波に反応して、握られる力も強くなる。荒ぶる呼吸と覚醒にも近い意識の中で、僕はその手を見つめる。

 いったい、いつから?

 僕は絡まった手に何度となく問い詰める。



 両親が旅行の途中に不慮の事故で亡くなったと報された時、僕は愕然とした。立っていることもできないほどの虚無感と喪失感の次に、理不尽な運命へのやり場のない怒りが湧いて、それが過ぎた後に深い悲哀に打ちひしがれた。暗澹たる将来への絶望にも頭を抱えた。

 『彼女』は何度となく泣いていた。自室の中でも、祖父達が準備してくれた葬式の最中でも、それが終わった後の日常の間でも。

 僕は両親の財産を相続して、親戚のバックアップを得ながらも頼り切ることはせずに、それまで住んでいた一軒家からこの小さなアパートの一室に移り住んだ。新境地で新たな生活を始めても、当然のことだが、『彼女』は悲しみの底にあった。

 そして、僕が部活を辞めてバイトに勤しむようになった高校二年生の時。『彼女』は中学三年生となっていて、受験と将来について僕と幾度も衝突を繰り返していた時期だった。『彼女』は学校へ行かずに働きに出ると主張して、僕はそれを必死に諭した、というよりもほとんど喧嘩のような口論で返していた。

 その只中の、ある日の夜のことだった。

 その日も学校から帰った後、僕と『彼女』は言い争いを起こした。『彼女』は目にうっすら涙を浮かべながら聞き入れられることのない要求をして、挙句、口をきかなくなった。僕も、憎いわけではなかったが、気まずくてその日はそれ以降喋らなかった。そして、日付が変わった深夜、『彼女』は眠っている僕の布団にそっと潜り込んで、隣で僕に静かに語りかけてきたのだ。

 『彼女』にとっては独白のようなものだったのかもしれない。僕は密かに起きていて、それをすべて背中越しに聞いていた。

 将来のこと。

 父と母のいない現実のこと。

 自分自身の漠然とした夢のこと。

 それらの間での葛藤。

 そして。

 僕に対する、情念。

「わたし、お兄ちゃんのこと好きだよ。だから、迷惑かけたくない」 『彼女』は後ろを向いている僕の肩に顔を埋めて、小さく囁いた。 「お兄ちゃんが恋人だったらいいのに……」

 『彼女』は僕の隣で衣服を脱ぎ始めた。そうしているのが見ずともわかった。僕は動揺していたけれど、でも、『彼女』の声は凛としていて芯が通っていた。だから、僕が迷っているわけにはいかなかった。『彼女』がそれで救われるなら、と捨て鉢に近い覚悟と衝動で心を固めた。

 僕と『彼女』が一線を越えて兄妹以上の、男女の関係となったのがその日だった。あの日からずっと、甘い悪夢が続いている。いつの間にか僕も『彼女』の中に居場所を見つけるようになっていた。僕は、弱い生物だった。

 恐らく世間からすれば僕は軽蔑の対象となる人間だ。その認識は決して間違っていないだろう。

 そう……。

 なにが優等生、相原優斗。

 なにが兄の鑑。



「君のような生徒が皆の模範となるべき人物だよ」



 いつか教師に言われた言葉。



「お前ってほんと、欠点見当たらねぇよなぁ」



 いつか友人達に言われた言葉。



「ヒトミちゃんもこんな兄貴がいて幸せだよね」



 いつかゆりかと翔太に言われた言葉。



 お前らに何がわかる?

 知ったような顔で僕を語るな!

 妹一人を満足に救うこともできないばかりか、こうして背徳を尽くしている。

 『彼女』にも、ゆりかにも、傷つけることしかできないじゃないか。

 目的もなく、彷徨うようにして僕は人生を歩んでいるだけだ。

 ただそこが学校だから、勉強をして。

 ただそこに人がいるから、とりあえず仲良くして。

 ただ求められているから、与えるだけ。

 何も考えず。

 何も期待せず。

 自滅に向かって……。



 気付くと、暗闇の中で僕は泣いていた。今までそんなことがなかったのに、何故だか突然堰を切ったように涙が溢れてきた。

 僕の流した雫が、僕の身体に覆われていた『彼女』の頬に降る。手が僕の顔に触れた。

「泣いてるの?」

 僕は困惑しながら答えることもできず、ただ嗚咽を押し殺していた。

 『彼女』の胸のわずかな膨らみに額を置く。

 苦しかった。

 息もできないほどに。

 死んでしまいたい、とすら一瞬思った。

「ごめんね」 『彼女』の手が僕の髪に優しく触れ、撫でる。 「きっと、わたしのせいだよね」

 僕は泣いて瞑目しながら首を振った。

 お前は何も悪くない。悪いのは、すべて僕だ。

 僕は言葉にならない声でそう言う。相手に放つのを恐れていたのだろう。

 『彼女』の細い身体を強く抱いた。融けるようにして、一つになる。そうすることでこの苦痛から逃れられると僕は信じていた。『彼女』の悦びを含んだ声が漏れる。それに合わせて僕の行為もより深く、より激しくなる。

