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作品ID:561

こちらの作品は、「お気軽感想希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約11739文字 読了時間約6分 原稿用紙約15枚


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遠藤 敬之 ■バール 


小説の属性:一般小説 / 未選択 / お気軽感想希望 / 初級者 / 年齢制限なし /

Rainy Youth

作品紹介

俺は、雨が嫌いだ。濡れるし、寒くなるし。
そしてなによりも雨の日は、ロクなことが起きないから。

私は、雨がすきだ。雨音を聞くと落ち着くし、上がった後の空気の匂いも大好きだし。
そしてなによりも雨の日は、彼が傘を貸してくれるから。



 最初の一粒が降り始めてから、それは今でもアスファルトに打ちつけている。その姿は一瞬ごとに変わり、歪み、やがて砕け散ってしまう。自分の最後を知っていながら、それでも止むことはない。

*     *     *

 今日は朝から雨が降っていた。誰もいない渡り廊下を歩いている。授業が終わり、放課後となった校舎には誰もいない。この街付近で通り魔の報道がされたため、学校側が部活動を禁止したのだ。被害者の数はもう何人になるだとか、死体が激しく損壊されて、まるで下手な人形遊びのようなありさまだとか、そんなくだらない尾ひれの付いた憶測がクラスの中でも飛び交っていた。
 ほとんどの生徒はいくつかのグループをつくってから下校していった。正面玄関への階段を下りながら、誰かと一緒に帰ればよかったと少しだけ後悔した。
 朝の雨で、すでに湿っている靴に履きかえて、背負い鞄のボトルポケットから折り畳み式の傘を取り出す。
 外に出ると、雨と一緒に、幼馴染の後姿が見えた。
 脅かそうとするつもりはないが、こうして後ろから肩を叩くと、決まって兎衣は俺だとわかるようなのだ。
 ぽす、ぽす。
 と指先で軽く触れるようにするといいらしい。
 振り向きざまに、人差し指を彼女の頬にぷにっと突き立ててやる。
「むっ、凪人(なぎと)ー、遅いよー」
「兎衣(うい)、……待っててくれたんだ」
「まーね。だって、通り魔ってやばそうだしさー。それにクラスの子たちは先帰っちゃったし。一人だとなんか殺されちゃいそうで」
「だれもお前なんか殺さないってば。でも、よく俺が先帰ってないの分かったね」
「うん。図書室で真面目くさって本読んでんの見かけたんだよね」
「そっか。まあ俺も誰かと帰っといた方がいいかなって思ってたとこだからね。さて、帰るか」
「あー、凪人、……傘余ってない?」
 手に持ったままだった折り畳み傘を見る。もちろんこの骨折治療中の一本しか持っていない。
「……さすがに予備のはもってないな」
「なら、ここはゆるりと雨宿りといきませんかねえ?」
 俺は答えずに、鞄に傘をしまった。彼女は、うん、と頷いて近くの柱にもたれかかる。能天気な彼女といると、いくらか気分が晴れるかと思ったのだが、心は晴れるどころか、むしろ曇るようだった。
 雨のせいだ。
 一体何が嬉しいのか、彼女は満足げに瞼を閉じていた。眠っているのか、と横目で見ていたら、なにやら雨音に交じって鼻歌が聞こえてくる。
 一昔前のラブソングだった。よくこんなの覚えていたなと感心する前に、呆れてしまった。まったく、雨降りの日はロクな事がないのに。
 兎衣は何も話さない。二人の人間が一メートルもない程度の距離にいるのに会話がない。しかし、俺と兎衣の間柄、沈黙は苦にはならなかった。
 俺は、ただ待っていた。

