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作品ID:325

こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約41612文字 読了時間約21分 原稿用紙約53枚


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小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /

世界の終わり

作品紹介

春の丘、夏の終わり、記憶喪失、男と女、過去と現在。 原曲・Thee Michelle Gun Elephant





長いです。


 ある晴れた休日の昼下がり。まだ桜の散り切っていない、街中に花の甘い香りが漂う季節のこと。麗らかな日和で、澄み切った空の青が目に痛いほどの日だった。

 地表から切り離され、魚のように漂う千切れ雲を眺めながら、風間信志と霧島楓は、よく街外れにあるアスレチック場の小さな丘でのんびりと過ごした。二人は毎度、その場所を訪れて適当な斜面で腰を降ろしては、しばらく何も話さない時間を共有していた。一度どちらかが話しだせば、始まった会話は時間の経過を一足で跨ぐかのように白熱を見せる。しかし、その切り出しまでの沈黙は恐ろしく長く、しかし、二人とも(少なくとも風間は)それを苦痛には思わなかった。

 その静けさは恐らく、これから脈絡無く時間を貪るだけの無駄話への準備、各々の体勢を整えるのに必要な時間だったのだろう。あるいは日々の中でどす黒く濁って平静を忘れた精神を一旦クリーンにする為の、二人でなんとなしに定めた不文律の儀式だったのかもしれない。ともかく、それは毎度の習慣で、風間は霧島と過ごすこのお決まりの沈黙を殊のほか気に入っていた。

 二人がその静けさの中で見つめていたものは別々だった。

 風間は常に形を変えながら流れていく純白の雲をよく眺めていたし、時々その下にある住み慣れた平和な街を見下ろすこともあった。平地の果てまで見渡せる地平線の薄い乳白色の空から、頭上に広がる蒼穹の空までのグラデーションはとりわけ大好きで見ていて飽きなかった。しかし、彼が遠くを眺めるのに対して、霧島はいつも膝を抱えて、自分の足許にある野花や草の葉、活発になり始めた昆虫の営みや餌を求めて飛び回る野鳥を目で追っていた。彼女は風間と違い、手に届く範囲の物を面白そうに観察していた。会話が始まる前の、お互いの情報を交換する前の段階で既に(といっても、とっくに相手のことをほとんど解り合っていた、と断言できるほどの関係は形成されていたが)、二人の性格的な違いは顕著に表れていたし、当人達もその個性の差異を自覚していた。その認識が改めて呈示されるのがこの沈黙の時間だったが、それが故に風間はこの無言の間をかけがえの無い大切な時間だと思っていたし、そのささやかな二人の差を愛してすらいた。

 彼女と自分は違う、という絶対の意識が、風間が霧島を愛する理由だった。他人との同化を望むような感情や圧力が彼は嫌いだった。例えば、マスコミが煽る世論の傾倒だとか、感動を共有させようとするエンターテイメントだとか、その類のものを嫌っていた。それは、他の連中と区切られたいと願う、微笑ましい思春期の心理の残骸だったのかもしれないし、思想を単純化して流されんとする欲求からの解脱を試みる、高尚で修行者的な理念に基づいたものだったのかもしれない。否、違う、と彼は思う。プロセスはあっても、根源の理由はきっとないのだ、ということは随分前から自認していた。生理的に受け付けない、といったほうが最も的確だったかもしれない。気持ちの悪いものに触ることができないのと同じだ。

 霧島も彼と同じ人種だったに違いなかった。だから、矛盾しているかもしれないが、そんな互いの部分に共鳴して惹かれ合ったのだろう。

 霧島は普段の生活の中ではほとんど喋らなかった。氷上を滑っていくような、味気の無い淡々とした会話しかできない女だった。風間もあまり話し上手ではないが、彼がリードしないと日常の会話はたびたび途切れてしまう。しかし、この場所では違った。この日向の下で一度口火を切ると、霧島は些細なことでも饒舌に語った。時に微笑み、時に哀しげに俯きながら、普段の彼女からは想像もできないほど感情豊かに喋った。

 もしかしたら、それが霧島楓という女の本来の姿だったのかもしれないし、その場所だけで起こる限定的な不具合だったのかもしれない。どちらか判然とはしないが、彼女のそんな極端なスタイルも風間は気に入っていた。どちらの状態でも、彼女の口から放たれる音の信号が大好きだった。

 その日も彼女の何気ない一言から始まった。しかし、その日の話題はそれまでのものと比較すると多分に異質だっただろう。

「ねぇ、世界の終わりって、いつやってくるんだと思う?」

 霧島は丘の斜面の、風間よりやや低い、少し右前方の位置に座っていて、振り向いて訊いてきた。その坂のさらに下方では子供達がアスレチック用の遊具の間を駆け回って、喧しい喚声を上げている。保護者と思われる大人達も、二人のように斜面に腰かけていた。

 そのあまりに突飛な質問に、風間はすぐには反応できなかった。

「なんだよ、急に……」 彼は遅れて吹き出し、首を傾げた。 「何の話? どういう意味?」

「言葉通りの意味」 霧島は生真面目な顔で答える。

「大予言? 宗教? 哲学?」

「一般論で訊いてるのよ。ねぇ、いつやってくるんだと思う?」 彼女は身体をこちらに捩じって訊ねる。

 どこの一般論だろうか、と風間は思ったが、それは口にせずに考える素振りを見せた。

「わからないな……、隕石とかが落ちてきて地球が壊滅したら、そりゃもう世界の終わりだろうね。でもそんなの、天文学者じゃないし、いつかなんて……」

「違う、違う」 霧島は微笑みを浮かべて首を振った。 「そうじゃなくて……」

「どう違う?」 風間は訊ね返す。

「なんていうのかな……、わたし達が身近に感じられるような、そういうの……」

「世界の終わりなんて身近に感じたことないよ」

「それはそうだけど……」

「つまり、何が言いたいのさ?」 風間はじれったくなって先を促す。

「わたし達がさ、誰でも迎える世界の終わりってなんだと思う?」 彼女は真っ直ぐに向き直って言う。もう笑ってはいない。

 風間はその時になってようやく、彼女が言わせようとしていることの意味を理解した。明確なことで、他に回答があるとは思えない。しかし、彼はそれを口にするのを躊躇った。

 何故だか、大切なものを失ってしまいそうな不吉な予感。

 切っても切り離せない悲哀の予兆。

 そんなささやかな不安が彼の胸に芽吹いた。風間は慎重な口調で、その誘導された答えを口にする。

「死ぬこと、かな……」 彼は無意識に目を逸らす。

 女手一つで霧島を育てた彼女の母親が、二年前に亡くなったばかりだった。詳しい死因を風間は知らなかったが、がんの一種だったらしい。まだ四十歳半ばだった。日々衰弱していくその様を二人は間近で見ていたし、霧島はじっと眠る母親に目線を捉えたまま、黙って涙を流していた。その記憶が風間には悲痛なほど鮮明だった。

 まだ、あの時の傷が風間の中では疼いている。彼がそうなのだから、霧島にとっては完全に癒えきることのないトラウマとなっただろう。だから、この手の話題は当然のように嫌悪していたし、二人で明確に避けていた。

 なぜ彼女はこんなことを言わせるのだろう。風間は不愉快な思いで彼女の顔を見つめた。

「そう、わたしもね、そう思うの」 霧島はうっすら微笑んで、白い綿毛を蓄えたタンポポに目を落とす。 「世界なんて所詮、境界線の曖昧なフィールドの総称なのよ。それは個人の視界、手に触れられるもの、匂いとか、五感で認識できるものでしかないわ。この地球や宇宙を世界って呼ぶのは、人類の、いえ、群れた個人の傲慢よ」

「うん……」 明らかにいつもと違う、錯乱に近い状態の彼女に困惑を覚えながら、風間は頼りなげに頷いた。

「世界なんて、わたし達が把握できるものじゃない。把握できてるように錯覚させる為だけの呼び名。今ここ以外の世界なんてわたしには計り知れない。わたしの行けないどこか違う場所なんて、わたしからしたら存在しないのと同じだもん」

 何を言いたいのか……。風間は真意を見極めようと霧島を注意深く観察するが、しかし、それはやはり計り知れないものだった。

 だが、たとえ、どんな確証が得られても、それは風間の勝手な思い込みでしかない。それが真実であるという根拠はどこにもないし、理解もできない。彼からすれば、霧島の見ている風景は別世界と同じ。風間にとって存在していないことと同義だった。でも、そんな状態を許容できる自分の懐と、同じ価値観の霧島楓という人格を彼は愛していた。霧島が饒舌になろうがなるまいが、自分と違うものを眺めていようが、その事実が大前提だった。それはつまり、彼らが己の世界しか見つめられない人種だということになる。

 しかし……、自分以外の世界を真に見極めることのできる人間が、一体どのくらい存在するだろうか?

 誰だって、自分というフィルターを通して情報を得る。相手の心境なんか、結局は言葉という媒体がなければ伝達ができないし、それでも脆弱故に完全には理解できない。自分は自分にしかなれないし、自分の価値観の世界で生きる他ない。相手の気持ちになって、という訓示だって、結局のところは不可能な話なのだ。皆、それを騙し騙しに社会を形成していく。極論ではあるが、本質はそうだろう。そうでなければ、この惑星で血が流れる必要なんて、あるいは会話をする必要なんて、そもそもないだろう?

 このような考えが一瞬の内に頭をよぎった。あっという間に彼女に感化されてしまったらしい。極端な自分に、風間は独りで苦笑した。馬鹿馬鹿しくて不毛だが、でも、この考えは嫌いではなかった。

 しかし、一方で、湧き起こる別の感情も彼の胸にあった。「違う」と、もう一人の彼が心の片隅で、小さく、静かに、叫んでいた。その規模は、まるで理屈で言い負かされた子供が苦し紛れに小声で主張する滅茶苦茶な自論に近い。

 これは誰の声だろうか?

「だから、世界の終わりっていうのは個人の死のこと。つまり、わたしにとっての世界の終わりは、わたしの死。死んだら、その先の環境なんて存在しないのと同じことだもの……」

「楓……、どうしたんだよ?」 風間はしびれを切らし、思い切って訊く。

 彼女の横顔が、彼女を取り巻く空気が、霧島楓という純潔の人格が、得体の知れない濁りで満たされていくようで、たまらなく恐かった。

 なんだろうか、この感情は……、恐怖に近いものだ。

 しかし、その不安の起こりとほぼ同時に、悪夢のような直感が彼の頭によぎる。



 もしかして……。

 え?

 いや……。

 まさか。

 そんなことが……。

 馬鹿な……。



 霧島は透き通るような黒い瞳で、空を見上げる。彼女がそちらを見るのはとても珍しい。まるで、違う誰かがいるみたいだった。

「わたしね……、昨日の朝、あなたが家を出た後に気分が悪くなって、洗面所で吐いちゃったの」

 彼女の声は、まるで人類史に積み重ねられた悲劇のパノラマのよう。

 悲鳴よりかは穏やかで。

 刻まれた文字よりかは、けたたましい。

 子供達の声が遠い。

 無垢な笑い声が、彼らには遠い。

 風間は瞬きすらできなかった。

 春の暖かな気流。

 二人の間を飛ぶモンシロチョウの羽。

 透過する陽射し。

 微かに震えた彼女の唇。

 その震動。

 その絶望。

 その悲哀。

 目に映るすべてから、彼は目を離せなかった。

「血がね、混じってた。母さんの時と同じ。薄々気づいてたけど、かなり進行してるみたい」

 目の前が暗闇に包まれるような、この次元から切り離されて、遠のいていくような感覚に彼は陥った。





 ◇





「風間さん」

 名を呼ばれて、束の間、過去の情景に飛んでいた彼の意識はふと現実へと戻ってきた。煙が目の前を漂っていて、それが自分の指に挟んだ煙草のものだと思い出すのにも僅かな時間を要した。前髪の下にじっとり浮かんだ汗の感触と、何処からか響く蝉の音が、彼に季節という存在を思い出させる。今は夏の終わり頃。遥かな時間軸を移動してきたような気分だった。

 彼がいたのは総合病院の一階のフロアから少し離れた、小奇麗な中庭に面する喫煙所だった。半分屋外に出ているものの、深呼吸をすると病院特有の、あのなんともいえない薬品の匂いがする。

「あぁ、いらしてたんですか」 追想からの唐突な帰還に、軽い眩暈を覚えながらも風間は微笑む。

「えぇ、何か思い出されていないか、霧島さんの様子を見に。まったく、縋るような気持ちです」 早河刑事はワイシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけながら言った。 「風間さんは今来られたところですか?」

