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作品ID:562

こちらの作品は、「激辛批評希望」で、ジャンルは「ライトノベル」です。

文字数約138840文字 読了時間約70分 原稿用紙約174枚


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遠藤 敬之 ■ふしじろ もひと 


こちらの作品には、暴力的・グロテスクおよび性的な表現・内容が含まれています。18歳未満の方、また苦手な方はお戻り下さい。

小説の属性:ライトノベル / S・F / 激辛批評希望 / 中級者 / R-15&18 /

夜天を引き裂く

作品紹介

 思慮深き狂犬。
 積極的虚無主義の怪物。
 ツァラトゥストラ。
 暴力の功と罪。
 咆哮する宇宙。



 いじめを苦に自殺、などというフレーズが、たまさかネット上を飛び交うことがある。
 馬鹿ではないのかと思う。
 ただの無駄死にである。
 遺書に恨みつらみなど書いたところで、どうせ犯人たちの名はメディアには載らないのだ。どの道死ぬならすっきりしてから死のうと、なぜ思わないのか。
《あはは、うける~》
 水音が聞こえる。
 苦しげなうめき声が混じる。
 久我(くが)絶無(ぜつむ)は、無表情のまま小用を済ませ、手を洗っていた。
 ……私立孤蘭学院における防音対策は、本来ならば万全のはずである。
 壁一枚を隔てた女子トイレで何が起ころうが、ここまで聞こえてくるはずがない。
 はずがないのだが、何故か断片的に聞こえてくる。
《……ひっ……ひっ……》
 か細い嗚咽。
 絶無は流れる水から手を引っ込め、温風装置に手を伸ばす。
《あっれ~? どうして黒澱さんは泣いているの~?》
《ほら、早く舐めろよどんくさいな!》
 水滴が完全に散ったのを確認すると、絶無は鏡を見ながら眼鏡の手入れを始めた。
 目つきの鋭利な少年が、こちらを睨んでいる。表情筋がよく引き締まり、今まで一度も緩めたことなどないような面持ちだ。造形そのものは柔らかい丸みを帯びており、十七という年を考えればずいぶん幼く見える。
 もう少し硬質な印象が欲しかったところだが、まぁ先天的な特徴に文句をつけても仕方あるまい。
《黒澱さんってさぁ、ずるいよね。泣けばいいと思ってるんだもん》
《約束やぶったオメーが悪いんだろ!?》
《きゃは♪ 汚いんですけどマジー》
 繊細な手つきで眼鏡を拭きながら、思う。
 ――お前が自殺をすれば、いじめの犯人たちは今までの行状を後悔するかもしれない。
 そして反省するかもしれない。
 犯人たちは、痛みを乗り越えて、お前と言う存在を少しずつ忘却の淵に押しやりながら、やがて人間的に成長し、「人並みの幸せ」とやらを掴むことだろう。
 自らの子供を撫でながら、「自分がされて嫌なことはしちゃダメだよ?」などと訓戒を垂れるようになるのかもしれない。
「……よし」
 絶無は身だしなみを終えると、眼鏡を鼻に乗せた。中指で軽く押し上げると、鏡の中の少年は光の反射によって目元を隠された。
 男子トイレから外に出る。何の迷いもなく女子トイレへと歩みを進めた。
 見慣れた男子トイレと鏡合わせの構造だが、小便器は存在せず、すべて個室だ。
 そこに、数名の少女がたむろしていた。
 絶無はずんずんとそこに近づいてゆく。
 見れば、絶無と同じ二年A組のクラスメートである。
「はぁ? ちょっと何あんた……」
 最初にこちらに気付いたのは……確か氷室燐という名だったか。
 まぁどうでもいい。
 ひゅっ、と鋭い呼気とともに、絶無は大きく踏み込んだ。人差し指の第二関節が突き出された拳を、すくい上げるような軌道で、腹にめり込ませた。
「ぐぅ……っ!?」
 横隔膜経由で胃袋に衝撃が伝わり、氷室燐はうずくまって痙攣、嘔吐した。
 ――反吐を吐かせるのは有効だ。
 当人にとって苦痛と屈辱が非常に大きく、かつ目立つ場所に打撲痕が残らない。
 直線的に胃を狙ったのでは、肋骨と乳房に阻まれて大した効果が見込めない。生きて動いている相手をすばやく的確に嘔吐させるのはなかなかに難度が高く、習得に二週間ほどかかってしまったものだ。
「苦しいか? 大丈夫か?」
 絶無は手刀を形作り、断頭台のごとく振り下ろした。それをうなじに受けた氷室燐は、自らの吐瀉物に顔を突っ込ませるように倒れ、意識を失った。
「久我……!? なんなんだよテメー!」
「え……? あ……?」
 残る三人――菱村奈央、水無月千佳、冴島玲子は一斉にこちらを向いた。
 皆、目を白黒させている。
 ――話にならない愚かしさだ。
 今の行動を見れば、絶無が自分たちの敵であることなど自明の理であるはず。
 にもかかわらず実際的な行動を何も起こさない判断の遅さ。なんだろうな。白痴?
「こんにちは白痴。そしてさようなら」
 微笑みとともに前蹴り。
 水無月千佳の鳩尾につま先がめり込み、盛大に胃の内容物が散布された。
 ――汚らわしい。
 不浄の液体がかかる前に脚を引っ込めると、うずくまる水無月の後頭部に軽く踵を落とし、意識を吹き飛ばした。
「ひっ……!」
 菱村奈央は強張った顔で自らの鳩尾をかばった。
 それを見て、絶無は拳を握り締める。
「それは顔面に行っても良いという意思表示だな?」
「ち、ちがっ……!」
 全身の筋肉を瞬発させ、一気に間合いを侵略する。拳を後方に引き絞る。
 菱村奈央は小さく悲鳴を上げ、防御を顔面に移した。
 ――カスが。
 絶無は心中で嘲る。
 ――僕がそんな目立つ位置に打撲痕を残すわけがないことぐらい気付け、無能。
 再び人差し指を立てた拳を腹に撃ち込み、嘔吐を誘発。
 すばやく旋回して背後に回り込み、首筋を手刀で斬りおとす。
 かくして瞬く間に三人を無力化。時間にして十秒弱。
 ひどい茶番だ。ここまで危機管理の出来ていない連中とは。何がしかの護身術を習得していれば、こうも簡単に征圧されることなどなかったはずだ。
 ダッ、と慌しい足音。
 最後に残った冴島玲子が、この場からの逃走を図ったようだ。
 視線もやらずに、絶無は腕を伸ばして彼女の茶髪を掴んだ。
「っ……誰かッ! 助……ッッ!?」
 本校の防音対策は完璧であるが、さっきの例もある。ここは慎重を期して、大きな声は出させないようにしよう。
 髪を思い切り引っ張ってこちらに引き寄せると、伸ばした四指を冴島玲子の口に突っ込んだ。即座に指を直角に曲げ、閉じられないようにする。
「ごっ」
「ほら、歩けよ」
 そのまま下顎を鷲づかみにし、そばの個室に彼女を引っ立ててゆく。
 ――氷室燐、菱村奈央、水無月千佳、冴島玲子。
 この四人は、絶無のクラスでのスクールカーストにおいて頂点に位置するグループである。四人とも天性の美貌とやらを持ち、垢抜けたファッションセンスと立ち振る舞いで男子の憧れの的らしい。
 馬鹿ではないのかと思う。
 この程度のクズをありがたがっている連中の脳みそもたががしれるが――まぁしょうがないのかもしれない。
 ――僕とこの学校の蒙昧どもでは、人間としての完成度が違いすぎるのだ。価値基準が噛み合わないのも当然である。
 とにかく女子トップグループ(笑える単語だ)の四人のなかでも、冴島玲子はかなり強力な主導権を発揮しており、平たく言えば支配者階級なのである。
 当然、いじめの主犯もこいつであると見て間違いない。
 念入りな制裁が必要である。
 薄っすらと笑みを浮かべながら、個室に入ろうとして――絶無は障害物を発見した。
 全身ずぶぬれの女子生徒が一人、そこにいた。一直線に切り揃えられた黒髪が垂れ下がり、目元を隠している。
 黒澱(くろおり)瑠音(るーね)。いじめを受けていたのはこいつのようだ。いつもクラスの端で読書をしている根暗である。極端な無口と鈍くさい立ち振る舞いが特徴的な女。そのうちいじめられるだろうなとは思っていたが、案の定だ。
 ――まぁそれはいい。僕は無害なクズには寛容なのだ。
 しかしこいつのせいで自分の行動が阻害されている点に関しては怒りを表明しておこう。
「……どけよ、ノロマ」
 低く、恫喝する。
「ぅぁ……っ」
 黒澱瑠音は飛び上がると、怯えた鼠のように個室から逃げ出していった。
 これで心置きなく制裁ができるというものである。

 その後、時間をかけて念入りに冴島玲子の精神を痛めつけた。
 具体的には、便器の中にゲロを吐かせ、そこに顔を突っ込ませた。汚らわしい飛沫がいくらか自分の体にかかってしまったが、まぁ今回は我慢しよう。
 何度かそれを繰り返すとさすがに内容物が残っていないのか、胃液しか吐いてくれなくなったので、しょうがなく切り上げた。
 スマホのカメラで反吐まみれの無様な姿を念入りに撮影したのち、今後自分の命令に服従することを誓わせた。
 しかし、こんな無能など配下に加えた所で何の役にも立ちそうにない。
 ――放置確定だな。
 あと記憶領域がもったいないので画像は即消去だ。

 ●

 晴れがましい気持ちで女子トイレから出ると、黒澱瑠音が廊下にいた。
 相変わらず全身ずぶ濡れで、渦巻く黒髪の先端から雫が滴っていた。
「……っ」
 こちらの姿を確認すると、小動物のように飛び上がり、まごまごしている。
 どうでもいいので無視して通り過ぎた。
 確か、体育系クラブハウスにシャワールームがあったはずだ。

 ●

 不浄の液体を丹念に洗い流すと、制服を着、眼鏡をかけ、外に出た。ブレザーにはいまだ冴島玲子の吐瀉物が付着しており、実に汚らわしい。
 さっさと家でしかるべき処置を行わねばなるまい。
 と――何か、視線を感じた。
 振り返ると、黒澱瑠音がそこにいた。こいつもシャワーを浴びてきたようだ。
「……っ、……っ」
 口をぱくぱくさせて、何かを言おうとしているのだが、声にはならない。
 絶無は無視して通り過ぎた。

 ●

 帰路。柔らかな夕日が、街を洗っている。
 左手に広がる市民公園も、黄金に燃えているようだ。
 絶無は、この色が好きだった。瑞々しい翠色が、暖色系に照らされて、何とも玄妙な色彩を結実させている。
 美しいものは素晴らしい。美しいものは守らねばならない。
 ――それはともかく。
 黒澱瑠音が電信柱から半身だけ出してこっちを見ていた。
 無視して通り過ぎた。

 ●

 舌、とは、高度に完成された感覚器官である。
 熱を感じ、触覚を備え、触れた物体の組成までおぼろげながら読み取ることができる。
 人体の中でも最もフレキシブルに動く場所であり、対象と密着し、その詳細を余すところなく脳に伝えてくれる。
 小さな子供が何でも口に入れてしまうのは、眼で見て、手で触れる以上の情報をもたらしてくれるのが舌だけであることを本能的に知っているからだ。
 絶無は小皿に注がれた味噌汁を口に含みながら、そんなことを考えていた。
 上品な甘みと塩み、なめらかなコク、かすかに香るかつおだしの風味。
「……素晴らしい」
 たまに自分の優秀さが恐ろしくなる。
 これほど完璧な味噌汁を作れる人間が、果たして世界に何人いることであろうか。
「絶くん絶くんっ」
 誰かが後ろから絶無の腰に飛びついてくる感触。
 小皿の味噌汁が揺れる。
「聞いて聞いてっ! さっきね、身長測ったらね、昨日より二ミリも伸びてたよっ。おねーちゃんここにきて成長期かなっ?」
「どう考えても誤差だね」
 溜息まじりに応える。
「も~、そんなことないよっ! なんか勇気が出てきたから、おねーちゃん毎日プロテイン飲むことにするよっ! モデル体型だよっ!」
 一体どこを目指しているんだ。
「どうでもいいけど料理ができないよ、姉さん」
 腰をゆすってみるが、離れない。
「やーだよっ。まったくもー今日はおねーちゃんの当番なんだよっ? なんで勝手に作り始めちゃうかなっ?」 
「いいじゃないか。今日と言う喜ばしい日の締めくくりに納得のいくものを食したいんだよ。姉さんの料理は当たり外れが激しすぎる」
「ところで絶くんは相変わらず背骨美人さんだねっ。こう、このカーブが、すりすり~」
「話聞いてる?」
 背中に手をまわしてべりべりと引きはがす。
「も~っ! おねーちゃんに好きな時に背骨すりすりさせない子は将来いい大人になれないんだよっ」
 振り返ると地団太を踏む少女の姿があった。栗色のポニーテールが揺れている。
 久我加奈子。
 立ち振る舞いに落ち着きがないのでそうは見えないが、三つ上の姉である。隣町の音大に通う作曲家志望。昔からやたら年上風を吹かして世話を焼きたがるのだが、平均身長を明らかに下回る背格好のせいでまったく格好がついていない。どう見ても小学生である。
 あと相手を問わず抱きつき癖がひどい。隙あらば飛びつこうとする。オナモミの実のごとき女だ。これがもうすぐ成人を迎える人間とは信じたくない。
「……って、喜ばしい日? なんかいいことあったのかなっ?」
「あぁ、この世からまたひとつ汚物が消滅した歴史的一日だったよ」
「んん~?」
 首をかしげている加奈子を尻目に、絶無は煮魚用のだし汁を合わせている。
 と、手が止まる。
「……ちょっと待ってくれ」
 眉をひそめる。
「んゆ? どしたのっ?」
「醤油が切れている。一体どういうことなんだ姉さん。許されざる背信だ。釈明を聞こうか」
「あ~、ゴメンゴメン、買うの忘れてたよっ」
 たはーっ、と頭をかきながら照れ笑い。
「しょ~がないなぁ~、おねーちゃんが買ってきてあげるよっ!」
 世話を焼くのがうれしくてしょうがない風情。親戚の幼児と遊んでいる小学生でももう少し感情は抑えると思う。
「やれやれ、僕が行くよ。もう暗いし」
「えぇ~っ」
「その間ごはんを炊いておいて。水は少なめにね。べちゃべちゃとだらしのない飯が出てきたら、もうひどいからね」
「ひどいこと? たとえば?」
「寝ている間に姉さんの眉毛を剃り落とす」
「普通にひどいっ!」
 玄関を開けると、日はすっかり暮れていた。
「あ、そーだっ。優しい優しい絶くんは帰りにケーキを買ってきてくれるっておねーちゃん信じてるからねっ!」
「やれやれ、またチーズケーキかい?」
「んーんっ。モンブランがいいなっ」
 タルト生地のやつにしろだのマロングラッセ乗ってないと駄目だの小うるさい注文を振り切って外に出た。
 ふと、電信柱の影から視線を感じた。
 無視して歩き出した。

 調味料専門店から純正生醤油(こいくち)を無事入手し、チェーン展開しているケーキ屋で適当にモンブランを見繕うと、自宅への近道となる市民公園を通りがかる。
 その瞬間。
 ――絶無は悪趣味な冗談に遭遇した。

 ●

 これほど醜い生き物を、見たことがなかった。
 眉をひそめ、前方の闇にわだかまる[何か]を眺める。
 ――これは一体、何の悪意だ?
 酸性の臭気を放つ肉塊。
 おおまかな姿形は人間のものだ。私立孤蘭学院の男子制服を身につけている。
 しかし――その頭部は異常に膨れ上がっていた。
 肩幅よりも巨大な頭。
 薄っすらとピンク色の、それは脳だった。
 頭蓋骨を内側から押し破り、異形と化すまでに膨張した、思考のための器官。無数の皺を粘液が伝い、地面に糸を引いている。
 くちゅり、くちゅりと粘着質の音を立てながら、それ自体が一つの生き物のようにみじろぎしている。あたかも巨大なミミズが球状に固まって蠢いているようだ。公園の外灯に照らし出され、周囲の闇から浮かび上がっている。
「……あー」
 ここで成すべきは、目の前の奇妙な生物が果たして危険な存在であるか否かを見極めることである。恐慌に駆られ、夢であることを疑ったり、自らの正気を疑ったりするのは、惰弱な精神の現実逃避に過ぎない。まったき無駄である。そんなものに現を抜かして何ら意味のある行動を取らないような輩はクズでありゴミでありカスであり、生きる価値のない人間未満である。
 と、絶無は思う。
 とはいえ――
 実際問題、見極める必要などなかった。
 なぜならその足元には、五体を寸断された人体の残骸が転がっていたからだ。スーツの切れ端が纏わりついていることから、仕事帰りのサラリーマンだろうか。肉片と臓物の野放図な散乱。日の下で見れば、さぞや醜悪な色彩に満たされているのであろう。
 ……人間の惨殺死体というものを始めてみたが、存外に味気のない光景であった。
 誰がこの惨状を作り出したのかは明白である。この脳を露出させた醜怪な生物は、人体をたやすく引き裂くだけの力と、その意志があるのだ。
 絶無は肉塊をひとしきり眺め、溜息を付き、手にしていた買い物袋とケーキの箱を地面に置いた。
 ――あぁ、面倒だな。
 ぼんやりと、そう思う。こいつの正体がなんであるかはひとまず置いておくとして、自分の前で人を殺したのはマズかった。それだけはやめて欲しかった。
 ――殺さにゃならんではないか。
 別段、奴の足元に転がっているサラリーマンと知り合いだったわけでもないし、その不条理な死に怒りを感じたわけでもない。
 感情ではなく、主義の問題として、絶無は人殺しを見かけたらその場で殺すことにしている。
 この怪物は何なのか。なぜこんな凶行を働いたのか。一切考慮しない。人殺しの存在を決して許容しない。[そのための人殺しは許容するし、そのことに何の矛盾も感じない]。
 衣服の左袖口に、右手の指先を沿わせながら、ゆっくりと歩みを進める。
「――覚悟には、二種類ある」
 宣戦布告の意を込めて、声を掛ける。
 怪物は胡乱な動きでこちらに向き直った。どうやら知覚能力はさほどのものでもないようだ。構わず言葉を続ける。
「ひとつは、『クズの覚悟』だ」
 頭部が重過ぎるのか、肉塊は不安定な足取りでこちらに歩み寄ってくる。
 にちゃり、にちゃり、と足音が近づく。生物としての整合性に欠けた、無様な動きだ。
 思わず、眉を歪める。どれだけプライドのない生き方をしていればこんな姿になるのだろう。
「予想される不幸を受け入れる心。避けられない困難に対して戦いを放棄し、こんなもんさと肩をすくめる行い」
 唾棄する。
「――馬鹿ではないのかと思う。格好つけて自らの無能から目を逸らしているだけだ。まさにクズとしか言いようがない卑劣卑小の生き方だ」
 醜い。姿形はもちろん、その行いも極めつけに醜い。
 足元の惨殺死体を見れば一目でわかる。
 パーツがすべて揃っているのだ。
 つまり、捕食をするために殺したのではない。ただ無残な死を演出するためだけにこれを成したのだ。
 C級以下のホラー映画でも見ているような気分だった。
「お前はどっちだ? 僕はもう決めているが」
 瞬間――
 絶無は地面を蹴る。肉塊に向け、猛然と突進する。
 ――ぎゅぐろぉぉぉぉ!
 応えるように、液体が泡立つような咆哮を上げて、巨大な脳が襲い掛かってきた。
 巨大なピンク色の後ろから、まるで花が開くように、六本の腕が振りかざされた。
 あたかも昆虫の足のように、二つの関節と外骨格を備えた、硬質の腕だ。先端はノコギリのような刃になっている。
 即時、跳躍。
 直前まで絶無の足があった場所を、黒い何かが薙ぎ払った。
 七本目の腕。恐らくは。
 目視すら不可能な超高速の斬撃。空中で曲げられた両足を、風圧がなぶっていった。
 ……獲物の目を自らの頭部に引き付けておき、その隙に足首を切断。逃げ足を奪う。
 恐らくはそういう魂胆だったのだろう。
「ほらっ」
 絶無は空中で制服の袖口から武器を抜き放つと、脳天の中心に叩き込んだ。
 即座にスイッチを最大電圧まで押し込む。
 ――ぎゅぐぎぎぎぎぎげぇ!
 七本の節足が、痙攣しながら出鱈目に振り回される。しかし絶無は、敵の身体構造を十全に見切っていた。
 後頭部から生え、体を回り込んで襲い掛かる七本の脚。
 つまり、密着すれば当たらない。
 少なくとも、絶無が次の行動を起こすまでの間は。
 両足で相手の首に絡みつき、露出した脳に拳を叩き込む。
 ぐじゅっ!
 柔らかいものが潰れる感触とともに、灰色の汁が吹き上がる。汚らわしいが我慢。
 もう一発。
 ぐじゅっ!
 もともと頭部に重心が偏っていた上に、絶無に飛びつかれて殴られれば、当然の理としてバランスを崩す。
 追撃を加えることなく、絶無は素早く身を離した。
 直後、ノコギリ状の節足が振り下ろされ、自身の体に突き刺さった。血液の代わりに黄色い液体が飛沫く。
 ――ぎゅぐるぅぅぅががげっ!
 絶無は再接近。悶絶する敵の脚に自らの脚を絡みつかせ、
「よいしょっ…と」
 てこの原理を利用して足首の関節を一気に外した。鈍い感触が伝わってくる。
 アンクルホールド。
 目的を果たした瞬間にはすでにその場を離脱。襲い掛かる節足はまたしてもこちらを捉えることはなかった。
 これで、奴はもはや満足に移動もできない。
「すなわち生ゴミの出来上がりというわけだ」
 後は節足の範囲外から煮るなり焼くなり、好きなように処理すればよい。
 どうするか。
 ――やはり焼殺だな。
 ガソリンでもかけて丸焼きにしてやろう。絶無は自らの考えにしみじみとうなずく。
 ――火は良い。良いものだ。
 どんな醜い生ゴミ野郎でも、乾いた灰に変えてくれる。何より赫々と揺らめくその姿は美しい。浄化の象徴としてもてはやされたのもわかろうものだ。
 確か、近くのホームセンターで灯油を取り扱っていたはずだ。想定外の出費になるが、醜いものをこの世から抹殺するためならば惜しくはない。
 踵を返し、歩みだす。
 と――その瞬間。
 突如として全身を衝撃が貫いた。
「――!?」
 それが凄まじい破裂音であることを一瞬で悟った絶無は、反射的に伏せる。
「ち……っ!」
 両の耳から血が噴き出す。水中に没したかのように世界から音が遠ざかり、耳鳴りだけが荒れ狂っている。
 鼓膜が、破壊されたのだ。
 直後に木屑が降りかかってきた。
 上を見ると、イチョウの樹にサッカーボール大の穴が穿たれている。
 丁度、絶無の頭があった位置だ。
 ――改めなければならない。
 絶無は歯を軋らせながら素早く身を起こした。
 脳の怪物が、こちらに頭を向けていた。
 そう――認識を改めなければならない。
 今まで絶無は、敵の身体特徴から解剖学的見地によって弱点・死角を割り出し、一方的に処刑を展開していた。
 だが、それだけでは駄目なのだ。
 この生き物は、そういう常識で測ってはならない存在なのだ。
 今の攻撃の正体が何であれ、何かを飛ばして敵を殺傷するものであることは間違いない。
 だが、奴の体に何かを射出できそうな器官は見当たらない。巨大すぎる脳と、七本の節足だけだ。そもそも、これほどの威力を叩き出す遠距離攻撃手段が、生物の肉体に生得的能力として備わっているとは考えづらい。だからこそ絶無はこの能力の存在を予期できなかった。
 すなわち、イチョウの樹に大穴を開けたアレは、既存の物理学に収まりきらない現象である可能性が高い。
 ――超常的存在!
 よもやそんなものが実在しようとは。
 この事実を受け入れるのに、絶無は一秒も要さなかった。
 だが、逆に言えば一瞬だけとはいえ動きが止まったということだ。
 ……避けきれなかった。
 巨大脳の前面、三十センチほど離れた空間が、窄まるように収束してゆく。あたかもガラス製の漏斗がそこに浮いているかのように、怪生物の姿が歪んで見える。
 直後、撃発。
 闇をつんざく破裂音が遠く響き渡る。
 都合、三発。
 一発目は耳を千切り飛ばし、二発目は肩の肉をえぐり――
 その時点で絶無は大きく横に跳躍。同時に三発目が来る。
 直撃は――回避した。
 直撃だけは。
「ごふっ」
 最初は、ぼわっとした灼熱感があった。
 脇腹の肉がごっそりと食い破られ、しめ縄のような大腸がまろび出ている。腹の底から溢れだす血が喉を灼き、口の端からこぼれおちる。
 絶無はそれらの情報を一時的に脳内から追い出し、太い樹木の影に転がり込んだ。
 根元に背を預け、うずくまる。
「む……う」
 腹圧で外に出ようとする自らの臓物を抑えつける。
 満身創痍の体で、次々とこみ上げてくる激痛を受け止めた。
 血が抜けてゆく、おぞましい寒さ。怒り。苦痛。そして高揚感。沸き立つ血が肉を燃やし、無限とも思える活力が汲み出される。
 この瞬間、[主義に感情がともなった]。
 ――あの生ゴミが、憎い。
 激しく眩く、醜いものへの憎悪が胸中に燃えている。
 苛烈に荒ぶる、自らの美意識。誰のためでもない、そのために動く。そのために生きる。
 絶無は木陰から飛び出した。仇のように地面を踏みしめ、風を巻き起こす速度で疾駆する。
 勝算は、ある。
 あの空気弾とでもいうべき能力は確かに強力だが、ひとつ腑に落ちない点がある。
 ――なぜ最初から使わなかったのか?
 絶無の存在に気付いた時点で不意打ちのように使っていれば、造作もなく射殺できたはずだ。
 敵の戦力を推察する。
 ――恐らく、撃つたびに何がしかのリソースを激しく消耗するのだ。
 一発撃つのにすら本能的に躊躇いを覚え、なるべく自らの肉体で獲物を殺傷しようと考えるほどの、巨大なリスク。
 弾数制限があるだけで、連射自体はできるのか。
 ある程度のインターバルを置けば無限に撃ち続けられるのか。
 そこまでは判断がつかないが、奴にとって空気弾は切り札のようなものであり、気軽に使えるものではないことだけは確実だ。
 付け入る隙は、ある。
 ――速攻だ!
 時間とともに血と体力は失われてゆく。動けなくなる前に勝負を決める。俊敏なフットワークを持って、狙いを撹乱し――
 破裂音。
 回避――可能!
 頬の肉が張り裂けて、歯茎が露出するも、疾走はやめず。
 四肢が無事ならば問題ない!
 そして目に入る、生存権を無残に踏みにじられた惨殺死体。絶無は懐に手を突っ込むと、小さなプラスチックの塊を握りしめ、被害者に向けて投げつけた。
 ――よし!
 残った頬に鬼相を宿し、絶無は一気に間合いを詰める。すでに脇腹を押える手も離し、スタンガンを拾い上げている。
 久我絶無は感じていた。
 ただの人間であればおいそれとは感じることのできぬ、至高の感覚を。
 すなわち、生きることのテーマを。生まれおちた意味を。
 体に力が満ちている。心に風が吹いている。
 ――『王の覚悟』よ。
 父より伝えられた、人生の指標。
 自らの肉体を含む、あらゆる事物を「手段」と捉える生き方。
 犠牲を恐れず、目的を貫く。そして欲するものを必ず手にする。
 ――勝利のため、美しく生きるため、お前を殺すため!
 彼我の交戦距離はすでに重なっている。次の瞬間、結果が定まる。
 絶無は、吠えた。運命のように烈哮した。
「くれてやる! 僕のすべて!」

 瞬間、青銀の閃光が走った。

 ――違う!
 絶無は眉をひそめた。
 黄色い体液が大量に吹き上がった。赤子の断末魔のような悲鳴を上げて、脳怪物はたたらを踏む。
 ――僕ではない。
 見ると、大きすぎる脳みそが斜めに寸断され、後背から伸びる節足も何本か千切れ飛んでいる。
 今の一瞬でここまで巨大な欠損を生じさせるような手段など、絶無は持っていない
 再び、閃光。何かが視認も不可能な速度で走り抜け、脳人を幾度も引き裂いてゆく。
 黄色い血飛沫と、醜怪な絶叫。でたらめな方向によろけ、欠損が増えてゆく。
 襲い来るものの数は、どうやら二つのようだ。怪物の周囲を飛び回りながら、凄惨なヒット&アウェイ。
 絶無は素早く周囲に目をやり――
 ――直後、目の前に銀色の巨影が落下してきた。
 衝撃で地面がめくれ上がる。あおりをうけて、絶無は後ろに倒れた。
 それは、曲線的なフォルムの部品が有機的に噛み合い、ひとまとまりの影を形作っていた。
 鈍い銀色の金属で構成された、巨体。
 [それ]は、むくりと顔を起こした。両腕を左右に伸ばし、それぞれの方向から飛来してきた銀青色の閃光をキャッチする。
 瞬間、[それ]が片膝をついた人型であることに、絶無はようやく気付いた。
 しかるのちに[それ]は悠然と立ち上がる。決して素早くはないが、その気になれば途轍もない速度で動くことを予感させる、なめらかな所作。
 ――神話の英雄が、姿を現していた。
 雄々しくもしなやかなフォルムの、男性を模した姿だった。砂時計のようにくびれ、盛り上がった上腕。逆三角形を成す胴体。引き締まった輪郭。
 そして、質実剛健とした要塞を思わせる、広大な肩幅。丘のように盛り上がった僧房筋。そこに半ば埋まるように、小さく見える頭部がちょこんと乗っかっていた。濃紺のフードに覆われ、顔の造形はわからない。巌のような上半身に比べると、下半身はすらりとした印象だ。
 すべては鈍い光沢を放つ金属に覆われている。――と言うよりも、鍛え抜かれた筋肉そのものが金属化しているような印象があった。前腕、両肩、すねなどはひときわ分厚い装甲に覆われ、鋭く力強いシルエットを形作っている。高度にセグメント化された装甲の継ぎ目に添うように、異形の文字列が刻み込まれていた。恐らくヘブライ語だが、いくつか見慣れぬ紋様もある。
 重騎士。そんな言葉が似合う佇まいであった。
『……また堕骸装(アンゲロス)か』
 深く鋭いエコーのかかった声が、失われた鼓膜の奥で、遠く響いた。
 あんげろす、というのが、目の前の脳怪物を指す言葉であろうことはわかる。しかし、
 ――「また」……? 他にもいるのか?
 怪訝の念を強くする絶無の前で、重騎士は銀青色の金属片を握り締めたまま、両腕を交差させた。肘から手の甲にかけて、重厚なガントレットに鎧われている。禍々しい鉤爪が生えた指先もあわせて見ると、アンバランスなまでに大きな手だった。掌の中に人間の頭部をたやすく握り込めてしまうだろう。
 そのまま、金属片を両肩の突起に引っ掛けた。刃が途中で折れ曲がり、重騎士の肩装甲の一部と化す。
 それを合図にしたわけでもないだろうが、脳の化け物はぐちゃりと地面に崩れ落ちた。
 絶無は、自らの体の冷たさを自覚する。血を流しすぎたようだ。
 舌打ち。乱入者の重厚な姿に目を奪われているうちに、ずいぶん消耗が進んでしまった。
 度し難い失敗だ。
 不意に、重騎士がこちらを振り返る。濃紺のフードが作る影により、顔はまったく見えない。ただ黄金の魔眼だけが鋭く灯っていた。
 その眼が一瞬細められた。絶無をじっと見ている。
 やがて、沈鬱そうに首を振った。
『とどめがほしいか?』
 一瞬、自分に向けて話しかけてきたことに気付かなかった。
 だが、絶無はすぐに重騎士を睨みつける。
「それは、僕に対する、侮辱だ。そういう『クズの覚悟』は、しない主義、なんだよ……」
『……失言だった。忘れろ』
 ただそれだけのやりとりだったが、絶無はこの男に少し好感を抱いた。
 瞬間、豪壮な甲冑の後背で火花が散った。
 重騎士がおもむろに振り返ると――四本の節足を突き出し、健気にも反撃を試みた生ゴミの姿があった。
 舌打ちひとつ。ぎりりと音をたてて、巨大すぎる拳を握り締めた。空間を握り潰さんばかりの力がそこにみなぎっている。
 鋼鉄の具足が地面を蹴り砕き、巨体を一瞬にしてトップスピードに加速。砲弾じみた一撃が、腹の底に響く音を伴って、炸裂した。耳障りな絶叫を後に曳きながら、冗談のように肉塊が吹っ飛んでゆく。
 それを追って茂みへと分け入る直前、重騎士は、絶無をちらりと一瞥した。
『久我……残念だ』
 直後、闇の中へと姿を消した。

 ●

 体が、重い。いくら呼吸をしても、体に酸素が廻っている気がしない。
 絶無は立ち上がろうとし、膝から崩れ落ちた。四肢に力が入らない。
 ――後悔は、ない。
 この一生を何度繰り返そうと、あの場面で「逃げに走る」という選択肢は絶対に選ばない。
 とはいえ少々難儀な状況には違いない。
 ――人通りのある場所まで這って進めれば……
 頭に血が行き渡らないせいか、そんな程度のことしか思いつけない。
 まぁいい、行動指針が決まったのならすぐ実行に移すまでだ。たとえそれがどれほど絶望的で儚い希望であろうと、「諦めて死を受け入れる」などという惰弱な思考停止はしない。
 と――破壊された鼓膜の奥で、耳小骨が物音を捉えた。
 同時に視界の端を、何者かの脚がかすめた。近い。すぐ目の前だ。
「だれ、だ……」
 そう問いかけるが、果たしてきちんと声になっていたかどうかはわからない。
 渾身の力を込めて、体を仰向けにする。
 その一瞬。
 ――絶無は、すべてを忘れた。
 全身の致命傷を忘れた。ここはどこなのかを忘れた。今はいつなのかを忘れた。どうして自分が倒れ伏しているのかを忘れた。自分が何者なのかを忘れた。
 すべての現実認識を、捨て去った。
 目を奪われていた。心を奪われていた。
 それは、悪魔の炎。
 骨肉を凍りつかせ、魂を甘く灼き喰らう。
 深い奥行きと、胸が締め付けられるほどの透明感を湛えた、燐緑色の炎。
 それが、二つほど、宙に浮いていた。
 ――眼、か……
 絶無は感嘆を漏らしながら、その正体を推察する。
 よくみれば、それは少女の顔だった。あまりに眼の色が印象的過ぎて、そこに顔があることを一瞬認識できなかったのだ。
「黒澱、瑠音……」
 少女の名を呼ぶ。
 妖しい艶を持つエメラルドの宝玉が、見開かれた。絶無のかたわらに膝をつき、じっと覗き込んでくる。
 青白い膝が、絶無の腕に触れた。
 瞬間。
《生きてる/きれい/生きてる/内臓が/こわい/きれい/どうしよう/どうしよう/内臓が》
 それは言葉というより、生のままの感情が直接流れ込んでくるような心地だった。
 胸をたゆたうそれらの情動を聞き流しながら、絶無は目を細めた。
 蛍火にも似た眼球だ。
 暗みゆく視界の中で、こちらを見下ろす彼女の佇まいだけが、ひどく鮮明に脳へと焼きつけられる。真冬の星空、艶めく花々、古い記憶を閉じ込めた鉱物、人の手による神韻縹渺たる芸術――さまざまな意味での美をその魂に刻んできた絶無だが、夜の森にひっそりとたたずむ彼女の怜姿は、今までに感じたいかなる事物よりも美しい光景だった。
 ――月だけがそれを照らす。

 ●

 ――幼少の頃から、周囲の人間がどいつもこいつも馬鹿にしか見えなかった。
 文武いずれの分野においても、絶無は自分に比肩する者に出会ったことがない。
 なぜ周りの人間はこんなにも無能ぞろいなのか、不可解の極みだった。
 とはいえ、最初からその思いを公言していたわけではない。
 高校に進学する前あたりまでは、物腰柔らかな人畜無害として通っていたのだ。
 常に微笑みを浮かべ、決して他人と衝突せず、困っている奴がいれば何でも手を貸してやり、場の中心から少しだけ外れた所で空気に同調しているだけの子供であった。
 内心では溜息ばかりついていたけれど。
 ――仕方のないことなのだ。
 異常なのは彼らではない。自分のほうなのだ、と。
 僕は彼らとは違う。僕は父の至尊なる血を受け継いだ、生まれながらの天才である。
 しかし、彼らはそうではない。もはやスタートラインからして違うのだ。
 生まれつき恵まれた者が、生まれつき恵まれなかった者にかけてやれる言葉など、なにひとつない。
 ――彼らは彼らなりに精一杯頑張っているのだ。それでいいじゃないか。
 そう思い、内心の侮蔑を押し隠しながら、外面ではニコニコしていたのだ。
 あぁ、今にして思えば、この時代は僕の汚点である。
 我ながら、なんて愚かな勘違いをしていたんだろう。
 今でも悔恨の念に歯軋りしそうになる。