 これが償いであると僕は思っていない。『彼女』を傷つけているだけの下卑な欲情だ。

 それでもこうしなければ、消えてしまいそうな不安と焦燥。それが僕を急き立てる。

 結局は、僕は自分の身が一番で。

 自分の安心が最優先だった。

 そして。

 その意識こそが、僕に与えられた罰だった。



 全ての行為が終わって、果てた後。僕と『彼女』は二人で仰向けになって暗い天井を見上げていた。手と手はずっと繋がれたまま、身動き一つせず、静かな空間の中で。

 時計の秒針のゆったりしたリズムが僕の気持ちをだいぶ落ち着かせた。目を閉じればこのまま眠れそうだ。

「わたしね、本当は知ってた」 『彼女』は静かに話し始める。 「わたしがお兄ちゃんを苦しめてるって」

「そんなこと……」 僕は言い淀む。

「ううん、それくらいわかってるよ。こうやって抱き合った後、お兄ちゃんいつも辛そうな表情してる」 薄闇の中で『彼女』がこちらに向く。目が慣れていたのでその様子が見えた。 「ごめんなさい」

「ヒトミは何も悪くない」 自分でも驚くくらいの正直な言葉だった。

「悪いよ。わたし、それを知っててもずっとあなたを求めてたから」 『彼女』は僕の胸板に額を当てる。 「お兄ちゃんのこと好きだから。抱いてくれる度にとても嬉しくて、気持ち良くてしかたないの」

「……」

「自分のことばっかりだよ。本当、ひどい女」 『彼女』は淡泊な口調で言う。

 しばらく沈黙した。雨の音がいつの間にか止んでいる。厚い雲が風に流され、その切れ目から月の光が差し込んでいる風景を僕は目にしなくても思い浮かべられた。

 自分のことばかり考えてたのは僕だよ、と何度も言いだそうとしたが、結局は言葉にならなかった。ただ、僕は『彼女』の小さく震える手をずっと握ってやっていた。そうすることで、僕の醜い面が『彼女』に伝わるのだとなんとなく思っていた。

「今日ね、部活が終わった後、翔太に呼び出されたの」

 突然、『彼女』が何の脈絡もない話題を切り出したので、考え込んでいた僕は少々当惑した。

「好きだって言われた」 『彼女』の話し方には昂揚の欠片もなかった。

 あぁ、それでか……。

 今朝の翔太の翳った表情が脳裏をよぎって、合点がいった。きっと事前に告白を計画していて、『彼女』の兄である僕に気兼ねしていたのだろう。

 何故だか、例えば新聞に載っている知らない国の戦争の記事のような、自分とは程遠い話題を聞いているような気がして僕は動じなかった。そんな自分が不思議だったが、しかし実際、僕自身にはあまり関係のないことだ。

「なんで、わたしなのかな」 『彼女』の声に少しだけ涙が滲んだ。鼻を啜る音。 「変だよね、翔太。他にいっぱい女の子いるのに、よりによってわたしなんか……」

「お前しかいなかったんじゃないのかな、ずっと」 僕は間を置かずに言う。

 もちろん、僕の頭の中にはゆりかの顔があった。

 二人揃って本当……、まるで喜劇だな。笑うにはちょっと重すぎる喜劇だ。

「わたし、どうすればいいのかな」 『彼女』はとうとう顔に両手を被せる。 「ひどいよね……、翔太は何も知らないのに……、こんなことしてるのに……、わたし、翔太のこと好きになってる……、今更勝手すぎるよね」