「はい。ちょっと一服してからいこうかと」

「大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが……」

「顔色はわかりませんけど、少なくとも大丈夫ではないですね」 風間は声に疲労を滲ませて答える。 「優れているわけがないでしょう?」

「あぁ……、それはそうでしたね。失言でした」 早河刑事は白髪の混じる、灰色に染まりきった頭を下げる。風間は肩を竦めてそれに返した。

 早河刑事は半年前に起こった轢き逃げ事件を担当するベテラン刑事だった。いかにも野暮ったいというか、職人気質とでもいうのか、昔ながらの硬派な刑事という風体だ。しかし、ごつごつした顔面の奥に潜む眼光は厳めしい容姿に反して、刃物のように鋭い。今は和らいでいるが、その強面と鋭利な眼力、低い声で尋問されればどんな容疑者もひとたまりもないのではと思う。恐らく彼は、刑事になるか、あるいは暴力団員になるか、その両極端の選択しか残されていない人種だったのではないか、というのが風間の彼に対する正直な評価だった。要するに、少し近づきがたい印象だった。しかし、それは早河刑事にとっては天性の才能と受け取れるだろう。

 彼が今回受け持つ事件の被害者は、この病院の三階の個室にいる女性。つまり、風間が面会に来ている霧島だ。

 彼女は自動車と衝突したものの、命を落とすには至らなかった。普通に喋ることもできるし、腕の骨折という負傷はしたが、それもギブスが要らないほどに治りかけていた。彼女が今も入院しているのは別件によるもので、重大な病魔が彼女を蝕んでいる為である。身体的な損傷はほぼ完治したと言える程度まで落ち着いていた。

 しかし、ただ一つ、轢き逃げ事件によって厄介な後遺症が残ってしまった。それが警察の捜査を滞らせている要因だった。

 記憶喪失である。

 自動車と接触した際、強く頭部を打ってしまったらしく、霧島はその瞬間には気絶してしまった。数分後に現場を車で通りがかった者の通報を受けてすぐ病院に搬送されたが、彼女が意識を取り戻した時には、彼女自身の生い立ちから、事件当日のことまで一切の過去を思い出せなくなってしまっていたのだ。それがある意味で一番重大なことだったのかもしれない。彼女は風間のことも、自身の名前すらも覚えていなかった。

 霧島を轢いて逃走した運転手の身元を追う為、早河刑事は頻繁に彼女を見舞いにきていた。現場には辛うじて衝突位置がわかるほどのタイヤ痕が残っているだけで、車種を断定できるほどの手掛かりは全く見当たらないらしく(しかも、当日の夜には雨も降っていた)、さらに目撃者のいない、国道から離れた深夜の人気のない道路での出来事だったので、彼女の記憶だけが頼りというのが現状だそうだ。一向に進展の兆しは見えず、また被害者の怪我の程度が比較的低かったこともあってか、警察内では諦めのムードが漂っているらしい。だが、早河刑事だけはこの事件に何か強く引っ掛かるもの(彼はそれを長年の勘と言う)があるらしく、辛抱強く彼女の部屋を訪れ続けていた。そういった理由で、風間は彼とよく顔を合わせていたのだった。

 だが、彼女を訪問する事に対して、早河刑事にもやはり心苦しい気持ちはあるようだった。まぁ、人間の倫理として当然だろうと風間は思う。霧島にはもう一つ、抱えている重い現実があるからだ。正直、風間としても事件の解決などはどうでもよい事だった。

 霧島はもはや治療の施しようのない、末期のがん患者だ。はっきりと余命を断定され、僅かな延命すら難しい身なのである。

 それを思うだけで、風間はどうしようもなく苦い思いになる。

 なぜ、彼女までもが……。

 そう何度も心の中で繰り返しては、ただ悔しくて、奥歯を噛みしめるしかない。しかし、涙を流しても始まらないし、そもそも何も出来ない。こうして、会いに来ることしか出来ないと彼は明瞭に自覚していたし、そうしなければ押し殺してきた感情が膨れ上がって潰されてしまいそうだった。湧きあがって来る感情に呑み込まれることを、彼は何よりも恐れていた。

「申し訳ありませんね……、あなた方としてはもう、犯人探しなんて迷惑でしかないでしょう?」 早河刑事は声を落として、力無く笑う。 「こんなナリの初老男が言うのも滑稽ですが、私もここに来て、霧島さんの姿を見る度に、なんというか、心が強く痛みます……。霧島さんご自身も加害者の捜索はもうしなくていいと仰られてますし……、私のような武骨者はさっさと身を引いて、穏やかに過ごして頂きたいという思いもあるんですよ。もういっそ諦めてしまおうかと……」

 風間は意外に思って、年老いた刑事を見る。執念の塊のような人間だと認識していたので、この弱音とも気遣いともつかない言葉が少し新鮮に感じられた。

「犯人がどこの誰か、僕は興味ありませんね。そっとしておいて欲しいという心境も確かにあります」 風間は彼から目を逸らして言った。

「えぇ、えぇ、そうでしょう」 早河刑事は苦笑して、口から煙草を離して煙を吐く。

「でも、それは早河さんの職務ですからね……、ご立派だと思います。僕達は最大限協力致しますよ」 風間は微笑んだ。ささやかな労いのつもりだった。

「……そう言って頂けると、助かります」 早河刑事は皺の深い顔に笑みを浮かべて、また頭を下げた。

 煙草を水の張った灰皿へ落とし、早河刑事と短い挨拶を交わした後に、風間は再び病棟内に足を踏み入れた。通路の奥にある階段へと彼は向かう。冷房が効いていて涼しい。

 微笑んだ表情のまま、彼は唇を噛みしめた。血が滲み出すほどの強さで、途端に口の中は鉄の味で充満する。掌はいつの間にか、拳を握っていた。

 あぁ、なんという……。

 なんという作り込まれた人格……。

 徹底的で、意図的な優しさ……。

 これがはたして、風間信志という男だったか。

 違ったはずだ。

 何かを徹底的にぶち壊してやりたい衝動に駆られたものの、すれ違った看護婦のぎょっと引き攣った顔を見て、彼は自制する。やり切れない気持ちに、階段を昇る自分の脚が重く感じた。



 <霧島>と表記されたプレートの掛かる部屋は、「日」の字型に建てられた病棟の三階、一番北東側の突き当たり付近にある。重病を患った彼女には個室が割り当てられており、これでは退屈の極みでむしろ身体に悪いのではないか、と風間は思うのだが、しかし、誰とも接しない個室のほうが彼女にしてみれば健全な環境なのだろうか、とも思い至る。

 ノックもせずに、風間は病室の扉を開けた。中は廊下と同じく、空調が効いていて涼しい。ほぼ正方形の真白な部屋の東側に窓(この窓は完全に開け切らないらしい。病院関係者ならばその構造の意味が解るだろう)があって、午前中は室内に陽が差し込んで眩しくなる。今は午後の二時で明度も程良い。入って左手の壁側には、粗末な花瓶や折り畳み式のパイプ椅子などが整然と固められていて、右手には患者の眠るベッドが設置されている。どれもこれも白くて、午前中はカーテンを引かないと反射光で目を細めてしまうくらいだった。

 霧島はベッドの上に座って、膝の上に分厚い本を広げて読んでいた。こちらに気付く気配もない。彼女が熱心に読んでいるのは、風間が先日に差し入れた小説だった。その様子を目にして、彼は思わず口許を緩める。

「楓」 風間は声を掛けた。

 弾かれるように彼女は顔を上げた後、彼を確認して安堵の笑みを零した。

「風間さんかぁ……、びっくりした」 彼女は小さな口を尖らせる。 「ノックぐらいしてください」

「寝てなくて大丈夫なの?」 風間は扉を後ろ手で閉めて、ベッドの脇まで歩み寄る。

「ええ、今日はいっぱい眠ったから、大丈夫なんです」 彼女はにっこりとして頷く。 「あぁ、嬉しいです……、来て下さって」

 その無邪気な微笑みに、風間はささくれ立った心も癒される思いだった。

 記憶を失った当初、彼女は錯乱状態に陥っていた。誰が話しかけても怯えて聞く耳を持たず、獣のように神経を張り詰めていた。病院を脱走しようとしたこともあったらしい。それを考えると、今は随分マシになったと言っていい。穏やかな、以前の彼女の状態に近かった。

 ただ、失った記憶はいつまで経っても戻らない。個人の情報ならば、いくらでも彼女に教えることができる。しかし、それに伴う己の確証というものが取得できていないらしい。

 それはどんな気分なのだろうか、と風間は考える。

 きっと、宙に浮いているような感覚なのだろう。

 それとも、夢を見ているような感覚?

 あるいは、自分の想像を遥かに絶する苦痛に圧迫されているのだろうか。

 様々な想像が巡るが、それを霧島本人に訊く勇気が、風間にはなかった。

「楓、なにか思い出した?」 彼は替わりの質問をする。

「ううん」 霧島は表情を曇らせて、首を横に振る。 「いまさら思い出しても、どうせ……。もうあまり、思い出したいとは思わなくなりました」

「そっか……」 風間は一瞬目を伏せた。

 彼女は毛糸の白いニット帽を被っている。その下に頭髪はない。かつて肩まで伸びていた綺麗な黒髪は、薬の副作用ですべて抜けてしまったのだ。頬も以前と比べると痩せこけていて蒼白い。身体も貧相なほど細くなっていた。その姿が、風間を暗澹たる現実へと突き落とす。

 だが風間は、彼女の前に立つ時は常に微笑んでいようと心掛けていた。彼女をこれ以上追い詰めない為の、そして自身を固持する為の努力だった。

「わたし、別に、哀しいとは思っていないです。がんのことも、記憶のことも」 風間の一瞬の表情の変化を察したのか、霧島は明るく言う。

「どうして?」

「自分でもよくわからないんですけど……、たぶん、失う歴史がないからでしょう?」 彼女は皮肉っぽく笑った。

「でも、僕は哀しい」 風間は微笑みながら、正直に言う。

 その微笑も壊れかけているのが彼には自覚できた。

「それは、ありがとうって言った方がいいのかな?」 霧島は風間の目を見て言った。 「でも、あなたが死ぬわけではないでしょう?」

 会話は途切れる。

 天井に取り付けられた空調機から流れ込んでくる風が冷たく、涼しかった。その風を肌で感じながら、風間は二人を包む沈黙の中に、もう失われてしまった霧島楓という人間の面影を見る。

 そう、たしか昔も、こんな沈黙が度々あった。霧島は会話が苦手な女だった。あの丘の場所以外では、以前の彼女は、まるで喋る人形のような人だった。それが、あの丘に来た時だけ、正常な人間としての本来を取り戻していたように思える。

 今はどうだろうか?

 記憶を失った彼女は、以前と比べてよく喋る。よっぽど人間らしいと評価できる。

 自分が愛した霧島楓という人物は、果たしてどんな人格だったのだろう、と風間はよくそれを見失う。今、目の前にいる彼女とは違う。それは絶対と言える。

 いったい、何に惹かれたのか……。

 もちろん、今も、彼女のことが愛おしい。でも、今、そのメカニズムを説明するのはとんでもなく難しい。

 人形として振る舞う彼女か。

 時折、垣間見れた人間としての彼女か。

 正常か、異常か。

 もしくは、両方の彼女が好きだったのか。

 自分とは違う、かけ離れた存在だったのは間違いない。その差を彼は愛していた。

 あるいは、共有していた価値観に安心していただけだったのか? そもそも、愛してなどいなかったのか?

 もし、そうだったとしたら……、万死に値するほど、自分は愚かだ。

 彼女はどんな存在だったのか?

 風間信志という男の世界の中で、霧島楓という女はどんな存在だったのか?