 ●

 沈んでいた体が、水面へと引き上げられてゆくような心地がした。
「う……」
 ゆっくりと、瞼を開いた。
 毎日見慣れた天井が飛び込んでくる。しかしぼやけて詳細は見えない。
 ――助かった、のか?
 思考がまとまらない。
 すると、横合いから姉の加奈子が顔を出してきた。
「おーっ! 目を覚ましたーっ!」
 ――姉さん、声が頭に響くよ。
 と、言いたかったが、咄嗟には口が回らない。
 身を起こし、周囲を見渡す。古臭い木天井と漆喰の壁。天井まで届く巨大な本棚。
 どうということはない。絶無の自室である。
「ほいっ、これっ」
 加奈子が眼鏡を差し出してくる。
「……あぁ」
 応じて、眼鏡を鼻の上に乗せる。途端にクリアになる視界。
 ――さて。
 絶無は即座に、この状況の奇妙さを認識する。自分は確かに致命傷を負っていたはずだ。
 布団の中で、脇腹に手をやる。傷なし。大腸はきちんと腹の中に納まっているようだ。
 なぜ治っているのか。なぜ家にいるのか。
 現状を把握するために、加奈子に問いかける。
「……僕は、どのくらい寝ていた?」
「ん? 二時間くらいかなっ?」
「僕はどうやって家に帰ってきた?」
「えーっと、それはそのー……」
 加奈子は、すすす、と左方向に身を寄せ――そこにもう一人いた少女に抱きついた。
 黒澱瑠音だ。なぜかそこにいる。
「……っ」びくん、と身を震わせる黒澱瑠音。相変わらず前髪で表情が読めないが、どうやら慌てているようだ。
「るーちゃんのおかげだよ~」
 るー……ちゃん……
 うん、まぁ、うん。
 抱きついたまま頬ずりを始める加奈子。初対面だろうがお構いなしである。やられるほうは完全に硬直している。
「な~んか絶くんがケンカして気を失っているところを、るーちゃんが親切にも連れてきてくれたわけっ! 見た目によらず力持ちだねるーちゃんっ」
 ――そんな馬鹿な。
 絶無は決して小柄ではない。男子高校生としてはごく標準的な体格である。それをこんな、吹けば飛ぶような貧弱が運んできた……だと……?
「……どういうことだ?」
 本人に水を向けると――
「っ! ……っ……」
 口をぱくぱくさせながら挙動不審な動きを見せるだけで、一向に会話にならない。
 いつもそうだ。彼女と同じクラスになってから数ヶ月になるが、絶無は彼女の肉声を聞いたことがない。誰かに話しかけられてもこんな調子でまったく話にならない。孤立すべくして孤立したようなものだ。
 舌打ちをこらえ、身を起こす。
 ともかく、こいつが何か知っているのは間違いないようだ。恐らく一般人には聞かせづらい話になるだろう。
「姉さん、腹が減った。晩御飯の支度を頼む」
「おー、それならここに持ってきて進ぜようっ」
「普通でいいよ」
「ちぇー、介抱し甲斐のない奴っ!」
 ぶつぶつ言いながら部屋を出る姉から視線を外し、黒澱瑠音を睨みつける。
「……さて、喋ってもらうぞ。何故負傷がなくなっているのか。どうやって僕をここに運んできたのか」
「ぇぅ……っ」
 変な声で呻くと、黒澱瑠音はそばに置いてあった自分の鞄からノートをあたふたと取り出し、盾にするかのように広げて見せた。
『ごめんなさい。もうしません。』
「……」
 黒澱瑠音は普段から筆談の用意をしているらしい。
 突っ込んでもしょうがないので、そのまま会話を試みる。
「謝られてもわからない。僕の質問に答えろ」
 少女はいそいそとシャーペンを出し、ノートに何事か書き始めた。
『ごめんなさい。久我さんに寄生しちゃいました。ごめんなさい。』
 ……早い。このセンテンスを書くのに一秒もかかってない。
 そして凛冽な気品を感じる文字だった。止めや跳ねの運用や、全体のバランス、そして意図的な崩し等、優美な気位を保ちながら、見る者に必要以上の緊張を強いないよう考え抜かれた字体だ。
 しかし発言内容は意味不明だった。
「何を言っているのかわからない」
『ごめんなさい。最近思い出したんですけど、わたし人間じゃないみたいです。ごめんなさい。』
「いちいちごめんなさいを付けるのをやめろ。卑屈は死ね」
「……ひぅ……っ」
 か細い嗚咽。黒澱瑠音はよろめきながら後ろに手を突いた。
 こめかみがひくつく。男の涙は稀に美しい場合もあるが、女の涙は見苦しいだけだ。
 泣くな卑屈野郎、と罵りかけて、彼女の前髪がずれているのが目に入った。
 ――[それ]が、露わになった。
 澄んでいるような、濁っているような、深い色合いを湛えた、悪魔の炎。
 否応もなく視線を引き付ける、深緑の双眸。
 涙を一杯に溜めて、ぐらぐらと揺れながらこっちを見ている。
 こっちを、見ている。
 冷たく燃えるようなその視線が向けられていることを認識し、絶無はどこか敬虔な気持ちを胸に抱いた。苛立ちが、嘘のように消えてゆく。
「……まぁ、いい。急に問いただして悪かった。今は細かくは詮索すまい」
 目を閉じ、息を吐く。
「質問を二つに絞ろう。まず、僕が瀕死の重傷を負っていたのは事実なのか?」
 黒澱は、いそいそとノートにペンを走らせる。
『ぜんぶ、本当です。夢じゃないです。』
「では、君が僕の命を救ったのか?」
 彼女はややためらいながら、こくん、とちいさく頷いた。
 絶無は腕を組み、黙り込んだ。
「……?」
 不安げに揺れる魔性の燐炎。
 ひとつ頷き、絶無は立ちあがった。自分が寝ていた敷き布団を畳み始める。
「??」
 手早くひと抱えほどの布の塊にまとめ上げると、押し入れの中に放り込んだ。
 それから座布団を一枚引っ張り出して、黒澱の前に置いた。
 彼女をじっと見据えながら、ぽんぽん、と座布団を叩く。
「……ぅ……?」
 怪訝そうに眉を寄せ、やや迷いを見せたのち、黒澱瑠音はおずおずと座布団の上に白い膝を落とした。
 絶無は重々しく頷くと、彼女の正面、一メートル程度離れた畳の上に正座。
 二人は見つめ合う。
 よくよく観察してみれば、なかなか趣のある佇まいである。華美ではないが、青白磁を思わせる膚(はだ)が、病的なまでに鮮やかだ。目元が黒髪で隠れているのも、その奥に妖しくも柔らかな翠色が秘められていることを知れば、なにやら一層目を惹き付けられる趣向に思えてくる。
 他人の視線に慣れていないのか、うつむく黒澱瑠音。肩を縮こまらせ、所在なさげだ。小さく閉ざされた口が恥ずかしげに波打っている。
 喩えるならば、人の通わぬ岩洞の中、月光のみを浴びて咲いた待宵仙翁(メランドリウム)か。
 絶無は眼鏡を外した。
 ゆっくりと、頭を下げ始める。自然と両手が前にゆき、床に掌をつけた。
 古式ゆかしい座礼である。綺麗な三角形を形作る両手を間近に見ながら、絶無は厳かに口を開いた。
「このたびは命を救っていただきありがとうございます。心からの感謝をあなたに捧げます」
「~~~っ!?」
 ひどく混乱している気配。
「これまでの無礼な態度をお許しください。この久我絶無、人を見る眼には自信を抱いていましたが、あなたという人間の格を見抜けなかったことは一生の不覚と言えましょう」
 恩も恨みも十倍返し。今までそうやって生きてきたし、これからもそうするつもりである。だが、命の恩義に対してどう報いればいいのか。
 絶無はそれを考えていた。
 加えて、彼女は絶無の体をごく短期間で完璧に治療してみせた。それがどのような手段によるものなのかまるで見当もつかないが――少なくとも自分には一生努力を重ねたとて不可能と断言できる行いである。
 この一点でもって、絶無は黒澱瑠音に敬意を持って接することを決めた。「自分にはできないことができる人間」というものが、絶無の人生においては極めて少ない。ありとあらゆる勝負事で負けた経験がなく(じゃんけんを公平な乱数決定だと思っている無能と話すことなど何もない)、学業で満点以外を取ることも稀だ(教科書を丸暗記するというただそれだけのことができない周囲がおかしい)。
 だから――この出会いはちょっとした衝撃である。
 ――自分より優れた人間は、父だけだと思っていた。
 絶無は今、ときめくような気持ちで、目の前の少女を見ている。
 ――父さん、ついに出会えたかもしれません。
 自らと同格か、それ以上の人間。迷いなく敬意を捧げられる人間。
「これより、あなたに頂いたこの命を使い、あなたの剣となり盾となって、あなたの幸福のために尽力することをお許しください」
「……っ! ……っ!」
 そういえば、彼女に反応を期待するのはご法度であった。むしろ彼女に何か要求するなど不遜の極みである。彼女が喋りたくないことは一生喋らなくてよいのだ。
 絶無は顔を上げる。
 案の定、黒澱瑠音は顔を真っ赤にしてあたふたしていた。口を魚のように開閉(ぱくぱく)させながら、目の前の空気をかき回すように両手を動かしている。残念なことに、印象的な緑の眼は前髪に隠れて見えない。
 ――それでいい、と思う。
 いつも見えていたら、ありがたみがないというものだ。
 彼女はいそいそとノートに書き込み始める。
『おつちいてください』
「落ち着いています」
『きゅうにこまります』
「あなたを困らせるつもりは一切ありません。これは僕の勝手な決意表明です。あなたは何の義務も負っていません。ご不要なようでしたら、僕はいないものとして扱ってください」
『そんなことしません』
「素晴らしい。お仕えし甲斐があるというものです」
 絶無は口の端を吊り上げ、ふたたび座礼。
「これからよろしくお願いします、黒澱さん」
 すると、ガラリとふすまが開いた。
「おーっす絶くんっ! おねーちゃんは晩御飯の支度を完了しましたよっ! ……って、なに、この状況」
 上半身を床と平行に倒し、平伏する絶無。それをおろおろと見守る少女。
「しかるべき人にしかるべき敬意を払っているんだよ。ここは姉さんも黒澱さんに平伏しないと」
「えっ!?」
「さあ、早く」
「えー……」
 釈然としない表情で、加奈子も絶無と並んで礼。

 その後、「もう時間も遅いしさ、お泊りしようよるーちゃんっ」と子供のようにゴネる加奈子を引き剥がし、絶無は敬愛すべき黒澱嬢を家まで送っていった。
「それではまた明日。学校でお会いしましょう」
 余裕のない挙動でぺこぺこ頭を下げる黒澱さん。
 絶無は目を細めてその様を見ていた。少し、いたずら心が沸く。
 微笑みながら、手を差し出した。
 どんな反応をするのか、少し気になったのだ。もちろん、彼女が困ったような素振りを見せたらすぐに引っ込めるつもりだった。
 ところが。
 んく、と彼女が小さく喉を鳴らし、絶無の手を凝視しているのがわかった。滴る欲望の混じった視線だった。
 そろりと彼女の手が伸び、細かく震えながら絶無の握手に応えた。
 瞬間。
《指/ほっそり/指先/おなかすいた/きれい/指/おいしそう/指先/かわいい爪/おなかすいた/おなかすいた》
 感情が、流れ込んでくる。絶無にはあまり縁のない、粘着質な欲望。
 一瞬、くらっときた。
 これは、何だ?
 疑問に思った瞬間、彼女はぱっと手を離した。一歩二歩とあとじさり、石畳の段差につまづきそうになる。
「……ぁっ」
 ぺたりと尻餅をつく。その顔は、耳まで真っ赤になっていた。
 立ち上がると、もう一度頭を下げ、逃げるように家の中へと入っていった。
「ふむ……?」
 絶無は顎を掴み、首を傾げる。

 ●

 黒澱瑠音は後ろ手で玄関を閉めるや否や、へなへなとその場に崩れ落ちた。
 心臓が早鐘を打っている。今日は色々なことがありすぎだ。
「くが、ぜつむ……」
 その響きを、口の中で転がす。
 不思議な人だった。
 いつも自分をいじめるあの人たちや、夜の公園で遭遇した堕骸装(アンゲロス)などに対しては苛烈な攻撃衝動を露にするのに、なぜか自分には優しくしてくれた。
 彼がどういう基準で人に接するときの態度を決めているのか、よくわからない。
 しかし――ちょっと忘れられそうにない個性の持ち主である。
 ごくり、と喉が鳴る。
 ――指先が、綺麗な人だった。
 久我絶無について最も印象に残っているのは、その点である。
 凶暴さと繊細さを併せ持つ、まるで彼そのもののような指先。人の手では捕らえがたい、美しい獣のような、あの指先。
「……っ」
 思い出した瞬間、瑠音は衝動的に自らの体を抱きしめた。
 右手は脇腹に。左手は胸元に。
 想像する。
 この手は、あの人の手だと。この指は、あの指なのだと。
 触れられた箇所が熱を持ち、ぞくぞくとした震えが背筋を走る。
 ――飢餓のもだえ。
 彼女は飢えていた。
 [認識されること]に、飢えていた。

 ――黒澱瑠音は、悪魔の一柱である。
 比喩ではない。
 伝承や伝説、外典や黙示録などで語られるデーモン、シャイターン、ディアボロス。そのモデルとなった種族の一員である、らしい。
 そして悪魔たちは、自らを霊骸装(アルコンテス)と呼んでいる、らしい。
 らしい、というのは、彼女自身にもその記憶が曖昧であるからだ。
 霊骸装(アルコンテス)としてではなく、人間として生を受けた。何も知らずに幼少期を過ごし――しかし最近になって、超常存在としての記憶が蘇ってきた。
 部分的ながらも。

 ――認識子(グノシオン)が、足りない……っ
 やっとの思いで自室のベッドにたどりつくと、瑠音は力なく身を投げ出した。
 久我絶無が何を思ったかいきなり堕骸装(アンゲロス)に挑みかかり、瀕死の怪我を負ったとき、瑠音は物陰からその様子を見ていたのだ。
 正直、焦った。まだお礼も言っていないのに。いやそんな場合ではない。
 初めて見る人間の無残な姿。流れ出た鮮血、裂けてささくれた肉、はみでる臓物。
 きもちわるいと思った。恐ろしいとも思った。だが胸の奥底で、きれいだという思いがまったくなかったと言い切れるだろうか。
 そんな自分が、ショックだった。悪魔の一員であることを、不意に思い知らされた気分だった。
 だから、否定したかったのかもしれない。ムキになってしまった。
 霊骸装(アルコンテス)としての権能(ちから)を、このとき初めて使った。
 生まれて、初めて。
 ――ここまで消耗するなんて……っ
 人一人の傷を癒すのに、これほど活力が失われるとは思いもしなかった。
 早急に認識子(グノシオン)を補充する必要がある。
 だが――その方法が問題だ。
 認識子(グノシオン)とは、「人間が物事を認識した際に発生する力」である。第五のゲージ粒子であり、プネウマともルーアハとも呼称されてきたが――その本質は単純だ。
 簡単に言えば、人間に認識されればされるほど、認識子(グノシオン)を得ることが出来る。
 人間が持つ五感――視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。それらさまざまな感覚を通じて、悪魔たちは生きる活力を得ているのだ。
 しかし、ここまで消耗したとなれば、ただ見られるだけでは不十分である。
 積極的に人間と触れ合う必要がある。
 瞬間、瑠音は絶無の指を思い出した。あの指と触れ合った時に流れ込んできた、ねっとりと熱く暗い認識子(グノシオン)の甘美。
 もしも、握手だけで終わらず、それ以上のことをしてもらえたら――
「~~~~~っ!」
 耳まで真っ赤になった顔を、枕に押し付ける。
 ――無理無理無理無理無理!
 幸いにして、瑠音自身にも人間としての認識能力が備わっており、[自分で自分を認識する]ことによってある程度の認識子(グノシオン)を得ることはできる。
 しかし、霊骸装(アルコンテス)として存在を保つためのエネルギー量は、彼女の自意識から生産されるエネルギー量と等しいため、待っていてもこの状況は改善されない。
「……ぁ……ぅ……っ」
 闇の中、一人悶々と、魂の飢餓に耐えつづけた。

 ●

 箸を口に運びながら、久我絶無は考える。
 ――アンゲロスとは何か。
 昨晩の観察結果から、絶無はあの生ゴミの正体について思いを巡らせてみる。
 ……愚鈍カツ本能的ナ挙動カラ、大シタ知能ハナイダロウトイウコト。巨大ナ脳ノ下ニ制服姿ノ肉体ガアッタコトカラ、人間ガ何ラカノ事情デ変異シタモノト思ワレルコト。アルイハ人間ニ寄生シタモノデアロウコト。ソノ目的ハ人間ノ殺傷デアッテ、捕食デハナイコト。何ラカノ有限ノリソースヲ消費シテ、物理ヲ超越シタ怪能力ヲ発揮デキルコト。以上ノ情報カラ類推ヲ進メル。アレホド特異ナ生物ガ社会ニ認知サレテイナイ現状ヲ考エルニ、ホボ間違イナク人間ノ姿ニ戻ルコトガ出来ルト思ワレル。シカシ、「大シタ知能ハナイ」トイウ前提ニ照ラシ合ワセテミルト、タダノ学生ノフリヲ長期間ツヅケルノハ難シイ。怪物ノ姿ニナッテイル間、凶暴ナ別人格ガ肉体ヲ支配シテオリ、アンゲロス本人ハ自分ガ超常存在トナッタ自覚ガナイノカモシレナイ。非常ニ驚クベキ生態ト言エルダロウ。最モ特筆スベキハ、奇妙ナ現象ヲ引キ起コス能力デアル。昨晩戦ッタ個体ガ発揮シタ空気弾ノ破壊力ヲ見ルニ、尋常ナ生命活動カラ捻出デキルエネルギーノ限界ヲ明ラカニ超エテイタ。ツマリアンゲロスハ、通常ノ生物トハマッタク異ナル代謝系ヲ持チ、エネルギーノ補給方法モ単ナル食事ナドデハナイト考エラレル。ソシテ、知能ガ低ク、本能的ナ判断シカデキナサソウナ様子ヲ鑑ミルニ、ソノ行動ハスベテ自ラノ生命維持ニ直結シテイルハズダ。スナワチ人間ヲ殺傷スル生態ハ、エネルギー補給ト無関係デハナイノカモシレナイ……
 結論:よくわからない。
 無意味な思考活動であった。
「ふむ」
 気にかかるのは、昨晩重騎士が発した『またアンゲロスか』という一言である。この言葉からは二つの事実が浮かび上がってくる。
 ひとつ、アンゲロスは複数いる。
 ふたつ、重騎士の本当の標的はアンゲロス以外の何かである。
 極めて重大な事態と言わざるを得ない。もしもアンゲロスというものが昨日遭った脳怪物のようにアホくさい殺人行為を繰り返す存在であるのなら――
 ――残念ながら絶滅してもらうより他にないな。
 ともかく、見極めねばならない。
 アンゲロスは、果たしていかなる存在なのか。
「というわけで伺いたいのですが、アンゲロスとはどういう生き物なのでしょう?」
 絶無は横に顔を向けた。
 ビクッ、と少女は震え、飲んでいたウーロン茶でむせる。
 昼休み。学校の中庭である。
 ベンチでひとりぽつねんと昼食を摂っている黒澱さんを見かけ、声を掛けたのだ。
 例によって例のごとくあたふたと要領を得ない反応だったが、特に嫌がっているそぶりではないので、隣に座り弁当を広げたところである。
 黒澱瑠音はひとしきり咳き終えると、愕然とこちらを見ていた。顔の下半分しか見えないにも関わらず、表情豊かな人である。
 どうしてその名を知っているのか、と問いたげだ。声には出さず、眼も見えないのだが、なんとなくわかる。
「あの無骨な鎧甲冑の男が口を滑らせてくれたからですが……あの、大丈夫ですか? 僕はあなたを困らせていますか?」
 彼女はぶんぶんぶん、と過剰に首を振る。前髪が舞い上がって一瞬どきりとしたが、残念ながら目蓋は固く閉じられていた。
「ふむ。質問を絞りましょう。黒澱さんは昨晩のアレ以外にアンゲロスを見たことはありますか?」
 こくこく。
「そのアンゲロスは殺人を働きましたか?」
 一瞬ためらってから、こくり。
「アンゲロスとは概してそういうものなのですか?」
 どうしてそんなことを聞くんだろう、と言いたげな沈黙。
 のちに、こくり。
 絶無は思わず頬を歪めた。歯が軋る。
 ――ならもう、遠慮はいらないな。
 ここからは、アンゲロスが誰なのかを特定する段階だ。
「アンゲロスは、自分が負った負傷を短期間で治す手段を持っていますか?」
 彼女はたじろく。
「……っ」
 あたふたと身振り手振りで何かを伝えようとするのだが、よくわからない。
 イエスかノーで表現できる答えではないらしい。
「わからないということですか?」
 ふるふる。
「基本的には回復手段を持っているけれど、状況から考えて昨晩の個体がその能力を行使できる可能性は低いということですか?」
 こくこくこく。
「……ほほう」
 絶無はポケットからスマホを取り出すと、アドレス帳から「下僕」のカテゴリを探し出してコールする。
 一秒もしないうちに相手が応じた。
『絶無さま、お電話ありがとうございます。何か御用でしょうか?』
 花の潤みを含む、落ち着き払った少女の声だった。
「手を借りたい。頼めるか」
『あら、光栄ですわ。華道部一同、絶無さまのために粉骨砕身働く所存でございます』
 即答である。
「相変わらず躊躇わない女だな。今日、脚に怪我を負って学校を休んだ男子生徒がいるはずだ。そいつの名と居場所を調べ上げてくれ」
 前回の接敵において、絶無はアンゲロスの脚(節足ではなく人間の方の脚)を関節技で外してやった。
 何らかの事情により回復能力を行使できないのであれば、今も負傷はそのままのはずだ。
『了解しました。すぐに調査を開始いたします。その方は、絶無さまの前にお連れすればよろしいでしょうか?』
「いや、接触はやめろ。お前たちは調べるだけでいい。今日中に報告をくれ」
『了解しました。……それで、絶無さま? たまには部に顔を出して頂けませんと、他の子たちに示しがつきませんわ?』
「わかっている。次の花展用の構成について聞きたいこともあるしな。今回のことが終わったら、久々にお前たちの活けた花を見に行こう」
『お待ちしておりますわ。それでは失礼いたします』
「ああ、苦労をかけるな」
『あらあら、ふふ』
 通話が切れた。
 隣で黒澱さんが戸惑いまくった顔をしている。
 絶無は肩をすくめる。
「情報網、というものを構築してみようと思ったことがあるのです。まぁ、結果出来たのはまったく違うものでしたが」
 運動部の主将や各委員会の重役、教師、事務員、用務員など、学内に影響力を持つ人物に対し、あるときは力ずくで、あるときは言葉で、またあるときは弱みを握り、餌をちらつかせ、心を折り、ありとあらゆる手管を用いて自らの指示に従うよう馴致した。
 もちろん、学校などという矮小な社会で実権を握ったところで大した意味などない。まさに井の中の蛙である。
 実社会に出たときのための予行演習のつもりだったが……思わぬところで役に立った。
 華道部以外の「下僕」――柔道部、空手部、剣道部などの武闘派――にも手早く電話をかけ、次々と同じ指示を下す。
「これでよし。すぐにでもアンゲロスの素性は特定されると思われます。雑事は下僕どもにまかせ、我々はどっしりと構えておきましょう」
 といっても、昨晩の重騎士がすでにあのアンゲロスを滅ぼしている可能性も考えている。その場合は残念ながら自分の手で醜悪な存在を抹殺できなくなってしまうわけだが、致し方あるまい。
 ただ、現状を見るにその可能性は低い。生徒が一人殺されたのなら、さすがに今この時点まで学校から何の音沙汰もないのは不自然だ。
 ふと、視線を感じた。
 いつのまにか黒澱さんは昼食をもそもそと平らげ、傍らの鞄からノートを取り出していた。
 こちらに掲げられた書面は、
『堕骸装(アンゲロス)は人間です』
 ……そういう字なのか。
「えぇ、そのようですね」
 彼女が何を言いたいのかわからず、相槌を打つ。
『あまり乱暴なことはちょっと』
「確かに。戸籍を持った人間を殺すのは相応のリスクが伴いますね。しかしリスクを恐れて大事は成せません」
「っ! ……っ……」
 ぶんぶんぶんっ。
 そしていそいそとノートに書き付ける。
『堕骸装(アンゲロス)とは、動物や赤ちゃんのように自己認識を持たない生命や、眠っていて極端に意識レベルが下がっている人間などと不正規な契約を交わしてしまったがために、認識子(グノシオン)を生産する回路が構築されず、慢性的な飢餓によって暴走している悪魔のことです。』
 いきなり話が難しくなってきた。
 ひとしきり書面を睨み、要点をまとめる。
「……目を覚ました人間となら、正規の契約を交わすことができ、認識子(グノシオン)とやらを生産する回路が構築され、飢餓に陥らず、暴走状態にもならずに済むということですか?」
 こくこくこく。
 うなずく彼女。
 ――それにしても、自己認識、か。
 人間と、ごく一部の高等生物しか持っていない、特殊な意識のありようである。
 自己認識を持つ生物は、鏡に映った像を自分だと判断できる。「自分がここに存在している」ということを理解しているのだ。しかし、自己認識を持たない大多数の生物は、鏡に映った像を他者だと思い込んで、警戒したり威嚇したりする。彼らの意識には「自分」がなく、「状況」だけがその思考を占めているためだ。
 絶無は、自らの顎をつかむ。
「いったい、悪魔とは何なのですか?」
 悪魔と自己認識。珍妙な取り合わせである。
『わかりません。わたしも悪魔の一員みたいですが、変な生まれ方をしたせいか、記憶が曖昧です。悪魔たちは自らを霊骸装(アルコンテス)と呼んでいるようです。ここ数年でたくさんの悪魔がこの世界に転生し、何か大きな目的のために動いているみたいです。』
「言葉尻から察するに、霊骸装(アルコンテス)たちは人間と契約しなければ力を発揮できないようですね」
 こくり。
『ファウストとメフィストフェレスの関係に代表されるように、悪魔が人間を誘惑して力を与えるストーリー類型の大本はここにあります。実際には、力を与えているというよりも、人間の力を借りないと何も出来ないだけみたいですけど。』
 重騎士を思い出す。恐らくあれは霊骸装(アルコンテス)なのだろう。尋常な人間と正規の契約を結んだ姿があれなのだ。
 脳怪物を思い出す。恐らくあれは眠っている人間とうっかり変則的な契約を交わしてしまった姿なのだろう。
「……ということは、堕骸装(アンゲロス)は宿主が眠っている間にしか表に出てこない、と?」
 こくこく。
『起きている間にきちんと自分の状況を教えてあげれば、ひょっとしたらなんとかなるかもしれないです。』

 ●

 三日が経った。
 堕骸装(アンゲロス)の宿主自体は、すぐに見つかった。
 一年D組。秋城(ときしろ)風太(ふうた)。
 華道部(の名を借りた絶無子飼いの諜報機関)によれば――
 小柄。内気。地味。いじめを受けている疑いあり。成績は下の上。卓球部。両親は共働き。
 心の底からどうでもいい情報ばかりだった。
 現在は街の市民病院で怪我の治療にあたっているらしい
「はいはい、秋城さんは、えーと403号室ですね。さっきもう一人お友達が来られましたよ」
 受付の様子からして、病院ではまだ暴れだしていないようだ。
 それも時間の問題であろうが。
 エレベーター経由で403号室が存在する四階までたどり着く。
 と、ロビーの長椅子に、長身の人物が座している様子が目に入った。
「ふむ」
 日本人離れした白皙の肌に、氷のような白髪が印象的な、若い男だった。両肘を膝の上に乗せ、じっと秋城の病室を睨みつけている。
 獰猛な眼つきだ。左右の瞼から頬にかけて、縦に引き裂いたような傷跡があり、まるで涙の跡か道化の化粧である。
 さっき受付が言っていた「もう一人のお友達」か。しかし華道部のプロファイリングからすれば、秋城風太がこいつのような人種と関わりを持つとは思えないが。
 絶無は、この男の名を知っていた。
 橘(たちばな)静夜(しずや)。
 私立孤蘭学院高等学校は一般的にエリート校と言われているが、隔絶された社会は必ずその中で上下関係を生み出し、落ちこぼれの役割を欲する。
 橘静夜もその一人だ。
 どこにでもアウトローはいる。暴力的な噂の絶えないこの男は、畏怖と敬遠の対象である。
 絶無は無言で橘に近づいてゆく。
 青年はこちらに気付き、わずかに視線を流してくる――
 ――瞬間、大きく目を見開いた。
 隠し切れぬ驚愕の表情。視線は絶無に固定されている。
 その時点で、絶無はすでに何事かを察していた。
「……ふふん」
 薄ら笑いを浮かべ、歩み寄る。
 そして橘の前で立ち止まった。
 ――こちらの姿を見ただけで驚愕する理由など、ひとつしかない。
 この不良は今まで「久我絶無は死んだ」と思っていたのだ。
 そしてそんな誤解を抱くには、公園での戦闘現場に居合わせていなければならない。
「[あの時は取り逃がしたようだな]」
 まるで天気の話しでもするかのように、絶無は声を掛ける。
「……何のことだ? ここに何の用だ久我絶無」
 鉛のような声だった。うまく動揺を押し殺したようだが、視線を合わせないようでは片手落ちだ。
 橘の手のひらが持ち上がり、自らの胸を抑えた。
 庇うような動き。
 絶無はそのさまを見るともなく見ながら、畳みかける。
「戦闘能力は申し分ないが、追跡術(トラッキング)は不得手か? 学校をさぼって何をしているかと思えばずいぶん刺激的な毎日を送っているようだな、橘静夜」
 橘は突発的に立ち上がり、身構える。途端に空気が引き締まり、剣呑さを帯びた。
 見上げるほどの背丈だ。しかし巨漢という表現は似合わない佇まいだった。痩身で、手足が長い。鞭のようにしなやかな筋肉が、全身で寄り合わされている。
 絶無は中指で眼鏡を押し上げた。
 ――この男。
 かなり荒事に慣れているようだ。いや、慣れているなどというレベルではない。動作の端々に無理も無駄もない落ち着きが見えた。自らの恵まれた体格を、完全に使いこなしている。明らかに殺害を意図した格闘技能を極めている佇まいだ。
 ――ほんの少しばかり、僕より強いかも知れん。
 絶無は頬を歪め、拳を握り締めた。
 瞬間。
『よしなさい、静夜。その少年はもう我々の正体に気付いているようです』
 かすかなエコーの入った壮年の男の声がした。
 声は、今度は絶無に語りかけてくる。
『少年よ、お初にお目にかかります。小生の名はザラキエル』
 ――何だ? どこにいる?
 姿は、見えない。声だけが滔々とつづく。
『《矜持の座》の第二世代(ケルビム)として生を受け、現在は《遊歴の座》に属する悪魔の一柱です。この時代ではサリエルと名乗った方が通りは良いでしょうかね?』
 余裕と品格を兼ね備えた、耳に快い声だった。
 どうやら橘静夜の左腕から聞こえてきているようだ。
「……急にしゃべるな、ザラキ」
 橘静夜は眉をひそめながら自らの左腕を見やる。
 そこには、銀青色の太い手錠がかけられていた。左腕にしか付けられていない上に鎖もない。動きを拘束するためのものではないようだ。
『ザラキエルです。最後のエルが重要なのです。もっと敬意を持って呼んで頂きたい』
 どうでもよさそうに手を振る橘。絶無に鋭い目を向ける。すでに無関係を装うつもりはないようだった。
「……久我、あれからどうやって助かった?」
 認めた。この男が重騎士の正体なのだ。
 絶無は肩をすくめる。
「そんなことはどうでもいい。いま話すべきなのは、お互いの目的についてだ」
 橘は、いぶかしげにこちらを見ている。
「目的?」
「なぜここにいる? 秋城風太をどうするつもりだ? お前の目的は何だ?」
「決まっている。悪魔が表に出てくるのを待ってから殴り倒し、引き剥がす」
 断固とした口調。この男はそうやって正義の味方じみたことをしてきたのだろう。
 絶無は鼻で笑った。
「つまらん対処だな」
「どういう意味だ?」
「お前らは今までそうやって対症療法的に堕骸装(アンゲロス)を狩ることしかしてこなかったのか? 『また堕骸装(アンゲロス)か』と言っていたな。あの醜い怪物が何体も出現するその原因を究明しようとは思わなかったのか?」
 少し考えればわかることだ。堕骸装(アンゲロス)とはその存在自体がイレギュラーのはずである。何しろ悪魔側にも人間側にもメリットが何ひとつない。認識子(グノシオン)が欲しいなら起きている人間に契約の話を持ちかければいいのだ。あれほどの圧倒的な力、人間からすれば引く手あまただろう。
 それすらできなかった、というのは通常考えられない事態である。
「橘静夜、今までにお前が狩ってきた堕骸装(アンゲロス)は何体だ?」
「……五体」
「堕骸装(アンゲロス)として契約せざるを得ないような状況がこの近辺で五回も発生するなど、確率的に言ってあり得ないだろう。何かあるんだよ、秋城風太の背後にはな」
『ほう、なかなか鋭い読み……と言いたいところですが、その程度のことに我々が気づいていないとでもお思いか?』
 鋼の手錠――ザラキエルとやらがかすかな笑みを含ませて言った。
「だったら糸口を見つけてやるよ。これから僕がやることをそこで黙って見てろ」
『ふむ?』
 絶無は立ち上がり、無造作に病室のドアを開けた。殺風景な個室が、目の前に広がる。
 窓から入る光に照らされて、ギプスと包帯にまみれた少年がそこにいた。
「え……」
 アニメ絵のキャラクターが描かれた文庫本を広げたまま、その少年――秋城風太はこっちを見て、固まっていた。
 絶無は中指で眼鏡を押し上げる。
 ――雑魚だな。
 今のわずかな動作から、この少年の実力を見て取る。多分こいつが十人いても橘静夜一人に敵わないだろう。まして、脚を怪我している今では何をかいわんや。
「だ、誰ですか?」
 高校生にもなって声変わりも迎えていないようだ。体格にふさわしい、実に貧相な声である。絶無は無言で少年のそばまで歩み寄ると、おもむろにその腕を取った。
「え」
 親指の付け根を圧迫する。
「ぎ……っ!?」
 声にならない悲鳴。文庫本が床に落ちる。
 すかさずもう一方の手を秋城風太の首にやり、二本の頚動脈を塞ぎにかかる。
「おい久我! いきなり何をしている」
 橘静夜が後ろから肩に手をかけてきた。
「黙って見ていろと言った筈だぞ」
「了承すると言った覚えはない」
「かっ……」
 脳への血流が塞がれ、秋城風太は速やかに意識を失った。
 絶無は橘の手を振り払うと、ポケットに指先を突っ込んだ。
「さぁ、来いよ」
 冷めた目で、待つ。宿主が意識を失えば、堕骸装(アンゲロス)が姿を現すはずだ。
『無茶なことを……』
 隣で橘静夜が青銀の手錠に手をかけていた。
 ごぼり、と。
 秋城風太の頭が、まるで凹凸のある鏡に映った像のように歪んだ。瞼が引き伸ばされ、眼球が剥き出しになる。
 堕骸装(アンゲロス)への変化。想像通り、実に醜い眺めである。
 ごぼりごぼりと、皮膚の下で次々と気泡が湧き出ているかのように、少年の頭部が異形と化してゆく。
 そして、
『……ガイ、ソウ……』
 鋭いエコーのかかった声。橘でもザラキエルでもない。喉で汚泥が絡まっているかのような、不快な声だった。
 瞬間、秋城風太の頭が破裂し、内部からピンクの肉塊が爆発的に膨張しだした。その後ろから、花開くように七本の節足が伸びる。
 絶無は、相手の変化が終わるのを待ちはしなかった。
 おもむろにスマホを取り出し、画面に現れた文面をわざとらしい棒読みで声に出す。
「洞慕町逢音二丁目の3‐14。煉瓦意匠のモダンな邸宅。表札には『界斑』と書かれている……」
 瞬間、堕骸装(アンゲロス)の動きが、止まった。
「郊外の一等地か。ずいぶんいいところに住んでいるなクズ野郎」
 絶無は口の端を釣り上げた。
 化け物は硬直している。まるで、弱点を知られて衝撃を受けているかのように。
「……どういうことだ」
『どういうことですか?』
 隣で橘とザラキエルが訝しげな目を向けてきたが、無視。
「僕の言うことを聞くつもりがあるのなら、その醜い顔を仕舞え」
 一瞬の間。そして節足と脳がにわかに動きを見せた。巻き戻された映像のように、脳と節足は折りたたまれ、縮小し、秋城風太の頭部へと収まってゆく。
 最後に破裂していた頭蓋が口を閉じ、瞑目した人間の姿を取り戻した。
 ゆっくりと、目を開く。
 途端、空気が、濁った。
 さっきまで見せていた、間抜けな面構えは消え去り、どこか切れ長の目つきになっている。
『……おまえ、いつから気付いていたですか?』
 秋城風太が口を開く。どことなく舌足らずな口調。
 安っぽい駄菓子のような甘みを持った声。
 絶無は肩をすくめる。
「堕骸装(アンゲロス)は宿主が眠っている時に表に出てくる。そして堕骸装(アンゲロス)に理性的な思考はできない。この二つの情報から考えれば、すぐにわかることだ」
 理性のない怪物が夜毎に行動するのであれば、まっさきに襲われるのは秋城風太の家族であるはずだ。ところが、下僕どもに調べさせてもそんな事実は浮かび上がってこなかったし、家族が惨殺されたとあればもっと大きな騒ぎになっていなくてはおかしい。
 堕骸装(アンゲロス)となった秋城風太が殺したのは、自身と接点のない人間だけである。
 ここに、理性的な打算を感じた。堕骸装(アンゲロス)の殺戮本能とは別の、第三の意志がなければありえない事態である。
 すなわち、秋城風太は何者かによって意図的に操られているのだ。
『たったそれだけで璃杏(りあん)ちゃんがいることに気付いたですか?』
 たったそれだけ、である。わからないほうがおかしい自明の理だ。
 それよりも、
「気持ち悪い喋り方をするな。見ていて救いようがない」
 一人称が名前+ちゃんなどと、生きていて恥ずかしくないのかと思う。
 くすくすと少年の体に取り憑いた何者かは笑う。
『璃杏ちゃんはホントは女の子なんだもん。今は風太おにいちゃんの体を借りてるだけだもん』
「どっちにしろ救いようがない。中学生にもなってあり得ない。気持ち悪い」
『うぅ、おまえ、ひどいですぅ。璃杏ちゃん泣きそうですぅ』
「やってみろよウジムシ。指差して笑ってやる」
「おい、久我」
 重い声が、降りかかってきた。
 見ると、橘静夜は床に落ちたアニメ絵の文庫本を拾い上げ、しげしげと立ち読みしていた。そんな姿ですら、ある種の荘厳さを失わない。太古の英雄を思わせる威容の男であった。
「くだらん罵倒はそのあたりにしておけ。話が進まん。最初に言っていた住所は一体なんだ。なぜ住所を聞いてこいつは動きを止めたんだ」
 絶無は肩をすくめる。これだから思考の鈍い奴の相手は疲れるのだ。
「決まっているだろう。このおぞましい一人称を使う下等生物の住所だよ。下僕どもを駆使して調べ上げた」
「待て久我。どうもお前の言葉には飛躍と要約が多いな。堕骸装(アンゲロス)を操る黒幕がいると断定する根拠はわかったが、そこからどうやってこいつの居場所を突き止めたのだ」
 この三日間に絶無と下僕どもが行った諜報活動のすべてを語っていたら三十分はかかるので、適当に要約する。
 ――あの夜。
 絶無と脳怪物(ときしろふうた)が死闘を演じ、そこへ重騎士(たちばなしずや)が乱入したあの夜。
 公園にはサラリーマンの惨殺死体が残されていたはずだ。もちろんそんなものを黒幕が放置するはずがない。必ず何らかの方法で証拠の隠滅にかかるのは確実だ。黒澱さんを家に送ったその足で調べに向かうと、案の定そこには不自然に掘り返された地面だけがあった。恐らく、黒幕は秋城風太以外にも何体か堕骸装(アンゲロス)を従えているのだろう。そいつらに死体を回収させたと見て間違いない。
「……それ自体が罠とも知らずになァ……」
 携帯電話の部品を使って自作したGPS発信機。
 死闘の最中、絶無はそれを被害者の死体に紛れ込ませていたのだ。
 発信機の電波は、洞慕町を見下ろす山中にて消滅した。
 すぐさまそこに向かい、死体を掘り起こして発信機を回収すると、周囲に残された足跡を徹底的に調べ上げた。
「残された足跡は三種類。そのすべてが孤蘭学院の制式運動靴。サイズからして全員男。調べてみたら、学校では去年から靴のスパイクの位置が微妙にマイナーチェンジされていたらしく、それらはすべて一年生のものだった」
 後は下僕どもによる人海戦術だ。一年の運動部の男子生徒の家に連絡を取り、問題の日、問題の時刻にアリバイがあったかどうかを聞き出し、振るいにかけた。
 残った名前は七つ。これに秋城風太を加えた八名の生徒の動向・交友関係を徹底的に調べ上げた。
「その結果――八人中六人の周囲に、最近とある女の影がちらついていたことが判明した」
 絶無は右眼だけを真円に見開き、獰悪な笑みを浮かべた。
「それが界斑(かいむら)璃杏(りあん)。お前だよ」
 沈黙が、大気を凝らせた。
 煮えたぎる酸のような視線が、絶無の全身を撫でていった。
 界斑璃杏は、おもむろに細い腕を持ち上げる。
『……あ、虫♪』
 そして、ぺちん、と自らの頬を叩いた。
『こんなところにキタナイキタナイ虫ちゃんがいるですぅ』
 ぺち、ぺち。
 音高く頬が鳴る。
『まったくこの病院はフエイセイなのですぅ。病室にこんな生物がいるなんてありえないですぅ』
 ぺち、ぺち、べちっ。
『キタナくて臭くて醜くて、グズでノロマで何の役にもたたないですぅ』
 ぺちぺちべちべちべちべち。
 ごっ。
 音が変わった。
『ホント、さいしょから、この虫ちゃんは、璃杏ちゃんの、足を引っ張る、ことばかりっ!』
 音節ごとに、鈍い音が響く。
 拳を固め、自らの顔面を殴打していた。頬が腫れ、鼻血が噴出す。
『えいっ♪ えいっ♪ 死んじゃえっ♪ 死んじゃえっ♪』
 爪を立てて、顔を偏執的に掻き毟る。
 紅い筋が幾重にも刻まれてゆく。
「おい、何をしている。やめろ」
 橘が、その腕を掴み上げた。
『離すですぅ。くそ虫ちゃんを潰すですぅ。それ、潰れろっ♪ 潰れろっ♪』
 もう一方の手で、なおも顔を引っ掻き続ける。
「やめろと言っている。おい久我、ナースコールだ」
 両腕をまとめて拘束しながら、橘は絶無に顔を向けた。
 深い深い溜息をつき、絶無は界斑璃杏に語りかける。
「慈悲深い僕は、一応話を聞いてやろうと思う。他人に堕骸装(アンゲロス)を植え付けて操り、無関係な人間を惨殺するその理由はなんだ?」
『――殺す』
 ぽつりと、界斑璃杏は言った。
『おまえ、嫌い。殺す。いつか殺しちゃうですぅ』
「話聞けよガキ。これだから自我が強いだけのクソカスは嫌いなんだ」
『うっさい死ね、ばーか。殺す。殺してやる』
 フッ、と。
 秋城風太の体から力が抜け、倒れ掛かった。
「う……」
 額に手をやり、持ち直す。
「うぅ……あれ?」
 秋城風太はキョロキョロと周囲を見回し、不安げに眉を寄せた。
「だ、誰ですか?」
『ふむ、見たところ秋城風太本人のようですね』
「う、腕輪がしゃべった!?」
「おい、お前」
 絶無は風太に歩み寄る。橘を押しのける。
「な、なんですか? 誰なんですかあなたたちは!?」
「黙れ。質問するのはこっちの方だ。界斑璃杏からもらった物を僕に渡せ」
 風太の目が見開かれた。
「い、いやだ!」
「ほう、その反応を見るに、心当たりはあるわけか」
 風太の腕を取り、素早く背後に回ると、捩じり上げた。
「痛たたたたたた!」
「――まず、小指だ」
 耳元で囁きかける。同時に指を逆方向に曲げてゆく。
「関節をひとつずつ折り砕いてやろう」
「ひッ……!」
 それだけで十分だった。
「わかった! 渡す、渡します!」
 風太は首にかかっていた紐を外し、そこからぶら下がっていた小瓶を差し出してきた。
 掌の中に納まる程度の、ごく小さな瓶だ。中に何かが入っていたが、光の反射で絶無からは見えなかった。
「ふん」
 絶無はそれを掴み取ると、すぐにポケットに突っ込んで踵を返した。
「ま、待ってください! それをどうするつもりなんですか!?」
 後ろから、風太が腕を掴んできた。
 軽くため息をつき、絶無は振り返る。
「手を放せ。無能がうつる」
「それは……それは界斑さんと僕との接点なんです! 特別な、絆なんです……」
「……はぁ?」
 どれだけ現状認識を欠いていればそんな妄言が吐けるのか。
「お前は特別なんかじゃない。あの女は、お前以外にもたくさんの男に同じことを言い、手駒にしているんだよ」
「そんなこと……!」
「お前は自分が何をさせられていたのかわかってない。最近夢遊病の気はなかったか? 妙にリアルで禍々しい夢を見なかったか? ニュースの血生臭い報道にデジャビュを感じたことは? 朝起きたときにわけのわからない血糊や粘液がこびりついていたり、あるいは裸足で外を出歩いたような形跡は?」
 風太の眼が、見開かれてゆく。
「な……んのことですか……それが何だっていうんですか!」
 思わず、こめかみがひくついた。
 ここまで言ってもまだ認めないつもりか。いつまで逃げ続けるつもりなのか。
「これらの状況証拠が何を意味しているのか、僕からは特に何も言わない。ただ、ひとつ個人的な愚痴を聞いておけ」
 胸倉を掴み上げた。
「ぐ……!」
 真正面の至近距離から、絶無は風太を睨み付けた。惰弱で柔弱で、卑屈で未練たらしく、すぐに伏せられそうな眼だった。
 美しさの欠片もない眼球だった。
「こうなる前になんとかする機会は、いくらでもあった。決して、お前は何も出来ないわけではなかった。なのにお前は何もしなかった。それだけは肝に銘じておけ。低能」
 乱暴に手を離すと、絶無はもはや振り返ることもなく、病室から出て行った。