 『彼女』は嗚咽を漏らし始めた。しゃくり上げながら、ごめん、ごめんなさいと繰り返していた。

 僕は、ゆっくりと『彼女』の頭を撫でる。

「付き合ってやりな」 僕は微笑んだ。

 涙でくしゃくしゃになった小さな顔が驚きを浮かべてこちらに向いた。夜の公園でのあの光景と一瞬、重なる。そう、あの時も確か、こんな顔をしていた。

「あいつは良い奴だから。絶対、お前を泣かせることはないよ」

「でも、お兄ちゃんは……」

「僕のことはいいんだ」

「よくないよ」 『彼女』の語調が少しだけ強くなる。 「いつもそうだよね……、自分のことなんて顧みなくて……、わたしだってお兄ちゃんの為に何かしたい」

 僕は上体を起こして闇を見つめた。聞こえるものは無く、静かな空間だった。

「幸せになれ」 その闇に向かって呟いた。

「え?」

「何が何でも幸せを掴めよ。精一杯、力の限り……、お前の幸福が、僕の幸福だからさ」

 そう。

 まだきっと、遅くはない。

 少なくとも『彼女』はまだ戻れるだろう。

 僕は翔太の顔を思い浮かべる。

 そういえば、あいつも結構立派な男になってきている。誠実で良い奴だ。

 あいつなら『彼女』を助けることができるだろう。その逆だってきっとあるはずだ。

 『彼女』の腕が僕を後ろから抱きしめた。『彼女』の頭が僕の肩に乗る。何故だか切ないその重み。

「お兄ちゃん……、わたし、知ってるの」 囁くような声。

「何を」

「お兄ちゃんのこと好きな人、知ってる」

「……そうか」

「知りたくない?」

「どうかな」

「もしかして、知ってる?」

「うーん、どうでしょう」

「ねぇ、真面目に答えてよ」

 今の今まで泣いていた『彼女』の声に笑みが戻った。僕も少し可笑しくて、つい吹きだしてしまい、二人で笑った。

 『彼女』に引っ張られてまた布団の中へ倒れこんだ。蒸し暑い夜なのに二人して頭から布団を被り、意味もなく闇の中で息を潜める。そういえば子供の頃にこんな遊びをしていた気がする。

 相手の瞳がすぐ近くにあっても、それを見ることのできない闇だった。互いの吐息がぶつかり合う。この狭い空間の居心地が良かった。

「その人はね……、たぶん、お兄ちゃんと同じくらい苦しんでるの。お兄ちゃんのことを考えて、だから容易には近づけなくて、でも好きで好きでたまらなくて……」 『彼女』の小さな声。内緒の話をするかのようなわくわくに満ちた声であり、母のように優しい声でもあった。

 小さく笑ってしまった。

「へぇ、僕は誰かさんからそんな寵愛を受けてるんだ?」

「真面目な話。冗談なんかじゃないよ」 怒ったように努める彼女の声もどこか楽しげな雰囲気。 「その人はすごく身近にいて、でも近すぎてお兄ちゃんからは見えてないの。その人もきっとそれを知ってて、だから一歩離れて自分の姿を見せるのを怖がってる」

 僕は目を閉じながら『彼女』の話に耳をそばだてる。『彼女』の声は段々と真剣さを帯びてきたけど、僕からすればそれはまだまだ子守唄のように甘い。

「お兄ちゃんもわたしも……、ううん、誰だって皆……、孤独なんかじゃないんだよ。気付いてないだけで、自分を愛してくれる人だっているし、心配してくれてる人も絶対いる。それに気付かないで自分から心を閉ざしちゃってる人が、本当の孤独だと思う……」

「……饒舌だな」 僕はぽつりと呟く。

「これでもわたしなりに、真面目に考えたんだよ」 彼女は照れ隠しに笑った。

 僕は黒板に大きく書かれたあの漢字の二文字を思い出す。

 “孤独”。

 僕達は違うというのだろうか。

 誰も僕達のこの行為を知らないのに。

 重い罪を二人で一生懸命に隠して、何食わぬ顔で集団に紛れて……。

 ゆりかも翔太も、綺麗な顔をした上辺だけの僕達を見て好意を寄せてきただけじゃないのか?

 睡魔に支配されだした頭の中で考える。

「何考えてる?」 『彼女』の声が闇の中から囁いた。

「色々」

「あなたって理由を付けて、いつも受け身になるよね」 笑われた。

 少し心外だった。

「そんなことないだろ」

「そんなことあるよ……、お兄ちゃんは自分の生きたいように生きて、欲しいものを手に入れる生き方をしたほうがいいと思う」

 僕は思わず黙ってしまった。

 孤独……、確かに今までの僕達はそうだっただろう。

 しかし。

 『彼女』は自分から動きだしていた。

 罪悪感を引き摺る日常の中で、それを棚上げにしてまで奔放に生きようと努めていたのだ。変わろうとしているのだ。

 『彼女』は僕なんかよりずっとずっと強い人間だった。

 それを今、僕は唐突に理解した。微笑みが零れる。

 僕は『彼女』を理由にして、自分を取り巻く状況と卑屈に折り合いをつけていただけだった。

 夏を過ごし、冬を過ごし、一つ一つ歳をとって大人へと向かっていたはずの僕は結局何もしていなかった。自滅的に、安易な居場所を見つけてそこに居座っていただけ。不思議とそんな自分を冷静に見つめていた。