「あの、ごめんなさい」

 沈黙を破って、霧島が突然詫びた。

 その声がどこか遠くから聞こえた気がして、風間は意識の焦点を合わせるのに若干時間を要した。

「何が?」 数秒の間を空けて、彼は訊く。

「いえ、今のはひどい言い方だったと思って……、ごめんなさい」 彼女の目線が自分の膝元に落ちる。 「本当にごめんなさい。わたし、風間さんにすごく良くしてもらってるのに……、以前のわたしのことを教えてもらってるのに、こんな……」

「いや……、気にしてないよ。誰だって自棄になりたい時はある」 風間は肩を竦めて言った。 「それに、実際は君の言った通りだ」

「あの、本当にごめんなさい。申し訳ありませんでした」 彼女は縋るように、ベッドから身を乗り出して言う。その拍子に、彼女の膝に乗っていた分厚い小説がページを広げたまま床に落ちた。

「大丈夫だよ、大袈裟な……」 風間は微笑んだ。

「わたし、やっぱりまだ不安なんです……。がんのこともそうだけど、それよりも自分の記憶のことが……」 顔を両手で覆って、彼女は頭を垂れる。 「どう振る舞えばいいのか……、わたしは誰なんだろうって、どんな女の子だったんだろうって……、毎晩考えるんです」

「君は、霧島楓だよ」 風間は落ちた本を拾い上げながら言う。 「さっきの、君が後悔している物言いは、でも、前の君のようだったよ」

「それじゃあ……、やっぱりひどい女ですね、わたし。元々の性分だったんだ」 霧島は涙に濡れた目を上げて、無理に笑って見せた。

「でも、僕は好きだ」 風間は正直に言う。

 彼女は呆けたようにこちらを見つめた後、くすくすと微笑みを漏らした。もう涙は流れていなかった。それを見て、風間はほっとする。

「それは、ありがとうって言った方がいいのかな?」 悪戯っぽい口調で彼女は言った。

「うん」 風間も息を漏らして笑った。

 笑いながら彼は、明るく装う彼女の顔に潜む避けることのできない暗い死の影と、忘却された彼女の人格を見つめていた。





 ◇





 二時間ほどの霧島との面会を終えて、風間は総合病院の駐車場に停めていた車に乗り込んだ。彼の愛車は燃費の良い黒い軽自動車だった。シートに収まる時の感触が心地良い。

 エンジンを掛けたものの、風間はしばらくステアリングを握ったまま、ぼんやりとしていた。フロントガラスからは巨大な病院とその上にある広い青空が眺められたが、彼の目の焦点はそのどちらにも合っていなかった。

 ピントの向く先は、過去の光景。

 助手席に座る霧島楓の横顔。

 沈んでいく真っ赤な夕陽と、過ぎていく黄色い照明の残像。

 海岸沿いの道を走る、ありふれたドライブの画。

 もう二度と望めない、その光景。

 恋人……。

 だが、彼はすぐに我に返った。ゆっくりと煙草を取り出し、火をつける。深く、溜息と共に煙を吐いた。灰皿を引き出して、すぐにそれをもみ消してから、暑かったので冷房を付ける。

 最近はよく昔のことを思い出す。現在からの逃避だと彼は自認していた。この癖を直さなければ……。

 その時、ふと他人の視線に風間は気づいた。病院の前にあるロータリー越しにあるバス停の屋根の下で、長身の若い男がこちらを見つめていた。ひょろっとした体躯で、熱射の降る天気だというのに暑苦しいコートを着ている。異様だった。男は無表情にこちらを見つめていたが、風間が視線を返すとあからさまに顔を逸らした。

 実は、風間はその男を幾度となく見かけていた。いつも、生気のない瞳でこちらをじっと睨んでいるのだ。

 気味が悪い……。

 車内には西へ傾きかけた陽が差し込んでいて眩しかった。男の存在と逆光から逃れるように、風間はようやく車を発進させる。病院の前の道路へと滑り出た。平日なので、道はそれほど混んでいない。

 バックミラーを覗きこんで男を確認したが、もうこちらを向いていなかった。バス停にいるのはそのコートの男だけだった。それを見届けた後には、風間は既に別のことを考えていた。

 家へ帰る前に寄りたいところがあった。それは、先程の刹那の回想に起因した感情だったのかもしれない。

(女々しいな……、無駄なことなのに) 彼は独りで嘲笑する。

 国道へと合流して十分ほど走った後、見慣れた街へと繋がる脇道に逸れる。国道ではそれなりに車の台数も多かったが、やはり細い道に入るとまた車は少なくなった。そのまま、真っ直ぐ走っている途中、風間はふと思い立って車を路肩に寄せた。見覚えのある道だったからだ。

 寄り道の寄り道。つまり、ここは目的地ではない。車内からは出ずに、運転席からその細い道路を眺める。

 その道は、半年前に霧島が轢き逃げされた場所だった。目の前の道路には歩道と車道の区切りが無く、街灯も無いので夜は暗いだろう。歩行者を想定したら、夜は結構危険なコースに違いない。廃工場の裏手に敷かれた道だ。その工場の反対側には高い石塀が道に迫っているだけで、辺りに人家はなかった。石塀の上ではこんもりと雑木が枝を伸ばしており、昼でも薄暗く人気も無い。疎らに立つ電柱の一本に警察による目撃情報を募る看板が設置されていたが、早河刑事の言っていたとおり、こんなところで、しかも真夜中となると、目撃者などいやしなかっただろう。幽霊が出てきてもおかしくない寂しさだった。

 この道を行った先に霧島の住居があって、帰宅途中に事故が起こったのだと早河刑事は言っていた。風間は警察が確認したというタイヤ痕を何となく探したが、どこにもそれは視認できない。きっと、専門の鑑識方法でしか確認できない程度のものなのだろう。霧島を轢いた車のものかどうかすら、判断できないに違いない。

 道路には少しうねった曲線があるものの、カーブとまで言えるほどの角度はなく、ほぼ直線に近い。深夜になれば速度を上げた車が走ることだろう。そんな現場の環境で、記憶を失ったものの、霧島が助かったのは幸運と言えるかもしれない。しかも、雨が降っていたのにも関わらず、すぐその後に通った乗用車に運よく発見されて、それほど時間を置かずに救急車に乗せられた。頭から血を流していたらしく、それも放っておかれていたら命の危険もあったらしい。まさに奇跡と言えるだろう。

 でも、あの時には既に、霧島の身体はがんに蝕まれていた。そして、もう治る見込みはない。どちらにしろ、死ぬ運命には変わりなかったのだ。

 風間は瞬間、呼吸すら止めて、自分達を取り巻く運命の意思にリンクしようと試みる。

 彼女が助かったという事実。

 しかし、病魔を抱えていたという事実。

 そして、記憶を失ってしまったという事実。

 その悲劇には、どんな意味があるのだろう。

 それとも、意味なんかないのか?

 彼女の死せる日は定められていたのか?

 いったい、誰に?

 神様だろうか……。

 そう、他に、誰がいる?

 これは神様の気まぐれか。

 それとも……、迷いか。

 あるいは、気まぐれの意思だったのか。

 彼はふと背筋が冷たくなっていることに気付いた。

 空調によるものではない。

 ゆっくり、煙草を一本抜き取る。

 指が震えていた。

 火をつける。

 煙が立つ。

 冷たい汗が、額に浮かんでいるのがわかる。

 鼓動は疾駆していた。

(ふざけるな……)

 疼く。

 沸騰しかけた血液。

 爆発しかけた感情。

 発露しかけた衝動。

 病院で彼を襲った破壊願望。

 それが、本性だ。

 ステアリングに拳を叩きつける。

 中央に当たって、クラクションが盛大に鳴り響く。その音で、風間は我に返った。

「畜生っ……」 風間は歯軋りしながら呟いた。

 嘲笑うかのようなカラスの鳴き声がどこからか響き渡った。

 

 寄り道の行先は共同墓地だった。さきほどの轢き逃げ現場からそう離れていないところにある、公営の霊園だ。趣向に沿ってか否か(趣向を目指していればの話だが)、いつも閑散とした雰囲気だった。

 蒸し暑い空気の中、無表情に立ち並ぶ墓石の間を縫って歩く。すぐに汗が吹き出た。霊園の敷地は狭く、通路は窮屈だった。盆休みも終わった平日の夕刻なので、風間以外に人影はない。線香の残り香のようなものがどこからか漂って、一瞬だけ彼の鼻をついた。

 目的の墓を見つけ、立ち止まる。急な思いつきだったので、供える物は何も無かった。近くに柄杓が置かれていたので、それを持って水を汲みに行き、墓石へとかけてやった。簡単な作業を終えると、風間はその墓前でしゃがみ込み、手を合わせて瞑目する。

 その墓は、入院している霧島の母のものだった。

 彼女の母もがんで死に、さらにそれがまた子に繰り返される。医師の話では、稀に見る遺伝性の悪病だということだ。その事実は、風間も散々見てきた。

 黙祷を終えて、風間は立ち上がるものの、その目線は墓石に注がれたままだった。

 なぜ、彼女まで連れて行かれなければいけないのか……。

 そう思うと、また胸の内はざわざわと騒ぎ出し、激情に呑み込まれそうになる。深呼吸をして、その感情を遮断した。こんな芸当ができるのも、一重に大人になったからだと言える。

 ふと、あの時の、会話の情景が思い起こされた。

 世界の終わり――。

 霧島はそれを個人の死だと言った。世界という概念は、個人が認識できる限定されたフィールドなのだと。確かに風間も、それを聞いて一理あると思っていた。

 でも、何故だかあの時、漠然とした違和感が彼の胸に居ついていたのも事実だった。心の奥底に潜む、風間信志という男の本性に限りなく近いもう一人の彼が、「違う」と主張していた。風間はその違和感の正体を今でも時々考える。でもきっと、その意思は不純なものに違いない。揺らぎかける霧島楓という人格を繋ぎとめたかっただけの、駄々をこねる子供のような反発に過ぎなかったのだろう。それは何となく自覚できる。

 あの時の、世界の終わりについて語る彼女を脳裏に描く度、風間は今も胸が詰まる。身体の内側を透明な水で満たされていくような、どうしようもない感覚に彼は陥る。それは息苦しさと、一抹の切なさを残していくのだ。

 あの時、何を言うべきだったのだろうか?

 病魔のことを告白してくれた彼女に、あの時、何が言えただろう?

 その答えは未だに見つからない。見つけだしたとしても、もう、あの時に語ってくれた霧島楓という人格は存在しない。永遠に言葉は届かないのだ。

 戻らない霧島の記憶。

 喪失されたそのデータの中に、自分は彼女の幻影を見つめているだけなのだろうか、と自問する。

 霧島楓はもういない。今あるのは、無垢な、虚無に近い別の人格だけだ。

 それでも、その姿形が、その音声が、その機能が、彼に幻想を見せる。



 これは魔法だ……。

 解けることのない魔法……。



 もうすぐ、一つの世界が終焉を迎える。彼女はそれを静かに待っている。

 魔法はいつまで保つのだろうか……。

 自分は、その魔法が終わりまで続くことを望んでいるのだろうか? それとも解けるのを望んでいるのか?

 霊園の空を見上げると、もう既に空は赤みがかっていた。西日の色彩は刻一刻と濃くなってくる。青い影に覆われた木立の中から響く、日暮れを惜しむかのような蝉の鳴き声を意識して聞いた。その声も随分減ったものだ、と彼は気付く。夏は終わろうとしているのだ。

 一度だけ目許を拭ってから、風間は踵を返して自分の車へと戻った。心地良いシートが彼を出迎える。

 不明瞭な焦燥に急き立てられながらエンジンを掛け、迷いを踏み潰すかのように、彼はアクセルを踏んだ。





 ◇





 三日後に風間はまた病院を訪れた。九月に入ったその日は土曜日で、病院にはいつにも増して人が多かった。しかし、午後は激しい雨が降っていて、院内に漂う陰鬱な雰囲気が色濃く浮かび上がっている。雰囲気や活気というものは、集合する人間の思念で作られているのでは、と風間は真面目に思った。

 霧島と面会する前に、風間はいつも煙草を吸ってから行くことにしている。中庭に面したいつもの喫煙所で煙を吐いていると、また早河刑事が現れた。

「こんにちわ」 彼は頭を下げる。

「いつも、僕より早いんですね」 風間は微笑んだ。

 早河刑事は煙草に火をつけて、遅れて笑みを返した。

「霧島さん、雨は苦手だそうですね」

「え?」 突然の言葉に風間は面食らって驚いた。

「事件のトラウマでしょうか」 早河は雨に煙る灰色の景色に目を向けながら言った。

「あ、あぁ……」 風間もそちらを向いた。そんな話は初耳だった。

 そういえば、あの轢き逃げ事件が起こった夜も激しい雨だった。それが原因で手掛かりが流された可能性もあるのだから、刑事達にとっても印象が良いとは言えないだろう。

 記憶を失くしてもトラウマが残ることなどあるのだろうか、と風間はしばらくぼんやりと考える。

 すべてが消え去るわけではないということか。不快な過去だけが残るというような不合理が、本当にあるのだろうか。それとも、それは動物の防衛本能に基づいた必然かつ必要な機能なのだろうか。忘却しては、生き残る術を身につけられないということか。

 そもそも、人間という生き物は自らにとってネガティブなものを意識的に強く維持しようとする傾向がある。トラウマや、それには至らない苦い思い出といった類のものがその傾向の表れだろう。失敗から学ぶという姿勢に関しては風間は大いに賛同するが、明らかに圧迫や障害となる、成功への機転には程遠い感情的な過去の過ちや不幸といった体験をいつまでも根強く保存しようとする心理が彼にはわからなかった。なぜ、そんな傷を大事に持っておかなければいけないのだろう?