     *     *     *

 雨が小降りになってきたので、私たちは校門をくぐった。
凪人は、たぶん雨が嫌いなんだと思う。降っている時の雨の音とか、降った後の空気の匂いとか、そういうのを感じていても、私は不快になるどころか、ずっと雨を感じていたいと思う。 
 空一面の雨雲も、平坦な青空が命をもらったみたいに生き生きとしたように見える。つまり私は、天気のなかで雨が一番好きだと胸を張って言えるほどの雨好きの人間なのだ。雨の日に鼻歌が歌えるのにはそれなりの理由がある。
 凪人は車道側に移動した。そういった心遣いが女子にモテると盲信している男子とは違う、ちょっとした優しさがうかがえる行為だ。結局、一本しかない傘を私に押し付けるあたり、凪人は根っこのところが基本的に善人なのだ。それなのに私は周囲に能天気なやつに見せているだけで、心の中はそこら辺で燻っているのと大して変わらない。だから、いい人オーラをだすにはコツがいるのか、と凪人に聞いてみたら、それは皮肉なのかと怒鳴られたことを思い出した。
 私は、生まれ変わったら雨になりたい。何にもない青空を覆い隠す曇天になるのがいい。凪人のそばにいると、劣等感と罪悪感を混ぜたような得体のしれない感情のなかに撹拌されそうになる。そして、私の中にある彼への好意が、幼馴染として友愛なのか、それとも異性としての恋慕なのか、それすらもまだ私は判別がつかずにいた。
 あまりにも優しい凪人は、白く美しい。そのそばにいられてしまう灰色の自分を、自身では許していないのかもしれない。
 それでも私は、凪人といることを望んでいる。
 すぐそばに凪人がいるのに、延々と流れ続ける雨音が、なぜか私に孤独を感じさせた。どうしてだろう、雨は私にとっていいもののはずなのに。

     *     *     *

「じゃあね、兎衣。また明日」
 兎衣を自宅前まで送ると、彼女の体温の残る傘をさした。制服は霧状になった雨にやられていて、表面を撫でると掌がじっとりと濡れた。
 鞄を片手に持ちながら制服は脱いで、そのまま鞄の中に乱暴に詰め込む。家に帰ったら間違いなく母さんに怒られるだろう。しわはのびるだろうか。 
 髪も水分でまとまってひどいことになっている。やっぱり雨は嫌いだとつくづく思う。兎衣はきっと雨が好きなのだろうが、どうしても俺は苦手だ。好きなものが前にある人の前で心底嫌そうな顔をするわけにもいかない。だから、なんとか表情筋をなだめて平静ではいたのだが、一人でいるときぐらいは溜息をついてしまうのを許してほしい。
 人通りの途絶える通りにさしかかる。雨音が、不気味なほど静寂を助長させる。まるで自分のいるところが、あたりと隔絶されているような孤独感に陥る。
 雨脚が強くなってきた。傘を差そうと、鞄を胸の前で抱え傘を取り出す。背負いなおして鞄を背に追いやった後、伸びた前髪が垂れてきた。
 へばりつく前髪をかき上げ、前を向くと。
 
 レインコートをきた人物がいた。
 
 その人はうつむいていて顔が見えない。
 黄色くて、とても安っぽいレインコートだ。
 俺と、その人はお互いに一歩も動かない。
 時刻は七時をすぎる。
 雨除けの軒が多い、人の少ない路地を無意識に選んでしまっていたことを、これほど後悔したことはない。

――通り魔。

 脳が意図して思い出すのを意図して遅らせたとしか思えない。兎衣の家まで半径百メートルあるかないか。走れば間に合うだろうか。
 男は袖口から、雲に阻まれた光でもその殺気を押し殺せないような、得物をとりだした。対抗の手段は骨の折れた傘のみ。諦めて重い鞄を捨て走り出そうと背を向けた。
 人間の息遣いが真横から感じる。荒い。脇腹が徐々に熱を帯び始める。踏み出した足が、行き場を失ったようにふらついた。薄っぺらな鞄の重量に体が負けて、前のめりになる。それと同時に、わき腹を刺し貫いていた冷たい塊が、ずるりと湿った音を立てて引き抜かれた。
頭がアスファルトの水たまりに打ち付けられる。ずぶ濡れになる不快感よりも、顔をぬぐう腕がうまく動かない。 
 傘、傘はどこにいった?
 そのレインコートの端すらも、最後には捉えることができなかった。すでに影すらいないことにも気づかなかった。
 声が出ない。喉からは笛みたいな音が聞こえるだけ。本気で危機感を感じると人間は何もできない。さきほどから絶え間なく血液が溢れてくるのに、手ですくうこともままならないのだから。
 水たまりは赤黒く濁って、そこだけ脂が浮かんでいる。そんなことまで鮮明にわかるのに、なんで、何もできないんだ。
 右腕は投げ出され、左腕は腹部をかばうように。
 健闘むなしく、かばった指の隙間から俺の成分が流れていく。それと同時に、体温が瞬く間に下降していく過程が自覚できてしまう。今更になって、死の恐怖みたいなものに肩を叩かれた。どれだけ拒絶してもあらがえない。気味の悪い眠気が俺の体を地面にしつこく縫い付ける。血が、雨と深く混ざり合う。走馬灯なんて来ないじゃないか。
 兎衣、……嘘、つくなよ。
 だから、ほら。
 雨の日には、ロクなことがない。