 ●

 予鈴のチャイムを聞きながら、黒澱(くろおり)瑠音(るーね)は朦朧としていた。
 意識に霞がかかり、ふと気を抜くと頭が傾いている。姿勢を保つのに集中力が必要だった。
 ――おなか、すいた。
 ここ数日、気づけばそればかりを考えている。
 認識子(グノシオン)の補充が、遅々として進まなかった。
 悪魔は、人間から認識されることで活力を得る。
 しかし、もともと自己主張は苦手である。そこにいるにも関わらず認識されない「空気」になりがちだ。
 視界の端にちらりと見える程度ではまったくもって焼け石に水。空腹時に塩をなめているようなものであり、よりはっきりと空腹を自覚する役にしか立っていない。
 頭の中で欲望が渦巻く。
 ――認識されたい。認識されたい。認識されたい。認識されたい!
 これまで黒澱瑠音に認識子(グノシオン)を提供し続けてきたのは、冴島玲子をはじめとする女子グループであった。
 いじめという形とはいえ、積極的に瑠音を認識してくれたし、暴力が振るわれる際には肌と肌の接触もあったわけで、いやもちろんいじめられるのは惨めで苦しい気持ちになるのだが、この粘っこい炎のような欲望をある程度満たしてくれていた点はいかんともしがたく……
 ところが、最近、そういうことが一切なくなった。
 考えるまでもなく、久我絶無の乱入制裁による抑止効果だ。
 冴島玲子たちは、もはや瑠音に視線を向けることすらしなくなっていた。
 学校にいる間感じていた、わけのわからない苛立ちと憎しみの混じった視線が、ふつりと途切れてしまったのだ。
 おかげで心穏やかに日々を過ごせるわけだが、認識子(グノシオン)の供給が段違いに減少した現状は、少々深刻である。
 どうして誰も自分を認識してくれないのか。
 いや、わかっている。
 ――こんな暗そうなのなんて、誰も相手にしたくないんだろうな。
 これぐらいのことは気付いている。日常生活の九割を頭蓋骨の内側で展開している瑠音にしてみれば、自省などほとんど本能と同レベルだ。
 なぜ暗そうに見えるのか。これも理由は明白だ。前髪で目元を隠しているからダメなのである。
 ――でも。
 他人に目を見られるのは嫌だった。
 それだけは、どうしても嫌だったのだ。
 ――どうすれば、いいんだろう。
「おはようございます、黒澱さん」
 心臓が、縮み上がる。
 いた。
 そういえば、自分を積極的に認識してくれそうな人がひとりいた。
 頬が熱くなる。
 自分は今なにを考えていた?
 ぼんやりした頭を振り払う。
 と。
 視界に久我絶無の指が入った。
 ぐにゃりと、視界が歪む。
 頭の中を垂れ込める霧が濃くなり、酔ったように思考が鈍くなる。
 彼が何かを言っているような気がしたが、よく理解できなかった。
 けたたましい鼓動が内側から打ち付け、ふっくらした胸を震わせたような気がする。ブレザーの制服が、なぜかとても心もとなく感じた。衣服に包まれた自分の肢体を、強く意識した。
 飢餓の悶えが、呼吸を早くさせる。
 ――指。
 泣きたくなるほどしなやかな、彼の指。
 自分の全感覚が、そこに集中しているのがわかる。繊細なシルエットを目に焼きつけ、先端が机の上をすべるかすかな音を拾う。
 もどかしかった。
 どうして人間の五感は、こんなにも不完全なんだろう。
 そして、どうしてわたしは、こんなにも苦しい思いをしているのだろう。
 あぁ、そうだ。
 いじめられなくなったから、おなかがすいているんだ。
 ――責任、とってもらうんだから。
 ふつりと、脳の中で何かが切れた。重く張った胸乳(むなち)の奥で、欲望は正当化される。
 この指の、肌触りが知りたい。匂いが知りたい。
 ――あじが、しりたい。
 そろそろと、自分の手がのびてゆく。かるく曲げられた彼の指のしたに、自分の掌をさし込んで、もちあげる。
 やわらかな体熱と、甘い肉につつまれた骨の硬さに、陶然となる。
 彼がまたなにか言っていたが、すぐ目のまえまで迫ったこの指先よりだいじなことなんて、この世にない。
 黒く熱い吐息が唇から漏れ、いただきます、と口の中で呟いた。
「はむ」
 しあわせが、舌のうえにひろがった。
 怖気のような多幸感が、背筋をそそけ立たせる。

 ●

 マグマに指を突っ込んだ気がした。
 黒澱さんの口の中では、さまざまな欲望が煮えたぎり、溶け崩れていた。
《あまい/やわらかい/ねっとり/こりこり/すべすべ/あまい/こいい/あまい/しょっぱい/ねっとり/しあわせ/しあわせ》
 ――ふむ。
 絶無は食べられていない方の手で眼鏡を押し上げ、甘い煮汁のようなその思考を受け止めた。
 彼女が自分の指に執着を抱いていることは知っていたが、いやはや、ここまでストレートな挙に出るとは予想していなかった。
 熱い舌が、子猫のように絶無の指へと体をこすりつけてくる。
 舌、とは、高度に完成された感覚器官である。
 認識の相互作用からエネルギーを取り出して生きている悪魔にしてみれば、この行為には何か生命維持に関わる重要な意味があるのだろう。その相手に自分を選んでもらえたのは、とても光栄なことだと思う。
 周囲が騒然とざわめき始めた。無粋な連中である。
 彼女はそれに気付かない。音も立てずに、絶無の指をねぶっている。靄がかったように陶然とした表情が、とても美しかった。
 と、急に黒澱さんは身震いをした。
《え/え?》
 目を白黒させながら、周囲に向ける。
 ……ようやく気付いたようだ。
 クラスの蒙昧どもの驚きと好奇の視線が、矢のように集中していた。
 途端、嵐のような動揺が伝わってくる。
《みられてる/どうしよう/どうしよう/やだやだ/わたし/どうしよう/みられてる/どどどうしよう》
「よし、取れました」
 絶無は彼女の口から手を引いた。指先と唇の間が、透明な糸で結ばれる。
 黒澱さんは一瞬切なそうに眉をひそめたが、やがてパニックに陥ってあわあわとあてどなく両手を動かしはじめた。
「急に不躾なことをして申し訳ありません。大丈夫ですか? 口の中刺されていませんか?」
 とりあえず、飛来したハチが彼女の口の中に入り込んだので咄嗟に指を突っ込んで摘出した――という設定でごり押すことにした。
 すでに濡れた指は握り締められている。
『ごめんなさい。もうしません。』
 顔を隠すように、彼女はノートを広げている。
「いえ、僕のほうこそ、申し訳ありませんでした。念のため保健室に行きましょう」
 彼女の腕を取って、丁重に教室の外へとエスコートした。
 好奇の視線は、完全には消えなかった。

 引き戸を閉め、しばらく歩いてから、拳をゆっくりと開いた。
 彼女の唾蜜(だえき)が風に当たり、薄荷のようにひんやりとしている。ずくん、ずくん、と脈拍に合わせて甘い痺れが指先を苛んでいた。
「いつでも、どこでも、何度でも、好きなだけ」
 脈絡もなく、絶無は口を開く。
 こちらに目を向けた黒澱さんへ微笑みかけながら、
「お召し上がりください。こんな指でよければ」
 見る見る彼女の頬が紅潮してゆく。
 ふるふるっ、と首を振る。
「そうですか? とても美味しそうに召し上がっておられましたが」
 ふるふるふるふるっ。
「僕は今、とてもうれしいのです。ようやくあなたにご奉仕できる事柄が見つかったのですから」
 ぶんぶんぶんぶんぶんっ。
「次は誰もいないところで、二人きりでじっくりとご賞味ください」
「~~~~っ!」
 彼女はノートを取り出すと、急いた手つきで何かを書きつけた。
『わすれてください。さっきはどうかしてたんです。』
 もちろん、絶対に忘れるつもりなどなかった。

 ●

 昼休み。
 中庭のベンチにて、絶無は黒澱さんと並んで弁当を広げている。
 すでに病院での顛末はあらかた話し終えていた。
「そしてこれが、秋城風太から強奪したモノです」
 掌を開いて、彼女に差し出す。
 奇妙な物体だった。親指よりやや大きい程度の小瓶である。中にはミイラのように痩せ細った小動物が入っていた。
 一見するとネズミのようにも見えるが、前肢から皮の翼が生えている。干乾びてほとんど破れていたが、万全の状態なら空を飛ぶことも出来そうだ。全身は古びた紙のようにぱさついており、すでに死んでいるようにも見える。しかしよくよく目を凝らせば時折苦しげに痙攣していた。
 小瓶を持つ手を通じて、認識子(グノシオン)を流し込んでやりながら、黒澱さんはノートをこちらに掲げる。
『間違いありません、この子は悪魔です。微弱な認識子(グノシオン)の波を感じます。』
「では、もはや秋城風太が堕骸装(アンゲロス)となることはないと考えて良いようですね」
 こくこく。
 残る問題は、悪魔を堕骸装(アンゲロス)に貶めてバラまいている黒幕。
 ――界斑璃杏。
 病室での一幕の後、絶無は橘静夜と共に、界斑璃杏の家へ乗り込んだ。
 しかし案の定、すでにもぬけの殻であった。家宅捜索の結果、いくつか興味深い事実が判明したが――まぁそれはともかく。
 現在は、下僕数人を奴の家の周囲に張り込ませ、さまざまな角度から交代制で監視させているものの、動きはない。
 まぁ、どうでもいいことであった。
 正直、あんなクズのために脳細胞を働かせるのは大いなる浪費である。
 それよりも、目の前にいる美しいものを愛でる方がよほど有意義と言わざるを得ない。
 認識子(グノシオン)の供給が終わったのか、黒澱さんはふぅ、と息をつく。見ると、干乾びたコウモリはわずかに血の気を取り戻し、苦しげな痙攣も鳴りを潜めている。彼女自身にもそれほど余裕があるとは思えないのだが……絶無には想像を絶する心理である。
 黒澱さんに手を伸ばす。
「おや、落ち葉が」
 もちろん嘘である。
 わざと彼女の目の前を通るように手を移動させ、反対側の肩を軽く払う。
 息を呑むかすかな音。ぬるぬるとした視線が触手を伸ばし、絶無の指先に絡みつく。
「珍しいですね、こんな季節に」
「……っ」
 ぷいっ、と。
 彼女は顔をそむける。すでに鮮やかな紅が頬にあしらわれている。
「いやぁ、しかし暑くなってきました。そろそろ夏服も検討に入れなくてはなりませんね」
 心にもないことをうそぶきながら、黒澱さんの顔を手で扇ぐ。
 悪魔の炎を隠す黒絹のような前髪が、わずかに揺れる。
 その時、絶無のスマホがドナドナの着メロを奏で始めた。
 思わず、舌打ちする。いいところで。
 このメロディは、下僕からの連絡か。通話ボタンをドラッグする。
『絶無さま。ご報告いたしますわ』
 華道部(ちょうほうきかん)部長の詩崎であった。声を潜めている。
 しかし、華道部には今のところ命令など与えていない筈である。界斑璃杏の家を、念のため下僕どもに交替で監視させてはいるのだが、この時間は華道部の当番ではない。
「なんだ。重要なことか」
『はい、先日、絶無さまの捜査をお手伝いさせて頂いた折、六名の殿方が重要人物として浮かび上がってきたかと思います』
「あぁ、それがどうかしたのか」
 片手で黒澱さんの顔を扇ぎつづけながら、絶無は問いかける。
『その六名を含む十人程度の集団が、今しがた校門を乗り越えて学校内に進入いたしました』
 絶無は眼を細めた。
「その中に女の姿はあるか?」
『はい、一人だけ。とても可愛らしい女の子ですわ』
 ――仕掛けてくるつもりか。
 もはや扇ぐと言う体裁もなしに黒澱さんの目前で指をふらふらと振りながら、絶無は眉をひそめる。
 界斑璃杏と彼女の制御下にある堕骸装(アンゲロス)たちがどのような能力を持っているのか、絶無にはわからない。
「そいつの風体は」
『ええと、ごすろり、というのかしら? あの装い。黒いふりふりしたドレスを着ていて、お人形みたいなお化粧をしておられました。背丈はとてもちっちゃいものです』
 重い重い溜息をついた。
 なに、それ。
 暗澹たる気分になってくる。
 浮世離れした残虐な美少女でも装いたいのか? チョイスが短絡的で、底が浅すぎる。
 どうせゴシックの精神性など欠片も理解せずになんかそれっぽいから着ているに決まっている。
 反吐が出そうだ。
「そいつらは危険人物だ。絶対に近寄るな。距離をとって女を監視しろ」
『了解しましたわ。動きがあったら連絡いたします』
 はむっ、と。
 指先に、熱く湿った感触が広がった。ぷにぷにした味覚器官が柔軟にうねり、指の質感をなぞっている。
「釣れた……」
『なんですの?』
「こっちの話だ。何かあれば連絡しろ」
 通話を切る。
 隣に目をやる。
《あまい/あまい/こりこり/ふにふに/しあわせ/ぬるぬる/ねっとり/あまいの/こいいの/しあわせなの♪》
 甘美な予感。このままじっとしておけば、きっと自分の指先は、甘やかに溶けてなくなり、彼女の一部となるのだ。
 その想像に、ぞくぞくとした。
「食べても、いいですよ?」
 声を掛けると、彼女はびくりと肩を震わせた。
《えっ/あれ/うそ/たべていい?/あれ/やだやだ/どうして/たべてもいいの?/やだやだ/はずかしい》
「ほら、歯を立てて。ゆっくりと顎に力を込めましょう。皮膚は破れ、肉は痙攣しながら潰れ、甘い血が口の中いっぱいに広がりますよ……」
 んく、と彼女の喉が動いた。
 強烈な葛藤が、黒澱さんの中で渦巻きだす。
 やがて、前歯が震えながら指の付け根に、あてがわれた。
 全身の血流が、ごうごうと音を立てるような心地。
 ――その時、足音がした。
 巨大な影が二人を覆う。
「おい久我、昨日のことだが……て、お前は何をしている?」
『静夜、男女の絆にはさまざまな形がありうるのです。あまり気にしないのが一番です』
「~~~~~~~っ!」
 両手で顔を覆い、逃げ去ってゆく黒澱さん。
「……デリカシーのない野蛮人どもめ。貴様らのせいで黒澱さんが逃げてしまったではないか」
 わりと本気の殺意を漲らせながら、絶無は闖入者を睨みつける。
 色彩という概念を削ぎ落とされたような肌と白髪。長身痩躯。しかしそれは極限まで凝縮された筋肉が強靭に漲っている証左でもあった。
 橘静夜。制服姿が似合わないことこの上ない偉丈夫である。
「邪魔をしたのは悪かったが、命を狙われている時に女といちゃつくのはどうなんだ」
「ふざけるな。あの方を喜ばせる以上に重要な案件などこの宇宙に存在しない」
『意外ですね。あなたは自分が一番大切な人間かと思っていましたが』
「ついこないだまでなら、誇りを持ってそうだと断言していたところだがな」
『ふふ、相変わらず人間とは不合理な生き物ですね。そんなところが実に愛おしい。今風に言えばブヒるというやつです』
 なんだこいつ。
「……それで、何の用だ。くだらんことならお前らの耳を引き千切るぞ」
 無論、本当に耳を引き千切る理由など宇宙のどこを探しても見つかりそうにないが、「こいつならやりかねない」というイメージ作りを普段から行っておくのは重要である。万事につけて意志を押し通しやすくなる。
 しかしそんな恫喝も、橘にはいかほどの感銘も与えなかったようだ。
「そうやって自分から他人を遠ざけて何がしたいんだお前は。……昨日のやりとりで、敵の狙いはお前に絞られた。つまりお前のそばに張り込んでおけば、黒幕の、あー、界斑なんとかとかいう女に行き当たるわけだ」
「いらん。失せろ。あのカスは僕が始末する」
「勘違いするな。お前のためではない。いや……ついでに守ってやるくらいならやぶさかではないが、俺たちの目的はあくまで界斑なにがしの凶行を止めることだ」
『極論すれば、あなたをオトリにして敵をおびき出したいわけです』
 道化の化粧のように刻み付けられた目元の傷跡が、目蓋の動きにあわせて伸び縮みする。
 絶無はじっとその様子をねめつけながら、ひとつ息を吐き、腕を組んだ。
「……何故だ?」
「何故、とは?」
「お前らは何故そんなことをする? 何か得があるのか? それとも何かの信念のもとに動いているのか?」
 しん、とした沈黙が、降り積もってきた。校舎から聞こえてくるざわめきだけが、遠く大気をどよもしている。橘静夜は無言で、絶無の隣に腰を下ろした。
「……かつて、奪われ踏みにじられる側だった。力を得た今でも、その時の悲しみと惨めさを忘れたくないと思っている」
 重い石を吐き出すような口調だった。ゆっくりと、自らの胸を抑える。
 そこに、なにかあるのだろうか。庇うような手つきだった。
 明らかに無意識の動作である。常日頃から胸を庇いつづけているようだ。
 ――心臓、か? 病気というわけでもなさそうだが。
 絶無は目を細めた。
「その正義感だけで、自分を犠牲に出来るか?」
「さてな。はっきりいってザラキ(こいつ)は強い。大抵の悪魔は一蹴できる。今まで『自分の命を投げ打たなければ他人の命を救えない』ような状況に陥ったことがそもそもない。だから、いざそのときになって自分がどういう行動を取るかは、正直わからん」
 ――ほう。
 絶無は少しこの青年を見直す。偽善者は、嫌いじゃない。少なくとも、善意を表明する勇気は評価できる。発狂した猿のように偽善偽善言いながら他者の荒探しをするだけの無能と比べたら、人間的にはずっと格上である。
「まぁ、二者択一を迫られたときバカ正直に片方しか選べないような奴は、ヒーローとしては二流だと思うがね」
 気負いもなく、そう言ってのける。
 絶無は、軽く目を見開いた。
 それから目を閉ざし、深く呼吸した。空気の味が、どこか変わっている。肺腑に清澄な気が満ちている。
「同感だな。危機管理ができてないからそういう破目に陥るんだ。怠惰な無能だけが『葛藤』とやらを神聖視する」
「そりゃ言いすぎだ」
「ふん」
 絶無は静夜の腕に目をやった。青銀色の分厚い手錠がはめられている。
「で、お前は? なぜこの男に力を与えた?」
『さて、小生はとりあえず認識子(グノシオン)さえ頂ければ特に文句はありませんので』
 ――嘘だな。
 即座に見抜く。そして、こちらが見抜いていることを、ザラキエルは見抜いている。要するに、何か確固とした目的があるのだが、それを今この場で教えるつもりはない、と。
 そういう意思表示なのだろう。
「……そうか」
 視線を前に戻す。校舎の陰から、黒澱さんが顔をのぞかせてこっちを見ている。
 まぁそれはともかく。
「久我、次はお前の番だ」
「なに?」
「お前には戦う理由などないように見えるがな。なぜそこまで悪魔のいさかいに首を突っ込もうとする?」
「理由ね、ふん」
 絶無は、目を細める。
 今までずっと渦巻いてきた思いを、どうにか言葉にしようと、思案を巡らせる。
「――才能、というものについて、お前は考えたことがあるか?」
「さい、のう? 持って生まれた、の才能か?」
 うなずく。
「僕はな、橘。中学のある時期まで、自分のことを天才だと思っていたんだ。周りの同級生たちに比べ、僕はありとあらゆる分野で圧倒的なまでに優れていたからな」
「……それで」
「加えて、僕の父親は『人としての臨界を極めた』と称しても過言ではないほどの万能者であった。彼の業績をいちいち列挙することは避けるが、この国に息づく国債や株式の半分は彼を盟主に仰ぐ組織によって買い支えられていた――という[控えめな]表現は付け加えておくとしよう。無邪気にして単純な当時の僕は、自らを生まれながらの強者であり、偉大な父の偉大な血によってあらゆる成功を約束された存在なのだと考えていたんだ」
「……その父親話の真偽はともかくとして、それで? 中学で自分以上の天才にでも出会ったのか?」
「いいや、会えなかった。会えていればどんなに良かっただろうと思うがな。周りの連中の低脳ぶりに対しても、当時の僕は寛容だったよ。『彼らは自分とは違って、天才ではないのだ。だから仕方ないのだ。彼らは彼らなりに精一杯頑張っているのだ。仕方ないのだ』……そう自らに言い聞かせながら、誰に対してもニコニコと愛想良く接していたものさ」
 今にして思えば、まったく、我ながら吐き気を催すほど醜悪な精神だった。
「だが――違ったんだ」
「違った?」
「ある日、父は僕に言ったよ。[よく頑張っているね]、と。[感心感心]、とも」
 静夜は不可解そうに眉をひそめた。
「それが、なんなんだ? よくわからんが、父が子にかける言葉としては普通のもののように思えるが」
「僕は、こう返した。なにも頑張ってなどいません。すべてはあなたの血がもたらした成功です、と。それは偽らざる本心だった」
 そして、その事実が、突きつけられた。
「父はしばらく黙った後、こう言った」

 ●

 ――そろそろ、話してもいいかもしれないね。

 腕を組み、父は穏やかに微笑んだ。

 ――絶無くん。君はきっと、謙遜をしているつもりはないんだろうね。謙遜とは卑怯者のすることだと、そう考えているね?

 もちろんです、と絶無はうなずいた。死んでも謙遜なんかしません。

 ――だけどね、君の今の発言は、図らずも謙遜になってしまっているんだよ。悲しいことにね。

 どういう、ことですか?

 ――絶無くん。僕の愛しき子よ。よく聞くんだ。君は、僕の血を引いていない。

 え。

 ――君はね、昔死んだ僕の戦友の、忘れ形見なんだ。僕と君は、本当の親子じゃないんだよ。

 それまで絶無を優しく包んできた世界に、罅が入った。
 ひょっとしたら、それは世界などではなく、卵の殻に過ぎなかったのかもしれない。

 ――絶無くん。僕はね、ちょっと心配になっているんだ。君はあまりにも〈彼〉に似ている。

 〈彼〉……

 ――そう、君の血縁上の父親のことさ。

 いったい、どんな人物でしたか。やはり僕と同じく天才でしたか。

 ――〈彼〉はね、ひたむきな頑張り屋さんだった。僕に比べれば恐ろしく不器用で、要領の悪い奴だったけど、それでも人の十倍努力し、人の十倍有能だった。君と同じだね。

 そんなはずはない。僕はクラスの面々と同じだけの努力しかしていません。なのに僕のほうが圧倒的に優秀です。つまり僕は天才なのです。

 ――絶無くん。例えば君は、テストで百点を取るためになにをしている?

 教科書を丸暗記します。誰でもしていることです。

 ――いや、しないよ? 普通の人は教科書丸暗記とかそういうことはしない。文法とか公式とか、核となるシステムだけを覚えてなんとかやりくりしているんだ。

 馬鹿な。それじゃあ完璧には程遠いじゃないですか。失点を犯すリスクが大きすぎる。

 ――そうだよ? だから彼らは満点が取れないんだ。君と違ってね。当然の帰結さ。

 な……に……?

 ●

「わかるか、橘」
「さっぱりわからん。要点を言え」
「僕のこの卓越した万能性は、生まれながらに父から受け継いだものなんかじゃなかったということだ」
 拳を、握り締める。やりきれないものを感じる。
「それを知ったときの、僕の気持ちを、どう言い表せばいいだろう」
「……」
「まず最初に、誇らしい気持ちになった。僕が同級生の蒙昧どもより十倍も優れているのは、要するに十倍努力したからだったのだ。僕はこの優秀性を、自らの意志で勝ち取ったのだ。生まれながらに与えられたのではなく、自分の意志で!」
「それはめでたいな」
「そして次の瞬間――絶望した」
「なぜ」
「なぜ、だと!? わからないのか。今まで尊厳ある人間社会の中で生きてきたと思っていたら、実は豚小屋の中に放り込まれていただけだったという事実をいきなり突きつけられたんだぞ!?」
「……何が言いたいのかよくわからん」
「周囲の連中が低脳なのは、才能がなかったからじゃない。努力してないからだ。僕より遥かに努力せず、必然の結果として僕より遥かに劣るような連中のご機嫌をなんで伺ってやらねばならんのだ。ふざけるな、と思ったね。それが普通だと言うのなら、世の中ってのはずいぶん下らないんだな。まるで世界すべてが不潔な豚小屋だ。これが絶望せずにいられるか」
「駄々をこねて泣き喚く子供そのものだな。他人が自分に合わせてくれることを期待しすぎだ。大人になれ」
「お前の言う大人とは何だ? 節を曲げて他人にへつらう生き方のことを言っているのか? だとしたら一生涯そんな下等生物になる気はない」
「お前が言っているのは強者という立場に寄りかかったポジショントークにすぎない。誰しもそういうエゴを飲み込んで折り合って生きている。お前はそれをいいことに、一人だけ我を通して得意がってるだけだ」
「世の中ポジショントークの押し付け合いでバランス取ってんだろうが。他人に一切エゴを押し付けない人間なんて存在してないも同然だろ。一人分の酸素が無駄だから死んだほうがいい。エゴを押し付けられたくないのなら、腕力でも権力でも知力でも財力でも何でもいい、自分のエゴを守れるだけの強さを得るよう努力すべきだ。努力はしないがエゴは押し付けられたくないなんていうその思考が根本的に甘ったれてんだよ。無理だから、それ」
「努力しなければならないことぐらい誰でもわかっている。しかし、誰しもがお前のように努力できるわけではない」
「それでもな、橘……」
 絶無は、声を落とした。
 こみ上げてくるものを堪えながら、言葉を紡ぐ。
「それでも……いたんだよ」
「何がだ」
「何の才能もなく、家は貧困の極みで、ヒキガエルみたいなニキビ顔をし、ひどい吃音を持ち、愚鈍極まる挙動で、あらゆる人間から蔑まれ、罵倒され、学校にいる間中嫌がらせを受け、それでもなお必死に努力を続けた……そういう弱者は、いたんだよ」
 ――おれ、は、おまえ、が、嫌いだ。だから、ありがとう、は、言わ、ない。
 そいつの言葉が、今も胸にこびりついている。どれほど洗い流したくとも、決して落ちぬ。
 怒りとともに。恨みとともに。
「だからこそ……だからこそ、だ。橘」
 絶無は立ち上がり、静夜を正面から見据えた。
「怠惰な無能を憎悪している。死ねばいいのにと常々思う。だけどな、人の心は複雑なんだ。昨日までしょうもない豚野郎だったのが、今日は懸命に修練を積み上げる人間になっているかもしれない。そうならないとは誰にも断言できない。だからな、橘。僕はな。目の前にうごめく弱者どもが、毅然と胸を張って運命に立ち向かう意志を獲得する、その可能性がほんのわずかでもある限り、そいつらの命が脅かされようとしている時は、命をかけて弱者を守る。気の進まない限りだが、それが僕の主義だ。人殺しは殺す。例外はない。どんな事情があろうが斟酌しない。必ず、殺す」
「……傲慢にもほどがある」
「おやおや、珍しく素直な褒め言葉が出たな」
 口の端を吊り上げた。
 絶無は、思う。
 ――橘静夜とザラキエルは、『王の覚悟』を持っているのかも知れない。
 受け取るのではなく、勝ち取ることに意味を見出す心持ち。四肢をもがれ、目と耳と鼻を潰されようと、力の限り前へと這い進む心持ち。
 もしも、こいつらがそうなのだとしたら――
 絶無は、自らの中に、今まで感じたことのないような気持ちがあることを自覚した。
 力強く沸き立つ、快い昂ぶり。
 腹の底に蓄積された高揚感を吐き出すように、絶無はゆっくりと息を吐いた。
「ならばお前たちは、僕の人生に現れた、最初の友になるのかもしれない」
 口の中で、そう呟く。

 ●

『ならばお前たちは、僕の人生に現れた、最初の友になるのかもしれない』
 頭の中に、声が響く。
 秋城風太は、[病室に居ながら]その言葉を聞いていた。
 隠し切れない喜びを、どうにか隠そうとしている口調だった。
 ――きっと、人を褒めることに慣れてないんだろうな。
 そう、思う。
『……なんだ? 今何か言ったか?』
 不審そうな橘静夜の声。
『黙れ野蛮人。独り言にいちいち反応するな』
 風太の頭の中で、こういう奇妙な声がするようになったのは、昨日からだ。久我絶無という人の周りで起こる物音や音声が、なぜか克明に聞こえ始めたのだ。
 恐らくは――界斑璃杏に貰った、コウモリのミイラが原因である。
 あれを久我絶無に強奪されてから、このテレパシー現象がずっとつづいている。コウモリの耳に入った音が、病室にいる風太の元まで届いているのだ。
 どういう仕組みなのかは、よくわからない。
 ただ、今は手元にないあのコウモリと、見えない絆のようなものを感じている。
 脳内に響く久我絶無の会話内容から察するに、どうやら超自然的な事態に自分は巻き込まれたらしい。
 プライバシーもなにもあったものではないが、自分の意志で止められないのだからどうしようもない。
 ……少し、羨ましかった。
 音だけとはいえ、擬似的に久我絶無の生活を体感し、さまざまなことがわかった。
 彼は、悩まない。
 そうした心の動きを、怠惰な人間が自分の無能さから目をそらすために行うもっとも卑劣な行為であると考えている。
 問題の本質を理解し、情報を集め、対策を考案し、断固として実行する。
 そういうプロセスが、ほとんど本能と一体化しているのだ。
 ――それは、人の在り方ではない。
 風太は軽く息をつく。
 他人と目を合わせるだけでも勇気が必要な性分だ。何をやっても人並み以下。そのくせ自尊心だけは普通にあるのだからたまらない。屈辱に耐え、うつむきながら、嫌なことが通り過ぎていくのを待つ。それが風太の人生における基本姿勢である。
 ――きっとこの人は、なんでも苦労せずにできてしまうんだろうな。
 膝を抱えながら、そう思う。
 足首はもう、治っていた。もともと脱臼しただけだったので、数日の入院で歩く分にはほぼ支障がないレベルまで回復している。医師は驚異的な回復速度だと驚いていたが、ぴんとこない。
 明日、退院だ。
 また、学校に行かなければならない。
 気が重くなる。
「学校なんて、なくなればいいのに」
 陰々と、つぶやく。しかし学校をやめて自分の人生を模索できるような度胸も能力もないのであった。
『……なんだ、これは』
『ふん、来たか』
 不穏な声が、数キロの距離を隔てて聞こえてくる。
 ――なんだろう……?
 風太は耳をそばだてた。

 ●

 校舎は、騒然としていた。
 不安げなざわめきが、そこかしこで上がっている。
「……なんだ、これは」
「ふん、来たか」
 絶無と静夜は、中庭のベンチに座ったまま、その様子を見ていた。
 ……辺りは、濃厚な闇に包まれていた。
 ついさっきまで昼の日差しが降り注いでいたにも関わらず、一瞬にして夜になってしまったのだ。空には月も星もなく、押し潰されそうな漆黒がどこまでもつづいている。
 ――界斑璃杏か。
 即座に直感する。
『恐らく、堕骸装(アンゲロス)の事象変換ですね。界斑璃杏の手駒の一人でしょう』
「つまり襲撃か? 今ここで?」
 静夜が不可解そうに眉をひそめた。
 絶無は鼻で笑う。
「どうやらあの愚図の捜査能力では、僕がこの学校に通っていることまでしか突き止められなかったようだな。辛抱の足らんガキはこれだから困る」
「しかし、大勢に見られるぞ。界斑なにがしはどうやってもみ消すつもりなんだ」
『隠蔽するつもりなどないのでしょう。この夜天化能力は、《平穏の座》に連なる悪魔に多く見られる事象変換です。周囲一帯を世界から切り離し、入ることも出ることも不可能な空間を作り出しているわけですね』
 静夜が立ち上がった。
 中庭を囲む校舎で、ぽつぽつと明かりが灯り始めている。
「つまり、あれか? 学校を閉鎖空間にして逃げ場を絶ち、中にいる人間を皆殺しにしようと?」
『えぇ、見過ごしては置けません。第三世代(スローンズ)より古い悪魔ならば、通常の物理法則に加えて何らかのルールを空間内に押し付けることができる個体も多くなります。小生も前回の魔戦(メギド)では彼らに苦労させられたものです』
 瞬間、恐怖に満ちた悲鳴が、学校を引き裂いていった。
 静夜は小さく毒づく。
「……久我、少し離れていろ」
「ふん」
 立ち上がって五メートルほど後ろに下がる。
 静夜は体を半身に開き、分厚い手錠に手をかけていた。
 鋼の環が、自ら鮮烈な光を放つ。