 忘却こそが、生命の目指すところではないのだろうか? 少なくとも、死んだ時には全てを忘れるに違いない。

 消える為に有る。死ぬ為に生きる。終わる為に始まる。

 風間は煙草を思い切り、深く吸う。黒々としたアスファルトに飛散する雨の飛沫が心地良く冷たかった。

「私はね、風間さん……、雨になると古傷が疼くんですよ」 早河刑事が枯れた声で笑った。 「雨ってのは、私はどうも好きになれません」

「僕もです」 風間は嘘を吐いた。正確には好きでも嫌いでもない。

「娘も同じことを言います」 早河刑事は雨の中に勢いよく煙を吹きながら言った。

 風間は少し驚いた。

「娘さんがいらっしゃったんですか?」 独り身だろうと勘違いしていたので、その事実は驚愕すると共に、微笑ましかった。

「えぇ、います」 煙草を銜えたまま、彼は頷いた。 「あいつも昔、雨が嫌いだと言ってました」

 そのまま、しばらく沈黙した。コンクリートを叩きつける雨音が絶え間ない。その静かな喧騒の中で、風間の思考はまた過去へと向く。

 



 丘の中腹。

 止まっていた二人の時間が動き出した。再開のきっかけを作ったのは驚愕に打ち震えていた風間だった。

「なんで……」 風間は茫然としながら、ただ呟いた。

 霧島楓はふっと笑って、ゆっくり首を振る。 「わかんないよ」

「病院に……」 風間は丘の斜面から立ち上がろうとしたが、上手く力が入らなくて手こずった。

 ただただ、腹の底が冷えたかのような、全身を冷たいもので覆われたかのような危機感に彼は陥っていた。汗も浮かんでいて、呼吸は震えていた。

「自分が助からないってことくらいわかるよ」 霧島は事も無げに言った。その無感情の瞳は丘の草原から、麓で遊ぶ子供達へ向き、そしてまた風間の顔へと戻る。「入院なんてわたし、したくない」

「何言って……」

「お願い、続きを聞いて」 霧島の声が少しだけ大きくなった。

「うるさい!」 風間は叫んだ。彼女に怒鳴ったのはそれが初めてだった。 「なんで黙ってたんだ!」

 子供達がびっくりしたように動きを止めて、二人を見ていた。大人達も雑談を中断して同じように凝視している。しかし、二人には既に周りの景色など見えていなかった。ただ、緊張した間合いの中で互いに睨み合っていた。

 霧島は開きかけた口を結び、項垂れて溜息をつくと、また顎を上げて風間を見た。

「母さんが死んだ時から兆候はあったよ。薄々わかってたもん。きっと、わたしも長くは生きられないんだろうなって……」

「僕の質問に答えていない」 両肩をせり上げて、風間は噛みつくように吐き捨てた。優しい口調になど到底なれないほど内面は荒みきっていた。

「世界の終わりって、母さんが教えてくれたんだよ」 霧島がまた話題を変えた。

 そこで、信じられないことに、彼女は微笑んだ。

 風間は黙っていた。今すぐにでも立ち上がって、霧島を病院に連れて行きたかった。そうしないのが自分で不思議だとも感じていた。

 しかし、目の前で悠然と話す彼女には言葉にし難い、ぞっとするような迫力があった。それは鬼気迫る執念というよりも、静かに何かを諦めた、けれども身震いするような崇高な意志となって彼女に宿っていた。そのオーラに触れるのが風間には恐怖にすら思えた。

 この微笑みは一体、どこからやってくるものなのか。

 生を諦めた人間が、なぜこれほどまでに印象的に映るのか。凡庸に人生を歩んできた風間にはそれは理解できなかったが、しかし、理解できなくて当然だと帰結を促す感情もあった。

 そうだ、これは……、自分の世界にはないものなのだ。

 風間は彼女のその思考に触れ、彼女からそれを切り離したい、と強く願った。

 でも、その感情は、彼が嫌悪し続けた同化を望む心理に基づいたものだ。その自覚が彼を大いに苦しめる要因でもあった。

「わたしが死んだら、わたしにとってそれは世界が終わること。死ねば何もかもが無くなる。どんな概念も、どんな記録も、どんな想いも、全部消えていくわ」

「楓……」 風間は囁くように彼女の名を呼ぶ。

 嵐のような昂りは過ぎ去り、今は濃霧に呑み込まれるかのような強い不安が彼を覆い始めていた。足下から大地が崩れていくような、抗えない恐怖。

「そしたらさ……、全部、無意味だよね。わたしが見てるこの景色も、わたしの持ってる記憶も、いつかは無くなるわ。なのに、どうしてこんなに無駄なものが溢れてるの?」

「死ぬ為に、死に向かう為に、人は生きるんだ。無くなる為に有るんだ」 風間は混乱に近い頭で言った。

「わたしもそう思うよ。でも、信志、あなたは矛盾してる」 霧島は笑みを浮かべたまま。 「あなた、泣いてるの?」

「君にとって、僕は……」 風間は嗚咽を堪えることができなかった。言うな、言うな、と心の中では叫んでいた。 「君にとって、僕は無駄な存在かい?」

「いいえ」 意外にも、霧島はあっさり首を振った。 「でも……、あなたとわたしは違う存在でしょ?」

 そして、彼女は立ち上がって風間に歩み寄り、口づけをした。彼女の唇はとても冷たかった。

「誰も、わたしのことを理解できる人はいないよ」 彼女がふと顔を離し、囁いた。

 間近に迫った霧島の小顔。

 黒い瞳と長い睫毛。

 すっと通った綺麗な鼻筋。

 少女のように赤く、しかし冷たい唇。

 華奢な顎のライン。肩先まで掛かる滑らかな手触りの黒髪。

 その艶めかしくも、どこか無邪気な造形に、一瞬見惚れる。

 彼女はもう一度、風間にキスをした。

 なぜ、こんな無駄なことをするのだろう?

 彼女こそが矛盾している、と風間は思った。口づけに応えながら、涙を流す。泣いているのは彼だけだった。

 同化。

 それを嫌う感情は、彼女のほうが強かった。

 自分の方がよっぽど人間的だったというわけか……。

 風間は嘲笑する。

 彼女の世界の終わりに触れたい、と少しだけ思った。





 はっとして、暴走しかけた追想を止めた。早河刑事はまだ隣で煙草を吸っていた。自分の煙草の案配を見て、過去に飛んでいたのは一瞬の内のことだったのだと気付いた。

 濃密な後味だった。風間はもう一息吸って、灰皿にまだ半分ほどだった煙草を捨てた。

 なぜ人間はこんな不愉快なことを思い出したがるのだろう?

 それは彼にとって、煙草よりも苦い過去だった。

「さ……、私は行きます」 早河刑事も吸殻を捨てて言った。彼の上着の端は濡れていた。 「それでは……」

「あの、早河さん」 風間はなんとなく呼びとめた。

「なにか?」 早河刑事は院内に戻り掛けた脚を止めて、こちらに振り向く。

「事件の捜査は、どの程度、進んでいるんでしょう?」 風間のその疑問は単なる思い付きだった。

 早河刑事は気の毒な、というよりも苦虫を噛み潰したような表情で首を振った。何も進展は無いということだ。

「申し訳ありません」 彼は頭を下げる。

「あ、いえ……」 風間は無理に微笑んだ。

 早河刑事はそのまま立ち去る。風間はその後ろ姿を無心に見送っていた。彼女を轢いた奴の顔を見てみたい、とほんの少しだけ思ったが、雨の風景に目を戻した時にはそのささやかな執着もすぐに消え果てた。

 ただ、風間は一瞬だけ、三日前に病院のバス停に立っていたコートの男のことを思い出した。その不思議な連想も、雨の飛沫の中で砕けるように消失していった。



「さっきまで早河さんがいらしてたんです」 風間が病室に入って来るのを見るなり、霧島は言った。

 白いニット帽も着流しの患者服も変わりがなかったが、膝元に置いてある小説だけが変わっていた。風間が前に渡したものは読み終わってしまったのだろう。その新しい本も、彼が買い置きしていたものだった。

「下で会ったよ」 風間はパイプ椅子に座って頷いた。

「何度も何度も同じことばっかり訊くんですよ。何か思い出してないかって」

「仕方ないよ、それがあの人の仕事だから」

「思いだしたら、すぐに言いたいけど……」 彼女は困り果てた顔で項垂れた。 「でも、事件のことなんて……、自分の名前すらわからなかったのに……」

「楓……、雨が嫌いかい?」 風間は廊下で買ってきた紙コップのコーヒーを一口呑んで訊ねた。

 急な質問に霧島は戸惑ったようだった。話題の方向を変える為の質問だったので、このリアクションは上出来だった。

「早河さんに聞いたんですね?」 霧島は納得したように微笑む。

 風間はコーヒーをもう一口啜って、素直に頷いた。

「えぇ……、嫌いですね。今日みたいな日は特に」 彼女は窓に伝う無数の雫を眺める。その向こう側の景色はもうはっきりとは見えなかった。 「以前のわたしはどうでした?」

「聞いたことがないね。あんなことがあったからじゃないかな……」 風間は遅れて、自分の無神経な発言に気付く。 「あ、つまり……」

「いえ、大丈夫です」 霧島は微笑んだ。 「えぇ、そうかもしれませんね。わたしが轢かれた夜も激しい雨だったそうですし……」

「ごめん」

 風間が謝ると、彼女は首を横に振った。そして、微笑みを湛えたままの優しい瞳で風間を見つめる。口は開きかけて何かを言いたそうだったが、言葉が定まっていない様子だった。風間は待ったが、結局、彼女は諦めたように窓の外に目を戻した。

「雨が降ると不安になってくるんです。事件の体験からでしょうけど……、何か、大事なものが覆い隠されてしまいそうな漠然とした不安というか……、無性に焦ってしまって、頭の中が騒がしくなってくるんです」 彼女は言った。

「大事なものって?」 風間は尋ねる。

「さぁ、わかりません」 霧島は小首を傾げて、彼を見る。 「わたしの記憶、かも」

「そうか……」 風間は俯き加減に相槌を打つ。

「でも……、わたしはもう、死ぬんですよね」 彼女は言った。

 風間は自分に向いた女の双眸を覗いた。

 睫毛の間に幽玄と浮かぶ、潤いを含んだ黒い瞳の奥に自分の姿があった。底が見えるのではないかと思わせるほど透き通った黒に、吸い込まれるような錯覚すらした。静かに澄まされたその漆黒の瞳は、死とかけ離れた光を秘めているように思われたものの、あるいは死を見つめているからこそ、こんなにも透明な瞳の色をしているのではないかとも思えた。

 死とはそんなに美しいものなのか、と風間は見惚れながら、ゆっくり頭を上げた。

「この前も言いましたけど、覚悟はできてるんです。自分でも信じられないくらいあっさりと」 霧島はふんわりと微笑んで、また窓の外を見た。 「ただ……、記憶のことがやっぱり気がかりです。不思議ですね、感触のないものがこんなに恋しくなるなんて」

「君の身体が、その感触を覚えているんだ」

「そう……、そうかもしれない」 彼女はこちらを見ずに頷いた。

 ふと、風間は息を止めた。

 記憶を失った女の横顔に、彼は遠い過去を垣間見た。

「楓、世界の終わりって、いつやってくるんだと思う?」

 気付くと、彼はその質問を口にしていた。

「え?」 彼女はポカンとした顔を向けて、訊き返す。 「世界の終わり……、ですか?」

「君が言ったんだよ」 風間は微笑む。 「昔、僕に語ってくれたんだ」

「わたしが……?」 霧島は悩ましげに眉根を歪めた。無理に笑おうとしていた。

「いつか、わかる?」

「い、いえ……」 彼女は首を振った。黒い瞳は動揺していて、複雑な感情を浮かべていた。 「あの、どうして……」

 こんな話を、と続けようとしたのだろうが、風間はそれを手を上げて制した。

「僕も最初はそう思ったよ」 風間は口許を上げた。 「お返しだね」

「そう、なんですか……」 霧島は困ったように首を竦めた。 「それで……、風間さんはなんて答えたんですか?」

「わかるはずがない」

 霧島はくすっと笑った。少しおどけた甲斐があった。

「昔のわたしはなんて言ったんです?」

「個人の死が、個人の世界の終わりなんだって言ってた」 風間は彼女の瞳を見て言う。 「君の死がつまり、君の世界の終わりなんだって」

 ぴくん、と彼女の手が震えたのを風間は見た。そんな答えは想像もしていなかったのだろう。

 微笑みを浮かべていた彼女の顔は氷水を当てられたように硬直していた。

「あの……」

「世界なんて言葉がどれだけ広く使われていようと、それを実感できるのはあくまで個人の手の伸びる範囲まで」 風間は彼女の言葉を遮って続ける。 「それ以外は存在しないにも等しい。今、自分が見つめられるもの、触れられるものだけが、存在する自分の世界なんだ」