     *     *      *

 冷えていく自分を、俺は見下ろしていた。血と雨で汚れた目は、虚ろで虹彩はふらふらと動いている。口を酸欠の魚みたいだった。何かを言っているようだが、聞き取ることなどできはしなかった。
正常に機能していた脳も、そろそろ血液がきれて止まってしまうだろう。
 いまの現状には何も疑問をもてない。
 幽霊は実在したらしい。……このまま、こんなみじめな場所の地縛霊にはなりたくない。
 でも、そうなっているのがあまりにも現在が現実的過ぎていて。それでは、兎衣に嘘をついたことになる。ほんとうに情けない。どうして、こうも嫌いなものになるのだろうか。
 だって。信じられないのだ。

――俺は、雨になっていたのだから。


     *     *     *

「ひっ、げええ!」
 ひっくり返った蛙が、ぺしゃりと踏みつぶされた時の断末魔みたいな声がした。
 路地を挟んで右側の民家の窓が開いていて、そこから顔を出した貧乏の大学生らしい男が目をむいた。
「人が、倒れて、血が、あ! あ! あ!」
 窓にかけていた手が震えて、老朽化した窓の桟ががたがたと鳴る。
「そそ、そうだ、きゅ、救急車だっ!」
 彼は呂律の回らない喋りで三桁のダイヤルを回し始めた。
 男は飛び出すと、青年の元へと走って行った。

     *     *     *

 電話のベルで目が覚めた。凪人と別れた後、シャワーを浴びて、そのままソファーに倒れこんだのだった。両親は帰宅が遅いので、規則正しい生活とは無縁なのだ。
固定電話が忙しく、誰かを呼んでいる。ここには私しかいない。しかたなくでることにした。
「もしもし?」
 起き抜けのせいで、声の調子が悪い。
『もしもし、兎衣ちゃん!?』
 凪人の母親、柚季(ゆずき)さんだ。あのどこか抜けたような人がこんなに切迫した声を出すのには、なにか、重大な事が起きたと予感させるのには十分だった。
『凪人が、凪人が!』
「ど、どうしたんですか! 柚季さん、落ち着いてください」
 柚季さんは、消え入りそうな声で、ごめんなさい、と呟くようにいった。深呼吸を繰り返す呼吸音が連続する。
『兎衣ちゃん、あのね。……凪人が、凪人が刺されたの』
「刺された? 冗談とかじゃなく? えっ、いや、でも凪人は今別れたばっかりで」
 刺されたってどういうことだろう。嘘なんて柚季さんらしくない。
『今、救急車で病院に搬送されて、今も集中治療室で手術してて……』
「……嘘じゃないの? 最近の通り魔に遭ったんですか!?」
『いいえ、私にはなにも……。大輔(だいすけ)さんもまだ来てないし、私どうしたら……』
「わかりました。私今そっち行きます、あのどこにいるんですか?」
『三好総合病院(みよしそうごうびょういん)よ、あ……切れちゃう、兎衣ちゃん暗いから気をつけ』
 そこまで言った後、受話器は柚季さんの声の代わりに、簡素な電子音を吐き出した。十円玉を継ぎ足すことも忘れていたらしい。
 柚季さんとの電話を終えて、乱暴に受話器を置く。
 凪人の容体も分からずじまいだった。彼女を安心させるためだけでない。真っ先に自分もその場に行かなければいけないと、そう思わずにはいられなかった。
 