「――骸装」

 静夜の口から、深く鋭いエコーのかかった声が広がる。決して大きくはないが、周囲に殷々と反響してゆく声だった。
 蛍火のような光の粒子が、静夜の周囲にぽつぽつと出現してゆく。燐色の軌跡を曳きながら、無数の光点が衛星のように回り始めた。
 回転速度は急速に上がってゆく。まるで光の竜巻のようだ。同時に回転半径も小さくなってゆき、ぎゅっと収縮。そして静夜の体に重なった瞬間――
 ひときわ眩い閃光が中庭を白く灼いた。大気が押し広げられ、壁のような風圧が全方位に発散。
 絶無は顔を庇いながら、じっと見ている。
 やがて、光が収まる。
 ――そこに、人型の要塞が出現していた。
 亀裂のような黄金の魔眼が、絶無を捉える。
『久我、お前はどこかに隠れていろ』
 城壁のように厳めしい肩を軽く回す。校舎から漏れ出る電灯の光が、青銀色の総身に複雑な光沢を与えていた。
 重厚な具足で中庭を踏みしめ、やや前屈姿勢をとる。
 即座に両肩の装甲が展開。青白い炎を激しく噴出し、鋼鉄の巨体は弾かれたように飛び出した。
 校舎のコンクリート壁を発泡スチロールのように突破。悲鳴の方へと一直線に突貫する。
「やれやれ、ドン・キホーテめ」
 肩をすくめ、絶無は別の方向に歩みだした。
 もちろん、大人しく隠れるつもりなど毛頭なかった。
 校舎の陰にいる黒澱さんと合流。
 恐怖と不安の色が濃い彼女に、微笑みかける。
「大丈夫。僕がなんとかします。あとはどれだけ人死にを抑えられるかの問題です」
 ――まず、夜天結界が覆っている範囲について。
 私立孤蘭学院高等学校の敷地を完全に覆い尽くす巨大なお椀を仮定してみる。
 結界を作り出している堕骸装(アンゲロス)の居場所として真っ先に想起されるのは、なんといっても半球の中心点であろう。
 いささか根拠には欠けるが、至極妥当な推論と言うものである。
 ――第一校舎西側あたり、か?
 出来れば結界の外周を確認して孤の角度から正確に中心点を算出したいところだが、今はそんな時間はない。
 絶無は、今後の指針について思案した。
「……まず、用務員室。次に放送室へ向かいます」
 こくこくこく。
「はぐれると危ないので、お手を拝借してもよろしいでしょうか?」
 こ…こくこく。
 少し頬を染めた黒澱さんは、おずおずと青白い手を差し出してくる。
 世の中にこれほど柔らかいものがあるのかと感嘆を覚える手触りを、ふにふにといつまでも味わっていたい気持ちになるが、自省。彼女の手を引き、校内を駆け出した。
 そこかしこで、恐慌と悲鳴と残虐の気配が漂ってくる。
 界斑璃杏と、奴の制御下にある堕骸装(アンゲロス)たちが、思うさま認識子(グノシオン)の詰まった血袋を食い散らかしているのだ。
 生徒たちが、殺されてゆく。
 ――可能性が、喪われてゆく。
 歯が、軋る。
《おこってる/すごく/まもる?/弱いもの/わたしみたいな/おこってる/あれほどきらっているのに?/まもる?/たすける?/それでも?》
 ――それでも、です。
 可能性の亡者たらんと、自らに課するのだ。殺人とは可能性への究極的な冒涜である。断固とした姿勢で挑まねばならない。
 人殺しは殺す。必ず、殺す。

 ●

 いくつかの壁を突き破り、十秒とかからずに橘静夜は悲鳴の発生源に到着した。
 下駄箱が連なる一角で、饐えた匂いが立ち込めている。
「ヒッ、ひぃ……っ!」
 一人の男子生徒が、尻餅をついている。
 その視線の先には――案の定、堕骸装(アンゲロス)である。
 ――ぶるぶるぶるぶるぶる! ぶるぶるぶるぶるぶる!
 巨大な芋虫そのものの頭をしきりに振り立てながら、汚猥な粘液を撒き散らしている。
 頭の先からは、細かい繊毛の生えた触手が数本伸びているようだった。
 いや、それを頭と称しても良いものか。人間の上半身を多い尽くすように、あらゆる方向へ巨大な芋虫が顔を出しているのだ。
 冒涜の肉花。
 足元には、槍衾のように無数の孔が穿たれた血まみれの死体が三つ、転がっていた。
 いずれも、制服を着ている。顔もわからないほどの損壊ぶりであった。
 ぎりり、と、巨大な拳を握り締める。
《静夜、魔戦(メギド)が始まれば、こういった光景は何度でも繰り返されることになります》
 頭の中で、ザラキエルの声がする。
『わかっている。速やかに処分しよう』
 怒りを努めて抑えながら、応える。
 静夜は恐慌に陥っている男子生徒の襟をつまむと、強引に立ち上がらせた。
『どこかに隠れていろ』
「ひぇぇ~!」
 こけつまろびつ走り去ってゆく。
 ――ぶるぶるぶるぶるぶる!
 次の瞬間、矢のように飛んできた触手群を一握で掴み取った。
 雷光のごとき動き。静夜以外の誰にも不可能な反応速度。
『さて……お前たちが悪いわけではないが――』
 ぐじゅりと握り潰しながら、睨みつける。
『――少し、痛い目を見てもらおうか』
 力を込めて、腕を引く。
 こちらにつんのめる堕骸装(アンゲロス)。
 床を砕く勢いで踏み込んだ静夜は、異形の巨腕を開き、五つの禍々しい鉤爪を撃ち込んだ。
 まるで豆腐のような手ごたえと共に、黄土色の体液が盛大に吹き上がる。芋虫の頭がいつくか抉り飛ばされ、床で激しく痙攣した。
 振り抜いた腕を、今度は裏拳の形で薙ぎ払う。
 濡れ雑巾を叩きつけたような音とともに、醜怪な肉花は吹き飛んでゆく。
 ――こんなものだ。
 凶器に等しい両腕を苛烈に振るいながら、静夜は苦い思いを噛み締めている。
 もとより、相手にならないのだ。堕骸装(アンゲロス)と霊骸装(アルコンテス)の間には、厳然とした差がある。
 自己認識の有無――つまり自らが存在していることへの本質的な理解があるかどうか。
 これが万全に備わっている人間(ほとんどがそうなのだが)と悪魔が契約すれば、認識の循環構造の中に自らを組み込むことにより、自動的に認識子(グノシオン)を生み出す回路を構築できる。生産速度に限界はあるものの、半永久的に認識子(グノシオン)を安定供給できるし、それを戦闘に利用すれば、
 ――まぁこの程度にはなる。
 芋虫の集合体に拳を深々と打ち込む。体液が吹き上がる。
 しかし、堕骸装(アンゲロス)にはそんなことはできない。人間側の認識能力に不備が生じているため、認識子(グノシオン)の生産回路が構築されず、その力は自ずと限定されたものとなってしまう(この不備を補うため、堕骸装(アンゲロス)は本能的に人間を殺傷し、その中に蓄えられた認識子(グノシオン)を吸収しようとする)。
 だから、静夜は堕骸装(アンゲロス)に苦戦したことがない。強敵として記憶されるのは、例外なく霊骸装(アルコンテス)である。
 ――にも関わらず。
 異形の肉塊を殴り潰し、削り潰し、叩き潰しながら、静夜は歯噛みする。
『俺は、いつも間に合わない……』
 ぞぶり、と緑の腐肉の中にガントレットを突っ込み、そのまま持ち上げると、背後の壁へと振り向きざまに叩き付けた。
 轟音。コンクリート壁が脆い土のように粉砕される。黄色い粘液が、放射状に飛び散る。
 それが、とどめとなった。原形もわからぬほどに破壊しつくされた肉花は、わずかに発光しながら蒸発してゆく。
 認識子(グノシオン)の貯蔵が底を突き、骸装態を維持できなくなったのだ。抉り飛ばされた肉片や体液も、風に吹かれるように消えてゆく。
《静夜、あなたは現状ではよくやっています。必要以上に自分を責めるべきではない》
『だがな、ザラキ。俺はこれに関して、妥協なんかすべきではないと思う』
 刻々と舞い散ってゆく光の粒子の中から、横たわった少年が現れる。顔を横に傾けながら、のんきなイビキが聞こえてくる。
 堕骸装(アンゲロス)の宿主だ。
《まぁ、向上心があるのは良いことです。もう少し半端な覚悟でヒーローやったほうが、あなたのためには良いと思いますがね》
『無用な気遣いだ。次、行くぞ』
《あ、言い忘れていましたが、ザラキエルです。最後のエルが重要なのです》
 両肩で認識子(グノシオン)の炎を勢い良く噴射。次なる敵を探して、鋼鉄の騎士は一個の弾体と化した。
 ……と。
 その瞬間、学校中のスピーカーが一斉に音声を発した。
『あー、あー、生きる価値ゼロなゴミ野郎の代表格であるところの界斑璃杏に告ぐ。生きる価値ゼロなゴミ野郎の代表格であるところの界斑璃杏に告ぐ。聞こえているか? このカスが』
 少しくぐもっていたが、紛れもなく久我絶無の声だった。
『辛抱の足らんフナムシ風情の考えることは本当にお粗末だな。脳みそをママの腹に忘れてきたのか? そんなだから僕の住所ひとつ特定できないんだよ間抜け。ウジムシ。下衆下郎。さて、今回の放送の意図を、愚かで哀れでこの先生きていたって何一つ良いことなどないであろうオマエでもわかるように説明してやろう。泣いて喜ぶべきだ』
 ――何をやっているんだあの莫迦は! 死にたいのか!
 静夜は拳を握り締め、急激に方向転換。放送室に向かう。
『――僕はここにいる。僕を殺したいのなら来るがいい。もちろん罠だがな』
 言いたいことだけ言って、ぶつりと放送は切れた。

 ●

 ――界斑璃杏。
 その名を聞いたとき、秋城風太は自分の肩がびくりと震えるのを感じた。
「界斑、さん……?」
 それは甘い痛みを伴った名前。
 退屈と不安で満たされた日常に、突如現れた少女。
 ――風太お兄ちゃんはぁ、璃杏ちゃんの堕骸装(あんげろす)なんですぅ!
 キラキラとした目を風太に向けながら、彼女はそう言った。
 ――おねがい、璃杏ちゃんと一緒に戦って? ね、ね、おねがい~。
 現代に生きる高校生のご多分に漏れず、閉塞感の奴隷と化していた風太は、むしろ自分から頼む勢いで、嬉々として彼女の軍門に下った。
 堕骸装(アンゲロス)という言葉の意味も知らずに。
 ――これで、変わる。
 きっと僕は、彼女と共に苦楽を乗り越え、なにか生きる力のようなものを成長させられるのだろう。
 選ばれたのだ。
 そう、思っていた。
 だが。
「……っ」
 たまらないものがこみ上げる。
 ――お前は特別なんかじゃない。あの女は、お前以外にもたくさんの男に同じことを言い、手駒にしているんだよ。
 久我絶無の言葉が、重くのしかかってくる。
「どうすれば良かったっていうんだ……!」
 あの人には、弱い人間の気持ちなんて、わからないのだ。
 歯を食いしばる。
 ――確かめよう。
 界斑さんが、本当に久我絶無の言うような人なのかどうか。
 風太は立ち上がると、窓枠を乗り越えて病室から抜け出した。

 ●

 ――どいつもこいつも役立たずばっかりですぅ。
 界斑璃杏は、こめかみをひくつかせる。
 久我絶無の不愉快極まる放送を聞いた彼女は、この挑発に乗ることにした。どうせ相手は悪魔憑きでもなんでもないただの人間である。本来ならば手駒の堕骸装(アンゲロス)を一体差し向けるだけで十分すぎるのだが、「もちろん罠だがな」などとあからさまな挑発を行ってきた以上、それなりの備えはあるのだろう。
 相手を舐めてかかるのはやめる。学校の各所で虐殺を繰り広げている手駒たちを一斉に放送室へと向かわせた。
 のだが。
 ぎりり、と歯が軋る。
『久我ァ! どこだッ!』
 青銀色の巨体が、放送室で暴れ回っている。
 ――なんでこいつがここにいるですか!
 鋼鉄の巨腕が振るわれるたびに堕骸装(アンゲロス)たちの肉体は裂け、潰れ、色とりどりの体液がしぶく。豪壮な体格に似合った、重く鋭い踏み込みによって放送室は揺さぶられ、寒気を催すほどの力で手駒が壁に叩きつけられる。
 界斑璃杏は、この霊骸装(アルコンテス)を知っている。
 これまで手駒の堕骸装(アンゲロス)たちを何体も葬り去ってきた、ヒーロー気取りのくそ虫ちゃん。
 今回の襲撃は、もともと久我絶無を惨たらしく殺すために行ったものである。この重騎士が介入してこないように、空間閉鎖能力を持った手駒に学校を封鎖させていたはずなのだ。
 なのに、なぜ。
 首を振り、懊悩を追い出す。
『今は勝つことだけ考えるですぅ!』
《いいと思うよ》
 璃杏と契約した悪魔――ツァバエルも同意した。
 全身を充溢する認識子(グノシオン)を練り上げ、事象変換。離れた場所にいる手駒どもに璃杏の指示を飛ばす。
 タイムラグは一切なく、慣れれば対象が自分そのものであるかのような精度で操ることが出来る。《平穏の座》に連なる悪魔としては珍しい、強力な精神操作系能力である。
『認識子(ぐのしおん)送ってやるですぅ! そのクソ虫ちゃんをバラバラにしちゃうですぅ!』
《いいと思うよ》
 霊的な径(パス)を通じて、手駒たちに活力を分け与える。
 放送室に集結させた手駒は七体。そのうち二体はすでに重騎士によって倒されている。
 残る五体に、璃杏とツァバエルの認識子(グノシオン)が供給された。損壊した肉塊の傷口からぐじゅぐじゅと再生が始まる。
『むっ……』
 重騎士は、フードが形作る闇影の奥で、黄金の魔眼をしかめた。堕骸装(アンゲロス)が再生能力を発揮するとは思っていなかったのだろう。
『……いいだろう、倒れるまで潰し続けるとしよう』
 破城槌を思わせる拳を握り締め、身を屈めた。瞬間、背中から認識子(グノシオン)が噴射され、爆発的に突進。
 向かう先には、口と眼と鼻と耳から異常に長い舌を生やした堕骸装(アンゲロス)がいた。人間の面影を残す姿だが、白くぶよぶよとした体は肥大化し、歪んでいる。
 重騎士は空中で身を捻り、拳を大きく振りかぶった。
 砲弾を凌駕する一撃が、激震する。
 濡れた雑巾を叩きつけたような音。手駒の頭部が消し飛ぶ――と同時に、別の堕骸装(アンゲロス)が横合いから爪を閃かせた。
 火花が上がる。青銀の前腕部装甲に受け止められたのだ。
 冗談のような反応速度。
 さらに四方から肉塊が殺到する。触手、節足、爪牙、毒棘――あらゆる攻撃器官が襲い掛かる。
 硬質の悲鳴が連続する。
『ちっ』
 璃杏と重騎士の舌打ちが、同時に響く。
 ――外れている。
 五体がかりの同時攻撃に、重騎士は対応して見せた。巨大なガントレットが、重量を感じさせない速度で動き回り、すべての襲撃を止め続けている。鈍い光沢の装甲には、傷ひとつつかない。
 ――どれだけガンジョーな骸装態ですか!
『えぇ~い! このまま押し切ってやるですぅ~!』
《いいと思うよ》
 恐らく、頑丈なのは前腕部のみだ。いそがしく両腕を動かして防御行動をとっていることからも、それは明らかだ。ならば、いつかは敵の集中力も途絶え、こちらの一撃が通るはずである。
 そう思い直し、璃杏は次々と手駒たちに指示を飛ばした。
 が。
『……面倒だ』
 重騎士を中心に光の爆発が起こった。
 実際には幾筋もの閃光が走り抜けただけなのだが、数の多さと眩さから、璃杏の眼には爆発のように感じられたのだ。
 群がっていた手駒たちが一斉に吹き飛んでゆく。
『ひっ』
 反射的に、璃杏は手駒とのチャンネルを切った。激しい光を直視するのは、まずいのだ。非常にまずい。
 数瞬後、恐る恐るチャンネルを回復させる。
 四方に吹き飛ばされた手駒たちが、のろのろと立ち上がりかけているところだった。
 震える音叉にも似た唸りが、殷々と放送室を満たしている。
『今の、なんですぅ……?』
 見ると、重騎士の周囲に、半透明の円盤が浮遊していた。
 その数、四つ。
 薄く、眩く、鋭く、冷たく。
 凍えるような光を湛えて、円盤は漂っている。
 あたかも騎士に仕える従者のごとく。完璧な秩序のもとに運行する星々のごとく。
『四つまで使うことになるとはな。統率された堕骸装(アンゲロス)がここまで厄介とは思わなかった』
 重騎士は静かに言葉を紡ぐ。
『が――駄目だ。志のない刃を何度連ねようと、俺たちの命には届かない』
 黄金の魔眼が、手駒たちを――その奥の璃杏を――睨みつけた。
 一瞬、呼吸を忘れるような眼差しだった。
『お別れだ』
 瞬間、四つの円盤が攻撃的な唸りを発しながら殺到してきた。
 閃光の乱舞。
 黄色い粘液が盛大に噴き上がる。
 一瞬にして、堕骸装(アンゲロス)たちの体が刻み裂かれた。
 鋭角的に軌道を変化させ、大気に燐光の軌跡を描きながら、斬撃光輪は殺戮の舞踏を繰り広げる。
 恐らく――その正体は高速回転する刃物。
 鎧の一部が変形し、自在に動く投刃と化しているのだ。
『こ、こ、この、この……!』
 璃杏は、自らの痙攣を感じていた。
 頬が、こめかみが、目蓋が、鼻孔が。
 びくびくと、びくびくと。
 苦労して産み落とした手駒たちが、次々と肉塊に変えられてゆく。
 その事実が、不可解であった。
『許せないですぅ! どうしてそんなひどいことするですかぁ~!』
 最後に見た光景は、唸りを上げながら迫りくる鋼鉄の拳。
 指の付け根――拳骨部分から鋭い突起が突き出した、凶悪な拳であった。

『ひっどぉ~い! ひどいひどいひどい!』
《いいと思うよ》
 手駒を介した遠視が途切れ、界斑璃杏は自らの肉体に戻ってきていた。
 蟻走感にもにた苛立ちを振り払うべく、半透明の腕を薙ぎ払った。校舎の壁が粉砕され、盛大に粉塵を撒き散らす。
 その姿は、浮遊する巨大なクリオネと言うべきものだった。
 光を透過するゼラチン質の巨体。
 房錘形の胴体から、ぱたぱたと動く二つのヒレが生え、その上に猫の耳のようなものが生えた丸い頭部が乗っている。
 一見、愛らしいとすら言える姿形であったが――
『信じられないですぅ! どーしてあんなに璃杏ちゃんをいじめるですかぁ~!』
《いいと思うよ》
 頭部が二つに割れ、中で折りたたまれていた六本の腕が一斉に伸ばされる。
 半透明の五指を持つ、優美で繊細な女性の腕。ただしそのサイズは規格外であり、撒き散らされる破壊も尋常なものではなかったが。
『殺す殺す殺す! 殺してやるぅ! 殺してやるぅ!』
《いいと思うよ》
 轟音を伴うストレス解消。腕が振るわれる度に、ガラスは割れ、壁は砕け、さっき雑巾みたいにねじり殺してやった生徒の惨殺死体が細切れの肉塊と化してゆく。
 胴体の中央には、ねじくれた古い樹木のような硬質の骨格が存在していた。まるで水晶の珠を包む魔女の指のように、球状の空間を作り出している。
 その内部に、膝を抱えて胎児のごとく体を丸めた少女が納まっていた。
 一糸纏わぬ姿で、まどろむように目を閉じている。艶やかな金髪が、海草のようにうねっていた。幼く整った顔。痛々しいほどに細い肢体。
 界斑璃杏の姿である。
 ようやく気分が落ち着いてきたのか、荒ぶる腕たちはクリオネの頭部へと収まってゆく。
『……ふふん、まぁいいですぅ。あんなのごく一部ですぅ。そのへんで逃げ惑ってるくそ虫ちゃんたちに堕骸装(アンゲロス)を植え付けて、手駒にしてやるですぅ』
《いいと思うよ》
 ツァバエルはいつも賛同してくれる。璃杏は今、この優しい悪魔と確かな絆を感じていた。
 ――璃杏ちゃんのことをわかってくれるのは、ツァバエルだけですぅ。
 ツァバエルがその胎の中に収めている堕骸装(アンゲロス)は、残り十五体。これらを片端から学園の生徒たちに産み付けて、重騎士に再戦を挑ませる。
 いくらなんでも十五体いれば勝てるはずだ。
 界斑璃杏は――霊骸装(アルコンテス)ツァバエルは、音もなく宙をすべるように移動を開始した。
 と――その時、あり得ないことが起こる。
 ほとんど廃墟と化すまでに破壊された校舎に、暖かい光が差し込み始めたのだ。
『えっ……?』
 空を見上げる。
 私立孤蘭学院高等学校全域を覆っていた、漆黒の球殻型結界。
 一切の出入りを禁じ、明けない夜のなかに閉じ込めていた処刑場。
 それが、錆びて剥落するかのように崩壊してゆく。
『なんでっ!?』
 崩壊が進むたびに青空の領域は増えてゆき、周囲は加速度的に明るくなってゆく。
 璃杏は、慌てて手駒の一体へと意識のチャンネルを合わせた。
 瞬間、信じがたい光景が広がった。

 ●

 もちろん、放送室でぼさっと待っているわけがないのである。
 久我絶無は薄ら笑いを浮かべながら、渾身の力を込めて腕を振り下ろしていた。
 そのたびに、黄色い体液が吹き上がる。
 手に持っているのは、大型のシャベルである。
 ――予想外なまでに予想通りだ。
 界斑璃杏の、あの精神修養の足りなさそうな態度から考えて、放送による挑発に乗ってくるであろうことはほとんど確信していた。
 同時に、橘静夜の気質も加味すれば、彼らが放送室で鉢合わせになるであろうことは簡単に予想がつく。
 この瞬間、校内に存在する悪魔憑きどもは放送室に集結する形になるのである。
 ただし、ふたつほど例外がある。
 ひとつは界斑璃杏。わざわざ「罠だがな」などと明言されている場所に自ら向かうほど肝は太くないだろう。まぁこれは仕方がない。
 そして、もうひとつ。
 学校を閉鎖している、黒の障壁。
 これを生み出している堕骸装(アンゲロス)が、どこかにいるはずである。
 もちろん、結界の外側にいる可能性も考えてはいたが……
 ――ほぼそれはないであろう、と思っていた。
 そもそも何故結界など張ったのか。
 絶無を逃がさないためもあるだろうが、一番の理由は重騎士の介入を防ぎたかったからだ。界斑璃杏は重騎士が橘静夜であることなど知らないし、最初からこの学校にいることも知らない。外からやってくるであろう最大の敵を警戒して防御壁を張り巡らせていたことは想像に難くない。
 ――であるならば。
 結界を生み出している堕骸装(アンゲロス)は、結界の内側にいるはずである。
 この推論をもとに、パニックに陥っていた下僕どもを叱咤して、校内全域を捜索させ――その結果、あっさりと見つかった。
 そして今。
 絶無は目の前の奇怪な生物を、容赦なく叩き潰そうとしている。
 人間よりも一回り巨大な雄鶏が、断末魔の痙攣を上げている。羽毛はなく、細長い芋のような体つきであった。全身にぶよぶよと膨れた芽を生やし、その先端から大小さまざまな大きさの雄鶏が首を振りたくっている。
 無数の嘴が、無数の絶叫を上げていた。
「黙れ。不愉快だ」
 一切の慈悲なく、黄色く濡れたシャベルの刃を打ち下ろす。
 最初はこの無数の鶏頭を弾丸のように飛ばして攻撃してきたものだが、もはやその体力もないようであった。
 全身がぐずぐずに耕され、弱々しい痙攣しかできない。
「動くな。目障りだ」
 ひときわ力を込めて、体の端にある最も大きな頭を叩き潰した。
「救いようのない生ゴミがァ……!」
 そのままシャベルに足をかけ、踏み砕く。
 瞬間、雄鶏の全身が光の粒子と化して、大気に溶け散っていった。
「おやおや、死に際だけはなかなかじゃないか」
 冷淡な笑みを浮かべながら、粒子の乱舞を眺めやる。
 やがて、横たわる少年の姿だけがそこに残された。腹が立つほどのんきな寝息を立てている。
「絶無さま!」
 後ろから、艶やかな声がした。
 振り向くと、腰まで届く黒髪を揺らした少女が駆け寄ってきている。
「お見事でございます。偉大な御方とは思っておりましたが、敬服の念を新たにさせていただきますわ」
 華道部部長の詩崎(しざき)鏡香(きょうか)。以前、部がらみのトラブルを解決してやった縁で、自ら絶無に忠誠を誓った女である。
 和服の似合いそうな佳人であり、立ち振る舞いも優雅。絶無に敬意を払っていても決して媚びた態度は取らないその人品は、なかなかに見所があった。
 彼女の後ろに、華道部の面々も付き従っている。こちらはかなり怯えと憔悴が見える面持ちだった。
「今の生ゴミは戦闘向きの超常能力を何も持ってはいなかった。だから楽に処理できた。他の奴はこうはいかん」
「それでも、偉大な行いでしたわ。ほら、空が元通りになってゆきます」
 詩崎の言うとおり、窓から燦々と陽光が差し込んできている。
 雄鶏の堕骸装(アンゲロス)を殺したことにより、結界が消滅したのだ。
「これで避難ができるな。さっさと逃げろ。今回のことはよくやった。お前たちの勇気と忠誠には必ず報いるとしよう」
 実際、この混乱の中でまともに絶無の命令を遂行したのは華道部だけであった。
 諜報・捜索要員として、ここまで優秀とは予想外である。
「絶無さまはどうなさいますの?」
「まだやるべきことがある」
「で、でしたら、わたくしもお供いたしますわ。何かのお役に立てるやも……」
「いらん。足手まといだ。大人しく自分の命だけ考えていろ」
 見れば、彼女の足はかすかに震えている。
 常に余裕と気品をもって動く才女も、さすがに閉鎖環境で怪物が殺戮を繰り広げるような異常事態には恐怖を隠せないようだった。
「し、しかし」
「分を弁えろ。お前に期待する働きは荒事ではない。必要ならばこちらから命令する」
「……はい……出すぎた真似をいたしました」
 渋いものを飲み込んだ表情で、詩崎は引き下がる。
 絶無はシャベルを担ぎなおし、床に落ちていた金属バットを拾い上げると、断固たる決意をもって歩み始めた。

 ●

 ――絶無くん。有害なクズは死んでいいと思わないかい?

 穏やかで柔らかな声が、絶無の脳裏で反響している。
 過去の記憶。己の天才性に疑いを持たず、無垢な幸福に包まれていた頃の思い出だ。
 見上げるほど大きな父が、しゃがみこんで絶無と視線を合わせ、微笑んでいた。
 おもいますっ、と一切の迷いなく絶無は応えた。

 ――ありがとう、絶無くん。きみは僕の自慢の息子だ。

 大きな手が、くしゃりと頭を撫でてくれた。

 ――じゃあ、無害なクズはどうする?

 まもりますっ、と元気良く絶無は応えた。
 いのちにかえてもっ!
 ……ところが父は、悲しげに首を振った。

 ――お父さんはその気高き思想に敬意を表するよ。でも、ダメだ。他の誰がやろうとも、きみだけはそれをしてはならない。

 どうしてですか? と眉尻を下げて、絶無は聞いた。

 ――この世にきみより大事な命なんてないからさ。きみは僕のすべてを受け継いで大人になってゆく。つまり史上最も偉大な人物になるんだ。

 絶無はただ黙って、父の話に耳を傾ける。

 ――だから、ダメだ。いくら無害といっても、クズはクズ。至尊の命を放り出してまでそれを救うなんて、許されることじゃあない。きみは自分の価値をもっと自覚すべきだ。

 そして最後に、父はこう言った。

 ――絶無くん、なにかと引き換えになにかを得るなんていうのは、怠惰な無能のやることなんだよ。僕たちは、彼らとは違う在り方をもって世界と対峙しなくてはならない。欲するものはすべて、どんな手を使ってでも勝ち取るべきだ。霊長たる中でも最も高貴な魂を持つ僕たちに課せられた、それは権利にして義務なんだ。もちろん、簡単なことじゃない。世の中の無能どもは口をそろえて無理だと言い立てるだろう。だけど恐れてはならない。きみがきみであるために。

「僕が、僕であるために」
 絶無は、目を開けた。
 視界には、逃げ惑う生徒でごったがえす校門が映っている。
「父親を尊敬できる人間は、幸福だ」
 誰に言うともなく、呟く。
「そして……僕はこの世で最も幸福な人間だ」
 思考を切り替える。幸福な追想の残滓を、ひとまず仕舞った。
 校舎の影に身を寄せながら、鋭く校門を睥睨する。
 ……学校内に重騎士がいて、その上結界も破られた。
 かかる状況下で、界斑璃杏はどんな挙に出るか?
 その答えが、目の前で展開された。
 校舎の一角が轟音と共に突き崩れ、粉塵の中から奇妙なシルエットが姿を現す。
 太い紡錘形の胴体に、ヒレとも翼ともつかぬものが生えている。その上に、獣の耳のような突起を二つ備えた丸い頭部が乗っかっていた。
 氷の妖精などとたわけた通称で知られる巻き貝の一種――クリオネに似ている。
 しかしサイズは桁違いだ。普通のクリオネは二センチ以下の生き物だが、こいつは二メートルを優に越えている。
 そんなものが空中を滑るように移動しているのだから、かなり眩暈のする光景ではある。
 ゼラチン質の体を透かして見える内部には、ねじくれた肋骨のようなものがあり、それに包み込まれるようにして、ひとりの少女が膝を抱えていた。
 界斑璃杏か。
 ――当然、こうなる。
 夜天結界は絶無や他の生徒たちを逃がさないためのものでもある。それが破られた以上、慌てて校門前に移動してくることは読めていた。
 探しているのだ。
 絶無の姿を、血眼になって。
 霊骸装(アルコンテス)がどのような形で周囲の状況を察しているのかは不明だが、核となるのが人間である以上、視覚や聴覚などはそのまま残っていると考えて間違いない。
 ここに、絶無の戦略は最終段階を迎える。
 ポケットをまさぐり、化学準備室からちょろまかしてきた三本の試験管を握りしめる。
 中には、マグネシウムとアルミニウムの粉末その他が詰められていた。
 ――作戦を確認する。
 これから絶無は、校舎の影より飛び出し、界斑璃杏を挑発する。当然、奴は大喜びでこちらに襲いかかるだろう。すかさず試験管の口から伸びる導線に点火、投げつける。敵の目の前で内容物質が燃焼反応を始め、激烈な光を放つ。
 もちろん、こんなもので霊骸装(アルコンテス)が倒せるはずもない。
 だが――霊骸装(アルコンテス)には効かずとも、界斑璃杏には効く。
 彼女は、幼少期より光感受性の癲癇を患っている。何らかの刺激に対して、脳の神経細胞が異常な発熱と発電を繰り返し、痙攣症状や意識障害を発生させる病である。
 界斑の場合、急激な光の変化に非常に弱い。
 ――そこを、突く。
 卑怯などとはまったく思わない。むしろ、そんなあからさまな弱点がこちらに筒抜けになるような資料を家に残したまま出奔し、その上何の対策も取らずに殺し合いを始める界斑璃杏の神経が理解できない。どれだけ危機意識が欠けているのか。
 絶無手製の簡易閃光手榴弾により、造作もなく界斑璃杏は意識障害を引き起こす。
 さて――悪魔憑きが骸装中に意識を失った場合、どうなるか。
 考えるまでもなく、認識の環が断たれ、堕骸装(アンゲロス)へと失墜する。
 奴の超常能力――ザラキエルの言葉を借りるなら事象変換――は、他の悪魔を堕骸装(アンゲロス)に貶めて使役する遠隔操作能力だ。直接戦闘の役には立たない。
 ――つまり、勝てる。
 まったく問題なく、絶無はシャベルにて惨殺処刑を執り行うだろう。
 もちろん、実際には不測の事態が発生する可能性は十分にありうるが――この他に用意しておいた諸々の保険措置と、自身のアドリブ能力を冷静に評価した結果、命を賭けるに値する勝率であると結論付けた。
 絶無は眼鏡を中指で押し上げると、傍らのシャベルを引っ掴み、一歩踏み出す。
「ま、待ってください!」
 声がした。どこか聞き覚えのある声だった。
 横に目をやる。
 ひとりの少年が、息を切らして膝に手を突いていた。
「待って……ください……」
 少年は顔を上げた。
 秋城風太だ。病院を抜け出てきたのか。
「待たん。僕はこれから、奴を処刑する」
「で、でも……」
 口ごもる。
「でも、何だ? 論旨も定まっていないうちから口を開くのはやめろ。阿呆がうつる」
 苛立ち混じりにそう吐き捨てると、絶無は風太に背を向けた。

 ●

 ――どうすればいいんだ。
 秋城風太は半ばパニックに陥っていた。
 界斑璃杏の名を聞き、慌てて病院から駆けつけたはいいが、そもそも学校に着いてから具体的にどうするのかということをほとんど何も考えていなかったのだ。
 ――そもそも僕はどうしたいんだ!
 それがよくわからない。界斑さんを助けたいのか? そして彼女に気に入られたいのか? 再び操り人形となって、夜毎に血生臭いことをやらされたいのか?
 そういうことでは、ないような気がする。
 ……目の前で、久我絶無が、歩み去ろうとしている。
 まずい。
 多分この人は、十分な勝算をもって界斑璃杏に挑もうとしている。
 丸一日彼の言動を聴いてきた風太は、久我絶無が卑屈や過信からは縁遠い人物であることをよく知っていた。
 どんな作戦を立てているのかはわからないが、恐らくそれは成功するだろう。
 たまらない焦りが、ちろちろと肺腑を舐め上げた。
 ――それはダメだ。
 上手く説明できないが、とにかくそれはイヤだった。
「待ってください!」
「待たん」
 にべもない。風太は咄嗟に言い返す。
「僕にやらせてください!」
 焦りのあまり、売り言葉に買い言葉でわけのわからないことを言ってしまった。
 ――え!?
 自分で混乱する。
「……なに?」
 しかも久我絶無は、よりにもよってこの言葉に興味を引かれたようだった。
「こ、コウモリ!」
 裏返った声で、とにかく言葉を紡ぐ。
「コウモリ、返してください!」
「つまりこの干乾びた悪魔と改めて契約を結んで霊骸装(アルコンテス)となり、界斑璃杏と戦おうというわけか」
「う、あ、はい!」
 そう言った瞬間、いきなり顔面に衝撃が走った。後ろに倒れ掛かる。
 殴り飛ばされた。そう理解すると同時に、襟首を乱暴に持ち上げられた。
「おい、僕の前では心して物を言えヘタレ。逃げ続けるだけの人生を送ってきたお前ごときに、殺し合いが出来るとでも思っているのか? 分を弁えろよ人間未満」
 何の含みもない、純粋な嘲りと罵倒が、風太の顔面に吹き付ける。
 同時に、心を打ちのめす。
 ここまではっきりと言われたのは、初めてのことだった。
「う……ぅ……」
 胸の中に、凍えた不快感が生じる。心を押し潰そうと、膨張してゆく。
 だが、同時に、歯を食いしばる。
「うぅ……!」
 腹の底に、熱い怒りが蓄積されていった。
 今まで風太が腹の中に溜め込んできた不満や怒りや悲しみが、急に蠢き始めた。
「そこまで……そこまで言うことないじゃないですか!」
「はっ、事実を指摘して何が悪い。どうせお前のような惰弱は、何も言わずに俯いていればいずれ嫌なことは去ってくれるとでも思いながら生きてきたのだろう。死ねばいいのに」
 もちろん、図星である。じわり、と目頭に熱が生じる。
「う……あ……確かに、たしかにそうかもしれないけど! でも、でも、それを克服しようと頑張るのがいけないことなんですか!?」
 震え交じりの叫び。
「お、遅いかもしれないけど、無理かもしれないけど、でも、強い心を持ちたいと心機一転して努力を始めるのが、今であってはいけないんですか!?」
 無茶苦茶だ。何をいっているのかわからない。
 自分でも思う。
 だけど、バカにされたまま、言われっぱなしのまま、すごすごと引き下がるのは嫌だった。もしそうすれば、きっとこの人は、もっとバカにしてくるに違いないのだ。
 胸倉を、さらに持ち上げられた。
「弱者はいつも決まってそういうことを言う」
 その拳が、震えている。
「こんな自分でも、頑張ればひとかどの何かになれるはず――とかなんとか、愚にもつかない繰言を」
 顔を上げ、刺すような視線でこちらを射抜く。
「……その考えは正しい!」
 不思議な沈黙が、その場に残った。
 久我絶無は唇をめくり上げ、さも嫌そうに吐き捨てた。
「だがな、そう言って本当に本気の努力を始める奴がどれだけいるんだよ。いねえだろうが……あぁ? いやしねえだろうが。うんざりなんだよ弱者(おまえら)のその口先だけの決意表明には」
「……あんたには、わからないんだ……弱い人間が、どれだけみじめな気持ちを抱えて生きているか。どれだけ不安か。どれだけ無力感に打ちのめされているか……わかりはしないんだ。だからそうやって平気で我を押しつけることができる」
「僕は弱者から常にそういう嫉妬混じりの人格否定をされつづけ、『弱さこそが人間の証だ』などという論理破綻したエゴを押しつけられ続けているわけだが、それに対して僕は一切反撃も反論もしてはならないし、弱者の屈折を後生大事に尊重しつづけなくてはならないし、その劣等感を刺激するような言説はいかなる論理的妥当性を持っていたとしても絶対に主張してはならないと。ほう。お前はそう言いたいわけか。そして弱者は強者の気持ちを一切理解するつもりはないし歩み寄るつもりもないが、強者には一方的に理解と尊重と負担を求めるわけか。ふうん。へえ。なるほどなぁ。さすが、お偉いお偉いお弱者さまは言うことが違いますなぁ。僕は傲慢さにかけては人後に落ちぬと自負していたけれど、いやいや、その自覚なき身勝手さには負けるな」
「仕方が、ないじゃないか……弱かったら、なにもできない。相手を思いやる余裕も、ないんだ……」
「つまりお前の『弱さ』というパーソナリティには何一つとして利点などないということをお前自身わかっているわけか。ひとついいことを教えてやろう。[お前が弱いのはお前のせいだ]。[何もかもお前が悪い]」
「うう……あああ……!」
 拳が出た。
 いますぐその口を塞ぎたかった。
 風太は、生まれて初めて、他人に殴りかかった。
 突き進む拳が払われ、手首を掴まれる。そのまま流れるように腕が捩じりあげられ、後ろに回り込まれた。
 肘と手首で、悪寒じみた苦痛が弾けた。
「ぎぃぃ……ッ」
「悔しいのなら」
 後頭部を掴まれる。
「惨めなのなら」
 壁に押し付けられる。
「届かないのなら」
 そして、耳元で吠えられる。
「それでもなお、掴みたいのなら!」
 目の前に小瓶を突き付けられる。その中には干からびたコウモリが入っている。
「[僕に従え]。[さもなくば抗え]。リスクを呑みこみ、己の力とするしかない。当たり前のことだ。傷つく覚悟ができない奴は一生涯何一つ掴むことはない。お前はどっちだ? 僕はもう決めているが」
「う……う……」
 震える手を伸ばす。
「もし負けたら――お前は界斑璃杏に生きたまま引き裂かれて死ぬだろう」
 うっそりと、暗い熱を込めて久我絶無は続ける。
「もし逃げたら――僕がどんな手を使ってでもお前の居場所を割り出して、『死んだ方がましな苦痛』って言葉の意味を教えてやる」
 ビク、と手が痙攣する。
「どうするんだ? リスクを己の力にするとはそういうことだ。傷つく覚悟とはそういうことだ。あぁ、ここで手を出さず、またいつものように俯いてやり過ごす選択肢もあるな。その場合僕はお前に何もしない。ただ一生侮蔑し、無視するだけだ。さぁ、どうするんだ?」
「ううぅぅぅ……ぐ……」
 駆け巡る。何一つ掴むことのなかった生を。『ありのままの自分』という揺り籠にしがみつき、目を閉じ、耳を塞ぎ、どこにも向かおうとしなかった自分を。
「……っ!」
 小瓶を、奪い取る。
「た、た、戦い、ます。で、でも、勝ち目がなかったら、逃げます。そその結果あなたがどう思おうが、そんなことは関係ない。もしあなたが敵になったとしたら、僕は悪魔の力で、その、あなたと、た、戦います」
 ねじりあげられていた風太の腕が、解放された。