「風間さん……」

「結局、そんなものなんだ。君が死んでしまえば、君以外のものは君にとって無意味なものになってしまう。そう考えれば、君から見た僕は全く別世界の産物だ。触れる必要なんてないし、無駄な存在でしかない。理解し合うなんて到底無理な話だ」

「やめて……」

「現に、僕は今の君の状態を把握できないんだ。記憶を失うっていうのが、がんに冒されているっていうのがどんな気持ちなのか、僕には完全に理解できない。どんな言葉をかけてあげればいいのか、僕にいったい何ができるのか、できることなんて本当にあるのか、わからないんだ」

「やめてくださいっ!」 彼女は上擦った声で叫んだ。強く瞑った目許から涙が零れていた。 「なんで……」

「ごめん」 風間は目線を伏せる。

「なんでっ、そんなこと言うんですか……、わ、わたしは、あなたがいてくれたから……、ここまで、立ち直れたのに……」 途切れ途切れに彼女は言う。 「なのに……、そんな、酷い事……」

「悪かった」

「帰ってください」 彼女は抱えた枕に顔を埋めて言った。僅かに震えた、か細い声だった。

「ごめん」 彼はもう一度謝った。

「帰って! 聞きたくないっ!」 霧島は頭を振って叫ぶ。その様子は、記憶を失った当初の状態に近かった。

 風間は躊躇いながらも腰を上げる。彼女は枕から顔を上げなかった。小さな肩を震わせて、ただ押し黙っている。

 とんでもないことをしてしまったな、という落ち着いた意識がなんとなく風間の胸にあった。

「なぜこんな話をしたか、わかるかい?」 風間は、縮こまって心を閉じ切った霧島を見下ろして言った。

 彼女は何も言わなかったが、顔を上げて、涙をいっぱいに溜めた目で風間を睨んだ。

 病室には窓を叩く雨音と空調の静かな送風音だけが響いている。

「僕は、世界の終わりについて話したあの時の君に、何も言えなかった」 風間は話す。 「ひどく哀しくて、憎いとすら思ったよ。でも、何も言えなかった。きっと……、君の言っていることが正しいって思ったんだ」

「わたしはそんなこと、覚えていません」 彼女は強い口調で言った。

 風間は苦笑して頷いた。それはそうだろうな、と納得したからだった。

「なぜ、こんな話を?」 霧島は睨んだまま訊いた。

「今なら言えるからさ」 風間は答えた。

 そこで一度、部屋を見回してみる。ロビーに蔓延していた鬱蒼とした雰囲気がこの部屋にも伝播したかのように、殺風景を飾る装飾の数々が沈みこむようにして存在している。花瓶に挿された花も心なしか萎れているように思えた。

 何もかもが白い……。

 霧島は怪訝な顔で風間を見上げている。

「確かに君が死んでしまったら、何も残らないかもしれない。そう考えたら、なにもかも無意味に思えるだろうね」 風間は一息つく。 「でも……、僕の世界では、君が存在するんだ。君の姿、君の言葉、君の温もり、君の人格が……、僕は好きだ」

 目の前には女がいる。霧島楓とは別の女が。こんな言葉もかつての恋人には届かない。

 でも。

 言いたかった。あの時言えなかった言葉を。

「君が語ってくれた話と比べたら、幼稚で、情けなくて、勝手な理屈かもしれないけど……。君からしたら、僕の感情も無意味かもしれない。でも……、この感情が僕にとって無意味ではないということは、楓、君が教えてくれたんだ」 冷え切っていたと思っていた胸になにか熱いものが詰まって、苦しくなった。彼の声も震え始めていた。 「君の世界は……、僕の中で決して終わりなんかしない。君が残したものは永遠に僕の中で生き続ける。僕は、繋がっていると信じてるし……、信じていたいんだ」

「風間さん……?」 霧島が声を掛ける。

 その声を発する唇が。

 その崩壊しそうな瞳の色が。

 その生命の残り火を灯した薄桃色の頬が。

 彼に幻想を見せる。

「無駄なんかじゃない」 彼は言った。 「君のことが大好きだ、楓」

 一瞬の幻想は終わる。 

 ここは、春の陽射しが届くあの丘の景色ではない。

 子供達の姿も。

 それを見守る大人達の姿も。

 地平線から広がるスカイブルーの淡い色も。

 甘い匂いを漂わせる野花もない。

 あるのは、ベッド、パイプ椅子、飲みかけのコーヒー、閉じられた小説、涙を吸い込んだ白い枕、雨の伝う病室の窓。

 それに、現実。

 余命が迫った記憶喪失の女と、彼女を知る男。

 霧島はまた涙を流していた。内側を満たしていく熱が限界を超えかけ、風間の目にも涙が滲んで零れた。

「死にたくない……」 霧島はぼそりと、しかしはっきりと言った。

「うん」 風間は涙を拭いながら頷く。

「あなたのことを思い出したい」 彼女は風間の手をそっと握った。

「うん」 彼はその冷たい手を握り返した。強く握ってしまったら崩れてしまいそうなくらい細い。

 霧島の潤んだ瞳は風間を見上げ、ゆっくりと窓のほうへと向いた。風間もそちらを見た。雨は未だに止む気配を見せない。

「この雨の中に、わたしの記憶があるんでしょうか?」

 彼女の横顔をもう一度盗み見ると、そこにはっきりと霧島楓の面影があった。





 ◇





 面会を終えて、雨の中を小走りに愛車へと急ぐ。病院の駐車場までは案外遠くて嫌になる。風間は両腕を頭の上に翳して走っていた。

 ようやく愛車に辿り着いて、鍵を取り出そうとした時に、彼は自分に向けられた視線に気がついた。反射的にロータリーのほうを振り返る。バス停の屋根の下に、以前見かけたコートの男が立っていた。あのひょろ長い痩身に見間違いはない。

 風間は雨に濡れるのも構わず、立ち尽くして、男を睨んだ。男は気付いたのか、慌てたように踵を返して、向こう側へと歩いて行ってしまった。急ぐような足取りで雨で煙る景色の中に消えていく。

 風間はじっとそちらを見ていた。得体の知れない怒りが頭の中で爆ぜかけたが、深呼吸をし、思考を遮断した。ドアを開けて運転席に乗り込む。エンジンを掛けた時には意図的に男の存在を忘れようとしていたが、それでもあの細長い男の姿が強く心に引っ掛かっていた。



 その後、風間は自宅に戻り、仕事関係の報告書をまとめ上げる為の作業に取り掛かった。家に着いた頃にはすっかり暗くなっていたが、雨は上がっていた。置きざりにされた雲の隙間から眩しい月が見えるほどだった。

 報告書の整理はパソコンを使っての作業だった。昼間の面会で袋小路に嵌りかけた感情と頭を一旦クリーンにする必要があったので、コーヒーを飲んで、煙草を吸ってから始めた。

 作業にたっぷり二時間を費やした頃、彼はようやく空腹を感じ始め、夕食を取って、また作業を再開した。一通りまとめ上がったのは日付の変わる数分前の事だった。シャワーを浴びて、さっさと眠ることにする。

 風間の住んでいるマンションの一室には今、当然ながら同居している者はいない。この環境にもすっかり慣れてしまっていた。元々、独り身のほうが合っていたのかもしれない、と時々考える。それは、しかし、あの頃の霧島との生活が煩わしかったという意味ではもちろんない。

 寝床について、照明の消えた暗い天井を眺めていると、また世界の終わりについての霧島の話を思い出したが、今度はすぐに頭を振ってそれを拒絶した。

 イージー・リスニングのCDをかけて、意図的に他のこと、霧島と関係のないことを考えた。コンポから流れてくる穏和な音の調べと幻惑的な旋律が、やがて風間の思考を漫然と包み込む。朧げな意識を自覚した次の瞬間には、彼は久しぶりに夢の中にいた。

 その夢の舞台は、眠りにつく前の彼の努力に反して、やはり霧島との物語だった。



 彼女は暮れなずむ丘のなだらかな斜面を歩いている。彼女の足下に広がる見慣れた草原は一様に陽光の暖色に染まっていた。それを彼女の細い足が踏み倒して進む。バッタが何匹か、その蹂躙から逃れるようにばらばらの方向に飛び跳ねた。風間はそんなとりとめの無い風景を傾斜の下から眺めていた。

「楓、帰ろう」 彼は見上げながら言う。もうずっと長い間ここに居るのだ、という意識があった。

「どうして?」 彼女は振り返って訊く。頬をほんのり赤く染めて、まだまだ楽しそうだった。

 風間は答えることが出来ずに、ただ彼女の黒髪がそよ風になびいて踊るのを見つめているだけだった。彼女はずんずんと傾斜を登っていく。彼女の足取りはめちゃくちゃなステップを踏むかのように若々しい。何が面白いのか、時々少女のような喚声を上げた。そんな彼女は珍しい、と風間は冷静に思った。

 ここに来ると彼女はいつも変わる。

 知らない誰かになる。

 これも、魔法だろうか?

 風間は放心しながら、彼女の背中を見守る。移り変わる瞬間をこの目で見たいと願った。それはきっと、他のどんな仕掛けよりも綺麗なマジックだろう。そう思っている間に、彼女は丘の頂上へと辿り着いた。

 小さな丘を制覇した彼女は街の方角、太陽の沈んでいく方向へ顔を向け、「わぁ」と感嘆を漏らした。

「すごい……」 彼女はうっとりとした表情で呟く。

 夕陽に映る彼女の横顔は例えようもなく美しかったが、彼女は風間に向いて街の方を指し示した。目を逸らすのも惜しかったのだが、仕方なく彼はそちらを見た。

 太陽の最後の足掻きが彼の視界を焼く。街並みの影が手前へと緩やかに伸びていた。草原と同じように街も単純な配色に統一されている。どれもが烈火の如く赤く染まっているか、藍色の影に沈んでいるかだった。確かに郷愁の念が起こったものの、風間にとってそれは特別感動するような景色ではなかった。

 でも、この街の風景は、彼女の世界からすると、一個の宝石のように美しくあるのだろうか。霧島楓という世界の中では、自分とは全く別の意味に映っているのだろうか。

 その違いは、自分にとってどういうものなのかと考える。言葉通りに、それは別世界のことだと言えるだろう。風間としてはその存在すら怪しい概念だ。

 でも、存在しないからと言って、否、関係がないからと言って、それを覗くことはできないのか?

 世界は一つに繋がっている、という幻想を抱くのは間違ったことなのか?

 自分の持ち合わせていない価値観を認めるということは、許されないことなのか?

 違う世界に干渉して共存するというのは結局、不可能なのか?