 まだ、変われるかな。

 君のように。



 僕はそう呟いたつもりだったが言葉は出ていなかった。暗闇を見つめているのかと思っていたけどいつのまにか瞼を閉じていた。

「お兄ちゃん? 寝たの?」 『彼女』の声。

 毛布を捲られて、少しだけ涼しい空気が顔に触れる。僕は瞼を閉じたまま、眠ったふりをしていた。

「変われるよ、わたし達。絶対。もうこんなことはしない。わたし、自分で生きていけるようになるから……」

 『彼女』の唇が僕の額に触れる。

「だから……、お兄ちゃんも自由になって」

 まどろみに沈みゆく意識の中でその言葉が聞こえた。僕の意識は日だまりのような温もりに包まれながら、幻想を見る。

 手を繋いだ僕と『彼女』があの懐かしい道を歩き。

 その緩い坂道の上にはゆりかと翔太がこちらに笑顔を向けて手を振り。

 僕達二人は手を離し、お互いを見つめる。

 白い日射し。たった一つの白い太陽。

 坂の下に広がる見慣れた街並み。夏空。蝉時雨。

 遥かな記憶の断片。

 頭上の眩しい太陽。

 僕達はそれを見上げる。

 消えてほしくないと願えるその光。

 『彼女』は笑い、僕もそれを見て笑う。

 手元に煙草は無く。

 ゆりかに借りたDVDも無く。

 両親の遺影も無く。

 胸を覆っていたあの冷たい孤独感も無い。

「僕は、君と……」

 夢の中で僕は呟いた。

 誰に向けて言った言葉かもその時はわからなかったし、その続きもわからない。目が覚めて朝陽を迎えた時も気づかなかった。





 『彼女』はもう居なかった。部活だろう。少し寝過ぎた朝だった。テーブルの上にはいつもと同じように朝食。いつもと同じようにカレンダーを見上げ、今日の日付を確認する。

 朝食を済ませて顔を洗った後、ハンガーに掛かった制服を着て僕は準備をする。いつもの朝。いつもの作業。

 でも、きっと違う朝になる。

 きっと違う人生を送れる。

 僕はそんな予感を抱いた。鞄を持った時、そこに入れていた煙草を見つけた。それを手に取りしばらくパッケージと睨めっこした後、僕はそれをゴミ箱へ捨てた。

 外に出ると予報通りの快晴であった。雲一つない。爽やかな陽射し。嬉しいことにちょっとだけ風が涼しい。

 僕はアパートの階段を下り、学校へ向かう。登校する他の生徒達がちらほらと見え始めた頃、僕はふと立ち止まって振り返ってみた。

 遠くのほうから、彼女が歩いてくる。他の女子より頭一つ分背が高いので簡単に見分けられる。僕は鞄の中のDVDを確認してから、そちらへと歩いた。

「部長なのにこんな時間に来て大丈夫なのか?」 僕は微笑みながら声を掛けた。

 ゆりかはどうやらぼんやりしていたようで、心底驚いた顔を見せた。

 彼女は気まずそうに言葉を詰まらせて顔を上げようとしなかった。顔が真っ赤だ。僕はDVDを差し出す。彼女は「あっ」と気付いたようにそれを受け取った。

「ごめん、忘れてた……」

「うん。何のために来たんだか」

「ほんとね……」

 ゆりかは僅かに微笑みを覗かせ、表紙を見つめてまた沈黙した。

「返事、もう少し待ってくれないかな」 僕は言った。

「え?」 彼女は弾かれたように顔を上げる。

 僕は頭を掻く。さすがに恥ずかしくて、目線を逸らした。

「今、大事な時期だろ? その、大会だとかあるし、受験とかも……、だから、それが終わった時にその……」

「優……」

「僕、大学行こうと思う」

「え?」

「ゆりかと一緒の大学に。なんとか行ってみる。だから、ゆりかも気を抜かずに勉強して欲しい」

 彼女は呆けるようにして立っていたが、やがて見る見る内に顔を崩して泣き笑いの表情になった。

「うん……!」

「あと、ヒトミのこともしごいてやってね」

「任せなさいよ、なんたって将来の部長候補だもん!」

 ゆりかは浮かんだ涙を手の甲でさりげなく拭い、僕と並んで歩いた。

 校門をくぐった時、彼女と話しながら僕はふと頭上を見上げた。



 白い陽射しの太陽が、そこには浮かんでいた。

作者 まっしぶ
投稿日:2011/01/22 04:11:54
更新日:2011/01/22 04:11:54
『孤独の太陽』の著作権は、すべて作者 まっしぶ様に属します。
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