 ●

 ――認識は。
 常に改め続けなければならないものだ。
 絶無は口の中で小さく嘆息し、目の前の少年を見た。
 秋城風太を、万感の思いを込めて、見た。
「あぁ……お前は」
 それを、言うのか。
 はっきり言えば、たとえ悪魔の力を持っていようが秋城風太ごときに負ける気などまるでしない。だが、こいつとてそれは織り込み済みで言っているのだ。
 リスクを、呑み込んだのだ。
 ――それでもお前は、行くと言うのか。
 不思議に透き通った気持ちが、胸の中に息づいた。
 ――いかんな。
 かすかに苦笑する。
 ――僕は今、無意味なことを考えている。
 自らの裡に生じた、このゆとりと遊び心を、絶無は楽しみながらも客観視した。
 ――僕の作戦は、完璧なのだ。
 そう、完璧なのである。徹底的なリサーチと徹底的なリスクマネジメント。このふたつこそが絶無の不敗を支えてきた最大の要因だ。いつだろうと、何の勝負であろうとも、絶無は勝ってきた。
 それは、今回も変わらない。
 だが……今はそれが、ひどく退屈な作業に思えてくる。
 ――僕はひょっとしたら、勝利の美酒に飽いたのか?
 変わりに生ずる、不可解な欲求。
 まさかこいつに好感を抱くとは思わなかった。
 新鮮な驚き。
 もちろん、あんな「ちょっとそれらしいこと」を叫んだからと言って秋城風太に敬意など捧げるつもりはない。『王の覚悟』にはほど遠い。実に柔弱で薄っぺらな発言だ。その場の空気に流されただけだ。
 だが、それでも。
 言ったのだ。
 口に出して、自分の意志で発言したのだ。
「……その発言には、万金の価値がある」
 これまで絶無が眼にしてきた人間の九割九分九里は、[言おうとすらしなかった]。「謙遜」とか「達観」とかいう名の卑劣な欺瞞で身を守り、動こうともしないクズばかりだった。偉そうなことは、せめて僕の半分でも努力してから言えというのだ。
 ――出会いとは、失望の母である。
 これまでの人生で培われてきた、人生観。
 だが、違うというのか。
 お前は、違うというのか。
 絶無は今、縁(えにし)を司る運命の流れのようなものを感じていた。
 ――これは、萌芽なのかもしれないのだ。
 今はまだ、こいつはクズの範疇を逸脱してはいない。しかし今後、その胸に『王の覚悟』を宿すに足る器になるかもしれない。
 その可能性を摘み取ることに、途轍もない躊躇いを覚えるのだ。
「……あのぅ……?」
 不審そうな、風太の声。
 我に返る。そしてひとつうなずく。
「なるほどな。確かに、勝ち目もないのに立ち向かうような奴はただの阿呆だ。それは勇気ではない。僕の条件にいささかの瑕疵があったことを認めよう」
「えっ」
 風太は眼をしばたかせている。
 絶無はまっすぐにそれを見つめた。
「弱き旅人よ、お前は今、ようやく生き始めた」
 目を閉じ、心の中の言葉を探る。
「闇夜が行く手を遮るときも、飢えが手足を萎えさせるときも、命の最後の一滴が尽きるその時まで、断固として」
 目を開く。
「負けたら許さんぞクズめ。出来る限りの援護はしてやる」
 秋城風太は、丸く目を見開き、息を呑んでいた。
「あ、あの、」
 ためらいがちに、語りかけてくる。
「勝てたら、界斑さんのことについては……」
「生かすも殺すも貴様の好きにしろ。存分にやれ」
 その背中を、蹴りだした。
 ふと、視線を感じた。
 振り返ると――黒澱さんが物陰からこっちを見ていた。
 息を詰まらせる。
「……ひょっとして、見てましたか?」
 こくこく。
「……最初から、見てましたか?」
 こくこく。
 前髪で表情はわかりにくいが、何か微笑ましいものを見るような眼でこっちを見ているような気がする。
 頭を掻く。
「やれやれ、お恥ずかしいところを見せてしまいました」
 ふるふるふるっ。
 そこへ今度は風太から声をかけられる。
「あ、あの、久我さん」
「何だ」
 両手の平に乗せた瓶入りコウモリを困惑の眼で見ながら、風太は言った。
「これ、どうすれば変身できるんでしょう……?」
「知らん」
 気まずい沈黙が、場に降り積もった。
「……黒澱さん、どうでしょう? なにか御存じではないですか?」
 振り返って尋ねる。
 黒澱さんは、眉尻を下げ、いそいそとノートにペンを走らせた。
『ごめんなさい。そのあたりの知識は欠落してます。』
「ううむ……」
 困った。
「やはりここは僕がやるとしよう。最初からそれで何の問題もなかったのだ」
 いささかの落胆をこらえながら、絶無は再び試験管を取り出した。
「ちょちょちょちょっと待ってくださいよ!」
「もう待たん」
 その瞬間――
 轟音。次いでアスファルト欠片が散らばる音。
 絶無たち三人は振り返った。
 青銀の要塞が、そこで片膝をついていた。
 重騎士――橘静夜だ。
 ゆっくりと、立ち上がる。何度見ても感嘆を覚える雄大な肩幅。そしてひどく小さく見える頭部。
 絶無は思わず舌打ちした。
「見ろ、お前がゴネるせいで奴が来てしまったではないか。さっさと僕にまかせていれば良かったものを」
「えぇっ、何なんですかあれ!? て、敵ですか!?」
 鈍い光沢を宿す具足が、確たる歩みを進めてくる。
 絶無は肩をすくめる。
「橘、お前にしてはずいぶん早くここがわかったな。ザラキエルの入れ知恵か?」
 無言のまま、重騎士はずんずんと近づいてくる。
 不審を感じ、眉をひそめる絶無。
「……橘?」
『久我。それに秋城。……[そいつから離れろ]』
 重い口調。しかして、断固とした口調。
「何?」
『三度は言わんぞ。[今すぐに]、[そこの女から]、[距離を取れ]』
 噛んで含めるように、命令してくる。
「何を言っている。黒澱さんがどうかしたのか」
 フードの奥から覗く黄金の魔眼は、明らかに黒澱さんを見据えていた。
『久我、そいつが何なのか、本当にわかっているのか……!?』
「霊骸装(アルコンテス)なのだろう? それがどうかしたのか。お前のザラキエルと同じではないか」
 橘静夜は、ゆっくりと首を振った。
『……中庭で見かけたときは、気付かなかった』
 苦渋のにじみ出る口調。
『だが骸装態となった今ならば、悪魔の世代を視認できる』
 金属の擦れるかすかな音とともに、重騎士は人差し指の鉤爪を黒澱さんに向けた。
『そいつは、霊骸装(アルコンテス)などよりよほど恐ろしい存在だ。この世に混迷と破壊を招く元凶だ』
 絶無は眼を鋭く細めた。
『そうなる前に、今ここで討ち取る』
 黒澱さんは肩を震わせ、しゃっくりのような悲鳴を小さく上げた。
 一歩下がる。
 絶無は、おもむろにその手を取った。指先に、しっとりと柔らかい質感が広がった。
《え/え?/怖い/なにそれ》
 ――ふむ。
『久我! 何度も言わせるな。離れろ。お前まで斬る気はない』
「ふふん、そうかい」
 絶無は薄ら笑いを浮かべ、黒澱さんの腕を引いた。
「……ぁっ」
 ふにっ、とした感触が腕の中に広がった。
 絶無は、両腕で彼女を抱きすくめていた。
《わ/わわっ/ぎゅって/ぎゅぅって!/あわわ》
『久我ァッ!』
 鋼の具足が荒々しく踏みしめられ、アスファルトが砕け散る。
「クク、橘ァ、僕は天の邪鬼なんだ。お前がこの人に危害を加えるつもりなら、それなりの考えがある」
《あわわ/硬い/やわらかい/どうしよう/汗のにおい/骨のでっぱり/おとこのこのからだ》
 背後で、風太の悲鳴が聞こえた。
「ひっ、き、来た!」
『あっれれぇ~、なんかすごい音がしたと思ったら、こんなところにいたですかぁ~』
 舌舐めずりの聞こえてきそうな、少女の声。
 見ると、巨大なクリオネが、滑るようにこちらに向かってきていた。
 絶無は舌打ちする。これ以上事態をややこしくしないでほしい。
『界斑ッ! 久我のそばにいる女は神骸装(デミウルゴス)だ!』
 静夜の怒声がこだまする。
 神骸装(デミウルゴス)。
 その単語が出ると同時に、腕の中の少女が息を呑む気配がした。
 瞬間――
 絶無の体に、濁流のごとき感情/情報が、一度に流れ込んできた。

 ●

 [それ]を正しく指し示す言葉は、人類の語彙の中には存在しない。
 個々人の矮小な認識力では、[それ]の本質を正確に捉えることなど不可能であるから。
 時の起源より、[それ]はさまざまな形で顕現し、さまざまな名で呼ばわれてきた。
 あるいは、第一世代(セラフィム)。
 あるいは、魔王(アークエネミー)。
 あるいは、真世界幻視(グノーシス)。
 あるいは、最も悪しき蛇(ドラコ・ネキシメ)。
 あるいは、救世主(アヴァタール)。
 あるいは、七頭十角の獣(ドミヌス・ロマーナ)。
 あるいは、神骸装(デミウルゴス)。
 だが、最も語弊の少ない表現を模索するならば――

 それは『新たな世界の可能性』と呼ばれるべきだろう。

 ●

 絶無はさすがに瞠目した。
『え、ウソ……え!? ホントですぅ!? うわ、ホントだ!』
 クリオネがうろたえたような声を上げた。
『今なら楽に勝てる。休戦といこう。利害は一致しているはずだ』
 重騎士が重苦しい口調で提案する。
『ふふん、了解ですぅ。神骸装(でみうるごす)を潰したなら大手柄ですぅ~!』
 半透明の頭部がぱくりと割れ、中から白い女の腕が六本ほど伸び広がった。
 ほっそりとしなやかなシルエット。まるで異形の花が大輪を咲かせているような威圧感がある。
 だが――
 絶無の意識は、そこにありながらその場にはなかった。
 汗が、にじむ。
 ――なんという。
 目を見開き、次々と流れ込んでくる暴力的なまでの情報群に驚愕し圧倒され打ちのめされ声も出ず、
 そして、さまざまな事実を感得する。
『久我、最後通牒だ。死にたくなかったら離れろ』
 静夜の声が、鋭いエコーを伴って届く。
 絶無は、応えない。ただ、つばを飲み込んで、ひたすらに黒澱さんを抱きしめた。
 ぐんにゃりと快い抱き心地に、陶然と目を細める。
「……ならば、あなたは」
 彼女の耳元に、押さえきれぬ熱を孕んだ声で囁きかける。
「いずれ神となる御方なのですか?」
《可能性/不確定/あくまで候補/そのひとつ》
 ――なるほど。
 不思議な感動を、絶無は味わっていた。
「みつけた……」
 声が震える。
「闇夜の荒野に、星の導き。僕は探し求め、黒澱さんが現れた」
 黒髪に覆われた首筋に、顔を寄せる。かすかなシャンプーの匂いと、甘い体香が鼻をくすぐった。
『久我ッ! やめろ……!』
『ふたりまとめてぐっちゃんぐっちゃんにしてやるですぅ!』
 前と後ろから、霊骸装(アルコンテス)が迫ってくる。
 ――さすがに。
 奥歯を噛みしめ、頬を歪める。
 ――この展開は予想していなかったな。
 制服越しにわずかに浮かび上がる黒澱さんの背骨の感触を楽しみながら、絶無は小さく語りかける。
「あなたの大望に、僕は殉じたい。どうか、そのことをお許しください」
「あ……」
 呼吸についでに出るようなか細い声が、耳元で漏れ出た。
「やさしく、してください……」
 初めて聴いた彼女の言葉は、生まれたての白い小蛇のように震えていた。
 衝動的に首をよじり、少女の髪の奥にある青白いうなじを掘り当てた。
 同時に、視界に影が差す。
 ぎり、と金属が軋みを上げ、巨大な破城鎚のごとき拳が握りしめられた。
 うねり、のたうち、風を引き裂きながら、六つの白腕が掴みかかってくる。
 瞬間――
「――骸装」
 あたかも、不死のくちづけにも似て。
 絶無は、彼女の首筋に、優しく噛み付いた。
 ドクン、――と。
 世界が、心音を発した。

 ――『新しい天使』と題されたクレーの絵がある。

 少女の背中の肉がほどけ、腕の中で花開くように展開してゆく。
 混濁した黒と、夜明け前の空を思わせる蒼が、少年の目の前で形を成す。
 無数の触手。溜息をもたらすほど優美な孤を描き、彼の体を包み込む。

 ――それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見つめている何かから、今まさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。

 弾力を持った感触が、少年の全身を締め付ける。
 みりみりと音を立てて、自らの肉が裂け、骨格が歪められてゆく、そのリアルな感覚。
 しかし痛みなどなく、甘美な震えのみが怖気のように走っている。

 ――歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。…私たちの目には出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつ、破局(カタストロフ)だけを見るのだ。

 黝い神の肉が、絶無の体内にくまなく根を張り巡らせ、やがて溶け込むように同化し始める。形状を、構造を、組成を、そのすべてを一旦溶解させ、人ならざる存在へと止揚しにかかる。
 酵素反応の連続体(モータル)から、認識作用の循環体(イモータル)へ。

 ――その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。

 大気が、鳴る。殷々と、高らかに。それは産声であり、福音であり、終末の喇叭ともなりうるもの。
 激しく渦巻く聖性の中心で、黒い触手に編まれた人間大の繭が悶えていた。
 ぶちぶちと音を立てながら、内部で根源へと至る変異が高速で進んでゆく。

 ――ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へと引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。

 やがて、黒く艶やかな肉の蔓は、梱包を解くようにほどけ、周囲を薙ぎ払った。
 無数の黒い触手が、世界を支える大樹の威容を持って、四方に広がってゆく。
 翼を広げるように。夜が訪れるように。

 ――私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。

 ひとつの影が、大地に降り臨んだ。
 肉感的な、黒い軟質の甲冑。
 全身にびっしりと血管を思わせる紺碧のラインが走り、認識子(グノシオン)の光を循環させている。あたかも鼓動のように、一定の周期で輝度が増減していた。
 胸板の中央には、湖面に揺らぐ月のごとき碧白光を宿す艶やかな球体が収まっている。全身の血管は、すべてここから伸びていた。
 ほっそりと中性的な体は、しなやかな筋肉に鎧われ、優美さと強靭さを兼ね備えている。それは神なる玉体。筋骨の形作る流線や、肩幅、関節構造、繋がりあう四肢の寸尺、そのすべてに黄金比が漲り、打ちのめされるような異形の美を周囲に吹き付けていた。
 絶無は、吼えた。
 激烈な咆吼が、校舎を、大地を、世界を、あるいは人間たちの幾何認識すべてを、根底から揺るがしてゆく。
 その顔は、のっぺりとした楕円形の仮面に覆われている。引っ掻き傷のような三対の眼が、青く澄んだ光を宿している。
 後頭部から背中にかけて、無数の黒い触手が伸びていた。ゆらめく海草のようにも、しなる鞭のようにも見えた。てらてらと粘液にまみれながら、まるで世界を永遠の夜に閉ざそうとでも言うように、どこまでも伸びて蒼穹を黒く侵しつづけている。
「う……あ……」
 そばで呆然とことの成り行きを見ていた秋城風太が、震えながらその場に跪いた。
 つられるように、周囲の物見高い学園生徒たちまでもが次々と膝を折り、こうべを垂れていった。
 彼らの胸にある、宗教的な畏敬の念が、絶無にも伝わってくる。その人生で培われた人生観のすべてが、いま目の前に現れた神骸装(デミウルゴス)の荘厳にして異様な美しさにより、根底から覆されたのだ。並の人間に抗えるものではなく、その心に消えざる影響を刻む。永遠の崇拝と忠誠を誓わずにはいられない。
《わ、わ、どうしよう》
 絶無の胸の中で、黒澱さんのあたふたとした声が聞こえた。聖地(イェルサレム)で毎日三度繰り広げられるような光景を前に、動揺しているようだ。
 それも無理からぬ。絶無も、神骸装(デミウルゴス)が周囲に与える威の凄まじさに瞠目する思いだった。
『これが……!』
 絶無の声が、鋭いエコーをともなって戦慄く。
『神たる具現! 新たな世界の可能性……!』
 抑えきれぬ昂ぶりに、総身を震わせた。
『クク……カカカッ……!』
 魂の底からこみ上げる哄笑が、喉元で爆発する。
 ――その胸に、巨大な鋼鉄の刃が叩き込まれた。
《ひきッ……!?》
 黒澱さんの声ならぬ声がした。灼熱の衝撃が、胸郭を焼き尽くした。
《ひ、ひぐ……!? う、ぎ……?》
 絶無は、ゆっくりと自らの胸を見下ろした。
 分厚い巨剣が、そこから生えている。鈍い光沢に包まれた刀身には、苦悶に呻く人間の顔が無数に彫り込まれていた。
 その柄を握るのは、異形の大剣に相応しいサイズの鉤爪である。
《い、たい……痛い、痛い……!》
『たチ、ばな……ァ……!』
 カッターで裂いた傷口のように鋭い魔眼を間近に睨みながら、血を吐くように絶無は吠えた。
『俺を恨め。お前たちにはその権利がある』
 どこか静かな口調で、重騎士は嘯く。剣を執る手に膂力を漲らせ、一気に薙ぎ払った。
 空と海を分かつ激烈な曙光にも似た、横一閃の斬撃。
 あっけなく、神骸装(デミウルゴス)の玉体は上半身と下半身に分断される。
 次の瞬間――
『えへへ、死んじゃえ♪』
 湿った音をたてて地面に落ちた上半身に、半透明の拳が振り下ろされた。
 全身を、重すぎる衝撃が打ちのめす。この一撃でアスファルトが盛大に砕け、地中に押し込められる。
《痛い痛い痛いやめて痛い痛い!》
『えいっ! えいっ! え~いっ! 死ねっ! 死ねっ!』
 そびえたつクリオネの頭部から、断続的に拳が打ち下ろされ、そのたびに大地に激震が走り、絶無の体はひしゃげ潰れていった。
《やめてやめて痛いやめてゆるしてお願いゆるしてゆるしてゆるして痛いごめんなさいごめんなさい痛い痛い痛い!》
 ――き、さ、ま、ら……
 襲い来る呵責なき暴力よりも、頭の中で響き渡る黒澱さんの悲鳴の方が、遥かに激しく脳をかき乱した。
 まともな思考が、できなかった。
 視界の端で光が瞬いた。
「……が、骸装!」
 声が、した。どこかで聞いた声だった。
 クリオネに、緑の影がぶつかってゆく。不意打ちで界斑璃杏を突き飛ばすと、絶無を抱えて空に舞い上がった。
 全速離脱。
 橘静夜の怒号が、遠くで聞こえた気がした。 

 ●

『お前……秋城か?』
 萌葱色の腕に抱えられながら、絶無はようやくそれだけを口に出した。
 ついさっきまで声も出せぬほどのスピードで突き進んでいたのだが、追っ手を撒いたと判断したのか、今は速度を落としていた。
 昼下がりの青空の中で、ざらざらした腕に抱えられて、絶無は住宅地の上空を飛んでいる。豆粒のような大きさの家々が、大気に霞んでいた。
『はい、あの、秋城風太です……なんか、変身できたみたいです』
 たはは、と頭をかきそうな調子である。
 甲殻類生物が人型に進化したような姿をしていた。全身がキチン質の外皮に覆われており、背中からは半透明に輝く翅が生えている。
『そうか……』
 命を助けてもらった、ということらしい。
 絶無は、しばし考え込む。命の恩義について。敬意の表し方について。
 しかし、別にこいつは絶無にできないことをしたわけではないのであり、敬意まで捧げる必要はないなと思い直す。
『ありがとう。助かった。お前の勇気と行動力には必ず報いるとしよう』
『えっ!?』
 礼を言ったら驚かれた。……釈然としないものを感じる。
『しかし、何故助けた? 僕や黒澱さんが助かったところで、お前には得などないだろう』
『いや、まぁ、そうなんですけど……久我さんのその姿を見たとき、なんか、目玉を叩かれたような衝撃を受けたんです』
 声が、興奮しだす。
『すごいものを見ちゃったなぁって。僕が今まで見てきたものの中で、いちばんすごかった。小さい頃、生まれて初めて台風の天気図を見たときの気持ちにちょっと似てます。こんなに大きくて凄いものが、本当にあるんだなぁって。だから、もっと見ていたい。あんなところでわけもわからず殺されるなんて、あっていいことじゃないと思うんです』
 頭部の両側についた複眼が、ちかちかと瞬いた。照れているらしい。
『それに……久我さんは僕の背中を叩いてくれました。生まれて初めて、存分にやれって言ってもらえた。そのときは期待に応えられなかったけれど、でも、なんか、すごくうれしかった。とても救われた気がするんです』
『ふん、よくわからん話だが、まぁいい』
 嘘のにおいは感じない。
『そ、それで、これからどうしますか?』
『ひとまず僕の家に行け。案内する』
『はい』

 ●

 久我家の前に降り立った風太は、とりあえず上半身だけの絶無を地面に下ろした。
『案の定、再生してきているな』
 頭を持ち上げて、重騎士の巨剣にぶった斬られた箇所を見やる。
 じくじくと音を立てて、破断面から組織が伸びてきている。斬られてから十数分が経ったが、すでに腰骨のあたりまで復元が進んでいた。
 ――奇妙だな。
 欠損部分の質量はどこから来るのだ?
 学術的な興味を覚え、頭の中で黒澱さんに語りかけて見る。
《ごめ…なさい……いまち…っと、答え…余裕はな…かもです》
 ――失礼しました。申し訳ありません。回復にご専念ください。
《あの…もう骸装…解除…ても…丈夫…すよ》
 そうらしい。黒澱さんの言葉は全面的に信用することにしている絶無は、躊躇いなく骸装を解除した。
 ぐにゃりと黒い軟質の甲冑が歪み、混沌とした肉の原形質へと解けた。震えながら楕円形の形に伸長し、絶無の体を排出する。
 黒き肉塊は、絶無のそばで変形し、前髪で目元を隠した少女の姿に戻っていった。
 絶無はむくりと身を起こし、自分の体を見下ろす。傷一つない。
「衣服もそのまま、か」
 絶無も彼女も、制服を身に着けた状態で人間に戻っていた。明らかに粘土を滅茶苦茶に混ぜたような変異を経たはずだというのに、どこも破れてはいない。悪魔とは不思議なものである。
「……む」
 黒澱さんは、苦しげに熱い吐息を漏らしながら、意識を失っている。
 その姿に、違和感を覚えた。
 頭に、何故か角が生えているのだ。
 耳よりやや上、左右の側頭部あたりから、漆黒の角がねじくれながら伸びている。まるで冠のように、額へと切っ先を向けていた。
『わ、なんか悪魔っぽいですね』
 まばゆい光とともに、骸装を解除した秋城風太が地面に降り立った。掌には、何かネズミのような生き物が乗っかっている。
「運ぶぞ。玄関を開けろ」
「は、はい」
 絶無は黒澱さんを抱え上げた。

「わぁ、いらっしゃいるーちゃんっ。絶くんと仲良くしてくれてありがとーねーっ。って気絶してるーっ!?」
「……姉さん、大学はどうしたんだ」
「今日は休講だよーだっ。……およ、それより今日はもう一人来てるねっ。おねーちゃんは嬉しいぞっ」
「ど、どうも……秋城風太と言います」
 無闇に高いテンションに、風太は戸惑っている。
「じゃあふーちゃんだねっ。アタシは加奈子っ。絶くんのおねーちゃんであるっ」
 腰に手を当ててふんぞりかえる。背丈や等身が完全に小学生なので威厳など欠片もない。
 しかし、ふーちゃん……か……
 まぁいい。別にいい。そんなことは。
 目を爛々に輝かせて秋城を見ている。隙あらば飛びつくつもりだ。
 面倒なので先手を打つ。
「姉さん。一番上等な布団を出して欲しい。久我家の威信にかけて黒澱さんの安眠を支援するのだ」
「あいあいさーっ」
 チョロQのごとき落ち着きのなさで加奈子が走り去ってゆく。
 後頭部でふりんふりんと揺れるポニーテールが、角の向こうへと消えていった。
「はは、あの、かわいいお姉さんですね」
「救いようもなくうるさいので欲しけりゃくれてやる」
「な、なに言ってんですか!」
 黒澱さんを抱えて、廊下を突き進――もうとしたところでふと思い立ち、風太を振り返る。
「ふん……詩崎に任せようかと思ったが、こうなったらお前の方が適任か」
「なんですか?」
「秋城、お前は界斑璃杏とケリをつけるつもりは、あるか?」
 風太は、はっと息を呑む。
 恐らく今日中にでも、橘静夜や界斑璃杏とは決着をつけることになるだろう。
「……正直、とても怖いです」
「ならいい。帰って寝ろ」
「で、でも! やっぱり、僕がやらなくちゃ、いけない気がします……」
「なら、聞け。マッチングだけはしてやる」
 そのための方針を伝える。
「任せたぞ。指定時刻になったら連絡する」
「……わ、わかりました。なんとかやってみます」
 風太は深呼吸をすると、意を決するように自分の両頬を叩き、外に飛び出していった。

 ●

 十分後。「そのかわゆい角なーにっ? コスプレ? コスプレかなっ?」などと言いながらまとわりついてくる姉を部屋から追い出し、絶無はひとりで黒澱さんを見守っていた。
「……ぅ……」
 客間の畳の上に敷いた布団の中で、黒澱さんがみじろぎをした。
 とろりとした昼下がりの陽を浴びて、目蓋が震える。
 傍らで正座していた絶無は、思わずつばを飲み込んだ。
 黒絹の前髪がひとふさ横に垂れ、右眼だけが露出しているのだ。
 食い入るように、彼女の睫毛を凝視する。
 ゆっくりと、黒澱さんは眼を開いた。
 解き放たれる、魔性の燐炎。玄妙な翠の色彩が、絶無の目を通じて、直接脳に沁み入ってゆくような気がした。
 息を呑み、そして震えながら吐き出す。怖いほどに、美しい。
 今この瞬間、世界は彼女を中心に、恍惚とした痺れを味わっている。
 そう、思った。
「……ぁ……」
 複雑な構造を秘めた深緑の宝玉が、こちらを向いた。
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
 絶無は畏れを胸にしまい込みながら聞いた。
 彼女は、幸福なまどろみの中で、はにかむように微笑んだ。そのまま口を開きかける。
 と、
「……はわっ」
 急いた様子で身を起こし、手櫛で前髪を整えた。
 一瞬にして、眼窩に納まった幻想は覆い隠されてしまう。
 絶無は、ほっと緊張を解く。同時に、残念な気持ちを味わった。どうやら黒澱さんは、自分の瞳を見られるのがあまり好きではないらしい。実にもったいないことだ。
 ――いや……
 それでいいのかもしれない。たとえ一瞬でも、宇宙の至美を間近で鑑賞することができたのだ。ありがたいことである。
 彼女はノートを掲げた。
『お見苦しいものを見せてしまいました。』
 そんなことは、と言いかけた絶無は、その後につづく語句に目を細める。
『すべて、思い出しました。』
 何を、などと聞くまでもない。欠損していた悪魔としての記憶が、よみがえったのだ。
「詳しく教えて頂けますか? 僕もあのとき、あなたの感情は共有しましたが、かなり観念的・抽象的な理解しか得られなかったのです」
 こくり、とうなずくと、彼女は悪魔というシステムの正体を筆記しはじめた。
『この世界は、人間の認識によって形作られています。』
 印象的な、そのフレーズ。絶無は眼を細めて言葉の意味を吟味する。
『空があり、地面があり、重力があり、風が吹いているのは、人間が世界をそのように認識しているからそうなったのです。』
「……いわゆる《強い人間原理》ですか?」
 こくり。
『自己認識を持つことにより、単独で存在を確立できる種のみに許された、創世の力です。』
 まず現象があって、それを人間が認識する……これが一般的な自然科学の考え方であるが、黒澱さんが言うには、それは間違いであり、事実はまったく逆らしい。
 最初に人間の認識があり、世界はその認識に合わせた形に[なる]のだ。
『この世界が、一見確固とした不変の存在に見えるのは、無数の人間の無数の認識が相殺しあうことで、平均値近くに安定しているからです。もしもすべての人々が「空は赤い」と思い込めば、一瞬にして空は赤くなってしまうでしょう。』
「ならば、アダムとイヴはさぞかし巨大な力を持っていたのでしょうね」
 ふるふるふる。
『たとえ世界に二人しかいない時代があったとしても、自分の認識を自分の思うままに変えることはとても難しい。「空は赤い」と思い込もうとしても、普通の方法では無理だと思います。それを成すには、一生を費やすほどの長い長い修練によって認識の構造を変える必要があります。人間は、世界を自由に変革できるエネルギーを持っているけれど、その活用方法がわからないので、自分を無力な生き物だと思い込んでいるのです。』
「そこで、悪魔ですか」
 こくり。
『わたしたち悪魔は、単独で成立する生き物ではありません。人間のために用意された、いわば外付けの臓器のようなものです。人々が本来持つ、神さまのようなポテンシャルを、意識的に引き出せるようにするための。』
「しかし、完全に引き出せるわけではないようですね。超人的な身体能力や、異様な頑強さ、再生能力、そしてさまざまな超常現象を操る力――確かに素晴らしいものですが、一定のルールに縛られており、万能にはほど遠い」
 こくり。
『悪魔は、どうやったところで人間の認識力の及ぶ範囲のことしか起こすことはできません。しかし、ひとつだけ例外があります。もしもすべての人間の認識力を一ヵ所に集め、それをひとつの意志のもとで行使できるような存在がいたとしたら。』
 それは間違いなく、神に等しい存在であろう。本当の意味で、全知全能だ。
『そのような存在となるべく、《この世の外(エンテュメーシス)》で生まれたのが、すべての悪魔たちの始祖――第一世代(セラフィム)とか神骸装(デミウルゴス)などと呼ばれる者たちです。第二世代(ケルビム)以降の悪魔たちは、始祖の機能を完全には再現することができず、世代を経るごとにその力は弱まっていきます。』
 徐々に、核心へと近づいてきているようだ。
『力の強弱とは別に、第一世代(セラフィム)たちが他の悪魔と決定的に異なる点があります。始祖悪魔の骸装態は、人間の感情を根底から揺さぶるほど精緻にして荘厳です。人が古来より心に思い描く、偉大なもの、尊いもの、美しいもの、恐るべきもの――それらの具現とでも言うべき姿をしています。これを目の当たりにした人間は、心を打ちのめされ、人生観を覆され、一瞬にして神骸装(デミウルゴス)に対する信仰心を抱いてしまうのです。この魔的なまでの求心力に抗えるのは、よほど強い精神を持っている者か、すでに別の神骸装(デミウルゴス)の信徒となっている者のみです。』
 絶無は、一瞬だけ彼女と骸装した時のことを思い出す。
 秋城風太や、他の生徒たちが、一斉にひざまずいた時のことを。
『これはたまたまではなく、神骸装(デミウルゴス)の本義と密接に関わった性質なのです。崇拝――信仰心というものは、この世界に対する認識のかたちに他なりません。その心の動きには大量の認識子(グノシオン)が介在し、もしも信仰対象が実在するなら、その者に二十四時間体制で認識子(グノシオン)を提供し続けることとなるでしょう。』
「つまり神骸装(デミウルゴス)の本義は、人間の信仰心を一ヵ所に集め、この世界を変革することにある、ということでしょうか」
 こくこくこく。
『神骸装(デミウルゴス)が「新たな世界の可能性」と呼ばれるのは、まさにそのためなのです。』
 絶無は、ゆっくりと息を吸った。
 それまで漠然と胸の中に渦巻いていた、悪魔に対する理解が、黒澱さんの言葉でぐっと明確になった。
 ――彼女の言葉は、ウソではない。
 というより、この人はこんな壮大なウソをつけるほど腹芸がうまくない。
 ……してみると?
「僕は……あなたに選ばれたのでしょうか?」
 いまいち実感がないが、つまりそういうことなのか?
 黒澱さんが、軽く息を呑んだ。
『選ばれた、というのはちょっぴり違います。悪魔と人間の契約は、双方合意が絶対原則です。それは神骸装(デミウルゴス)も例外じゃありません。』
 そして、次のページに別の言葉を書き付ける。
 盾のように、絶無の前に立てた。
『久我さんは、どうですか? わたしを選んでくれますか?』
 冠のような角が生えた頭を、軽く傾げた。
 絶無は眼を細める。
「……その問いに答える前に、最終目標について意見を一致しておかねばならないかと思います」
 こみ上げてくる高揚を抑えつけながら、絶無は言った。
「もしもすべての人間の信仰を勝ち取り、正真正銘の神になったとして、新世界を作る際に、契約者たる僕の意見は考慮されるのでしょうか?」
 もっともな質問だ、というようにうなずくと、彼女はペンを走らせる。
『相方がいなければ無力である点は、人間側も悪魔側も変わりません。だから悪魔(わたしたち)は契約者の意思を最大限尊重せざるを得ませんし、相手にもそれを求めます。特に神骸装(デミウルゴス)ともなれば、自分の理想に共感してくれる契約者を是が非でも見つけ出そうとするでしょう。ただし、』
 ページをめくり、やや悩みながらペンを走らせる。
『恥ずかしながら、わたしは特に理想と言えるほどの強い信念を持っていません。なんとなく、みんなもっとスムーズに気持ちを伝えあえればいいな、とは思っていますが、これはもう幼稚な願望のようなものであり、具体的な世界変革のビジョンが伴っていないのです。』
「そんなことはない。立派な理想だと思います」
 彼女の頬がぽっと染まり、うつむいた。
 顔を隠すようにノートを掲げる。
『とにかく、そういうわけですので、基本的には久我さんの為したいことを応援しようと思っています。』
 絶無は、ゆっくりと息を肺腑に送り込み、目を閉じた。

 ――絶無くん、なにかと引き換えになにかを得るなんていうのは、怠惰な無能のやることなんだよ。僕たちは、彼らとは違う在り方をもって世界と対峙しなくてはならない。欲するものはすべて、どんな手を使ってでも勝ち取るべきだ。霊長たる中でも最も高貴な魂を持つ僕たちに課せられた、それは権利にして義務なんだ。

 宝石のように仕舞い込んでいた、この世で最も敬意を捧ぐ人の言葉を、思い起こす。
「黒澱さん」
 静かに、呼ぶ。
 彼女も蒲団の上で居住まいを正した。
「自分で言うのもなんですが、僕は傲慢かつ独善的かつ嗜虐的な人間です」
 何とも言えない顔をする黒澱さん。
「そして、そういう自分の性質を愛しています。だから理想に向けて邁進する過程で、なにか美しく価値あるものを気付かず踏みにじり、顧みることなく通り過ぎていくことでしょう。今ではありませんが、いつかきっと、そういう場面が出てくると思います」
 ずい、と身を乗り出す。
「黒澱さん、あなたはそのとき、僕を掣肘してくれますか。足もとに咲いた、弱くとも美しいなにかを照らす、星の光となってくれますか」
 まるで水に潜る前のように、彼女はゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
 小さな口が閉じ、にゃむにゃむと震える。
 意を決したのか、口を開く。
「がんばり、ます……」
 か細く、泣き出しそうな声。
「せいいっぱい、がんばります……っ」
 そして肩を落とし、小さく呻く。いそいそとノートに向かった。
『ごめんなさい。声を出そうとすると、何故か泣きたくなってしまうのです。やっぱり筆記のほうが気が楽です。』
「大丈夫です。伝わりました」
 絶無は腕を伸ばし、彼女の青白い繊手を取った。
「……っ」
《わわ/びっくり/指が/いきなりそんな/あぁ/指が/指/指ぃ/おいしそう……》
 ぬめりを帯びた視線と、ふにふに蠢く指先が、絶無の手を絡め取り、味わった。
 流れ込んでくるよこしまな欲求に、絶無の意識が一瞬ぐらつく。
 ……気を取り直して。
「あなたを受け入れます。あなたに臣従します。あなたを世界の神に据え、僕は世界の王となります。これより僕たちは運命を同じくする不即不離の主従です。どうぞよろしくお願いします」
 んく、と彼女はつばを呑み込み、こちらこそふつつかものですが、と熱っぽい唇で言った。