 これが……、胸の片隅にあった、あの違和感の正体なのだろうか。

 この子供じみた、祈念にも似た感情が、あの答えだったのだろうか。

「信志」 彼女の声が呼ぶ。

 彼は丘の上を見上げる。

 そこに霧島楓の姿は無く、代わりに、ニット帽を被った、水色の患者服を着た別の女が立っていた。

 それは霧島楓とは違う人格。

 同じフォルムをしているが、全くの別人。

 あぁ、変わってしまった、と風間は思った。

 今度こそは見逃すまいと気をつけていたのに……。

「世界の終わりが、そこで見てるよ」 その女が事も無げに言った。

 残念ではあったが、風間は微笑んだ。

 それを見て、女も思い出したように笑いだす。

 ふと頭上を見上げると、いつの間にか空は透き通った紫色に変貌していて、赤みがかった月が浮かんでいた。その幻想的な光を、彼は初めて見た。

 これが夢の終わりなのだ、と風間は気付く。

 風が動きを止め。

 光は重みを増し。

 二人が闇に包まれる。

 そこで、唐突に目が覚めた。



 息が荒くなっていた。暗い寝室の中でじっと耳を澄ます。

 電話が鳴っている。

 毛布をはねのけて、彼は飛び起きた。すぐに寝室を出て、居間に設置した固定電話の受話器を取った。

 一瞬だけ時計に目を向ける。午前四時半を少し過ぎていた。

 嫌な予感が、彼の胸の内で渦巻いていた。





 ◇





 予感は的中した。

 電話は総合病院のナースセンターからのもので、霧島の容態が急に悪くなり、昏睡状態に陥ったとの報せだった。これから緊急手術をするらしい。

 風間はすぐに着替えて家を出た。愛車に乗り込むと、セルを回してエンジンに点火した瞬間に、ステアリングを切り、アクセルを踏み込んだ。車体が弾かれるように駐車場から飛び出す。

 まだ日の出前なので、街に人影はない。黄色に点滅したままの信号を徐行もせずに走り過ぎる。アクセルはほとんど踏みっぱなしだった。

 速度を上げながら、風間は夢の中で見た街並みを、覚めた両目に映す。彼の車のエンジン音を除けば、街は海底のように静まり切っていて、活動するものは何もない。街灯の光も忘れられたように佇んでいた。

 ふと時計に目を移すと、時刻は四時五十分。空はようやく薄焼けた暗い青色へと変わっていく。日の出が遅くなっている、と気付いた。そこでまた、季節の経過を思い出した。もう、夏が終わる……。

 そこからは不思議と何も考えることはなかった。考える余地がなかった、と言うべきだろう。右足はアクセルを踏んだまま、制限速度を忘れて国道を突っ走った。

 その危険走行の甲斐あって、風間が病院に着いたのは五時十五分頃だった。いつもより十分以上は短縮できたと言えるだろう。車を乱雑に停めて、受付まで走っていく。待ちかねていたかのように若い看護婦が出てきた。

「霧島さんの手術が先程始まりました。発作症状が起こって意識不明になったと。かなり危険な状態でした」

 風間は息を呑みこむのと同時に頷き、手術室まで案内してもらう。

 手術室の閉ざされた扉の上では、テレビドラマで見かけるような「手術中」という赤いランプが光っている。それを見上げた時、無意識に夢の中の赤い月を連想してしまって、風間は独り頭を振った。

「ここで待ってます」

 風間がそう告げると、看護婦は頭を下げて遠ざかった。静まり返った通路にはベンチに座った風間一人となる。

 鼓動は早くなっていたが、どんな思考も言葉も浮かばなかった。ただ、自分を取り巻く空気と同化するように、その静かな空間で彼はじっと息を潜めていた。指を絡めるように手を組み、それに額を乗せた状態で石化したように彼は待った。

 死にたくない、と涙していた彼女の声が、無心の頭に幾度となく響いていた。

 やがて時間が過ぎ、本格的に朝陽が顔を覗かし始めたのか、反対側に延びる通路の突き当たりの窓が明るくなってきた頃、早河刑事が現れた。彼のオールバックに固めていた頭はやや崩れていて、奥に引っ込んだ両目の下には疲労が滲んでいた。普段の彼の研ぎ澄まされた眼光も今は曇っていて、それが不鮮明な印象を持たせて逆に不気味だった。

「おはようございます、風間さん」 早河刑事は丁寧に頭を下げて挨拶した。

 風間は無視した。彼の方を見向きもしなかった。

「先程、連絡がありましてね、霧島さんがご危篤だと」 彼は手術室の方へ、真剣な眼差しを向ける。 「他の事件も抱えているんで、少し遅れましたが……」

「ええ」 風間は不機嫌な口調で頷いた。事実、気分はあまり良くない。

「心配ですね、本当に……、あの娘くらいだと、ちょうど私の娘と同じ程の年齢ですから……」 早河刑事は目線を風間に戻した。 「可哀想に……、お若いですよね、霧島さん」

 風間は横目に早河刑事を睨み上げた。彼が何を言いたいのか、すぐに察することができたからだ。

 くたびれた老刑事は風間と反対側に設置されたベンチに腰を下ろす。

「手術開始から一時間半ぐらいですか……」 早河刑事は呟くように言った。看護婦から聞いたのだろう。

 そんなに経っていたのか、と風間は思った。目を瞑った。何もかも遮断したいと思っての行動だった。瞼の裏の闇の中で、時間軸と空間が歪曲していく空想が広がる。疲労しているのが自覚できた。

「煙草、ご一緒にいかがです?」 早河刑事が声を掛ける。 「灰皿が準備されているかどうかわかりませんが……」

「早河さん」

「はい」

「外して頂けますか?」 風間は目を開き、早河刑事を睨んだ。

 しばらくの沈黙を置いて、彼は頷いた。その岩石のような顔には微笑も刺々しさの色もなかった。

「わかりました……、また、お時間を置いて、本日中にお邪魔させて頂きます」

「彼女が死んでも?」 風間は冷徹さを装って問う。

「もしそのようなことになったら、尚更です」 早河刑事は、今まで風間が聞いたこともないような、昂揚のない声で言った。外見に似つかわしくない、知的な響きだった。それが彼の本性なのだろう。

(優秀な人だ……)

 風間は口許を吊り上げて笑った。敬意を示したサインのつもりだった。そこで初めて早河刑事も笑った。

 彼が去った後も、風間は待ち続けた。やがて、病棟の遠くから日々の喧騒が聞こえ始めた頃に、手術室のランプが消えた。風間がベンチから立ち上がるのと同時に、申し合わせたように扉から初老の医師が現れる。

「あぁ、風間さん」 装着していたマスクを顎下にずらしながら、その医師が口を開いた。霧島を担当する、気の良い医師だった。風間とは何度も顔を合わせていた。 「終わりましたよ」

「あいつは……!」 風間は数時間の沈黙を忘れて、勢いよく詰め寄った。

「えぇ、かなり危なかったですが、なんとか取り留めました」 彼は瞼の上に垂れていた汗を拭う。安堵の笑みを浮かべていた。 「早く気付いたのが幸いでしたね……、今は眠られてます。病室のほうにこれから移します」

「良かった……」 風間はずるずると脱力して、両膝をつく。長い溜息をついた。

 涙は出なかったが、身体の芯が震えているのを感じた。吐いた息もそれに合わせて振動している。

「ただ……」 医師は言い淀む。その表情は暗く沈んでいた。 「今回のことはつまり、もういよいよだということですから……、何時であってもおかしくはないです。覚悟はしておいてください」

 風間は言葉を失って、ただ見返すだけだった。空白の後の様々な感情を押し殺して、なんとか一度頷いた。



 医師が手術室へと引き返した数分後に、ベッドに寝かしつけられた霧島が運び出された。彼女は呼吸補助のマスクをつけていた。十数時間前に会ったばかりなのに、閉じた目が落ち窪んでいるようにも見えた。

 すぐには目を覚まさないということなので、一度風間は電話を借り、職場に連絡をつけた。彼は携帯電話を持っていなかった。職場先には霧島のことを伝えていたので、事情を話すとすんなり休みを貰えた。許可を下した直属の上司の声はとても優しかった。

 落ち着かず、煙草を一本吸っている間に朝食をどうするか考えたが、とても食べられる状態ではないと判断する。結局、麻酔で眠り続ける霧島の傍にいることにした。病室に行くと看護婦が心電図のモニターを設置しているところだった。毛布の間に覗く霧島の細い腕には点滴用のチューブが刺さっている。その光景が、世界の終わりが迫っていることを風間に突き付けた。

 看護婦が出て行った後、風間は霧島のベッドの横にパイプ椅子を置いて腰かけた。

 じっと、彼女の寝顔を観察する。蒼白で痩せこけた顔が、彼女を蝕む病の脅威を如実に示していた。否応なく、彼女の母親の死顔と重なる。力の無い手を握ると、乾ききっていて冷たい。当然、握り返されることはなかった。

 しばらくその状態で静止していたが、眠気を自覚して、風間は目を閉じた。腕を組み、深く背もたれる。

(少し眠ろう……)

 呼吸を何度か繰り返す間に、精神が平衡を取り戻す。瞼の裏に幾つものフラッシュバックが続いた。



 海岸沿いのドライブの風景。

 夢の中でも見た郊外の丘と、赤い月。

 病院の磨かれた床の反射。

 早河刑事がくわえた煙草の煙。

 記憶を失った彼女が一生懸命に本を読む姿。

 木から飛び立つ蝉。

 揺らめく蜃気楼。

 死顔。

 霧島楓の微笑み。

 黒ずんだアスファルト。

 雨。

 忘れ去られた街灯。

 墓石。

 千切れ雲。

 空と草原。

 死を覚悟した彼女の顔。

 死にたくないと言った彼女の顔。

 陰と陽。

 死と生。

 嘘と真。

 飛沫が飛び散り。

 喚声が上がる。

 さぁ……、この魔法を解いてごらん。

 僕を探してごらん。

 見つかることを、傲慢にも望んでいるんだ。

 世界の終わりがやって来る前に……。

 探してみろ!



 見ていた夢は一瞬だったようにも思えるが、断片的に現れた映像量が膨大かつ圧縮されていたので、そう錯覚しただけなのかもしれない。深いのか浅いのか区別のつかない睡眠だった。

 風間が薄っすら目を開けると、身体を起こしてベッドに座る霧島が見えた。反対側を向いて窓の外を眺めている。眩しくないということは午後ということだ。飛び跳ねるようにして、風間は立ち上がった。

「楓!」 彼は声を掛ける。

 ゆっくりと彼女は振り返る。黒い澄んだ瞳がこちらを見上げた。

「風間さん」 その声は細く、掠れていた。 「おはようございます」

「もう昼だ」 顔の筋肉が緩んで、風間は表情を崩した。

「ごめんなさい、ご迷惑をおかけしました」 霧島は彼に向かってちゃんと座り直して頭を下げた。目が少し虚ろで、空っぽになったかのようだった。 「今日はお仕事だったのでしょう?」

「休んだよ、もちろん」 風間は脱力して椅子に崩れ落ちた。 「謝らないでくれ」

 沈黙が降りる。風間はただ、深く息を吐いて思考を整えていた。

(良かった、本当に……)

 彼は無意識に笑みを浮かべて瞑目する。病室の中は静かだった。目を開けて腕時計を見るとやはり正午を過ぎていた。随分、眠ってしまっていたらしかった。

 霧島の表情は、当然ではあるが冴えない。彼女に繋がる心電図モニターを何気なく見つめる。眠っていた時と比べると、その緑色の波線は若干活発になっていて、振り幅が広がり、音の間隔が狭まっていた。人間の心臓も眠る時はエネルギーを省くのか、と思った。

 目線を戻すと、まだ霧島は風間の顔を見上げている。大きく開かれたその黒い両目が小刻みに揺らいでいる。口を少し開けて、すっかり色の薄くなった唇もわなわなと震えていた。

 恐怖の表情。

 電流のような直感が風間の頭の中に走る。彼は何も言わなかった。

 静寂。

 彼女の心拍数が、不吉に加速している。

「風間さん……」 彼女が先に口を開いた。 「わたし……、気を失っている間、夢を見ました」

 霧島の声は震えていた。指先が、小さな肩が、ニット帽の赤い先端が。彼女の何もかもが振動している。

 風間は彼女から目を逸らして、窓際へと歩いた。重力を増した足を一歩一歩、前に踏み出す。

「どんな夢を見た?」 風間は病院の外の風景を眺めながら訊く。

「記憶を失う前の……、わたしが見たもの達。それが、閃光みたいに過ぎて行きました」 彼女の声が冷静さを取り戻そうとしている。その努力が手に取るように風間にはわかった。 「たぶん……、走馬灯っていうものでしょうね、あれが」

「それで?」

「この病室で目を覚ました時、あなたが傍で座りながら眠っていました。わたし、あなたの寝顔をずっと見てたんです」 彼女は息継ぎをして、間を置く。 「そうしていたら、わたし、突然……」

 魔法が、解ける。

 十二時を迎えたシンデレラのように。

 すべてが……。

 元に戻る……。

 永遠は、一つの時間となり。

 空間は、一つの存在と変わる。

 嘘は、一つの真実となり。

 夢は、一つの現実と変わる。

 甘い魔法が解ける。

「記憶を取り戻したんだね」 風間は彼女に振り返って、続きを言った。

 彼女は開いて硬直した両目にいっぱいの涙を溜めていた。頷いた瞬間に、それがパタパタとシーツに落ちた。

「えぇ……」 彼女はそれを細い指で拭う。 「わたし、車に轢かれた瞬間のことも、思い出せます。あの日は激しい雨が降っていて、とても暗い道でした」

 彼女の口から放たれる信号。その中に潜んだ悲哀と戸惑いを風間は無言で受け取る。

「背後からエンジン音が聞こえたんです。振り返ったら、ヘッドライトの眩しい光に包まれました。痛みも感じる暇もありませんでした」 彼女の口調はしだいに淡泊になっていく。それが本来の彼女の喋り方だ。 「その次の瞬間からは曖昧です。でも……、轢かれる直前に、ヘッドライトの奥に浮かんだ運転手の顔を、わたし、見ました」