 三好総合病院は、中学生の時に部活で折った手首の接骨治療に通っていたことがある。脱ぎ散らかしたままの制服をつかみ取り、着替え始めた。すぐに出てみようかと思ったが、万が一、通り魔と鉢合わせしたらという予感がよぎった。それでも、今はそこへ行きたかった。
 うん、大丈夫。凪人は、案外頑丈なやつだし、絶対無事だ。そう、強く自分に暗示をかけた。
 そうでもしないと、曖昧な恐怖に侵されてしまいそうだったのだ。
 やるべきことが決まると、後の私は実に単純だ。
 カーディガンを適当に羽織ると、傘をつかんで玄関を抜けた。オートロックのかかる音を遠くに聞いて、雨の後で水分を含む空気に頬を舐められながら走った。
 あいつの人柄なのか、根拠のない自信が脆い私の心を今日一日分だけ、強くするための力をくれた。
 跳ねる水も気にせず、私は夜を駆けた。

     *     *     *

 雨。
 無数の水の波紋。
 一瞬に生まれ、一瞬にして消える。互いに打ち消しあい、合成し、そして寄り添うように広がっていく。
 その一定のリズムの流れに身を任せているうちに、俺は自分の住んだ街を巡っていた。舗装された道、田舎の畦道。毛細血管のごとく張り巡らされた道を、傾斜や排水溝の流動に任せて流れていく。

     *     *     *

 凪人の治療は終わった。
 意識は未だに戻ってはいない。今も、面会謝絶が続いている。

     *     *     *

 最初に、学校に流れ着いた。雨の体は気楽なものだ。肉体的な拘束は何もない。生理的欲求も皆無に等しい。
 この学校で真面目に堅実に生きていたっていうのに。なんの因果でこんな目に遭ったのだろう。水滴になって窓に張り付く。今は深夜近い時刻のはずなので、校舎内にはやはり誰もいない。一人で渡り廊下を歩いていた自分が投影される。玄関につながる階段を降りて行くと、兎衣が待っていてくれていたっけ。くしゃくしゃに丸めた制服も、あの時のまま放置されているのだろうか。
 俺の体は今、実体をもたない幽霊みたいなもので、雨の降っている今しかきっとまともに動くこともできないだろう。
 彼女のことが、心をきつく締めつけていた。
 今はとにかく兎衣のことが気がかりだった。
 水での移動手段を使って本気で探せば、一人の少女くらい簡単にみつけられるはずだ。俺は、空気の水分に溶けて空から探すことにした。上空は灰色の雪雲が寄り添っていて、霙(みぞれ)が降り始めることを予感させた。

     *     *     *
            
 空は、半分が凍り付いて霙になった雨を小さく零していた。   
 私は、半身が壊死したように寒かった。
 凪人の病室は個室だった。もうしわけ程度に花瓶には花が活けられていた。ベッドの上に、身じろぎ一つしない凪人が横たわっていた。間違いなく生きているはずなのに、そうではないように思えてしまう。脈拍や、体温はあるはずなのに、生気を感じなかった。凪人は目を覚まさない。
まるで、魂が抜けてしまったようだった。
 ここにあるのは凪人であって、凪人ではない。白く血色を失くした肌が、病室の壁に解けてしまう錯覚を覚えてしまう。
 それだけ、今の凪人は危うい存在だということだろう。
 凪人の容体は、大輔さんから聞いた。柚季さんが、話すことすらままならない状態だったのだ。
 大量失血によるショックで、かなり危険な状態だったらしい。刺されたのは私と別れた直後だった。
 それを聞いたとき、どうすればいいのかわからなかった。
 安らかに目を閉じる彼は、確かに生きているはずなのだ。
「凪人の寝顔なんて久しぶりに見るのになあ……。なんで、こんなときなんだろ、……あれ?」
 掛け布団の上に、水滴がぽたぽたと垂れるのを視認して、ようやく自分が泣いていることに気がついた。
 それを自覚したとたん、私の頭を、凪人が洪水になってあふれ出してきた。
 