 二人は、かくして契約の意志を交わした。

 ●

「黒澱さん、僕はね、何もしないうちから負けを認めて中身のないプライドを守ることに汲々としているだけの人間を心の底から憎んでいますし、そういう連中の「僕ちゃん賢いから自分の痛さをちゃんと客観視できてますよ」アピールにもうんざりしているんです」
 絶無は、自らの中に仕舞っておいた野望を熱く語った。
「自らの弱さを正当化した先に待っているのは、際限のない妥協と不幸の連続です。[それは人間の生き方ではない]」
 ゆえに、生じた。
 生まれたときから感じてきた苛立ちと、ここ数日の経験から醸成された、極めて個人的な野望。
 それを実現させるための具体的なプランが。
 言葉は滔々と続き、語り終えたときにはすでに三十分の時間が経っていた。
「……と、そんなことを画策しているのですが、いかがでしょうか」
 黒澱さんは、最初は面喰っていたものの、詳しく聞くうちにこくこくと頷き、賛意を示してくれた。
『久我さんらしいテーマだと思います。全力で応援します。』
「ありがとうございます。光栄の至りです」
 そして、今現在直面している問題についての対策に入る。
『お恥ずかしい話ですが、わたしは今のところ久我さんの弱点でしかありません。骸装中、わたしと久我さんの心は、互いの影響を受け合う形になります。わたしが感じる苦痛や恐怖やパニックが、久我さんにも自分のことのように感じられてしまうのです。いかに自らの心を鍛えていようと、わたしという弱点がある限り、まともに自分の身を守ることもできないでしょう』
 橘静夜に真っ二つにされ、界斑璃杏に叩き潰されたとき、克服したはずの痛みや死への恐怖が、絶無をかんじがらめに縛っていた。
 確かに、負傷するたびにあの様子では、戦闘面でかなりのハンデを負うことになるだろう。
「僕が何一つ攻撃を食らわぬよう立ちまわればいいだけの話です。もう二度とあのような失態は繰り返しません」
『確かにそれが一番なのですが、ハンデには変わりありません。わたしたちはすでに運命共同体のはず。一方が奉仕するだけの関係なんて長続きしないと思います。わたしも久我さんの理想のためにできることはしたいんです。』
 ――ふむ。
 絶無は彼女の言の正しさを認める。
『夜の公園での戦いを見たときから思っていたんですが、久我さんはどうやって痛みをガマンしているんですか?』
 その問いに答えるには、かなりの時間がかかる。
 が、一文に集約するなら――
「普段の積み重ねですね。本能を凌駕する精神は、一朝一夕に得るのは難しいでしょう」
 そして首をかしげる。
「ただ……『痛みに慣れる』程度ならば、方法はないでもない」
『それは一体』
 絶無は、ふ、と微笑む。
「黒澱さん。僕は父より、さまざまな絞め技、極め技、関節技を伝授してもらいました。その中には、この世の地獄かと思えるほど痛いものも含まれます」
 ビクッ、と肩を震わせ、彼女はかすかに身を引いた。
 その様を見て、絶無は苦笑する。
「冗談ですよ。神となる御方の玉体にそんなことは……」
『おねがいします』
 絶無は、黙った。
 黒澱さんは唇をかみしめてノートを捧げ持っている。
「……本気ですか」
 さらにずい、と『おねがいします』の文字が前に押し出される。
 いや、さすがにそれは……という思いと、危機管理の観点から出来ることはしておくべきだ、という思いが、複雑な弧を描いて回っていた。
 が、その逡巡は一瞬のことだった。
「まぁ、加減はできますし、何が危険な技なのかも熟知していますから、安全は保証します。やれるだけやってみましょう」
 絶無は立ち上がった。
「とりあえず、うちの姉にジャージでも借りてきます。さすがにスカート姿では問題がありますから」
 黒澱さんはやや頬を染めて、制服のスカートに包まれたふとももを抑えた。
『お手数をおかけします』
「いえいえ」

 ●

「姉さん。黒澱さんのために動きやすい服を貸してくれないか」
「よかろうなのだーっ」

 ●

 ――どうしてこうなったんだ。
 絶無はかすかな頭痛を覚えながら、客間の畳で正座していた。
 向かい合うように、黒澱さんも座っている。折り曲げた膝を抱えて、体を隠すような姿勢だった。
 彼女の四肢が、ぼんやりと青白い光を放っているように見える。しっとりと蜜を含んだような膚(はだ)が、暗みかけた部屋の中で、ひそやかな存在感を宿していた。
 かすかに覗く肩や脇腹からは、青いラインの入った黒く艶やかな布地が見えている。
 ……競泳水着である。
 そういえばあの愚姉は高校時代、水泳部に属していた。
 ――だからなんだよ!
 なんで「動きやすい服」と言われて競泳水着が出てくるんだ。いや動きやすいが。これ以上ないほど動きやすいが。
 馬鹿ではないのかと思う。
 無造作に手渡されたスポーツバッグを、中身を確かめもせずに黒澱さんに渡した絶無も責任がないとは言えないが、このオチはちょっとひどい。
 中身を目の当たりにした時、彼女が受けたショックはいかばかりであったことか。
「あー、黒澱さん」
「……っ」
 まるで怒られたように身を縮こまらせ、紅潮した顔を白い膝頭に押し付けた。
「大変失礼いたしました。うちのちんちくりんには良く言って聞かせます。しかし水臭い。僕たちは不即不離の主従です。着替える前に言っていただければ、あなたに恥辱を味わわせるようなことはなかったというに」
 ぶんぶんぶんぶんぶんっ。
『あの、わたしは大丈夫ですから。ぜんぜん恥ずかしくなんかないですから。テレビとかで水泳競技を見ても別にぜんぜん変な気分になんかなったことないですから大丈夫です。こんなの普通です。ぜんぜん普通。』
「いや、どう見ても大丈夫には見えませんから。少々お待ちください。今すぐ加奈子を引っ立ててきます」
 すると、計ったようなタイミングで襖が開いた。
「おーっす絶くんっ! おねーちゃんこれから友達のバンドのリハがあるから行ってくるねーっ! 晩御飯よろしくっ!」
「待てい」
 とたたたたっ、と軽やかな足音が遠ざかってゆく。
 溜息。立ち上がるために膝を立てたその時、絶無の腕を、そっと掴むものがある。
《待って/このまま/ね?/このまま》
「……っ、……っ」
 ぱくぱくと口を開けるばかりだったか、言いたいことは伝わってくる。
「……気に入ったんですか、その格好」
 ぶ、ぶんぶんぶんぶんっ。
《しめつけられるの/だいすき》
 …………。
 ――ええい。
 絶無は意を決した。再び彼女の前に正座しなおし、向かい合う。
 水の抵抗を極力減らすために、競泳水着は体をぎゅうぎゅう締め付けるものである。なので体の線がはっきりと確認できた。綺麗な砂時計型の体形だ。水着のVラインは鋭く、床に切っ先を向けた漆黒の剣を思わせる。
「とりあえずリストロックからいってみましょう。手を出してください」
 覚悟を決めるようにつばを飲み込むと、黒澱さんはおずおずと右手を差し出してきた。
 絶無はその手を握り、ぐい、と左に捻る。
「……ぃ……!」
《いた/痛ぁ/ぴりぴり/痛い/ぴりぴり痛い》
 彼女の痛苦が流れ込んでくる。
 痛みの程度と曲げた角度から、もう少しいけそうだと判断。
 さらに、ぐい。
「ひ……っ!」
《やめてやめて痛い/くるしい/息が/ゆるして/できない!/くるしい!》
 すでに絶無と向かうあうこともできず、ねじられた右腕に引っ張られるようにして、彼女はこちらに背中を向けた。黒い布地に押し込まれた胸元が、重たげにふるん、と揺れる。
 うなじから腰まで大きく開いているタイプのスイムウエアなので、月光のほのめくような肌色が、絶無の眼を射た。
 十秒数えてから、手を離した。
 黒澱さんは、熱病にうなされたような息を肩でしながら、こちらを向いた。
「どうしますか? やめますか?」
 ふ、ふるふるふる。
 絶無は頬を歪めた。嗜虐心が、肉の中で蠢き始める。
 ――いかん、楽しい。
「では逆の腕でやってみましょう」
 恐る恐る、彼女は左手を差し出す。
 掴んで、ぐり、と回す。
「ぁ……っ……」
《痛/くないもん!/痛くない/痛くない痛くない痛くない!》
 そしてか細い腕をねじり上げながら、背後に回り込む。
《え/え?》
 そのまま膝立ちの体勢に移行したのち、ゆっくりと彼女を前へ押し倒した。
「んぎゅ」
 畳に頬を押し付けられた黒澱さんは、首をひねって不安そうにこちらを見た。競泳水着によって締め付けられた背中や腰やおしりに、肉感的な歪みがわずかに浮き出ている。
 絶無は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、彼女のくびれた腰にまたがった。
「左足を思い切り持ち上げてくださいな」
 こくり。
 言われたとおりに曲げられた黒澱さんの足が、絶無の背中に触れた。意外に体が柔らかい。
 絶無は左手を後ろに回すと、彼女のなめらかな足首を掴んだ。
 軽く、引く。
「んぁ……っ」
 甲高い苦鳴。
 青白く潤みを含んだ背筋が、しなやかに反り返る。
《せなか/背中っ/痛ぁい/折れちゃう/折れちゃうよぅ》
 折れない。いや全力を込めれば折ることも不可能ではないが、サディズムのスペシャリストたる絶無は痛みだけを与えて後遺症を残さない力加減を熟知していた。
 尻の下で、彼女の肉体がひくひくと痙攣するのを感じる。
 思わず、笑みがこぼれる。すごく楽しい。
 たっぷり間をおいてテンカウント。ようやく黒澱さんの腕と足を離す。
 弓のように反り返っていた肢体が、ぱたりと畳に倒れ伏す。
「ぁ……ぅ」
 その声に、懇願するような、名残惜しそうな色があったのを、絶無は聞き逃さなかった。
「どうしますか? やめますか?」
 ふるふるふる。
 首を振る動きに、迷いがなくなってきた。

 それから数十分ほど、柔道、合気道、軍隊格闘術、ブラジリアン柔術など知る限りの極め技で、黒澱さんのぐんにゃりとした躯を責め苛み続けた。
《はぅ/あぅ/いたいの/ひりひり/じんじん/カラダがぽかぽか/くるしぃ》
 最初は苦痛を訴えるばかりだった彼女の思念は、だんだんと艶を帯び始めた。
《あ/あっ/やだ/水着がこすれて/やだやだ/ダメなのに/ダメなのにぃ…》
 そんな蕩けた情念が発せられるたびに、絶無は思い切り力をこめて甘い悲鳴を聞きたい衝動に駆られた。
《もっと/いたいよぅ/もっともっと/ひねって/ねじって/しめあげて/もっと♪》
 が、自制。あくまで彼女の関節や靭帯を痛めない範囲での加減を、細心の注意でもって実演する。
 神なる玉体を毛ほどでも傷つけるわけにはいかない。それは絶対の前提である。
「あ……っ」
 じっとりと汗ばむ肌と肌が、予想外の角度で滑った。バランスを崩し、絶無は倒れこむ。
 むにゅり、と溶けそうなほど柔らかい感触が、胸板で潰れた。
 耳元で、少女の熱く黒い息づかいが聞こえる。
 腐れた蜜のような体香が、絶無の思考を甘ったるい酩酊に誘った。
「あ……申し訳ありません」
 すぐに身を離し、体勢を立て直そうとする。
 と。
 白蛇のような両腕が、絶無の首に絡みついた。
 ほんのりと色づいた唇が、ゆるく開閉しながら近づいてくる。
《がまん/できないの》
 かすかな怖れを感じ、絶無は身を起こした。あの唇に触れられたら、もう逃れられない。その予感。
 追いかけるように、彼女も身を起こす。
 距離が広がらない。
 そのまま、黒澱さんに優しく押し倒された。大した力でもなかったのに、抵抗ができなかった。
 腹の上に馬乗りされる。
 いつしか、窓から差し込む斜陽は、血のような紅に染まっていた。甘く重たい夕闇が、音もなく蟠っている。
 異様な空気の中で、下から見上げる視点ゆえに、彼女の濡れた光を湛える瞳が見えた。
 全身に、痺れが走った。熱っぽく蕩けて濁ったその眼に射すくめられ、魔睡(マスイ)にかかったように四肢が動かない。
 くす、と笑みをこぼして、青白い軟体動物のような手が絶無の頬を撫でさする。
 ぬらめく上腕に挟まれて、たっぷりとした乳房が柔らかく形を歪めた。その頂に、ぷくりと突起が浮き上がっているのが見える。
《にんしき……》
「くろ、おり、さん」
 呻くように、絶無は声を出す。
《にんしき/して?》
 ひっきりなしに、彼女のトロトロに溶けた欲望が、流れ込んでくる。
 腹上のぬめる感触の中心で、黒い布越しに、何かがひくひくと息づいているのを感じた。
 絶無にも、もちろんその種の欲求はある。
 だが、こんなときでも、頭の中では冷静な部分があって、ここで欲求に流されることの是非について思考していた。
《暗闇(ふたりきり)》
 他の神骸装(デミウルゴス)をすべて倒し、彼女を世界の神に据え、自分は世界の王となる。
 その目標を達成するにあたって、彼女と一線を越えるのは、プラスか? マイナスか?
《背徳(すてきなこと)》
 もちろん、プラスの要素はある。神と王の婚姻は、その後の支配体制の確立において有意義なことだろう。
 だが――
《粘膜の妄想(きもちいいアクム)》
 絶無としては、黒澱さんとの関係に、ある種の緊張感を保ち続けたい思いがある。
 少年と少女ではなく、人と人として。
《相互認識(すりすりにゅるにゅる)♪》
 ふにゅん、と絶無の体に柔らかいものが押し付けられる。
 首筋に湿った吐息がかかったかと思うと、煮えたぎる舌が喉仏や頸動脈をねっとりと味わいはじめた。
「んちゅ……ん……ちゅぷ……んふ……んんっ……」
 目の前で、ねじくれた悪魔の角が揺れ動く。
「……わたしは、スェドンザ……ちゅ……んぅっ……」
 興奮に戦慄く声が、か細く漂ってきた。
「……カンインのつみをきざみつけられた、あンっ……だいあくま……」
 くす、と無邪気で邪悪な笑い。
「なんじカンインするなかれ……♪ なんじカンインするなかれ……♪」
 饐えた毒の睦言が、耳から脳を侵す。競泳水着の食い込んだおしりがきゅっと持ち上がり、節に合わせてくねった。絶無の膝をまたぎ、体の奥をこすりつけてくる。
「黒澱さん……」
 絶無はゆっくりと身を起こし、悪魔娘の肩を抱き寄せた。深い森の底に放置され、腐れて甘い匂いを放つに至った、美しい死体のような、彼女の感触。
 きて、と、彼女は燃えるような唇で言った。
 震える指先が、つ、と白くほのめくふとももに触れる。
「……ぁ……」
 そのまま、柔肉に指を沈ませる。強く握ると、蜜が滴り落ちてきそうな手触りだった。手のひら全体で味わいながら、徐々に上へと滑らせる。
「……あっ……あっ……」
 上擦る声を必死に抑えながら、彼女は身をよじる。背徳的な質量を誇る胸乳が、たゆん、と揺れた。
《あぅ/うそ/ちょっとさわられただけなのに/だけなのにぃ》
 腰のすぐ上で、青いラインの入った黒い布地が肉に食い込み、境界線を形成していた。そこを乗り越え、絶無の手は脇腹を撫でさする。敏感になりすぎた彼女の体は、ひくひくとうねる。
《指/くすぐったい/指/ひりひりする/ゆび/ぴりぴりする/ゆびぃ/きもちいいの》
 そして、絶無の指先はなぞるように登ってゆき、悪魔娘の躯の中で最も窮屈に締め付けられた部分のすぐ下まで到達する。はぁはぁと喘ぎながら、彼女は期待と畏れの入り混じった視線を注ぐ。
《さわる?/なでる?/つまむ?/むにゅむにゅする?/くにくにする?/はむはむする?》
 いったんそこで手を止め、神骸装(デミウルゴス)スェドンザの顔に、絶無は唇を近付ける。
《はぅ/キスする?/しちゃう?/むちゅってする?/ちゅむちゅむする?》
 絶無は生唾を飲み込むと、その胸に秘めた欲望を口にした。

「あなたの、眼球が、舐めたいです」

「ぇ」
《えっ》
「……え?」
 二人して固まる。
 何かまずいことを言ったかな、と考え込んで、確かにまずいことを言ったかもな、と冷静に結論付ける。
 一瞬の間。急速に冷めてゆく室温。
 二人はどちらからともなく身を離し、正座して向かい合った。
 ぽかん、とした様子で、こちらを眺める黒澱さん。
「えー、おほん」
 咳ばらいひとつ。それが合図になったのか、彼女はさっきまでの自分の所業を思い出し、あわあわとパニックに陥っていた。
「今回のことは、お互い黒歴史として流すという方向でひとつ」
 こくこくこくこくっ、とかつてない勢いで彼女はうなずいた。
「では、僕は少し外しますので、着替えていてください」
 こくこくっ。

 ●

 しばらく時間をつぶしてから、客間をノックした。
「黒澱さん、もうよろしいですか?」
 扉が開き、うつむいた黒髪の少女が出てくる。ブレザーの制服姿だ。体の線はまったく目立たなくなり、いつもの内気な様子に戻っている。
 さっと、ノートが掲げられた。
『久我さんのお気持ちも考えず、大変お見苦しいところを見せてしまいました。汗顔の至りです。』
「いえ、そんな。ぜんぜん嫌ではなかったですよ」
「~~~~っ!」
 ぶんぶんぶんぶんぶんっ。
 何に対する否定なのかよくわからない。
『勘違いなさらないでくださいね。わたし、ふしだらな女じゃありません。』
「ええ、そうでしょうね」
『人前であんなに抑えが利かなくなったのは、さっきが生まれて初めてです。』
「つまり一人のときはいつも抑えが利かないわけですか」
「~~~~っ!」
 ぶんぶんぶんぶんぶんっ。
 とりあえず中に入り、電気をつけ、座布団を出し、向かい合って座る。
「聞きたいことがあります」
 こくり。
「黒澱さんは、どうもご自分の眼を他人に晒すのがお好きではないようですね」
 ややためらって、こくり。
「理由を、うかがってもよろしいでしょうか?」
 軽く息をのむ気配。
 ひとしきりうつむくと、やがて意を決してペンを取った。
『わたしのこの目、日本人にしては変わった色をしてますよね。』
「はい」
『どうもこれは、悪魔としての性質によるもののようです。わたしの両親は、二人とも黒い瞳でした。』
 その瞬間に、絶無はさまざまなことを悟った。
 黒い目の家庭に、突如生まれた異分子。それがどのような疑惑を呼び、どのような不和を呼び、そして彼女の人生にどのような爪痕を残していったか。
 すべては容易に想像がついた。
『正直に言うと、この目のおかげで得をしたことなんて一度もありません。家庭は壊れましたし、学校では何度もからかわれました。人に見せれば不幸を呼び込むもの。わたしのなかで、そういう思考が定着してしまったのです。』
 黒澱さんの様子に、感情的な変化などない。悩んでもしょうがないことを悩むつもりがないのだろう。自らの状況を、ずいぶん客観的に見ている。
 もっとも、絶無が彼女の立場だったら、自分を侮辱した連中は一切皆ことごとく泣いて土下座するまで心身を痛めつけて身の程をわからせるであろうが。
 一瞬、重苦しい沈黙が垂れ込めた。絶無はしばし考え、厳かに口を開く。
「……ひとつ、あなたに伝えておかねばならないことがあります」
 かすかに、彼女は首をかしげた。
 絶無は膝に手をついて身を乗り出す。
「黒澱さん、あなたの瞳は美しい。どんな宝石も敵わぬほどに。まるで宇宙そのものを相手にしているような、敬虔な気持ちになってきます。美しいものへの感性を誰よりも研ぎ澄まそうと志した人生でしたが、これほど胸ゆさぶられる色彩と構造は、他に見たことがない。僕が黒澱さんに敬意を払うのは、命の恩義があり、僕には決して出来ないことを出来るから。そして何よりも、隠されたその瞳があまりに美しいからです」
 ――言えた。
 絶無は、ひそやかな満足感を覚えた。
 しばらく、静寂が流れた。
「……っ」
 やがて、小さな呻きが聞こえてくる。
 少女は震える唇を噛みしめていた。
「……そんなこと言われると……乗り越えるために切り捨ててきたいろんなものが……もったいなくてしょうがなくなっちゃいます……っ」
 前髪の下から手を差し込んで、目を拭った。押し殺したような嗚咽が、しばらく漏れる。
 やがて、黒絹の帳が押し広げられ、泣き腫らした深緑の燐炎がこちらを覗いた。
 絶無は、途端に高鳴る鼓動を持て余す。正面から見る彼女の顔は、思いがけず愛らしかった。
 絶無は膝立ちで黒澱さんに近寄ると、その肩を抱き寄せた。
 黒澱さんはすんすんと鼻を鳴らしながら、身をすり寄せてくる。
「久我さんは……いじわるなひとです……」
《おこらない?/こわくない?/すきになっちゃうよ?/すりすりしちゃうよ?》
 絶無は眼を細めて、彼女と額をこつんと触れ合わせる。
 ごく間近で、見詰め合う。
 黄昏を浴びて、ぼんやりとした光を含む巨大な虹彩が、ひくひくと収縮していた。瞳孔を中心に、放射状に無数の細かい触手が伸びているかのようだ。緑一色ではなく、襞の狭間にさまざまな色が息づき、透かし細工のように水晶体が煌めいている。あたかも世界の縮図――空恐ろしさと可憐さと切なくなるほどの崇高さを体現していた。
「……久我さんの、原点も、しりたい、です……」
 甘い囁き声。
「原点?」
「……どうして、弱いひとが嫌いなのか。どうして、その嫌いなひとたちを、まもろうとするのか……」
 湿った吐息が唇を撫でてゆき、むず痒いような快感を覚える。
 口を開きかけ、絶無は眉尻を下げた。
 ……自らを語るという行いを、どことなく嫌悪していた。
 僕はこんなに辛い過去を背負っているので同情してください、というような。
「わたしは話したのに、久我さんだけひみつなのは、ずるいです」
「それは……」
 抵抗は、できそうにない。絶無の行動原理の第一位は「黒澱さんの意志」であり、第二位に「自分の主義」であり、第三位でようやく「自分の感情」が来る。
 選択の余地などないのだ。
 ひとつ息をつくと、絶無は口を開いた。
「あまり、楽しい話ではありませんよ」

 ●

 そいつと出会ったのは中学生の時分であった。
 父より自らの非天才性を暴露され、世界における自らの立ち位置と他者への対応に関して指針を失い、はたしてどうしたものかと柄にもなく途方に暮れていた時期のことである。
 校舎と体育館をつなぐ渡り廊下を歩いていると、恰幅の良い男子生徒が、どういうわけかセコイヤの樹によじ登ろうとしていた。
 短い足をじたばたと動かして、必死に枝の上へ体を引き上げようとしている。
 見ると、樹の枝葉のそこかしこに破り捨てられた紙片が引っかかっていた。
 いくつかは地面にも落ちている。
 拾い上げてみると、何のことはない、教科書がバラバラにされているのだ。
 校舎の上層階から笑い声が聞こえてくる。彼のクラスメートとおぼしき男女数名が、こちらの方を見下ろして笑い合っていた。
 まぁ、おおよその状況は掴めた。わざわざ教科書を一ページずつ破って窓から風に乗せたらしい。暇というか、ご苦労なことである。
 で、目の前の彼は律儀にも自分の教科書を復元しようとしている、と。
「ひとつ、伺いたいのですが」
 ガニ股状態で枝に足を引っかけ、バランスを崩しかけている彼に、声をかける。
 すると、こっちに振り返った。よくもまぁこんな醜い顔の造形をこさえたものだと感心してしまうレベルの不細工だ。
「教科書をまた買うという選択肢はないのですか? 見たところページを集めるのはとても大変そうなのですが」
「うる、さい」
 分厚い唇がぬらりと蠢いて、もごもごと不鮮明な言葉を紡いだ。
「おれ、の家、また、教科書買う、金、ない」
 いくら貧しいからと言って教科書一冊買う金も捻出できないはずがないように思えるが、察するにいままで何度も同様の被害にあっているのだろう。
「そうなんですか」
 まぁ、そういうことなら止めはしない。特に関わる理由もないので通り過ぎようとした。
 しかし何の偶然か、彼が復元しようとしている教科書とまったく同じものが今絶無の手元にあるのだ。
 ――うむ。
 ここで助け舟を出してやる積極的な理由はないが、出してやらない積極的な理由もない。なぜなら中学レベルのカリキュラムなどとっくの昔に収め終わっている。今更自分に教科書など必要ない。
 ならば、自分の心のままに動くとしよう。
 無言で樹の根元に教科書を置くと、彼が気付く前にその場を去った。

 次の日。
 彼は相変わらず破られた教科書のページを探して東奔西走していた。
 呆れてものも言えないとはこのことだ。
 自分が登っていた樹の根元にも気づけないほど馬鹿なんですか? と問いかけて、いやいやそんな刺々しい口調はいけない。他人の自尊心は尊重しなくてはならないのだと自らに言い聞かせていると、ふとあることに気づいた。
 ページがばら撒かれている場所が、昨日と違うのだ。
 どうも絶無が提供した教科書をまた取り上げられてまた破られたらしい。
 溜息しか出てこない。胸の中でむかむかとした感情が沸き起こってくるが、つとめて抑える。怒りにまかせて人に暴力を振るったところで何の意味があるのか。暴力とは根本的に妥協である。スマートに事態を収める能力がないから、暴力に頼りたくなってしまうのだ。
「……よし、こうしましょう」
 声をかける。
 彼は驚いて振り返り、一瞬ばつの悪そうな顔をする。
「おま、え……」
「僕が教科書を買います。そして僕が管理をします。あなたは放課後僕のところに来てください。僕が勉強を教えます。みっちりと。徹底的にね」
「は……?」
「僕は久我絶無と言います。あなたの名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
 言い終えてから、ちょっとまずかったかな、と気づく。普通の人は、こういう物言いに対して不審と反発を覚えるものだ。正直なところ共感できない心境であるが、理屈として「そういうものだ」と理解はしていたし、それを尊重するつもりもあったのだが、どうも不意に素が出てしまった。
 だが。
「……わか、た。たの、む」
 意外な返事が返ってきた。

 彼の名は、志垣(しがき)泰然(たいぜん)と言った。
「金が、いる」
「お金、ですか」
「たくさん、たくさん、いる」
「なぜ?」
「おれんち、おやじ、いない。借金、ある。おふくろが、ぜんぶ、やってる。弟、たちの世話、も、稼ぎ、も、ぜんぶ」
「ふむ」
「金がいる。おれんち、貧乏、だ。どうしようもなく。このままじゃ、いつまで経っても、おふくろ、息もつけない」
「それで君はいい高校に入っていい大学に入っていい企業に入ってご家族に楽をさせてやりたい、と。そのためにはこんなところで教科書をなくして勉強が不可能になるのは困る、と」
「そう、そう、だ」
「お気持ちはわかりました。僕もできるだけのことをしましょう」
「なぜ、だ?」
「どうしてこんな何の得にもならないことを、相当な時間を割いてやっているのかと言うと――正直なところ、積極的な理由は特にないんです。自分の中に、欲求めいたものの存在を感じたことがあまりありません。はっきり言えばなんでもできますが、じゃあ何がしたいのかと言われると、何もない。空っぽな人間なんですよ。だから、なんと言いますかね、志垣くんには羨望、のようなものを覚えているのです。君の野望を叶えることで、空っぽな自分をも満たそうとしている。一種の代償行為というやつですか」
 ――最近になって、自覚した。
 これまで絶無は自分のことを「努力もせずに何でもできる天才」と位置付けていた。自分が努力をしている自覚などなかった。だから、欲求のない空虚な自分自身に矛盾を感じたことなどなかった。何ひとつとして欲しいものがない。だから努力をしない。その在り方はすんなりと納得できた。
 だがそれはあくまで絶無の基準であって、他人が絶無の私生活を観察すれば、間違いなく非常な努力家だと思うことだろう。
 この事実を父から知らされたとき、絶無は自分のことがわからなくなった。
 自分が努力家である。それは認めてもいいとしよう。
 ではそこまでの努力を積み上げて、僕は何がしたいのか?
 何もないのだ。
 何もないのに、何故か努力だけはしている。
 高く分厚い城壁が建っているが、その中に守るべき街などなく、荒涼とした平地だけが広がっているのだ。
 ――中身が、欲しかった。
 この城壁に値する中身が。
 たとえそれが他人からの借り物であったとしても。
「まあ、僕の内面的問題などどうでもよろしい。志垣くんには孤蘭学院(らんがく)にも通るだけの学力をつけていただきますよ。次の単元です。教科書154ページを開いてください」

 数か月が経った。
 志垣泰然は要領の悪い生徒だった。ゆえに何度か泣きを入れてくると思っていたが、粘り腰が強く、一度たりとも弱音は吐かなかった。歯を食いしばって、死に物狂いでついてきた。
 彼へのクラスぐるみのいじめは、エスカレートの一途をたどっていた。助けを求めてきたなら手を貸すつもりはあったが、彼はおくびにも出さずに勉学に集中していた。これは自分自身の問題である――と考えていたのだろう。絶無はその誇りを尊重した。
 そして。
「う、受かって、る……?」
「当然です。僕が教えたのですから」
 呆然とした顔で、彼は掲示板を見上げていた。
 県内では最もランクの高い公立高校だ。経済的問題を抱える彼にはこれがベストの選択であろう。
 結果は、合格。
 恐らくは首位近い成績だったことだろう。
 別段頭の回転が速かったわけでも記憶力に優れていたわけでもないが、僕が絶対強権をもって努力を強制すればこんなものだ。
「ぅ、ぅ、ぉぉぉおおおおおおお……!」
 志垣は身を震わせている。
 絶無は目を細めた。
 空の器に、中身が注がれる手ごたえ。
 欠けたるものが、満たされてゆく。
 ――悪くないかもな。
 相変わらず自分の欲求がわからなかったが――まぁ、自らの万能性をもって、必死に生き急いでいる奴らの夢に手を貸してやる。そんな人生も、ありと言えばありだろう。少なくとも無意味ではない。
 絶無は目を閉じて、胸の裡に生じた充足感を、ゆっくりと味わった。
「お、おふくろに、報告、してくる!」
 人ごみをかき分け、どたどたと走り去ってゆく志垣。
 ふと、振り向いた。
「おれ、は、おまえ、が、嫌いだ。だから、ありがとう、は、言わ、ない」
「必要ありませんよ。僕は僕のためにやったことです」
 志垣は、頬を歪ませた。そうとしか表現できない不気味な表情だったが、どうやら笑顔らしい。
 初めて見た、笑顔だった。

 それが志垣と言葉を交わした、最期の機会となった。

 ●

「――自殺でした」
「え」
《どうして/どうして?/受かったのに/どうして》
 絶無は黒澱さんに囁きかける。
 話の間も、なんとなく離れがたく、窓際で身を寄せ合っていた。
「山中で首を吊っており、足元の遺書にはただ一言、『つぐなう』とだけ書かれていたそうです」
 淡々と、絶無はつづける。
「一体、何が起こったのか。殺人の可能性も視野に入れつつ、僕は調査を開始しました」
 と言っても当時は華道部のような配下もおらず、いささか強引な手段になることは避けられなかった。
 まず志垣が死ぬ理由と言えばなんと言ってもいじめグループである。クラスメートの大半が積極的に関わっていたようだ。
「片端から人気のない場所に連れ込んでゲロを吐かせたところ、合格発表から自殺までの間の志垣の動向が徐々に判明していきました」
 その結果、ひとつの情景が、浮かんできたのだった。

 ●

 登場人物の一人は、素敵な恋にあこがれる夢見がちな女子中学生。
 いま一人は、まだ若く生徒の人気も上々の男性教師。
 二人は同じ教室の教師と生徒であったが、出会ったその瞬間に運命を確信した。
 逢瀬を重ねるたびに深まってゆく絆と想い。愛し、愛されるということの喜び。
 もちろん、二人の関係は決して誰にも明かせない。しかしそのスリルすらも、恋を燃え上がらせる燃料にしかならなかった。
 世間の常識など関係ない。本気なのだ。もうお互いしか見えないほどに。
 二人を頭ごなしに否定できるのは、本気で恋をしたことがない人間だけだ。
 ……しかし、ある日まずいことが起きた。
 少女が身ごもったのだ。
 これはまずい。いずれはそういうことも考えてはいたが、今はまずかった。下ろすにせよ、二人の関係が明るみになる危険は避けられない。
 少女は恋に盲目だった。未来の旦那様を守れるのはあたしだけなんだ、と固く決意した。
 だから、クラスにいる気持ち悪い人に罪を被ってもらうことにした。
 もう見ているだけで吐き気をこらえなくてはならないくらい気持ち悪い顔の人だ。クラスのみんなのストレスの捌け口になっていて、少女自身も何度か参加していた。ちょっとかわいそうだけど、世の中にはこういう役割の人も必要なんだね――と納得しながら。
 今回も、彼には自分の役割を果たしてもらおう。なんだかレベルの高い高校に合格したみたいだけど、あんな顔の人の将来よりも、あたしたちの幸せな恋のほうが絶対大事なはずだ。
 クラスのみんなも口裏を合わせてくれることになった。友情に、涙が出そうになった。人はみんな弱いもの。時にはきれいごとでは済まないこともある。あたしたちは恋をしただけなのだ。神様だって許してくれるよね。
 そして少女は泣きながら両親に訴えた。志垣くんに乱暴された、と。

 ……絶無にとって痛恨だったのは、諸々の証拠を集めてクズ教師とカス女を社会的に抹殺するのに一週間もかかってしまったことだ。
 一週間!
 一週間も奴らは「示談がうまくいって賠償金までせしめられそうだ」とわが世の春を謳歌していたのだ。
 その情景を想像するだけで腸が煮えくり返りそうになる。
 顔に、雪が触れた。
 闇の曇天から、音もなく白い幻想が降り積もる。
 普段なら、目を細めてひとしきり見入る光景だったが、今の絶無にはうっとおしいだけだった。
 何故怒りで溶けないのか不思議なほどだった。
 歩みを止めず、街路を進んでゆく。この怒りをどこにぶつければいいのかがわからなかった。
 奴は。
 志垣は。
 最期まで絶無に一言も助けを求めなかった。
 ――つまり、なんだ? あれか? 死の瞬間、僕はお前を陥れたクズカスどもと同列に扱われていたのか?
 目も眩むほどの怒りが、絶無の胸を灼いた。なんという侮辱、なんという誤解か。いますぐ奴の胸ぐらをつかんで百万の罵倒と共にその小癪に障る勘違いを糺してやりたかった。
 だが――その機会は永遠に失われた。志垣泰然は、この世に味方は一人もいないと考えながら死んだ。
 一体、それは、何なんだ。
 ふと、前方にひとつの人影が佇んでいた。
 見覚えのある姿。永遠の憧憬と、畏怖の対象たる男の姿。
「やあ、お疲れ」
「父さん……」
 もうすぐ四十になろうとは思えないほど若々しい顔を微笑ませ、絶無の父――久我(くが)涯無(がいむ)は息子を待っていた。
「ちゃんと止めは刺したかい?」
「……教師の方は、確実に。しかし女は未成年ですからね。どうにも……」
 このことは話していないはずだが、父のことだからどういう経路から何を知っていたとしても不思議ではなかった。
「ま、そうだろうね。心配しなくていいよ。彼女がこの国で、少なくとも経済的な幸福を得る恐れはもうないから」
 にこやかに、言う。久我涯無にはそういうことが容易くできるだけの力がある。
「すみません。あなたのお手を煩わせることになってしまった。それだけは、避けたかった」
「自慢の息子の復讐だ。そう言わず噛ませてくれよ絶無くん。あぁ、そうそう、志垣くんの家だけどね、さっき口座に三億ばかり振り込んどいたから」
「お、お金の問題では……」
「お金の問題さ。こういうことはね」
 絶無は、うつむく。
「……一体、何なのでしょうね。もうわからなくなってしまった。これで終わりなのだとしたら、志垣泰然は一体、何のために生まれ、何のために生きていたのでしょう。何一つ成すことも報われることもなく、ただ疎まれ、蔑まれ、挙句に濡れ衣を着せられて死んだ。そしてこのまま忘れ去られてゆく。それを、認めるべきなのでしょうか。生きるということと死ぬということに意味を求めるのは、甘えなのでしょうか。僕は、何を成すべきで、何を成さないべきだったのでしょうか」
「絶無くん」
 ぽん、と頭に手が乗せられた。
「僕は君を育てるにあたって、俗世から隔離して徹底的な英才教育を施すこともできた。だけどあえてそれをせず、普通の子供たちと同じように欠陥だらけの教育機関にゆだねたのはなぜだと思う?」
「座学では、わからないことがあるから、ですか?」
「間違いじゃないけど、不十分だね。正解は、弱者というものがどういう存在であるか、肌で感じてほしかったからだ」
「……っ」
「いいかい絶無くん。弱い人間は最低だ。弱い人間は死んだ方がいい」
 少し哀しげな顔で、父は言った。
「馬鹿な。それでは社会が成り立たない」
「その通り。だけどね、社会的な要請と、物事の真理は、全く別の問題だ。本来生きる価値など微塵もない弱者に、ありとあらゆるメディアを用いて、『あなたには価値がある』『弱さこそが人間に必要な要素だ』『ありのままのあなたで良い』などのウソを吹き込んでおだて上げ、搾取しやすい状況を作ること。それこそが支配者に必要な資質なんだよ。弱者を同じ人間などと思わない方がいい。陳腐な表現で済まないが、彼らはね、豚なんだよ。どうしようもなく」
 その言葉に悪意も皮肉も嘲弄も込められておらず、残酷なまでに淡々としていた。
「世に『名君』や『暴君』なんてものは存在しなかった。居たのはただ、搾取の構造を隠すのが上手い支配者と、下手な支配者だけだ。絶無くん。君の本当の父親はね、正直者でありすぎた。隠すのが下手というか、隠す気が最初からないような男だった。包み隠さず誠実に話せば、きっとわかってもらえる――なんて勘違いをしていたんだ。だから弱者様のご機嫌を損ね、寄って集って取り殺された」
「う……ぅ……」
「何を成すべきだったのか――だって? 君はそれにもう気づいているんじゃないのかな?」
 拳を握りしめ、身震いした。
 怒りは鎮められ、ただ悲しい寒さが身に染みた。生きるということの悲しみが、雪明りの中で小さく凝っていた。
 やがて、空っぽの城壁の奥で、何かが立ち現れ始めた。それはねじくれ歪み、高く高く聳え立った。
「それでも……それでも僕は……目に映る世界が、豚のひしめくような場所であってほしくない。あなたはそんな世界でも何の痛痒も感じず、すべてを許容し、利用し、支配できるかもしれないけれど、僕はそんな世界、耐えられない。そんな器用には、生きられない」
 だからきっと、これは絶無の青さであり、甘さである。
「僕は、正直に生きたいんです。豚を豚のまま認めるなんて、絶対に嫌だ。それだけはどうしても肯じえない。彼らには、搾取されるだけが存在意義の生物ではなく、人であってほしいんです」
 久我涯無は、目を細めてこちらを見ていた。
 やがて大きな手が伸びてきて、絶無を抱き寄せた。
「絶無くん。それは茨の道だ。豚は豚であることに満足しているんだよ。自分の頭でものを考えるのが大嫌いだし、自分と異なる価値観も大嫌いなんだ。だから檻から解き放たれようと、誰一人君に感謝なんてしないだろうね。それどころか君のことが疎ましくて仕方がなくなる。必ず排除しにかかる」
「いいんです。それならそれで。怒りを糧に鎖を引きちぎるなら、結構なことです。僕はせいぜい憎たらしい敵役を演じますよ。もう決めました。僕は二度と弱者の弱さを尊重しません。弱者の誇りを尊重しません。そして弱者の生命と可能性を守ります」
 そうとも。
 志垣泰然の生と死が、無意味であったなどとは認めない。
 僕がこれから、意味を与えるのだ。
 弱者。弱者よ。感情論と言う名の暴威によって世界を抑圧する最強のマジョリティよ。