 霧島の強張った表情と握りしめられた拳は、あの衝撃の余韻によるものなのだろう。彼女は一瞬、目を伏せる。きっとこれが迷いという意思だ。

 風間は左足に残るブレーキの感触を思い出していた。

 廃工場の裏手の道の景色も、真夜中の激しい雨の音も。



「あの黒い軽自動車に乗っていたのは……、風間さん、あなたでした」



「そうだ」 風間は窓の傍の白い壁に寄りかかって頷いた。

 彼女は顔を上げて、真っ直ぐに風間を見つめた。その黒い瞳には、先程の恐怖の色が残っていたものの、攻撃的な鋭さも宿り始めていた。

「あなたがわたしを轢いたんです。殺すつもりで……」

「そうだ」 彼は無表情に再び頷いた。

「なぜ……、です?」 彼女は息を吐きながら言った。

 今や、以前のような毅然とした表情を取り戻していた。しかし、その目はまだ震えていて、濡れている。当然かな、と風間は穏やかに笑った。自分を殺そうとした男が目の前に立っているのだ。それか、単純な驚愕か。

 風間は黙っていた。煙草を吸いたい衝動に駆られたが、それは我慢した。頭はまだ呑気なことを考えている。魔法は解けてしまったというのに……。

「答えてください」 霧島は僅かに不安定であるも、凛とした声で問い詰めた。

「終わらせてあげようと思ったんだ……」

「え?」

「もういい加減に……、この連鎖を断ち切りたかったんだ」 風間は霧島をゆったりと見つめた。 「君の世界の終わりを……、病気なんかで終わらせたくなかったんだ」

「何を言って……」 霧島の構えていた顔がだんだんと崩れて、泣き出しそうな顔になる。 「あなたは昨日、わたしに……」

「今はもう考えていない」 風間は鼻息を漏らして笑った。 「昨日、君に話した僕の気持ちに偽りはないよ。そうじゃなかったら、とっくに君の首を絞めてる」

「あの時は、殺そうとしたんですね……?」

「ああ」 目を閉じて、溜息と共に風間は頷いた。

 あの瞬間。

 封印していた記憶。

 それは風間にもあった。ただ、霧島との違いは、それが意識的な忘却だったということ。

 あの時のステアリングの重さが彼の掌に蘇る。



 そう……、猛烈な雨の降る、恐ろしい夜だった。

 雷鳴の轟く荒れた夜空を眺めながら、彼は暗い車内で待っていた。もしかしたら、天候からして今日はここを通らないのではと思い始めていたが、それでも辛抱強く目的の女の訪れを待っていた。常夜灯のないその道路の闇は深く、彼の心の奥底に潜んでいた狂気を膨張させていた。彼は闇と一体になって、ただ呼吸をしていた。

 やがて、彼女が白い傘を懸命に風雨に立てながら歩いてきた。よく見知った、病に冒された愛しい女の顔だった。その人気の無い道は彼女の帰路の通過点だった。軽自動車の傍を霧島は気にも留めずに歩き去る。

 その顔を間近に見た瞬間に、彼の頭は真っ白になった。霧島と愛車の距離を機械的に測り、即死させられる速度への準備をした。

 フロントガラスの中央に捉えた白い傘。

 距離は充分。

 風間はセルを入れ、アクセルを踏んだ。

 ヘッドライトに照らされる黒ずんだアスファルト。

 雨の飛沫。

 唸り上げるエンジン。

 急加速する車体。

 猛然と近づいてくる人影。

 女が振り返った。

 霧島の茫然とした表情。

 愛しい者の顔。

 彼女が運転席に座る風間の顔を見たように、彼も霧島の顔を見た。

 その瞬間。

 凍てついていたはずの彼の心が、急速に融解した。

 何かを考える暇はなかった。

 ただ、無意識に。

 彼の左足が、ブレーキを踏んだ。

 鳴り響くスキール音。

 しかし、彼女の姿は迫って来て。

 祈念と失意が入り混じり。

 衝突した。

 スローモーションだった。

 彼女の小柄な身体が吹き飛ばされ、コンクリートに叩きつけられたのを彼は見た。

 望んだはずの殺意と愛情。

 それが、すぐさま悔恨と罪悪感に変わった。もう駄目だ、という諦念も巻き起こった。

 宙に舞っていた傘が、風に流されるままどこかへ飛んでいく。

 悪魔の姿が見えた気がする。

 この世のものではない何かがすぐそこで笑っているような錯覚。

 風間の目は依然として、倒れた霧島に釘付けになったまま。

 横倒しになったハイヒール。

 高鳴る鼓動と雨の音、そしてエンジン音。

 それを意識した時、彼は我に返った。

 アクセルを踏んで、すぐさまその場から逃げかえった。純粋な恐怖よりも、それを見たくないという気持ちのほうが強かった。

 拒絶。

 彼は、霧島の世界の終わりを拒絶したのだった。

 死なせてやれなかった……。

 彼がその後悔をしたのは、その日よりもずっと後だった。



 自分はどんな顔をしているだろう、と気になって、風間は病室の窓に映る自分の顔を見た。そこに映っていたのはやはり、何の変わり映えもない、よく知った男の顔だった。憎たらしいほど愚かな、一人の男の面だった。

「なぜ、ブレーキを踏んだんです?」 霧島はわずかに顎を上げて、真剣な口調で訊いた。

「その時はわからなかったよ」 少し可笑しくて、風間は笑みを漏らした。そんなこと普通訊くだろうかと思った。でも、きっと自分も彼女も普通ではないのだろうな、とも感じた。

 普通ってなんだろうか? 愛してるから殺そうとするのは間違っているのだろうか? その死にだけは触れてはいけないのか?

 だが、間違っているということに彼はすぐに気付いた。

 なぜなら、彼自身の心がそれを認めていなかったからだ。

「君が生きているというのはすぐに知った。この病院にすぐ駆けつけたよ。馬鹿なことに僕はひどく安堵していた」 自嘲気味に彼は笑った。 「でも……、目を覚ました君は、一切の記憶を失っていた。牙を剥くような目で僕を見てた。それで……、気づいたんだ」

 霧島の目はじっとこちらを見つめている。身体から力が抜けて、風間はまた壁にもたれた。

 窓を開けると、入り込んだ微風に真白なカーテンが揺れる。ここにあるのは何もかも白い。濁っているのは自分だけだと彼は思った。

「君がどれだけ取り繕うとも、どれだけ強がろうとも……、君の身体が、君に宿った意志が、生きようとしている。君の世界は、終わりを望んでいなかった」

「風間さん……」

「君は、彼女とは違う」 風間は項垂れて言った。

 沈黙する。冷徹な静寂。でも、包み込まれているとひどく安心する。

 そう、そもそも人間は母親の胎内にいた時には、静寂に包まれていたはずなのだ。沈黙で始まった生物なのだ。原始の記憶。宇宙の果て。音が聞こえるのがそもそも異常なのではないか。

 自分は何を考えているのだろう……。風間はぼんやりと思った。

 まだ、逃げようとしているのか。目を逸らそうとしているのか。

「もう一つだけ、お聞かせください」 霧島が彼を見据えて言った。その大きく開かれた黒い瞳は潤んで揺れていた。

「ああ」 風間は彼女とは目を合わせなかった。

「わたしはあなたのことを知りません」

 これですべてが終わる。

 正真正銘の終わり。

 魔法はもう微塵も存在しない。

 現実が時間と空間の隙間を埋めていく。

 その侵食が、風間の目にはありありと映っていた。

 彼女の口が、動く。



「わたしの名前は楓じゃありません……、霧島早苗です」



 彼女は息を震わせながら言った。とうとう、彼女の目許から雫が流れ落ちる。

 風間はその様子を静かに見守っていた。

「霧島楓は、わたしの母の名前です。わたしが幼い頃に亡くなった、母の名です」 霧島早苗はゆっくりゆっくり、慎重に話す。

「あぁ、知ってる」 風間は頷いた。

 涙が早苗の頬に零れていく。

 崩れていくように。

 魔法のように。

 きらきらと輝きながら。

 霧島楓の容姿を受け継いだ彼女の顔が、風間を見ている。

「風間さん……、あなたは……」

「僕は、風間信志だよ」 白髪の混じった頭を撫でながら、風間は言う。 「霧島楓の夫だった男だ。そして……」

「わたしの……」 早苗の表情が一気に崩れる。

 風間はもう一度頷いた。



「君の父親だ」



 早苗は涙を流したまま、笑窪を作って目を細めた。

「やっぱり……」





 ◇





 夏の終盤、九月の初旬のことだった。

 霧島楓は病室のベッドの上で永眠に就いた。がんに冒され続けたその死顔は、その年の春に見せた彼女の顔とは到底同一とは思えない、見るに耐えられないほど貧相に衰えていた。なので、風間は決して自分の娘である早苗にはそれを見せなかった。

 彼女が母親の顔を最後に見たのは、葬列を終えて火葬場に着いた時だったように思う。最後まで見せないつもりだったが、どうしても見たいと言い出したからだった。

「お母さん、寝てるよ?」 早苗は風間の震える手を握って、不思議そうに見上げていた。

 風間は悲涙を抑えることができなかった。元々、身寄りの少ない夫婦だったので、葬式は慎ましく、あっけないほど短く終わった。葬式を挙げるのも、楓本人としては不本意だったかもしれない。否、きっとどちらでも気にしなかっただろう。墓碑には旧姓を名乗り続けていた彼女の意思を尊重して、霧島楓と刻まれた。

 喪服姿の風間と園児用の濃い紺色の制服を着た早苗は、楓が納まる棺が焼けるのを見守っていた。

 彼女には結局、自分の姿はどう映っていたのだろう?

 風間は弔辞を述べる間も、遺灰を突いている最中も、すべてが終わって実家の居間で麦酒を呑んでいる間もずっと思っていた。瞼を閉じても、その脳裏に刻み込まれた楓の死顔。それが毎晩、彼を苦しめた。

 同時に、彼はいつからか、幼い娘の顔にもそれを重ねるようになった。母の喪失を未だに深刻に受け止めていない早苗の笑顔が、丘で話す楓の笑顔に酷似していて、病魔という暗い影を風間に意識させて仕方なかった。

 娘にもいつか同じ時が来るのだろうか?

 風間は恐ろしかった。またこの別離の瞬間が訪れるというのだろうか。その時の早苗は丈夫な身体で健康だったが、一度頭をもたげたその恐れが彼の胸の中で増幅していくのには大して時間はかからなかった。

 ある日、風間は幼稚園から早苗を連れて帰る時、海岸線まで出て車を飛ばした。海、海だよ、お父さん、と早苗がはしゃいでいるのを彼はよく覚えている。その道はかつて、楓を乗せて走った道だった。太陽が沈みかけて、空が臙脂色に染まって、燃え上がる炎の底にいるような景色だった。

 彼はその時、早苗と心中しようと決意していた。当ても無く車を走らせている間は、その心中方法をずっと考えていた。彼は既にそこまで追い詰められていた。霧島楓という女の存在は風間にとって、彼自身気付かぬうちに、あまりに巨大なものになっていたし、楓の死はそのまま生への希望を失くした事と同義だった。

 やがて日も完全に暮れ、真新しい闇が街に降りた頃、早苗の表情も同じように暗く、不安に歪み始めていた。彼女は幾度となく、茫然とステアリングを握る父の顔を見た。

「どこ行くの?」 早苗は心細そうに尋ねる。

「お母さんのところだよ」 風間は娘の顔を見ずに、優しく言った。 「早苗もお母さんに会いたいだろ?」

「でも……、お母さん、燃えちゃったよ?」

「あぁ、だから、僕達もそうなるんだ。そうしたら、お母さんのところに行けるんだよ」

「わたし達、死ぬの?」 早苗は首を傾げて怪訝そうに訊く。

 風間は短く吹き出してしまった。いったい、この子はどこでそんな言葉を覚えたのだろう?

「ああ」流れていく黄色のランプをなんとなく見つめながら、彼は微笑みを浮かべる。

 もう海は見えない。静寂の底に沈んだ砂浜も見えない。高い仕切りに覆われて外の風景は眺められなくなった。ただ、黒く染まった空には星の微光が浮かんでいて、とても綺麗だった。それを一瞬だけ見上げて、また前方の緩いカーブへと目を戻す。

「お父さん」 彼女が助手席で怯えたように呼びかける。

 風間は応えなかった。応えてしまったら、この練り固めた死への覚悟も崩れてしまうとわかっていたからだ。

 反対車線には大型トラックがよく通る。高速道路に乗っていたので、速度もかなり出ていて、ヘッドライトが流星のように残像を残して過ぎていった。

 ――そうだ、この光の中に突っ込もう。

 風間は意を決した。あまり上等な死に方ではないが、まず即死で逝けるだろう。アクセルを深く踏み込む。エンジンが一層高く唸りを上げて回転した。早苗はいよいよ恐怖しだしたようで、ほとんど半泣きで風間の服の袖を握っている。

「お父さん!」 彼女が悲鳴を上げる。しかし、その声もエンジン音に掻き消される。

 風間は反対車線を走る車を睨んでいた。低い車線分けの塀があるが、速度さえ上げていれば乗り越えられるだろう。次のトラックのヘッドライトが見えたら、行こう。

 彼は深呼吸をする。

 車内には早苗の涙声の絶叫が響く。

 道はカーブを抜けて、直線になる。

 まだか……。

 彼は向かい側の乗用車を見送り続けた。

 その時。

 来た!