 保育園でスターウォーズごっこして、そのとき初めて会って、小学校で四回同じクラスになって、仲良し夫婦とかからかわれて、でも凪人は涼しい顔で受け流して、男子はつまらなさそうにしてて、殴り合いの大げんかもして、中学ではなかなか同じクラスになれなくて、それで泣きそうになってたのを気付かず励ましたのも凪人で、その優しさに嫉妬を覚えるようになったのもこのころからで、高校ではじめて図書室行くようになったのも凪人が図書委員になったからで、わざわざ雨の中待っていたのも一緒に帰りたかったからで、嫉妬も罪悪感も本音で言い合えるような歳じゃなくなっちゃったからで、どんなときも凪人を意識していたのは自分の方で。
 消えていった思い出は心臓に深く抉るように食い込んでいった。それらは、今の別れをより辛くするためにあったのだろうか? そのために育っていったものだったのだろうか?
 凪人は、私の想いを知ることはないのかもしれない。
 私が凪人の知りえない嫉妬と罪悪感で、それをひた隠しにしてきたからだ。意気地のなさは、今にはじまったことじゃない。
 自分が相手を強く欲しているからなのか、失ってしまう前から、その人がどれほどかけがえのないものなのかを、熟知しているつもりになっていた。目の前の動かない彼を見て、あまりにもリアルな数日前の凪人を思い出して。
 私は頭を振った。今ここで凪人をよみがえらせたら、私はどうなってしまうか見当もつかなかったからだ。やっと心の柱の欠片を寄りかかれるまでかき集めたのに、これでは意味がなくなってしまう。
うつむいた顔を上げる。
 私にはもう無理だった。体の様子がおかしい。震えが止まらない。個室の水分を含んだ大気が、まとわりつくように重くのしかかる。
 ああ。そっか。

――この気持ちは、ただの恋だったんだ。

 そのとき、触りなれた掌が私の肩に触れた気がした。

 そのとたん、頭の奥に鉛でも入れられたように、頭を垂れた。あたりの景色が、遠く歪んでいく。目の前がぼやけてすべてが、瞳から溶け落ちていく。
 胸が痛むほど鼓動ははっきりとしていて、嗚咽がこみ上げて息がうまくできなかった。涙も声も、自制がまるで意味をなさない。
「うう、ううう、っぐ」
 口元を手で押さえる。そうでもしないと、また崩れていってしまう。嗚咽を奥歯が軋むほど噛みしめても、耐えきれなかった。
「……凪人ぉ、死なないで、よお……」
 どうしよう、彼の名を呼んでしまった。
 煮えた嗚咽が喉元までこみ上げてきた。

     *     *     *

 総合病院の病棟をぐるりとまわっていたその時だった。兎衣の姿を見つけてしまった。
 窓の隙間から病室内に入り込む。
 そこで初めて知った。どうやらまだ自分は死んでいないらしい。刺された後、何が起きたのか、自分の体はあの路地から病院に移動していた。ずっと自分は死んだものだと思っていた。
 だが、体はかろうじて生きている。自分の存在はいよいよ生き霊という事になってしまった。幽霊より雨のほうが何かと便利なのに。
 不安とともに、動かない自分の傍にいる人の姿を見ると、やるせない気持ちになる。どれほどその人が 俺の目が覚めるのを望んだとしても、今の自分ではどうにもできないからだ。
 今は凍えそうな霙が降り注いでいた。
 彼女は、俺の石膏面ような寝顔を見つめていた。
「凪人の寝顔なんて久しぶりに見るのになあ……。なんで、こんなときなんだろ、……あれ?」
「兎衣……」
 兎衣は泣いていた。半ば無意識で彼女の肩に手を乗せていた。
 彼女は、ビクッと震えると、ふらふらと俺の掌のある肩へと手を持ってくる。思わず耐え切れなくなったのか、大粒の涙をぽろぽろこぼしながら俺の名前を呼んだ。
「……凪人ぉ、死なないで、よお……」
 嫌だ、嫌だ、と幼い子供が受け入れきれない現実を拒絶するように。
 俺は思わず、兎衣に声を張り上げた。
「おい、まだ死んじゃいないだろ、兎衣!」
 何が、兎衣をこんなにまでさせたのか。その原因が自分なのだと分かるのに時間は要らなかった。
 やがて俺の名を呼ぶ声は、嗚咽に変わった。
「おい、ちょっ、泣くなってば!」
 今なら、きっと許してもらえるだろうか。
「兎衣……、俺のために、そんな、泣くなよ……」
 彼女の小さな背を抱くように、俺は彼女を抱きしめた。強く、それでも壊さないように、いたわるようにそっと。
 兎衣はそのまま、病室のベッドに顔を押しつけるようにして眠ってしまった。
 それを見届けると、俺はその場から離れることにした。
 どうしても、そこにはいたくなかった。自分のせいで傷つき砕けていく兎衣を、もう見たくなかった。