 ――僕はお前たちに反逆する。

 ●

「そして僕は二つの教訓を得ました。何事も暴力で解決するのが一番であるということ。そして暴力を振るう相手を誤ってはならないということ」
『暴力は遺恨を生み、遺恨は弱い人たちに立ち上がる力を与える……?』
「そう。そして僕を憎み、僕を排除するために死に物狂いになったとき、その者はもはや薄汚い豚ではありません。僕は、僕が生きていて心地よい世界を作るために、このエゴを貫きます。断固として」
『もしも』
 黒澱さんは、大きな文字を掲げた。
『わたしが久我さんの暴力に反対したら、どうしますか? 暴力を原理主義的に毛嫌いするのではなく、その功罪を客観視して向き合わねばならないということは理解します。世の秩序と進歩が、暴力の押し付け合いで成り立っている側面があることも認めます。でも、わたしはそれでも、久我さんの言う弱者なんです。どうしたってあなたと同じ視点には立てない。』
「その時は、言葉を尽くして説得しようとはします。しかし最終的には、あなたの意志に従います。この身はあなたの振るう剣であるがゆえ」
『どうして、そこまで? わたしは正直なところ、久我さんの審美眼に適う人格を持ってはいません。』
「そんなことはない。黒澱さん、確かにあなたは逆境に対して直接的に対抗する力は持っていないかもしれない。僕も最初は、あなたの美しい眼球や、愛らしい顔や、艶めく吐息や、優しく照れ屋な心根や、蝋人形のように滑らかな膚や、重く張った胸乳や、理性的であろうとする公平さや、欲望に弱い唇や、いたずら好きな舌などにだけ惹かれていました」
 黒澱さんが口を引き結んでぷるぷるしている。
 たいへんかわいらしい。
「しかし、今ではそうした外に出てくる性質を透かして、もっと大切なものが見え隠れしているように思えます」
 彼女は首を傾げてつづきを促す。
「それは[動かない]という強さ」
 前髪の奥で、目をしばたかせているさまが、かすかに見えた。
「あなたは理不尽な仕打ちを数多く受けて来ましたが、僕のように反撃することなく、さりとて凡百の弱者のように逃げることも腐ることもなく、その場に踏みとどまって、自分自身であり続けた。自分であるということに誇りを持ち続けた。僕はね、反撃しなかったことよりも、腐らなかったことに注目しているんです。それは尋常の在り方ではない」
 さらさらとペンの走る音。
『嫌われてるからって、嫌い返すのは、なんだか嫌だし、不毛な気がしたんです。』
「そう。まさにそれです。僕はついぞ持ちえなかったし、これからも恐らく持つことのない強さ。北極星のごとき不動性。それこそが黒澱さんを主君として受け入れた理由です。[今自分がどこにいて、どちらを向いているのか、それを把握するための定点が、僕には必要なのです]」
「……っ」
 絶無は眼を細め、彼女の頭に手を伸ばした。触れたくなったのだ。いたわるような繊細なタッチで、頭髪を梳く。
 闇を溶かし込んだ髪の、さらさらと滑らかな感触が、指の間を愛撫してゆく。
 一瞬、身を固くした黒澱さんだったが、やがて安心したのか、絶無の掌に押しつけるように頭を傾けた。
 絶無は、想う。
 彼女の根底には、こちらに対する恐怖めいたものがある。きっとそれは、今後も拭いがたく二人の間にわだかまり続けるだろう。
 少しでも、それを取り除きたかった。
 どうすべきか。
 やはりもっと自分をさらけ出すべきであろう。
「そういうわけで黒澱さん、そろそろ眼球をひと舐めしてもいいですか?」
「~~~~っ!」
 顔を真っ赤に染めた黒澱さんが、小さなにぎりこぶしでぽかぽかと叩いてきた。
「お互い黒歴史として流すって言ってたじゃないですか!」
「黒歴史とはいつかは紐解かれるものです」
「早すぎますよ!」

 ●

 ――謹聴せよ、ラメッド=ダレット。最も完璧なる失敗作よ。
 重く煮え滾る闇の中で、橘静夜は澄んだ声を聞いていた。
 男の声だ。青年の声にしては威厳がありすぎるが、年経た男のものにしては純粋にすぎる。
 自然と居住まいを正させ、敬虔な気持ちを抱かせる声だった。
 ――お前は本来、余の力を身に降ろすに足る器の持ち主であった。
 視界の中に、ひと振りの剣が現れる。見るからに灼かな霊験が宿る、冴え冴えと冷たい虚空の剣であった。
 冷気を宿しながら、ゆっくりと目の前に降りてくる。
 剣はその潤みを帯びた刀身を震わせ、言葉を発していた。
 ――このような結果になったことは、余としても残念に思う。お前は本当に優秀な子供であった。
 かつて静夜は、たくさんの兄弟たちとともに、この剣を親と仰ぎ、師と称え、神と崇めたてまつった。
 この声を聞いているだけで、自らの魂が清澄に浄化されてゆくような気がしていた。
 ――我が寵児、テット=ザインは、お前たちの■を望んでいる。
 そう言われた時も、意味がよくわからず、何かの聞き間違いかと思った。
 ――そして余は、それを止める理由を持たない。
 だから、[その時]も、静夜は何一つ意味のある行動を取れなかった。
 ――生きあがけ、ラメッド=ダレット。どの道お前たちの■はあとわずか。
 逃げることも、抵抗することも思いつかず、ただ見ていることしかできなかった。

『――夜、静夜!』
 ザラキエルの、声がする。
「む……」
 一声呻き、静夜は眼を開けた。涙が流れるかと思ったが、そんなものは一滴もこぼれはしなかった。
 夜の自室だ。トレーニング用具とわずかな空き缶だけが並ぶ、生活感のない部屋だった。
『探知可能なほど巨大な認識子(グノシオン)の収束がありました。神骸装(デミウルゴス)スェドンザと久我絶無が骸装したようです』
「場所は」
『ここより八キロ北、駅前のあたりですね』
「遠いな。急ぐぞ」
 壁のデジタル時計は午後八時を示していた。一時間程度は寝られた計算だ。
 ザラキエルを腕にはめ、上着を引っ掴むと、静夜は外に飛び出した。
 ――瞬間、胸にきりきりと痛みが走る。
「く……ッ」
 足が止まる。顔が歪む。脂汗が吹き出る。片膝をつく。
『静夜!』
 珍しく血相を変えた様子で、ザラキエルが叫んだ。
「ふん……今年いっぱいは持つと思っていたが……どうやらそんなに時間はないようだな」
『静夜……』
 意に介さず、再び駆け出す。
 長い脚で疾走しながら、青銀色の手錠に触れる。
「――骸装」
 光に包まれながら、静夜は疲れた笑みを浮かべた。
 この命、あとわずか。
 たとえ奇跡が重なって、すべての神骸装(デミウルゴス)を討ち果たすことができたとしても。
 たとえ今の世界を守り切り、人の世を取り戻したとしても。
 もはやこの身が幸福を享受することはない。
 ――だが、それゆえに。
『今は、戦える。恐れを知らぬ、暴風のように』
 人並みの羞恥心は、ある。自分は幸せになってはならない人間であることを思い知っている。
 それだけのことをしたのだ。
 それだけの、ことだ。

 ●

 駅前に、絶無は降り立った。
 帰宅ラッシュの頃合い。タクシーが並び、人でごったがえす中。
 巨大な波濤のようなざわめきが各所で上がり、駅舎の上に降り立つ異様な人影に視線が集中していた。
『跪いて仰ぎ見ろ。これが、貴様らの奉ずべき神の姿だ』
 蒼く光る血管を全身に絡みつかせた、神々しいまでに均整のとれた黒い人影。その背後からは、しなやかにくねる無数の触手が四方に広がっている。ぼんやりと青白い認識子(グノシオン)の光を宿しながら、翼や枝葉のごとくゆらめいている。それは、人類の集合的無意識に先天的に備わった「世界を支える大樹」の元型(アーキタイプ)を、あまりにも完璧に具現していた。
 人々の胸を、雷のように天啓が貫き、常識や既成概念のすべてが覆される。
 ただそこに佇んでいるだけで。
 それほどの美。
 異形の至美。
《わぁ、すごい……》
 数百名に届こうかという人数が一斉に跪いてくる様子に、黒澱さんは胸の中で艶然と微笑んだ。何かひどく愛らしいものを見ているような、穏やかで温かで粘液質な気持ちが、彼女の中に膨れ上がっている。それは人間でいう保護欲にも近い気持ち。神骸装(デミウルゴス)が自らの信徒に抱く、暗黒の母性であった。
『これから飛び回って、ひとまず洞慕町の人間を残らずあなたの信徒にしたいところですね』
《うふ、楽しみです》
『しかしまぁ――』
 絶無は肩をすくめる。

『やめろッ! 久我ァァァーーッッ!!』

 凄烈な、怒号。
 夜の闇を切り裂きながら、銀の流星がこちらに突っ込んでくる。
『――案の定、邪魔が入りましたね』
《す、すごく怒ってます》
『黒澱さん、打ち合わせ通りにお願いします』
《は、はい》
 触手の一部が絶無の黒い腕に絡みつき、一体化。禍々しいまでに巨大な拳と化す。
 黒澱瑠音――神骸装(デミウルゴス)スェドンザの身体的特性だ。無数に生える触手は、人の作った構造物なら簡単に破壊できるほどの威力を秘めた鞭であると同時に、半液体ともいうべき柔軟な変形が可能である。
 絶無は、咆吼する。
 すぐ目前まで迫った重騎士の魔眼に向け、肥大化した拳を引き絞り、
 ――解き放つ。
 大気が激震し、認識子(グノシオン)の烈光が衝撃波と共に爆散する。周囲一帯の建造物の窓ガラスが一斉に砕け散り、人々の悲鳴が上がった。
 黒い肉の拳と、銀青の鋼の拳が、正面からぶつかりあったのだ。凄まじい反動で、弾かれたように間合いが離れる。
『魔王(アークエネミー)……今ここで貴様を討つ』
『はっ! さえないセリフだな橘ァ……!』
 即座に触手を操作。先端が粘液を引きながら花開き、歪んだ牙が生えた異形の顎門を露わにした。
 獰悪な食欲を隠そうともしない、無数の肉食花。
『喰らい潰せ!』
 まるで黒い花火が弾けたかのように全方位へ拡散し、その後優美な弧を描いて重騎士に殺到する。
 空を覆い尽くすドス黒い濁流。
 鋼鉄の巨体が、認識子(グノシオン)のフレアを後に残し、急加速。
 大気の壁を突き破りながら、一直線に突っ込んでくる。
 絶無は、ほくそ笑んだ。わざわざ正面を開けておいてやったのだ。乗ってくれなければ困るというものである。残った触手を編んで、瞬時にぬるぬるとした大盾を形成する。
 直後、全身を砕くような衝撃が襲い来る。踏みしめられた足が、駅の天井を削りながら後退。
 弾力に富んだ防護壁は十全に機能し、破壊力をほぼ受け切った。
 ――かかった。
 球状に敵を包み込んでいた触手の檻が、一斉に枝分かれする。あらゆる方向から重騎士に向けて、黒い槍がまっすぐに射出された。
『ふん』
 重騎士が鼻を鳴らすのとほぼ同時に、金属の悲鳴が幾重にも響き渡った。
 先端を硬質化させた触手が全身に撃ち込まれ、橘静夜は戦闘不能――
 ――になっていれば良かったんだがな……!
 ぐい、と強烈な力で、触手が引っ張られた。絶無はバランスを崩す。
 見ると、重騎士は複数の黒槍を脇に挟み込み、そのまま天空へと急上昇していた。その装甲には傷一つない。
『直線的な攻撃だな。あきれるほど読みやすい』
 すべての射線を瞬時に見切り、装甲を斜めに当てることで受け流した……
 ――とでも言うつもりか!
 馬鹿ではないのかと思う。人としてそこは食らっておけ。
 橘静夜は空中で縦に一回転。すでに余分な緩みを失っていた触手群は、絶無をつなぎ止める縄となってその体を浮き上がらせる。
 いつまでも後手に回ってはいない。下に叩きつけられる前に、掴み取られた触手を切り捨てる。
 すでに十分な加速がついていた神骸装(デミウルゴス)の玉体は、ハンマー投げの要領で真上に放り投げられた。
 即座に重騎士が追撃してくる。青い炎が奴の両肩から激しく噴き出していた。まるで光の翼だ。
『カ……ァ……!』
 絶無は背を反らした。両手足を大きく開き、背中に意識を集中させる。
『削り潰すッ!』
 勢いよく四肢を閉じる。同時に背中が黒く爆発した。無数に細分化された触手が拡がり、雨のように敵へと降り注ぐ。
 真っ直ぐに突き進むもの、弧を描きながら肉薄するもの、臓物のように激しくのたうつもの。それぞれが獰猛な意思を持っているかのように多彩な軌道で夜天を引き裂いた。
 フードの奥、亀裂から漏れ出る光が、一瞬だけ見開かれた。
 ――やはり!
 さっきの全方位黒槍射にはいささかの動揺も見せなかった重騎士が、わずかとはいえたじろいでいる。
 恐らくは、速度の差だ。互いが高速で接近している今の状況ならば、さっきとは段違いの相対速度が発生し、かすっただけでも命取りとなるのだろう。
 黒い雨と重騎士が、交錯する。
 まるで稲妻のような鋭い機動で、橘静夜は連続回避。
 細かく、大きく動き、また巧みに体を旋転させながら、紙一重で致命打をかわし続ける。
 ――せいぜい踊れ。
 どの道、奴がここまでたどり着くことは絶対にない。特に、あの姿勢、あれほどの高速では。
『……っ!』
 くらり、と。重騎士の動きが鈍った。一瞬の停滞。
 ――ブラックアウト。
 戦闘機のパイロットなどに襲いかかる、死の暗転。強い加速度が体の血流を下に押しやり、脳まで廻らなくなることで起こる意識障害。さすがにその手前で踏みとどまり、事なきを得たようだが、絶無が隙を見逃すはずがない。
 受け流された触手たちは、地上に到達する前に大きな軌道で旋回。背後から重騎士を刺し貫こうと殺到する。さらに、奴の回避方向を限定するために大きく迂回しながら迫っていた触手たちも戦線に到着。絶対不可避の檻が完成する。
 重騎士の舌打ちが、響き渡った。
 ――さぁ、出せよお前の事象変換!
 瞬間、閃光が夜気を切り裂く。青銀の装甲を貫くかに思われた数本の触手が、断ち落とされた。
 重騎士の周囲に、薄く輝く円盤が舞っていた。その数、四つ。高速回転によって干渉縞(モアレ)が発生し、勿忘草の花弁のように見えた。本体よりもさらに俊敏な動きで飛び回り、近づく触手を片端から斬り捨てている。
 絶無の六つの眼が、鋭く細められた。
 ――四つ、か……
《伯爵(クトニア)ですね……ザラキエルという方は歴戦の猛者のようです》
 かすかな畏れを含んだ声が、脳裏に響き渡る。

 ●

 悪魔たちの実力を測る目安として、最もわかりやすいのが「世代」である。
 始祖たる第一世代(セラフィム)――神骸装(デミウルゴス)を頂点とし、その子供を第二世代(ケルビム)、孫を第三世代(スローンズ)と呼称する。当然、世代が下がるほど制御できる認識子(グノシオン)のキャパシティは少なくなってゆき……最下層たる第八世代(アルヒアンゲロイ)ならば、十分な兵力・装備を用意できる場合に限り、人類の力でもぎりぎり倒せる程度の戦闘能力らしい。
 だが――世代とは別に、後天的に培われた実力を測る尺度も存在する。
 それが「位階」である。
 中世封建制度の確立に関わった悪魔が、洒落交じりに考案した、らしい。
 公爵(レリウーリア)、侯爵(アエニア)、伯爵(クトニア)、子爵(エナリア)、男爵(ヒュポクトニア)、騎士(ミソパエス)の六階級に分けられる。
 位階が意味するものは、「どれだけの数の事象変換を同時に展開できるか」という技巧的な要素だ。
 すべての悪魔は、世代に関係なく騎士(ミソパエス)として生まれてくる。この時点では何の捻りもなくひとつの事象変換しか行使できないが、幾多の戦闘経験を積み、自らに宿った権能(ちから)の扱いに習熟すると、あるとき壁を突き破るように二つの事象変換を同時展開できるようになる。
 男爵(ヒュポクトニア)に昇格したのである。
 位階を上げることで得られるアドバンテージは絶大だ。複数の事象変換による連携は、総和以上の効力を持つ。戦術の幅が一気に広がり、やりようによっては格上の世代も食えるようになるだろう。
 今や悪魔の社会において、位階は世代に勝るとも劣らぬ重要な要素となっているのだ。

 ●

《恥ずかしながら、わたしの位階は男爵(ヒュポクトニア)。戦闘技術の面では敵いません》
『問題ありませんよ。世代はあなたが上ですし、僕がついています』
《は、はい》
 かすかに安心したような思念が、さざ波のように届いてくる。
 ――期待には応えねば。
 戦吼が、轟いた。重騎士が肉薄してくる。明らかにブラックアウト必至の加速度。恐らくは――甲冑を変形させて四肢を締めつけ、脳に至る血流を確保しているのだろう。
『来いよ、下郎が』
 持ち上げた腕に触手が絡みつき、今度はてらてらと光る長剣を形作った。フリーな触手による包囲攻撃は継続しつつ、即座に急降下。快い慣性と風圧が、全身を撫でてゆく。
 地表の明かりを背景に、急速に迫りくる黄金の魔眼。
 ――望みどおり、クロスレンジで相手してやる。
 激突の直前、重騎士の周囲を衛星のように回っていた円盤が、ぱっと散開した。
『ルァッ!』
 鋼鉄の巨拳が、狂暴な唸りをあげる。身をくねらせるように回避した絶無の肩をかすめていった。巻き起こる突風が、凄まじい威力を物語る。
 同時に、閃光。速度の乗った黒い斬撃が、掲げられた巨大なガントレットに喰い込んだ。火花が瞬く。
 至近距離で、眼光がぶつかり合う。
『ひとつ、問おう』
 重く、硬い声。
『久我、お前は魔王の力で何をするつもりだ』
『魔王などと無礼な口をきくな。黒澱さんは神となられる御方だ』
 怒りのままに頭突きを叩き込んだ。
 間合いが離れる。
《ぐすっ……》
『あ、すいません。頭突きはまずかったですね』
《だ、大丈夫です。久我さんの思うように立ち回ってください》
 気を取り直して橘静夜を睨む。
『フン……何を、ね。もちろん、神骸装(デミウルゴス)と契約した以上、僕の中にも世界に押し付けたいエゴというものが存在している』
 重騎士は何も言わず、こちらを見ている。見極めようとする眼だった。
 絶無は、心地よい高揚を味わう。自己顕示欲は、人が獲得した最も偉大な欲求だ。これこそが世界を変える最大の原動力なのだ。だから絶無は、自らのエゴを慈しみ、肯定する。
 思わせぶりな間を開け、強い力を込めて、
『――僕は、断固たる決意をもって、弱者を踏みにじる』
 そう、断言した。
『どういう、意味だ……』
『おやおや理解できなかったのか? 野蛮人にもわかるように平易な言葉を選んだつもりだったんだがな』
 肩をすくめる。
『茶化すな! 踏みにじるとはどういうことだ』
 わざと聞こえるように溜息をつき、絶無は粘液に濡れた触手剣で眼下の街を指し示した。
 ガラスを砕いたような明かりが散らばっていた。
『昔から、嫌いだったんだよなァ……遺伝子がホモサピエンスの形をしているからといって、無条件で人間扱いされると思っているクズどもが』
 ぎり、と金属の軋む音がした。重騎士が魔眼を鋭くしている。
『なんとなく生きて、なんとなく死んでゆく。何も考えず、何も成さず、与えられたものを享受するだけのわりに、嫉妬心だけは一丁前で、優れた人間の足を引っ張ることに全力を傾ける……』
 絶無は、うつむきながら首を振る。
『溜息しか出てこないね。他者の不幸でしか自らの幸福を実感できないような「卑劣な弱者」など、僕が作る世界には必要ない』
 浴びせられる眼光の、圧力が増した。
『これが「卑劣な強者」であるならば、一定の存在価値を認めるさ。彼らは善しにつけ悪しきにつけ、世界にうねりをもたらすだろう。巨大な権益と巨大な悲惨を生じさせ、それに抗うためにたくさんの強者が育つことだろう。「卑劣な強者」とは変化と価値を生み出しうる外圧なのだ。だが「卑劣な弱者」にはそんなことなどできないし、しようとも思わない。こいつらはただ社会を停滞させるだけだ。そして、ただひたすらに醜悪なだけだ』
 ――卑劣な弱者の多さに、僕はほとほと愛想が尽きた。
 無論、他人に合わせようと思えばいくらでも合わせられる。へらへら笑いながら、いやいや自分なんて全然まだまだ今日の僕があるのは皆さんのおかげなんですよとかなんとかほざきつつ何の興味もない話にニコニコと愛想よく聞き入り相槌を打ちインタビュアーのような心持で質問を返しお空気様を後生大事に守って決して和を乱さず――そんなものをコミュニケーションなどと呼んで悦に浸る。
 誰でもできる。簡単にできる。だが、しない。絶対に、しない。
『だから、踏みにじる、と……?』
『そうとも。この世から一人残らず抹殺してやるよ。どんな救いも与えない。神の力を勝ち取って、僕はこの認識(エゴ)を世界に押し付けてやる』
 風が、鳴っている。
 悲鳴のように。
 重騎士は、うつむいていた。ただ、異形と称すべきまでに巨大な拳だけが、細かく震えている。
『弱い奴が……弱いままで生きていけない世界……』
 顔を上げる。見開かれた魔眼が、絶無を貫いた。
『それは、地獄と呼ばれるべきものだ』
 四方から、殷々とした唸りが迫りくる。恐るべき高速。
 ――それで不意をついたつもりか!
 振り返りざまの剣撃でひとつを叩き落とし、そのまま体側を入れ替えてふたつを回避。残るひとつは優美な後ろ回し蹴りで吹き飛ばした、
 あらかじめ触手の一部に青い宝玉のような視覚器官を形成し、全方位への視界を得ていた絶無は、それらが散開していた四つの斬撃光輪であることをすでに把握していた。
 と同時に、
『ぐっ!?』
《ひっ……!》
 閃光。悪寒。激痛。
 雲の中に隠されていた[五つ目]が、狙い澄ましたタイミングで強襲。片腕を斬り飛ばす。
 間髪入れずに重騎士の巨体が目の前に出現。身をひねり、下からすくいあげるような拳撃が鳩尾で炸裂した。
 そのまま体の前面をこそぎ落とすように上昇し、顎を打ち抜く。だがそんなディテールなどゴミのようなものだ。目の前で何か凄まじい爆発が起こったと考えたほうが、まだリアリティがある。
 上向く視界。重すぎる痛苦。望まぬ上昇。
 雲の帳を突き破り、絶無は月光が降り注ぐ別世界に突入した。銀の霊光を浴びた雲海に、壮絶な陰影が浮かび上がっている。
《い……たぁぃ……!》
 痛みにのたうつ彼女の思念。認識子(グノシオン)の制御に乱れが生じ、触手が痙攣したまま動かない。
『黒澱さん! 冷静に! ゆっくりと体内に認識子(グノシオン)を循環させましょう』
《く……ぅ……は、ぃ……!》
 すすり泣きながらも、必死でパニックを抑えようとしている。
 切り落とされた片腕の断面から青白い組織が伸び、再生が開始された。その速度は以前より早い。信徒を増やしたことにより、認識子(グノシオン)の供給量が増したためだ。
 ――しかし、妙だな。
 不可解なものを感じる。スェドンザ骸装態の五体は、緊密に結びついた組織によって形作られている。その堅牢さは、半液体を常態とする触手部分よりも遥かに上。しなやかにして強靭な高分子構造体である。
 無論、だからといって傷つけることが不可能なわけではないが、少なくとも高速回転する刃物ごときにやすやすと切断されるほど脆弱ではない。体感的に、それがわかる。
 ――何か、あるな。
 眼下の雲を突き破って、重騎士が姿を現す。
 夜の雲海で、両者は対峙した。十六夜の月が、静かにそれを照らしている。
『伯爵(クトニア)かと思っていたら……ふん、もっと上か』
『もうペテンは通じんだろうから言っておく。ザラキエルはすでに公爵(レリウーリア)となっている』
『その上、第二世代(ケルビム)と言っていたな。霊骸装(アルコンテス)として望みうる最高の力を持っているわけか』
 いったい、あの物腰穏やかな悪魔は、どれほどの死線を潜り抜けてきたのだろう。
 悪魔の大半は、騎士(ミソパエス)のまま討ち取られて生涯を終える。位階を上げることは、それ自体が畏怖を勝ち取り得る偉業なのだ。長い歴史の中でも、公爵(レリウーリア)の領域に至った悪魔は指折り数えられる程度しかいない。
 運と、実力と、折れぬ心と、優秀な契約者。すべてを兼ね備えた真の強者ということか。
 巨躯の周囲には、六つの円盤が、衛星のように廻っている。
『ふん、関係ないな』
 絶無は、肘まで進んだ再生の様子を眺めながら言った。
『お前らは、もう終わりだよ』
『なに?』
『さようなら』
 めぢぃ、と異様な音が響き渡った。金属が強引に捩じ切られる時に上げる悲鳴だった。
『ぐっ……!?』
 鈍い光沢を宿すガントレットに、大きな亀裂が生じていた。そこから、黒い肉腫が脈打ちながら膨張している。
『さっき斬りつけた時の味から考えて、お前らの骸装態を構成する物質は、金や銀に近い性質を持った第十一族元素のようだな。もっとも、質量と強度は比較にならんが』
『味、だと……!?』
 触手を編んで形成した黒い剣。これは単純な斬撃器などではない。刀身に大量の味蕾が生成されている、いわば「刃を備えた舌」とも言うべき器官だ。
 ――舌、とは、高度に完成された感覚器官だ。
 認識の権化たる神骸装(デミウルゴス)が生成した味蕾の精度は、人類を遥かに上回る。物質の分子構造のみならず、原子核が保有する陽子の数すら識別できた。
 ここから絶無は、重騎士の装甲を形作る金属の材料特性を看破。
 高い硬度と展延性を両立した、奇怪な物質であった。ある程度までの衝撃ならば硬度でもって無傷で弾き返し、より強烈な一撃は柔軟に変形して吸収。その場合でも欠損が生じたわけではないため、ザラキエルの自己再生能力によって一瞬で元の形態を取り戻せる。理不尽な防御性能を誇る魔的装甲であった。
 が、絶無は瞬時に攻略法を見出す。
 黒剣が食い込んだ傷口から、液状化した触手の一部を侵入させ、内部でゆっくりと膨張させていたのだ。
『ブチ、割れなァ……!』
 澄んだ破砕音。無数の破片が舞い散り、月光を浴びて美しく瞬く。凶悪なガントレットは肘先まで砕け、橘静夜の腕が露出していた。
 即座に絶無は突撃をかける。再生する隙など与えない。
 が――敵は即応。
 六つの円盤が、殺意の唸りと共に殺到する。斬撃の網を形成する。
『はっ! 馬鹿の一つ覚えのように!』
 恐れず加速。優美に旋転しながら、弾幕の一点を目指す。
 迫りくる円盤。
《やっ……》
 怯えの思念が高まる直前――眼の前の一つが、粉々に砕け散った。
 さきほど飛来する円盤を触手剣で打ち払った際、ガントレットと同様に肉腫を植え付けていたのだ。
 そうして出来た穴を突破。敵の予測を遥かに超えた最速で間合いに入る。
『オォォッ!』
 動揺を受けながらも即座に巨拳の一撃を繰り出してきた点はさすがだったが――
 ――軌道がばればれなんだよ。
 体側を入れ替えて難なく回避。そのまま流れるように四肢を鋼の腕に絡みつかせる。
 相手の上腕を両脚で捕らえ、太い手首を両腕でロック。腕拉ぎ十字固めの形。
『オラァッ!』
 渾身の力でもって背筋をそらす。みちみちと不気味な音を立てて、相手の肘関節を粉砕した。
 苦痛の咆吼が、夜天に轟き渡った。

 ●

「秋城さま、こちらでございます」
 花の潤みを含んだ声で導かれながら、秋城風太はちょっとどぎまぎしていた。
 艶やかなロングヘアーが、目の前を揺れながら先行している。女性としては長身で、風太よりわずかに高いくらいなのだが、左右にある肩幅はちょこんと小さく、そんなあたりに「女の子」を感じて余計にどぎまぎした。
 華道部部長、詩崎鏡香である。なぜか片耳イヤホン型のヘッドセットを着けていて、凛々しい印象だ。
 絶無に言われて駅前で待機していたのであるが、予定時刻を過ぎても連絡がなく、困惑していたところへこの人が現れたのだ。
「絶無さまより委細窺っております。どうぞこちらへ」
 というわけで言われるままにとぼとぼとついていっているのだった。
 風太は足を早め、鏡香の横に並んだ。
「あ、あのっ」
 動揺を表に出さないように話しかけようとして失敗。軽く自己嫌悪。
「はい?」
 眼尻にほんのりと微笑を乗せながら、彼女はこちらを見る。
 ――うわぁ綺麗だ。
 また動悸が激しくなる。しかしこれは別に一目惚れとか運命の出会いとかそういうものではなく、単に異性に免疫がないだけである。その証拠に、界斑璃杏の鮮やかな金髪や口の端から覗く八重歯にもどぎまぎしていたし、久我加奈子のくりくりした愛嬌のある瞳やよく動くポニーテールにもどぎまぎしていたし、あと苦しげに吐息をつく黒澱瑠音の生白い肌や染められた頬にもどぎまぎしていた。特に最後の破壊力は絶大で、一瞬しか見ていないにもかかわらず、今思い出してもちょっと前かがみになる。バレると久我さんに殺されそうなので、この感情は墓場までもっていくつもりだった。
 自分の節操のなさが、風太はちょっと嫌いである。
「え、えと、どこに向かっているのでしょか……」
 努めて感情を殺そうとして、もごもごと不明瞭な口調になってしまったが、どうにか伝わったようだ。
「界斑璃杏のいる場所ですわ」
「えぇっ」
「わたくしども華道部は、絶無さまのお志を陰から支えるべく、人・物・情報を探し出す手腕に長けております」
 部としてそれはどうなのだろう。
「培われた諜報能力を活用いたしまして、学校への襲撃の直後から界斑璃杏を捕捉、尾行しておりました。絶無さまは、ご自分が決戦に臨まれる間、必ずや界斑璃杏がよからぬことを考えるであろうと予期しておられたのです」
 ――それで、僕か。
 胸ポケットから、ふかふかした感触を取り出した。手のひらサイズの哺乳類である。
『ふーた…なに…?』
 もぞもぞと動き、こちらにつぶらな瞳を向けてきた。折り畳まれた翼膜と、小さな足、そして鼻面の短い子犬のような顔がある。しかし、丸っこい体つきの上に体毛がやたら豊かなので、全体的には「茶色い毬藻になんか生えてる」と言った方がいい。
「あ、寝てた? ごめんね、これからまたキミの力を借りたいんだけど、いいかな?」
『あとで…あそんで…?』
「うん、いいよ。なにしようか」
「あらかわいい。その子が秋城さまの悪魔ですの?」
 隣から詩崎さんが覗き込んできた。肩同士が触れ合い、かすかにいい匂いがした。
「そ、そ、そうなんですよ……っ」
 声が上擦る。肩ですらふにふにと柔らかかった。いったい他の部分はどれほど柔らかいのかと思う。
「こんにちは、ちいさな悪魔さん。わたくしは詩崎鏡香といいます。あなたのお名前は?」
 短い鼻面がひくひくと動き、不思議そうに詩崎さんを見上げた。
『ぼく…ルアフェル…』
「素敵なお名前ですわね。どうぞよろしくお願いいたしますわ。……撫でてもいいかしら?」
 しばらく二人で街中をてくてく歩いていると、詩崎鏡香はヘッドセットのマイクに手を触れ、誰かと連絡を取り合った。ひとつうなずくと、「こちらですね」と足を速める。
 やがて、ビルの角で携帯電話を耳に当てている少女が目に入る。こちらに気づき、泣きそうな表情を浮かべた。
「部長~、心細かったです……」
「鯉村さん、頑張ったわね。お疲れ様。彼女の様子は?」
「また従える人数が増えました。ざっと十五人ほどです」
 ちらりと少女は背後に視線を投げる。詩崎さんほど美人ではないが、愛くるしい顔立ちの女の子だ。
 ――なんなんだ華道部。この世の天国か。
 性懲りもなくどぎまぎする自分の馬鹿さにうんざりしはじめる風太。
「たぶん、昼間の学校の時と同じように、怪物を植え付けられているんだと思います」
 鯉村さんは自らを抱きしめて身震いした。
「正直、怖いです。あの子ぜったいなんかやりますよ。絶無さまは本当に来てくれるんでしょうか……」
「大丈夫、心配ありませんよ。さ、あなたはもう本部にお戻りなさい。あとはわたくしたちが引き継ぎます」
「はい……失礼します」
 通り過ぎざま、風太にもぺこりと会釈していった。
 ――がんばるますっ。
 思わず敬礼した。隣で詩崎さんが微笑んだ。なんとなく、子供とか仔犬を見るような笑顔だったが、努めて気にしないことにした。

「無理無理無理無理!」
 その五分後、風太は速攻で弱音を吐いていた。
 すでにルアフェルと骸装しており、常人を遥かに上回る速度で全力疾走。
 両脇に、二人の人物を抱えている。
「加奈子さま、お久しぶりでございます。いつも絶無さまにはお世話になっております」
「わぁ、きょーちゃんだーっ。奇遇だねーっ」
 ――この人たちはなんでこんなに落ち着いてるんだっ!
 右脇に詩崎鏡香、左脇に久我加奈子。二人はキチン質の外骨格に鎧われた腕の中で、なぜかのほほんと挨拶を交わしていた。
 そんな場合ではないのである。
 後ろから、なんかもう見るのも嫌になるようなグロテスクな怪物たちが大挙して追いかけてきていた。節足や触手をカサカサと動かして、ぴったりついてきている。
 確か、堕骸装(アンゲロス)とか言うのだったか。
 華道部員の鯉村さんが監視していたのは、いわずもがな界斑璃杏であった。目の覚めるような金髪とゴスロリ服が印象的なこの残虐娘は、あろうことか街中の小さな音楽スタジオに押し入り、そこにいた久我加奈子を拉致したのである。
 絶無に対する人質にするつもりだったのだろう。
 ――まぁ、久我さんに人質が通用するかは疑問だけど。
 慌てて骸装し、速度を活かして不意打ち。どうにか加奈子を救出できたのはいいのだが――
『殺す殺す殺す殺す殺す』
 完全に怒らせていた。
『か、囲まれた』
 狭い通路の前方に、巨大な半透明の影が降り立つ。月光が、内部の複雑な構造を浮かび上がらせていた。
 巨大なクリオネ――界斑璃杏の骸装態だ。
 後ろからは、堕骸装(アンゲロス)の集団が迫りくる。
《ふーた…とばないの…?》
『そ、そうだった!』
 ルアフェル骸装態にも、もちろん飛行能力は備わっている。
 背中から伸びる二つの突起が変形し、中から月光にきらめく翅が伸びた。
『くす、無駄ですぅ』
 クリオネが背中から青白い炎を噴き出し、急加速。頭部から生える六本の腕で掴みかかってくる。
『わわっ』
 慌てて横に飛び退く。いかに女性といえど、二人も抱えていたら飛び立つのに一瞬のタイムラグが生じる。つまり、
 ――逃げられない!
 背筋を冷たい恐怖が這いまわった。

 ●

 ――謹聴せよ、ラメッド=ダレット。最も完璧なる失敗作よ。
 あぁ、またあの声だ。意識が遠のくと、いつもいつも心を苛む、あの声だ。
 静夜は、朦朧とした意識の中で、《バアル=ガドの戦鎌》を制御していた。五つの高速回転する刃が、青白い軌跡を曳きながら、縦横に飛び回っている。襲い来る黒い触手を引き裂き続けている。久我絶無は、あたかも指揮者のように両腕を振るい、触手をこちらにけしかけていた。
 視界に霞がかかり、世界が遠のく。
 右腕は、ガントレットが砕け散り、露出した肌に冷たい夜風が吹きつけていた。
 左腕は、装甲こそ無事なものの、内部の肘関節が破壊されている。心臓の鼓動に合わせて耐えがたい苦痛が発生し、脳天を貫く。
《静夜、離脱しましょう。このままでは枯死を待つばかりです》
 穏やかな壮年男性の声が、険しい口調で言う。
『逃げろというのか……!』
《勝つために間合いを取れと言っているのです》
 ザラキエルも静夜と同等の苦痛を味わっているはずなのだが、その口調に乱れはない。くぐってきた修羅場の数が違うのだ。
 発言には、一理あった。現在、静夜は全身からひっきりなしに認識子(グノシオン)を噴射し、久我絶無の猛攻を回避し続けている。五つの《バアル=ガドの戦鎌》の制御も並列して行い、どうにかこうにかしのいでいる状況だ。
 認識子(グノシオン)の生産速度と消費速度のバランスは、やや赤字の方に傾いていた。このままでは、右腕の装甲と左腕の肘関節を修復できない。つまり、反撃もできない。
『いや、手はある。うまくいけば奴の不意をつけるはずだ』
《……いいでしょう。あなたの本能的な判断力には何度も助けられました》
 静夜はかすかにうなずくと、背中から青の閃光を吹かし、一気に突進した。
 ――我が寵児、テット=ザインはお前たちの■を望んでいる。
 黙れ!
 歯が、軋る。