 フロントガラスに広がる白光の輪郭。僅かに見えるトラックの大きなシルエット。

 風間はステアリングを握る腕に力を入れる。

 車体に横方向の重力が掛かる。

 どんどん、反対車線の光が近づいてくる。

 これが……。

 世界の終わり……。

 彼は瞼を閉じる。

 ふと、彼の耳に娘の声が戻ってきた。

「死にたくない!」 それは、幼い娘の渾身の叫びだった。

 はっと、目を剥く。

 逆方向に舵を切り、風間はブレーキを踏む。

 凄まじい音が立ち、激しい重力と遠心力を感じた。

 助手席では早苗が両足を突っ張りながら、懸命に目を閉じて、悲鳴を上げていた。

 風間は目を閉じなかった。

 今度は逆方向の壁が迫って来る。

 咄嗟にアクセルを踏んで、またステアリングを右に切った。

 車体が大きく揺れて、スピンする。

 後輪の滑りを無我夢中でコントロールする。

 体勢を僅かに立て直した所で、思い切りブレーキを踏んだ。

 また切り裂くような音が鳴って、外の景色が回った。

 黒いタイヤ痕を尾ひれのように残して、車はどこにもボディをぶつけず、百八十度逆方向を向いて、路肩に停止した。幸い、後続車がいなかったので、事故も起こらなかった。

 早苗はまだ泣いていた。必死に目を瞑って、甲高い声を上げ続けている。風間はシートベルトを外して、彼女を抱きしめた。

 なぜ、ブレーキを踏んだのかもわからない。ただ、娘の言葉がそうさせたのだ。生き残らせたのだ。自分の犯した過ちを、彼は強く呪った。

「ごめん、ごめんな……」 彼も泣いていた。震える小さな頭に何度も頬を当てる。 「生きたいよな……、死にたくなんか、ないもんな……」

 早苗は父の胸にしがみつき、いつまでも泣いていた。

 風間が自分に父親の資格がない事に気付いたのはその日だった。このまま共に過ごせば、また自分の娘を手にかけるような愚劣な行為に走るに違いない。かといって、霧島楓という女の存在を胸の内から抹消することはできない。それはいつでも、彼の中で得体の知れない激情となって宿っているのだ。

 彼は早苗を大金と共に施設へと預け、彼女の前から姿を眩ませた。警察も彼を探したようだったが、とうとう風間が見つかることはなかった。彼は遠くの地でそれまでとは違う暮らしを送っていた。

 しかし、月日が経ち、この街へと戻ってきた彼は街中で偶然、高校生になった自分の娘を見た。皮肉なことに、彼女の容姿はさらに楓に似ついていた。年月の経過によって克服してきたはずの狂気に近い激情が、また彼の内でぶり返し始めていた。

 彼はそれから頻繁に、早苗を遠くから窺い始めた。高校を卒業した頃には彼女は既に一人前の大人として立派に自立していたようで、仕事にもすぐに就いた。彼女が成人しても、風間は遠くから、決して姿を現さずに見守り続けた。ある焦燥が、呪縛にも等しい強迫観念からの習慣だった。

 そして、とうとう、彼はそれを見た。繁華街近くの大通りを歩く彼女の横顔。それは、痩せた、蒼白くなりかけた女の横顔と、彼女が時折見せる発作のような症状だった。彼女自身はそれを気にも留めていないようだったが、間違いなかった。

 早苗も、母である楓と同じ運命を辿っていた。

 その病魔の影を見つけた時、風間の胸の内で、抑え続けていたはずの激情が破裂した。

 子への愛情を越えた狂気に、駆り立てられ始めたのだった――。





 ◇





 すべてを語り終えて、風間は黙った。部屋は再び静寂に包まれ、時間は針金のように硬直している。空調機とモニターの僅かな音が喧しく感じるほどだった。

「病院の人も、刑事さんも、わたしを霧島さんって呼んでたわ」 早苗はぽつりと言った。

「都合がよかったね」 風間は短く笑いながら応えた。

「なぜ……、母の名を使ったんです?」 今や早苗は泣いていなかった。声も凛としていて、落ち着きがあった。ますます、楓に似ている。

 風間は肩を竦める。上手く言葉にできない感情だと思った。自分でも不透明な動機だった。ただ、過去の夢を見ていたかっただけなのかもしれないし、もしかしたら、意味などなかったのかもしれない。

 いや、あるいは……、楓への未練に決着をつけたかったからか?

 きっと、そうだ。

 喪失した彼女への反論。

 世界の終わりへの回答。

 風間は考えて、納得する。

 随分と……、長い年月をかけたものだ。彼は声を漏らして笑った。

「早苗……、もうこんなことを言う資格もないけど、父親として、一つだけ教えてあげよう」 風間はふんわりと微笑む。 「大人は、子供に対して夢を見るんだ。果たせなかった夢、叶えた夢、自分の想像もできないような未知の夢……」

「あなたがわたしに見たのは、母の夢ですね?」

 風間は頷く。成長したな、と思った。

「そう……、そして、子供に夢を見る大人こそが、子供達の敵だ」

「あなたは、わたしの敵ですか?」 早苗が彼の目を見据えて訊いた。

 風間は答えることができなかったが、口許を上げてぎこちなく頷いた。

「嘘をつくなら……、最後までついてほしかったです、風間さん」 早苗も微笑む。 「いえ……、わたしが思い出さなければよかったのかしら?」

「どうだろうね」 風間はまた肩を竦めた。 「どちらにしても不甲斐ない大人だよ、僕は」

 今が何時か気になった。この部屋には時計がない。過去も、現在も、未来もこの狭い病室の中では存在するような気がした。

 二人が口を噤むと、部屋は元通りに静かになる。その静けさにも慣れたと風間は思い込んでいたが、今は時間の経過にも気づかぬほどに溺れてしまっている。沈めば一段と深い沈黙が待っているのだろう、二人は互いに言葉を探していた。

「自首、なさるんですか?」 早苗が少しだけ躊躇ったように訊いた。

「その必要はないね」 風間は首を振る。 「扉の外で刑事さん達が聞いてるよ」

 え、と早苗が声を上げたと同時に、扉が開き、刑事が二人入って来た。一人は見慣れた早河刑事である。彼は驚愕と欺瞞を奥まった目に浮かべていた。

「気付いていたんですね?」 早河刑事が風間を冷たく睨んで言った。

「えぇ」 風間は頷いて、皺が刻まれた顔を一度撫でた。眠気を感じていた。 「尾行までされていたんですからね、疑われているのは自覚していましたよ」

 早河刑事の後ろにいる痩せた長身の男が困ったように頬をかく。その若い男はバス停の屋根の下で風間を睨んでいた、あの男だった。今は苦笑していて、人間味がある表情だ。

 実は病院だけではなく、いたる場所で風間は彼を見かけていたのだ。職場先でもその視線に気づいた時もあったし、自宅前でも男の乗った車を見かけたことがあった。

「いつもなら事故で済ませた所ですが……、一回りも二回りも年上のあなたの存在や、霧島さんの経歴を調べていく内に気がついたんです」 早河刑事は冷静な口調で言った。やはり、それが彼本来の喋り方のようだ。 「偶然ではなく、意図的な犯行だったらと……、考えを変えたんです」

「いつかは捕まると思っていました。しかし……、早河さん、あなたは優秀ですね」 風間はにっこり笑った。

「刑事なら誰でもこれくらいは考えます」 早河刑事もにやり、と笑った。 「佐々木、車を持ってこい」

 佐々木と呼ばれた若い刑事が頷いて、廊下を小走りで駆けて行った。

 風間は黙って両手を差しだした。しかし、早河刑事はちらりと早苗を横目で見て、首を傾げる。

「いや……、娘さんが見てる前ですから」 彼は整えたオールバックの頭を掻きながら言う。

 何を遠慮してるんだろう、と思いながらも、風間は頷いて両手を下ろした。

「出ましょう」 風間は提案して、扉まで歩き出す。

 瞑目して、娘のほうを見ないようにしていた。恐らくもう会うことはないだろう、とわかっていた。彼女の命はきっともう、もたない。だが、そんな僅かな未練に執着する権利も自分はとうに失っている、と風間は自認していた。

 しかし。

 部屋から廊下へ出る時、娘の声が彼の背中を叩いた。

「風間さん……」 彼女の声は静かな響き。

 風間は思わず目を開けて、振り返った。

 ベッドの上に座る、ニット帽を被った、蒼白に痩せ細った娘。心電図のリズムだけが彼女の生を誇張している。

「わたし……、絶対に死にません。何が何でも、生き続けます。病気でなんか死にませんから……、あなたが償い終わるまで……、待ってます」

 風間は息を止めて、そう言い切った娘の顔を見つめた。

 手が震えるのを感じ。

 彼の瞳から涙が一筋、零れる。

「だから……、だから、また会いに来て下さい」

 母親と同じ微笑みを浮かべて、彼女は言った。

 風間は息を止めて、その顔を見つめていた。

「そうしたら……、一緒に、暮らそう?」

 彼女の穏やかな瞳からも同じように涙が溢れた。

 風間は返事をせずに、微笑みだけを返した。

 扉をゆっくり閉める。

 彼女はまだ見つめている。

 空間と、幻影を、断ち切る。

 閉め切って、彼は早河刑事に向かって両手を差しだした。

「お返事は、よろしいんですか?」 早河刑事がその手を見ながら、不躾な質問をする。

「いいんです」 風間は即答した。

 その返事は……、再会した時に言うつもりだった。

 風間の両手に、冷たい手錠がかけられる。その感触を風間は深く噛み締めた。やがて、二人は歩き出す。

 窓から日光が差し込んできて、床に反射して眩しかった。ここにあるものは何もかも白い。

 階段を下りる途中、早河刑事が思い出したような顔で振り返った。

「私も一つ、嘘をついていたことがあります」 彼はその顔に似合わぬ悪戯な笑みを浮かべていた。

「なんです?」 風間は意外に思って訊く。

「私には娘なんていません。独り身です」

 思わず、風間は吹き出し、声を上げて笑ってしまった。

 今度、早苗に会った時にはこの話をしてやろう、と彼は思った。

 





 ◇





 ある晴れた休日の昼下がり。まだ朗らかな陽の射し込む季節。光を遮るものは何も無く、甘い香りがしていて一層暖かい。その日は、風間が最愛の妻に世界の終わりについて聞かされた日だった。

 風間は硬直しながら、唇を離した霧島楓を見つめていた。

 丘の上の静かな喧騒が二人の耳に戻って来る。

 下方で遊んでいた子供達の内の一人、おさげ髪の小さな女の子が二人の元へ駆け寄って来た。彼女は不思議そうな顔をしていた。

「二人とも、何を話してるの?」 風間と楓を交互に見ながら、舌足らずの幼い口調で訊く。

「何でもないわ、早苗」 楓が母親の顔を取り戻して、微笑みかける。

「ひみつの話?」

「そうね」

「ずるい!」 早苗が少し膨れる。

「いつか聞かせてあげるわ」 可笑しそうに言いながら、楓は娘の手を持って立ち上がった。

 そうして、丘の斜面をそっくりな親子が下っていく。時々、娘が母親を見上げて笑っている。

 風間はまだその場に座り続けながら、二人の様子をぼんやりと見送っていた。もう泣いてはいなかったが、視界の内には惨憺な世界が広がっている。

 何かが変わり始めた日だった。緩やかに、柔らかに、確実に日常が変貌していく最初の日だった。空を見ると、抜けるほど青い一面がそこに広がっている。足下を見ると、バッタが逃げるように飛び跳ねていた。

「お父さん!」 早苗の声が彼を呼んだ。

 風間は気付いて、腰を上げた。

 早苗が急かすように手招きしている。

 楓も振り返って、静かな眼差しで彼を見ている。

 放ちかけた言葉を呑み込み、彼は精一杯微笑んで見せた。

「あぁ」 彼は応えて、ゆっくりと足を踏み出した。

 屈折を始めた、そして、世界の終わりを目指す最初の一歩目だった。

 でも、その足は、随分軽い。







後書き

未設定


作者 まっしぶ
投稿日:2011/05/15 22:43:23
更新日:2011/06/23 21:49:38
『世界の終わり』の著作権は、すべて作者 まっしぶ様に属します。
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