     *     *     *

 気が付くと私は病室のベッドに突っ伏していた。
 世間は、もうすでに昼前の時刻になっていた。それに気が付かずに眠りこけていたのは、雲が朝日を隠していたからだろう。朝から大好きな雨降りなのに、その雨は嫌な事ばかりを喚起させた。壁掛け時計は、十一時四十分を指していた。
 私は、制服を着ていた。どうやら、そのまま病室のベッドで泣き疲れて眠ってしまったらしい。看護師さんが掛けてくれたらしい毛布が肩からずり落ちてきた。
 きっと酷い顔をしている。とても誰かに見られたものじゃない。顔を洗って、シャワーを浴びて、歯を磨いて、それから遅い朝食を摂らなくてはいけない。そんなことよりもまず、家に帰らないと。
 頭では分かっていた。でも、やらなければならないことをやりたくないのと、この全身のとろけるようなだるさは、間違いなく無関係ではあるまい。
 覚えていた彼の熱が、夜をこえる度遠ざかっていく。今すぐにでも触れられるのに、そうすると、もう暖かい彼を思い出すことが出来なくなってしまう気がした。
 こんな私にも溢れていた心だとか、凪人が信じた私の心だとか。もう霙にでもなって地面に降り注ぎきってしまったようだった。私の心は、全てならして均一化を施された青空だった。
 まったく、美しく清らかな意味合いで「青空」という名詞を使えない自分は、どうしようもないやつだ。
 このまま、動かない凪人のことも忘れていってくれたらいいのに。
 いつ、彼が本当に私のそばから離れていってしまうか分からない。そのことに怯えて、これからを生きなきゃいけないのかな。
 もう一度眠れば、彼を夢で見ることが出来るかもしれない。そう思って、ベッドにまた倒れこむ。
 彼のそばで眠ったって、夢が現実になることはない。そんなの、分かってる。
 でも、永遠に眠り続ければ、私は凪人と一緒にいることができる。

――駄目だ。

 このままでは、死にとり憑かれてしまう。私の肩を叩くのは、あの時の掌だけでいい。
 掌。いつも私の肩を叩くのは、いつも凪人の手だった。ぽす、ぽす、と指先で触れるようにして、極めて遠慮がちに触れてくれるのは、凪人しかいないのだ。それだけで、凪人の優しさすら伝わってくるようだった。
 思えば、何でもない事ばかりが、私にとって喜ばしいことだった。

 たとえば雨。
 私の誘った雨宿りに、無言で従ってくれたこと。
 音痴な鼻歌も、黙って聞いてくれたこと。

 涙はもう、勝手に枯れ果てたと思い込んでいた。

 たとえば雪。
 幼稚園の時、雪から雪だるまをかばい、かじかんで赤くなった手を、温まるまでずっと握りしめていてくれたこと。

 泣くことに疲れた体は、肺が裏返るほど何度も咳をした。

 たとえば曇り。
 偏頭痛でつのるイライラを押し込んで、私のしょうもないわがままに最後まで付き合ってくれたこと。
 いきなり降り出した雨にも怯まず、静かに喫茶店に誘ってくれたこと。

 凪人がいて、そばにいるだけで幸せだった。
 凪人がいて、触れているだけで幸せだった。
 凪人がいて、話しているだけで幸せだった。

「なぎ、とっ、……うっ、えっ」
 白状しよう。私は、ずっと彼の優しさに甘えて生きてきた。
 きっと、その溜りに溜ったツケがまわってきたのだ。

 私はまた、逃げるようにして、目を閉じた。

     *     *     *

 俺は、結局彼女の傍から離れられなかった。出て行くには出て行ったのだが、ベランダに座り込んでしまったのだ。
 朝が明けるまでそこにいて、眠っている兎衣を見ていた。せめて眠っているときだけは、安らかでいてほしかった。
 起きて、こうしてまた、現実を見せつけられるのだ。
窓越しから、あの時味わった死の苦痛を軽々と超える激情で、藤崎兎衣という少女が、徐々に壊れていく様を見下ろした。
 これがすべて、「自分」によって引き起こされた現実だ。偽物の俺が現れて、実は寝たふりでしたー、わーいドッキリ大成功! とか書かれた看板とカメラを持って来たら、どんなに救われるのだろう。
 窓ガラスに掌を押しつける。存在しない体温では窓は曇らないし、そもそも俺の姿は誰にも見えていない。耳を澄ますと、雨音に滲むように兎衣の嗚咽が聞こえてくる。もう、あの満足そうな鼻歌は聞けないのだろうか。
 窓に押し付けた掌を、震えるほど握りしめた。情動を堪えることだけを意識した。
 清々とぶちまけることができれば、こんなにも狂いそうにはならないだろう。
 額を窓に叩きつける。押し付けたまま、俺は彼女に懺悔していた。雨脚が弱まって、すっかり止んでしまうまで、ずっとこうしていようと決めた。
 そして、もう一つ、謝るだけではあまりにも空虚過ぎたので、ついでに彼女への想いも、こうしてここで祈っていくことにした。
 こんなになるまで、俺のことを想っていてくれて。
 本当にありがとう。

――兎衣。

     *     *     *

 青年は、半透明の姿をしていた。
手を窓につけ、額をくっつけている。瞼は閉じられたままで、静謐さを溶かし込んだその表情は、一体何を思っているのだろうか。
 分厚い雲は光の柱によって切り裂かれて、四散していく。
 陽は、雨に濡れた街を照らし、少女に懺悔をささげる青年を照らしだす。その光は、導くようでいて、青年は僅かに躊躇うそぶりを見せたが、それらを振り切るように自ら窓辺に背を向けた。透明な体は細かい水の粒へと変換されていく。
 青年の体は薄くなり、雲のように、とある病院の病室に流れていく。
 窓ガラスを素通りして、隔離された個室で目を閉じていた青年の体に浸透していく。
 霧状になっていた心が青年の体に充填されると、ゆっくりと彼の体温は上がっていく。瞼は小刻みに揺れ、時間をかけて覚醒の波が全身を揺り起していった。

     *     *     *

 少女は泣き疲れたのか、寝息を立てていた。
 彼女の寝顔は石膏面のように動かず、呼吸の上下する背を見なければ、心配になるようなほどこんこんと眠っていた。
 雲の切れ間から、幾本もの光の束が降り注いでいた。濁る水たまりは光を受けて乱反射し、隅に張られた蜘蛛の巣は、上に乗った雫をダイヤモンドに見立てて煌めいている。
 眠る少女の瞼から、雨の残滓が一粒落ちる。
 青年は、われとも知らず、それに手を差し伸べる。
 青年の指先にすくわれた雨粒は、後から後からあふれ出した、少女の暖かい涙になった。

     *     *     *

 雨の降り続けた梅雨は終わり、季節は夏に移行していく。
 湿度による蒸し暑さは、気温による照りつける暑さに変わり、地面に染み込んだ雨を散らす。水分は全て気化して、アスファルトはその黒さを取り戻していく。もう少し経てば、やがて蝉の鳴き声も聞こえてくるのだろう。
 とある総合病院の前で、少女は青年の退院を彼の家族と祝福している。
 整然と居並ぶ住宅街の中、去っていく人影が見える。
 彼らの会話は、周囲の喧騒にかき消されてしまい、うまく聞き取ることはできない。ただ、互いが握る掌の温度を感じているようにも見えた。
 そんな些細な出来事でさえも嬉しいというように。
 青年は少女を支え、少女は青年を支えるようにして。二人は歩いていく。少女は早く帰りたいようで、青年の手を引いている。青年は笑いながら少女に歩幅を合わせる。
 やがて、道の向こうへと小さく消えていく。
 
 確かにその場に残されたものは、お互いを強く抱きしめようとする指先だけだった。

後書き

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作者 灰縞 凪
投稿日:2015/11/14 21:03:22
更新日:2017/07/31 20:25:49
『Rainy Youth』の著作権は、すべて作者 灰縞 凪様に属します。
HP『灰縞 凪 

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