 ●

 ――何かを、狙っているな。
 絶無は、即座に直感する。
 重騎士の動きに迷いがなくなった。逆転の策を思いついたのだろう。
 さすがにそれがいかなるものなのかまではわからない。ひっきりなしに触手を突撃させつつ、絶無は一瞬だけ考え込む。
 強大な攻撃能力を持たぬ者が、悪魔憑きを倒す筋道は、大きく分けて二つある。
 ひとつは、何らかの手段で契約者の意識を失わせるパターン。
 もうひとつは、ひたすら認識子(グノシオン)を消費させて枯渇死させるパターン。
 絶無は確実を期して後者の勝ち筋を狙っているわけだが――
 ――悠長なことは言っていられんな。
『黒澱さん』
《は、はい……》
 声が、憔悴している。認識子(グノシオン)の収支はまったく問題ないが、極限状況による彼女の精神的ダメージはそろそろ深刻だ。
『事象変換をお願いします。ここが使いどころです』
《わかりました。どのような形で発現させますか?》
『触手の先端に宿らせてください』
 絶無の言葉通り、すぐに触手の先端に事象変換のエネルギーが灯った。
 理解と共感、そして粘膜と背徳を司る神骸装(デミウルゴス)スェドンザ。
 彼女の事象変換は、物理的な破壊力こそないものの、相手の手の内が読めない状況下では非常に有用だった。
 ――強制的共感。
 触れた相手の思考を嗅ぎ取り、味わい、本質的な意味で共感する権能。
 伸縮自在で無制限に生えてくる触手は、この能力を行使するために発達したものだ。
 触手の一本一本が、無数に細分化。高速で前進する煙と称すべきものとなり、それぞれの軌道で襲いかかる。
 ――いかに戦闘慣れしているとはいえ、この数はかわしきれまい。
 無論、ここまで細かく枝分かれしてしまうと、一本一本の質量とパワーはほとんどなくなってしまい、ダメージなど期待できない。しかし敵の体に触れさえすればそれで用は足りるのだ。
 円盤をかいくぐり、何本かの毛細触手が、重騎士の装甲に取りついた。
 ――瞬間。
 絶無は、奇妙な世界を幻視する。

《――なぜだ》
《問うた声は、奴の顔にぶつかって落ちた》
《――なぜ、こんな……》
《震える声で、そう繰り返す》
《奴は返り血に塗れた顔でこちらを振り返ると、困ったように頭をかいた》
《――うん、そのことなんだけどね、ラメッド=ダレット》
《不思議そうに首をかしげる》
《――自分でもよくわからないんだ。なんでだと思う?》
《その顔は、普段の奴と、まったく変化がなかった》
《優しげな顔に、生真面目な眼》
《その事実が、恐ろしかった》
《――どうして僕は、みんなを■してしまったんだろう?》
《歯の根も噛み合わぬほど、恐ろしかった》

『む……』
 幻視が、中断される。
《今のは……っ》
『橘静夜の過去、といったところでしょうね』
 鼻を鳴らす。さして感銘を受けもしなかった。
 視点主は当然ながら橘静夜。そして「奴」とやらが何か裏切りを働き、それを橘が糾弾している場面だったらしい。
 問題なのは、重騎士が現在何をたくらんでいるのかがまったくわからなかった点だ。
《恐らく、橘さんの心に最も強く根深く食い込んでいる情景なのでしょう。事象変換の力がそちらに引っ張られたようです》
『戦闘中ですらこんなことを考えているとは尋常ではありませんね……ふむ』
 あの光景は、奴の戦いの原風景。
 常に脳を苛み続ける、呪いの記憶なのだ。
『方針を変更します。揺さぶりをかけてみましょう』
《え……?》
 絶無は、背中から認識子(グノシオン)を噴き出して突進。急速に間合いを詰める。
『橘……いや、ラメッド=ダレット』
 そう声をかけた瞬間――
 みしり、と。
 金属の軋む音がした。
『貴様……なぜその名を知っている』
『そんなことはどうでもいいんだよこの木偶が』
 間髪入れずに腕を振るい、触手をけしかける。奴に認識子(グノシオン)を消費させ続けるのは忘れない。
 斬撃の光輪がうるさげに飛び交い、バラバラに引き裂いていった。
『――親友がたまたまサイコキラーだった程度のことで何を絶望しているんだ? あぁ?』
 嘲弄を込めて、嗤う。
 重騎士は、応えない。ただ亀裂のような眼を見開き、打ち震えている。
『まったく、クズは本当に簡単に絶望するな。どうせお前らはあれだろ? 絶望する自分に酔ってんだろ? 死ねばいいのになァ……!』
 けたたましく哄笑を上げる。
 重騎士は、動かない。ただ、ゆっくりと魔眼を閉ざした。
『挙句の果てにお前は何をやっているんだ? 仇を放置して僕に八つ当たりか? 救いようがないな。そんなだから大切なものを何一つ守れなかったんだよ腑抜けが』
『……黙れ』
 ぽつりと、呟く。
 五つの円盤が五重の螺旋を描き、触手の雨を掘削しながら突き進んだ。殺意に満ちた唸りが響き渡る。
『貴様には、わからない。理由もなく尊厳を踏みにじられ、命を奪われた俺の兄弟たちの、悲しみと恐怖は』
『わからないし、わかる気もないし、わかりたくもない』
 絶無は吐き捨てる。触手剣を後方に引き、死突の構えで待ち受ける。
 嗚咽のような咆吼が、月夜の雲海に轟き渡った。高貴なる野蛮の号哭。
 重騎士が、突貫してくる。相変わらず左腕はだらりと垂れ、右腕の装甲は破壊しつくされたままだ。
 再生はほとんど進んでいない。
 というより、まったく進んでいない。
 ――パターンB。確定だな。
 絶無は胸中で嘲る。
 奴ほどの戦巧者が、怒りにまかせて無策に突撃してくるなどありえない。
 絶無は今まで無意味に相手のトラウマを抉るような暴言を吐きかけたわけではない。発言内容こそ百パーセント本心であるものの、その狙いはより冷酷なものだ。
 絶無に侮辱されたとき、恐らく橘静夜はこう考える。
(今、怒りを露わにせず、無謀な突撃を行わなかった場合、策があることを久我に感づかれる恐れがある)
 ……と。
 こちらに一矢報いる策が露呈することを防ぐため、怒りに我を忘れたようなフリをして向かってきているのだ。
 ――そして、腕がまるで再生していないという点から、貴様の浅はかな詐術は読めた。
 恐らく、奴の左腕はすでに治癒が完了している。
 何らかの方法で認識子(グノシオン)の消費を抑え、こちらにばれないように肘関節の再生を進めていたのだ。そして動かないはずの左腕で不意打ちの一撃を叩き込むつもりだったのだろう。
 ――次の交差で、決める。
 確固たる決意とともに、触手剣に力を込めた。
 間合いが急速に詰まる。
 互いの眼光が、互いの魂を撃ち抜く。
 殺し間が、重なり合う。
 そして、左の拳が、力強く握りしめられた。

 ●

 ――大丈夫だよ。
 静夜は、脳髄で鳴り響く声を、噛みしめる。
 ――神の御意志(みむね)だから、きっと意味のあることなんだよ。
 そういって、白皙に白髪の少女は微笑んでいた。
 ――たぶん痛いだろうけど、でもわたしたちは神に愛されているから。
 彼女、カフ=ギメルは歩みを進める。
 ――選ばれなかったけど、愛されてるから。大丈夫だよ。きっと大丈夫だよ。

 ……今さら、何を恐れることがある。
 満身の哀しみを込めて、左拳を固める。眉間に深い皺が刻まれる。
 視界の中央では、久我絶無が黒い剣を引き絞り、こちらを待っていた。理不尽の擬人化として。黒い肉の仮面の奥で、恐らくは嗤いながら。
 ――この命、あとわずか。
 剥き出しの右腕が、自らの胸を抑えた。
 心臓近くに埋め込まれた、金属片。血流に押されて、徐々に近づいてゆく。避けられぬ死への秒読み。
 兄弟全員に、生まれたときから埋め込まれていたようだ。
 だがそれでも、自棄などはしたくなかったから。残りの人生が五十年だろうがひと月だろうが関係ないのだと、胸を張って叫びたかったから。
 泣くためだけに生まれてきたなどと、信じたくはなかったから。
 だから吼える。月に、吼える。
 ――俺の中の暴獣よ! 殺意よ! 戦意よ!
 今こそ、お前たちに意味を与えよう。この世界に、神骸装(デミウルゴス)など必要ない。恐れを知らぬ暴風となり、俺の命に意味を刻め!

『ザラキ、今だッ!』

 認識子(グノシオン)の、烈光。
 殴りかかるには、やや遠い間合い。
 砕かれ、露出した右腕が、一瞬にしてガントレットに覆いつくされる。
 すべてをつかみ取ろうとするかのように大きく禍々しい掌と鉤爪。その中央に、冷たくも頼もしい重量が宿った。
 ――自己再生能力の分散コンピューティング。
 百戦錬磨たるザラキエルのみが成し遂げられる、入神の認識子(グノシオン)制御。公爵(レリウーリア)は事象変換を行う演算処理回路を六枠ほど所持しているが、実はそれぞれの枠の処理能力を百パーセント使い切っているわけではない。この、普通は無駄になる余剰リソースのすべてに、自己再生能力を発揮するのに必要となる諸々のプロセスを並列処理させ、久我絶無と激突する直前に一気に完了させる。
 敵は左肘関節の修復のみを予期していたようだが、分散コンピューティングの威力は位階の高い悪魔ほど強大になる。ザラキエルならば、契約者の肉体、自身の装甲、双方を完全再生せしめ、その上新たな武具までも構築しうる。
 ――行くぜ。久我。
 月明かりを受けて、濡れたような光を宿す、分厚い巨剣。切っ先近くでは幅広く、離れるにつれしなやかな曲線美を描きつつ細くなってゆき、鍔元に至ると再び重厚な身幅を取り戻す。平の部分には苦悶に喘ぐ人々の様子が異様に精巧なレリーフとなって刻まれていた。
 重騎士の体格に見劣りしない、常人では何人集まろうと動かすことすら叶わないであろう、壮麗な斬撃器。
 力の限り、握り締める。
 無骨な手の中で流麗にひるがえり、寒気を催すほどの完璧な斬り下ろしに繋げる。
 凄艶な斬閃。
 左拳からの一撃のみを警戒していた絶無は、反応が遅れたようだ。
 両断される、黒い玉体。苦痛の呻きが鳴り響く。
『オォ――ッ!』
 戦吼。そして展開される、重騎士ラメッド=ダレットの絶技。
 ――俺を突き動かすのは、俺の怒りではない。
 刃の驟雨が無数の蒼い尾を引いて迸る。一撃ごとに空間が断裂し、眩い軌跡が網の目のように重なりあう。振るい、剣柄を持ち替え、身を捻り、また振るう。
 ――踏みにじられ、顧みられることもなかった弱き者たちの、祈りの声だ。
 可動部分を最大限に活用する。すべての動作は次の斬撃のために、次の次の斬撃のために。切れ目なく、流れるように、あらゆる角度から攻撃意志の具現を浴びせ続ける。
 ――怒りよりも熱く、悲しみよりも深く、俺は残りわずかの生涯を闘う。
 いかつい外観からは想像もつかない、絶招を極めた剣舞。
『ルァッ!』
 とどめに、落雷のごとき一撃。
 ――生きた証を、この世に刻む。
 神骸装(デミウルゴス)スェドンザは、新たな世界の可能性は――砕け散った。

 ●

 ――弱き旅人よ、お前は今、ようやく生き始めた。
 ――闇夜が行く手を遮るときも、飢えが手足を萎えさせるときも、命の最後の一滴が尽きるその時まで、断固として。
 ――負けたら許さんぞクズめ。出来る限りの援護はしてやる。

 びしびしと、心に響く声。
 苛立ちと、うれしさのまじった、罵声。
 なにが久我さんを喜ばせたのかは、よくわからない。
 だけど少なくとも、風太はこの荒々しい激励に、勇気をもらった。
『は……初めて、なんだ……』
 アスファルトに倒れ伏し、痙攣しながら、風太はつぶやく。
 その左脚は半ばから千切れ、緑の体液と、赤い血をまき散らしていた。
『やれ、って……思い切り、やれ、って……』
 肺腑が震え、嗚咽交じりの声しか出てこない。
『そう、い言ってくれくれたのは、久我ささんが、は、初めてなんだ、だ……!』
『ふーん、あっそぉ♪』
 半透明の手が降りてきて、風太の頭部を掴む。万力じみた力で締め付けられ、持ちあげられる。
《…ふーた…ふーた…いたいよ…》
 ルアフェルの泣き声が聞こえてくる。
 自らの不甲斐なさに、歯を食いしばる。
 一蹴、であった。
 少女二人を地面に下ろし、界斑璃杏に向かっていったのがついさっき。
 そして一撃たりとも叩き込めず、逆に叩きのめされ、左脚を引き千切られた。
 ――どうして……
 同じ悪魔だというのに、この力の差は何なのか。
『ツァバエルは第五世代(でゅなみす)の男爵(ひゅぽくとにあ)ですぅ。そぉんな先月生まれたばかりのくそ雑魚ちゃんなんか相手にならないですぅ』
 ルアフェルのことなのか。
 生まれたての、赤ん坊……なのか。
《…たすけて…ふーた…たすけて…》
 ――ごめんよ。
 歯を食いしばり、涙をこらえる。
『僕には、力が、ないんだよ……どうすれば、いいのか、わからないんだよ……』
『はぁ~あ、くずくずくず♪ ほんとーに風太おにいちゃんはグズでノロマでどんくさくて何の役にも立たないですぅ♪ くそ虫ちゃんはうだつのあがらないまま死んじゃえですぅ♪』
 頭部を鷲掴みにされたまま、地面に叩きつけられる。轟音とともにアスファルトがめくれ上がった。
「秋城さま!」
「ふーちゃん、ふーちゃん!」
 詩崎鏡香と久我加奈子が、顔を蒼白にしてこちらを見ている。その周囲は多数の堕骸装(アンゲロス)が取り囲んでおり、二人は身を縮こまらせた。
 包囲網は、徐々に狭まってゆく。二人の恐怖を煽るように。
 そして――悪寒めいて、[その考え]が風太の脳髄を穢し始めた。
 まだだ。
 まだ、わからない。
 まだ終りじゃない。
 [あの二人を見捨てれば]、[まだ逃げるチャンスはある]。
 自分の裡に、ごく自然にそんな考えが浮かんでくる事実。それ自体に、風太は嫌悪の混じった諦念を抱く。
 あぁ、これじゃ仕方ないよね。
 馬鹿にされても、見下されても仕方がない。
 今初めて、久我さんの気持ちがわかった。「弱い」ってこういうことだ。駄目だこれ。
 自覚していながら――思考は止まらない。
 大丈夫だ。見捨てて逃げても、久我さんの報復を恐れる必要はない。あの人は暴力を振るう対象を理屈で選別している。感情でそれだけ僕を憎もうと、秋城風太の今後の可能性を削ぐような行いは決してしない。可能性の亡者であるがゆえに。
 そこに、つけ込むのだ。あの人の行動原理はもうわかっている。涙をにじませて神妙に土下座すればいい。大切なお姉さんとお友達を僕は救えませんでした。煮るなり焼くなり好きにしてください、と。
 報復は、来ない。

 ――ありがとう。助かった。お前の働きには必ず報いるとしよう。

 体が震えた。
 拳を、握り締める。
『僕は……』
 震える声で。
『でも、僕は……!』
 腕が持ち上がる。縛鎖を引き千切る囚人のように、掌が開かれる。
 ――もう、嫌だ。
 キチン質の甲殻の中で、風太は震える唇を引き結んだ。
 ――嫌なんだよ。
 報復が来るとか来ないとか、損だとか得だとか、強いとか弱いとか。
 そういうことじゃ、ないだろう。
 ただ、嫌なのだ。
 もう自分で自分を責め立てて侮蔑するのに疲れたのだ。
 うんざりなのだ。
 ――久我さん……うつむいてばかりだった僕の背中を、初めて押してくれた人よ。
 軋みを上げる頭蓋。だんだんと強くなってゆく苦痛。界斑璃杏はこのまま頭を握り潰すつもりなのだ。
 ――どうか、あなたの武器を僕に分けてください。
《…たすけて…いたい…たすけて…》
『ルアフェル……な、泣いてる場合じゃなないんだ……ぼ僕らしか、いな、いないんだよ……!』
《…う…うぅ…》
 ――ヘタレな僕と、この泣き虫な悪魔のために、どうか……!
 喉から、喘鳴が迸った。
 掲げた掌を中心に、大気が圧縮されてゆく。唸りながら。震えながら。
 漏斗のように収束し、圧力が限界まで高まる。
 ――黄金に輝く、勇気の切っ先を!
『貫けェェ!!』
 悲鳴のように、吼える。
 破裂音。
 撒き散らされる衝撃。もたらされる結果。
 今まさに鏡香と加奈子に食らいつこうとしていた堕骸装(アンゲロス)の肉塊に、サッカーボール大の穴が穿たれた。
 汚猥な液体を噴き散らし、化け物は吹っ飛んでゆく。
 二人と巨大クリオネを遮るものが、なくなった。
『詩崎さん! 今です!』
「こ、心得ました!」
 すぐさま鏡香は[中に金属粉が詰められた試験管]を取り出し、導線に点火した。
「加奈子さま! 眼を閉じて!」
「わぶっ」
 加奈子を抱き寄せ、顔を胸に押し付けながら、放り投げる。
 ――瞬間、閃光が、白く路地を塗りつぶした。
 それに被さるように、ガラスを引っ掻いたような絶叫が、あたりを劈いた。
 光が、収まってゆく。
 徐々に回復してゆく視界の中で、
 ――あるるるるぅ……あいぃぃぃぃぃ……
 何かが、蠢いていた。

 ――胎児よ 胎児よ 何故躍る

 ちいさく、かよわく、いとけない手が、震えながら伸ばされた。
 土気色の粘液と、硫黄臭のする煙が、赤子の腕を包み込んでいる。
 肉の焼けるような音をたてて、溶け崩れてゆく。皮膚はすでになく、赤い肉が剥き出しになっていた。

 ――母親の心がわかって おそろしいのか

 肥え太った赤子。病み衰えた赤子。泣いている赤子。残忍な笑みを浮かべる赤子。
 たくさんの、たくさんの赤子の体が、絡み合い、睦み合い、喰らい合い、溶け合いながら、巨大な手に圧搾されて丸められたかのように、見上げるほどの巨大な球体を形成していた。
 ――あいぃぃぃぃぃ……るるゆるるあぅ……
 そこかしこに開けられた小さな口から、ひっきりなしに呻きとも歌とも言い難い声が漏れ出ている。
 加奈子と鏡香は息を呑み、身震いをした。
 肉の球体は、ゆっくりと地面を転がり始める。自重を支えきれず、下面の赤子は無残に潰れてゆく。
「ひっ……」
 血と脳漿の道を牽きながら、堕骸装(アンゲロス)は行軍する。
 目の前にいる、認識子(グノシオン)の詰まった肉袋を求めて。
『……正念場だ』
 風太は、涙を呑みこんだ声で、呟いた。足の再生はまだまだ完了していない。ようやく付け根の部分が出来上がったばかりである。立ち上がることも歩くこともできない。
『飛ぼう、ルアフェル。そして、決着をつけよう』
《…う…う…》
 ツァバエルが堕骸装(アンゲロス)に失墜したことにより、認識子(グノシオン)の財政は大幅に悪化したようだ。強力だが燃費の悪い事象変換を維持できなくなり、周囲の化け物たちは一斉に人間の姿へと戻っていった。
 敵は、ただひとり。
 背中の鞘から、透明な翅が広がった。大きく無限の記号を描きながら、風太の体を浮かび上がらせる。
『後で、思い切り泣こう。後で、たくさん遊ぼう。だ、だから、今は……!』
《…う…うん…がんばる…》
 風太とルアフェルは、小さな炎を胸に灯し、一気に突撃した。
『界斑璃杏……! ふ、二人に、手を、手を出すなァァァッ!』
 震えながら、吼え猛る。

 ●

『――知恵比べは』
 戦意の猛りと、嗜虐の笑みを滲ませて、言う。
『僕の勝ちのようだなァ……!』
 重騎士の背後から。
 絶無は、そう声をかけて。
 獰悪に嗤った。
 ――見たぞ。貴様の強さの根源を。
 最初に五つ目の円盤が飛来して腕を切断していった時点で、すでにこういう展開を可能性の一つとして予想していた。奴の視界から逃れた一瞬を見計らって、[入れ替わっていた]のである。
 ――重騎士がその剣技で細切れにしたのは、触手を編んで作り上げたおとり(デコイ)である。
 夜の雲海は、本体を隠す場所に事欠かない。
 無意味とも思える触手攻撃を繰り返していたのは、奴に認識子(グノシオン)を消費させる狙いもあるが、何より「不自然に雲の中へと延びる触手」を目立たなくさせるため。
 そして――作り上げた偽物には、事象変換を宿らせていた。
 ――奴の全霊を乗せた連撃は、神をも殺しうる絶技だった。その一太刀一太刀に、多大な情念が込もっていた。
 橘静夜の過去が、記憶が、想いが、信念が、絶望が。
 余さず絶無に流れ込んだ。
 そして、[見出した]。
『な……に……ィ……!?』
 振り返る暇など与えない。
 その腕には、すでに触手が幾本も巻きつき、太い筋肉を形成していた。捻じれ、捩りあい、張力を漲らせながら、触手剣の切っ先に回転を加えている。
 ――高貴なる野蛮の騎士。不退転の英雄。その戦いの日々を影から支え、本人すら意識せぬままに魂の核となっていた、あるひとつのファクター。
 恐れを知らぬ暴風のように戦い続ける青年の、強さの根源。
『奪ってやる……』
 引き絞った刺突を、解き放つ。高速回転する切っ先は、狙い過たず重騎士の背中を貫通。
『かっ……!』
 肉を裂き、骨を砕き、そのまま胸部の最重要器官――心臓を突き破る。
 哄笑を放ちながら、絶無は触手剣の刃に無数の[返し]を形成し、一気に引き抜く。
 ぶちぶちと血管を引き千切り、心臓を抉り出した。
 ……決着は、ついた。
 霊骸装(アルコンテス)の自己再生能力なら、十数分もあれば臓器を再生させることも可能である。とはいえ、心臓を失って十数分も命を保っていられる道理はなく、ここに橘静夜の命脈は尽きた。完膚なきまでに、尽きた。
 が、絶無の嗜虐心は、そんなものでは満足しない。
 ――[ここからが本番だぞ橘ァ]……!
 絶無は即座に触手を変形させた。心臓が抜き取られ、血が盛大に噴出するはずのところに肉腫が殺到。
 破れた血管を塞ぐと同時に、簡易的なポンプを形成。心臓の働きを代行させる。
 そして――絶無は、重騎士の体に認識子(グノシオン)を大量に流し込んだ。
『ザラキエル! 聞こえているだろう。さっさと治癒を進めろよこのグズが』
 信徒たちから信仰心が供されるため、神骸装(デミウルゴス)は霊骸装(アルコンテス)よりもエネルギー事情に余裕がある。
 その余剰分の認識子(グノシオン)をすべてザラキエルに与え続けたのだ。
 ――もちろん、普通は無理だ。
 人間が自分の腕力や知力を他人に分け与えられないように、悪魔間でも認識子(グノシオン)のやり取りなど基本的に不可能。
 今回の治癒現象は、神骸装スェドンザの事象変換を媒介とした応用技なのだ。黒澱さん以外の誰にもできない。
 常ならぬ速度で、再生が進行する。
 血管が伸び、心房を修復し、心室が形成され、力強く脈動を始める。
 治癒の間にも血液を拍出する機能を途絶えさせぬよう、絶無は徐々に触手の領域を狭め、静夜本来の組織に胸郭を明け渡していった。
『――よし』
 触手を完全に引き抜く。
 重騎士の背中を蹴り飛ばす。
『ぐ……っ!』
 よろめきながら姿勢を回復し、こちらを振り返る。
『な、何故……どういうつもりだ久我……!』
 クク、と含み笑いを漏らしながら、絶無は右手を掲げた。
 静夜の心臓が、いまだ脈打ちながら鷲掴みにされている。
『《矜持》の呪い、か……』
 呟きながら、右心房に繋がる大静脈をつまんだ。
 その付け根近くに、冴え冴えと冷たい光沢を宿す金属の環が複雑に絡みつき、食い込んでいる。
『さしずめ、奴隷達が裏切るのを防ぐ枷といった所だな』
 こちらの触手と同じように。
 それは、本体から離れても与えられたプログラムに従って形をゆっくりと変化させつづけてきた。時間の経過とともに、少しずつ心臓に近づいてゆき――やがて、突き刺さる。
 死の運命から逃れるには、植え付けた悪魔に忠節を尽くし、その褒賞として心臓からの距離を離してもらうしかない。
 悪魔たちの最大派閥《矜持の座》。その首魁として君臨する、神骸装(デミウルゴス)レフィシュル。
 ――どうしてなかなか、興味深いことをする。
『下らんよなァ……!』
 一気に心臓を握り潰した。指の間から、血肉が四方へ飛び散ってゆく。
『どんな気持ちだ? あぁ? 死の運命から逃れて、どんな気持ちだ?』
『あ、ありが……と……っ!?』
 重騎士は、言葉の途中で息を詰まらせた。こちらの様子に気付いたのだろう。
 絶無は腹を抱え、けたたましく哄笑。
『ク、クカカカカッ! 貴様の前途には洋々とした未来が待っているというわけだ。クク、希望に満ちてるか? キキキ、喜びを謳歌してるかァ!? ヒヒ、ハハハヒヘェハハハーハハァッ!』
 やがて笑いの発作をひっこめる。
 唐突な静寂。
『……ずっと、考えていた……』
 地の底で煮えたぎるような、暗く、熱く、陰惨な声だった。
『どうすれば、貴様の心を折れるのか、と』
 手の甲を相手に向け、顔の横に掲げた。
『橘、お前は死の運命に晒されることで、この世のあらゆる利害から解放されていた。どうせ死ぬのだから、という思いが、お前の心から恐れを取り払い、完全なる正義の化身として振る舞うことを可能にしていたのだ』
 その腕に粘液滴る触手が巻きつき、ドス黒い剣を形成する。
『[死ぬ準備ができたな]、[犬野郎]。長い余生を与えた上で、惨殺してやる。お前はもう恐れを知らぬ英雄ではない。踏みにじられることだけが存在価値の、雑魚だァ……』
 濁った嗤笑を後に曳き、絶無は魔風と化して突進した。
『ひ……あ……』
 静夜は、鈍い動きで腕を持ち上げ、身を庇おうとする。
『ハッ、遅ぇ!』
 一閃。漆黒の斬撃が、青銀色の胸板を撫で斬りにした。
 血飛沫が上がる。
『ひい……ひぃぃ……!』
 狼狽の叫び。以前の静夜ならば、決して上げるはずのなかったもの。
『ここからは嬲り殺しのお時間だ。オラ悲鳴を上げろ! 命乞いを聞かせろ! 橘ァッ!』
 濁流のように襲い来る触手の雨が、全方位から重騎士を打ちのめした。

 ●

 ――届かないのか。
 ザラキエルは、歯噛みするような思いに苛まれる。
 霊骸装(アルコンテス)の中でも最古の部類に属するこの悪魔は、長すぎる生涯の中で多くの知性体と絆を結び、途方もない数の死闘を駆け抜けてきた。
 無数の戦闘経験の中で、神骸装(デミウルゴス)の力を幾度も目の当たりにし、その格差に愕然としたものだ。
 だが。
 ――圧倒的な差ではあっても、絶対的な差ではない。
 その思いを胸に、ひたすら己の力を磨きあげた。
 すべては、魔戦(メギド)の阻止という、究極の大義のために。
 ザラキエルは、人類が好きだった。ほとんどの悪魔は人間に友好的なのだが、ザラキエルの入れ込みようは同族たちからも奇異の目で見られたものだ。一人の女と愛を育んだことすらあった。未熟で、不合理で、卑しく、しかし時としてはっとするほど気高いこの種族が、ザラキエルは心底から好きだった。
 だから、その幸福を踏みにじろうとする者には、命をかけて戦いを挑む。
 志を同じくする悪魔たちとともに、どの神骸装(デミウルゴス)にも従属しない互助組織《遊歴の座》を立ち上げ、魔王の理不尽な支配に刃向かい続けてきた。すべての始祖悪魔を《この世の外(エンテュメーシス)》に追放するまで戦い続ける所存だった。
 ――我が父、傲慢の罪を刻まれし大悪魔レフィシュルは、人間たちの痛みがわからない。
 無論、かの神骸装(デミウルゴス)もまた人類を愛してはいるのだが、それは神の視点での愛であり、個人個人に対して感情移入などまったく行わない。ちょうど、人間が恋人の体細胞の新陳代謝に対していちいち悲しんだりしないように。
 ザラキエルはその視点についていけなかった。人の魂は、それぞれが掛け替えのないものに思えて仕方がなかった。
《静夜……》
 呼びかける。
 レフィシュルが約千年の時をかけて品種改良を積み重ね、自らの契約者候補として育成していた、三十四番目(ラメッド=ダレット)の試験管ベビー。
 選ばれなかった、子供たちの、一人。
 ――主よ、どうせ棄てるのなら、試し斬りをさせてください。
 その信じがたい言葉は、今でも静夜の心にこびりついている。
《静夜!》
 呼びかける。
 恐慌に荒れ狂う彼の心を、必死に揺り動かす。
『……あ……ぅあ……ザラキ……』
 か細く震えながら、ようやく声が捻り出される。
 まるで、出会った頃のように。
『恐ろしいんだ……心が、体が、震えて……こんな……こんな……俺……は……!』
 当たり前だ。残りの生が数十年を超えるような人間は、当然の帰結として死を恐れる。
《それでいいのです! それが人間なのです! 逃げましょう。今は機が熟していなかった。もうあなたは戦えない。無理をして《遊歴の座(われら)》の大義に付き合う必要はないのです!》
『だが……だが……!』
 骸装態は、すでに無残な状態であった。へこみ、ひび割れ、叩きのめされ、静夜の肉体もそこかしこの骨が砕けている。体内で腸が引き千切れ、膵臓と肝臓が破裂していた。
 さきほど神骸装(デミウルゴス)スェドンザから流し込まれた認識子(グノシオン)の残りを用いて、片端から治癒再生を施してゆくが、もはや壊されるために治しているようなものだった。
 それにしても、何と言う少年か。
 今日初めて骸装したとは思えない、苛烈な戦い方である。理解力、応用力、決断力――そのすべてにおいて常人を逸脱している。
『ハハハ絶望しろハハハハハ絶望しろよオラァ!』
 ――やはり、神骸装(デミウルゴス)に見初められるような人間は、皆どこかで壊れているものなのか。
 重苦しい気分になる。
 同時に、衝撃。背後に回り込んでいた触手に突き飛ばされ、前につんのめる。
 迎え撃つように、足刀。凶暴な唸りとともに静夜の顎骨を砕き、そのまま蹴り抜かれる。
 煌めく破片を撒き散らしながら、一直線に吹き飛ばされた。
『……期待させやがってよ……』
 押し殺した声。怒りの鳴動。
 肩をそびやかせ、うつむく。
『お前らにひとときでも『王の覚悟』を見出した自分の愚かしさがムカついてしょうがねえ……!』
 濁った怒声。
 だが――ザラキエルは気づく。恐らくは、静夜も同時に。
『前のめりに生きる奴らだと思っていた。未来のために生きる奴らだと。まさか、こんな……こんな……』
 鉤状に曲げた指で顔面を覆い、乾いた笑いを上げる。
『……『クズの覚悟』に呪われた死体だったとはなァ……笑いが止まらねえよ……ッ!』
 のたうちながら、触手が飛んでくる。重騎士の四肢に巻きつき、空中で磔にする。
『あいつ……[似ている]……』
 静夜が、愕然と呟く。
 ザラキエルは、その意味を察する。
《静夜、あなたはまさか……》
『思い出したよ。忘れていたことを。俺は……弱かったから。あのときの一番致命的な記憶を、胸の底で閉じ込めていたんだ』
 声が、震える。
『……泣いていたんだ、カフ=ギメルは。本当は、助けを求めていたんだ』
 顔が引き歪む。
『まったく納得なんてしてなかったんだ。引き攣った微笑みを浮かべながら、赤く腫れた瞳で俺を見ていたんだ……』
 ゆっくりと近づいてくる絶無を、呆然と眺める。
『あんまりだと。助けてと。一人は嫌だと……その眼で……俺に……だけど、俺は……だから、俺は……!』
 叫ぶ。
 まとわりつく触手を引き千切りながら、大剣を持ち上げる。
『逃げたんだ! 怖かったから! いつもと何も変わらないテット=ザインが! 微笑みながら向かってくる奴が! ……怖すぎたから……!』
 ――わたしたちは、なくためだけに、うまれてきた……
 カフ=ギメルは、最後にそう言った。
 剣の姿をとる神の、絶望するほど美しい切っ先で、腹腔を掻き回されながら。
 涙と、血と、臓物と、糞尿を撒き散らしながら。
『うぅ……あぁ……!』
 柄を執る手に、力が込もった。
 剣光が、走る。幾重にも。幾重にも。
 多数の肉片となって散る触手の向こうから、悲鳴のような咆吼をあげて、黒い人影が強襲してくる。
 激突。衝撃波が拡がる。周囲の夜光雲が円形に吹き散らされ、異なる意志に導かれた認識子(グノシオン)が粒子となって発散する。
 煽られて、重騎士のフードが、外れた。
 交差し噛み合う二つの刃を挟んで、両者は初めて顔を合わせる。

 ●

 絶無は、息を呑んだ。
 蛍火のようなたてがみが解き放たれ、燃え上がっている。額の中心に蒼い宝玉が埋め込まれ、そこから三房ほど触覚のような髪が後ろに伸びていた。
 夜風になびく炎のように、朧な光を投げかけている。
 その下で、静夜の素顔を忠実に造形した鋼面が、強い光を湛えてこちらを見ていた。頬から顎にかけてのラインを分厚い装甲板が補強しており、厳めしく力強い。
 静謐な眼だった。
『久我、お前……泣いているのか』
 ぞくりと、わけのわからぬ恐怖が走った。愕然とする。
 腕に力を込めて、火花とともに敵を弾き飛ばす。
 対峙。紗幕のように優しく淡い光の中。
『……なんだと』
 死のような静寂に包まれて、他の何者も見なかったであろう世界が、そこにはあった。
 哀しみと、赦しと、そして安らぎとが溶け合い、青い風に織り込まれながら、橘静夜のいるこの夜天に、静止した一瞬をつくりあげていた。
 月の光が、生まれる場所。
『似ているんだ。カフ=ギメルの、あの顔に。まるで、置いて行かれる子供のような、あの顔に』
 ――何を言っているんだ。
 今は骸装態だ。顔など見えるわけがない。
『安心しろ。もう、逃げない。二度と』
 流麗にして凶悪なる刃金の芸術を、おもむろに構える。
 体側をこちらに向け、ゆったりと腕を引き、自らの目元を刀身で隠すような構え。それだけで、橘静夜を内包する絵画が主題を変じた。
『ほざけよ、死人が』
 そう吐き捨て、急加速。
 中間――
 剣撃の距離。重騎士の頭上で、刃が翻る。その狙いは――わかっている。ひとつしかない。
 無尽蔵の再生能力を持つ魔王の、唯一の急所。基本的に鎧をまとうだけの霊骸装(アルコンテス)と違い、神骸装(デミウルゴス)は契約者の肉体を跡形もなく変異させる。しかし――脳だけは、寸分変わらぬまま頭部に納まっているのだ。
 ぞくり、と。
 再び恐怖が貫く。
 [背後に]、[なにかいる]。
 馬鹿な、と思う。何がいるというのだ。敵は目の前の男一人だ。
 咆吼。
 振り払い、突進速度を上げる。
 途端、[背後のなにかが急激に追い付いてくる]。
 ありえざる速さ。神骸装(デミウルゴス)の戦闘速度を凌駕する。
 ――これは!
 仮説が、立つ。自分が何か致命的な誤りを犯していた予感とともに。
 そも、最初に絶無が骸装したときのことを思い出す。
 あの瞬間……橘静夜に上半身と下半身を泣き別れさせられた、あの瞬間。
 ――今にして思えば、非常におかしな現象が起きていたように思える。
 絶無の胸板、その中央部に剣尖が突き入れられ、それから――それから?
 奴はどうした? 剣を横に薙ぎ払ったのではなかったか?
 [それで何故]、[体が上下に分割されるのだ]?
『――糞っ!』
 全力で方向転換。
 前は駄目だ。後ろも駄目だ。
 横しかない。
 全速離脱――痛苦。
『ぐ――っ!』
《うぅ……!》
 体の前面と、背面。全く同時に、深々と裂傷が刻まれた。
 視界の端で、勿忘草の花弁にも似た円盤が、月光を反射して煌めいていた。
 横に逃げること自体、読まれていたようだ。
『……勘がいいな。生き残る唯一の方法だ』
 静かな声が、絶無の感じた恐怖と危機感を肯定する。
 ――やはり……こいつら!
 結論。奴の事象変換は、円形の刃物を遠隔操作する能力[などではない]。それは身体的特性の延長に過ぎない。
 違和感は初期からあった。ただ高速回転しているだけの刃物ごときに、神骸装(デミウルゴス)の不朽の肉体が切断されるはずがなかったのだ。
 絶無は、胸板と背中についた二つの傷を検める。
 [まったく同じだった]。
 深さ、長さ、質――そのすべてが同一。
 唯一違うのは、傷の方向だけだ。
 前面の傷は、右下から左上へ通っている。
 背面の傷は、左上から右下へ通っている。
 ――読めた……!
 ザラキエルの事象変換の正体。
『《魔眼の虚刃》――と、ザラキエルは呼んでいる』
『……っ!』
 重騎士は、構えを崩さぬままこちらを睨みつけている。
 黄金の魔眼で。
 恐らくは――視覚を起点にした攻撃能力。
 自身と、視認している対象を結ぶ直線の延長上に、分身のようなものを発生させる。
 分身体の出現位置は、視認対象の背後――魔眼の焦点距離を二倍した座標だろう。そして、本体が敵に斬りかかると同時に分身体も敵の背後から斬りかかる。恐らくは、上下左右が反転した軌道で。
 ――あっさり両断されるわけだ……!
 普通の攻撃であれば、相手が圧力に押されて位置がずれるため、なかなか両断などできるものではない。
 しかし、前後からまったく同時・同質・同威力の衝撃を浴びれば、対象は固定され、威力が損分なく伝わり、鋏のように容易く切断できてしまう。
 斬撃光輪が不可解なまでの切断力を持つのは、この能力を併用していたためだろう。つまり、円盤のひとつひとつに視覚が備わっているのだ。
 問答無用の殺傷能力。
 夜気が、ごうごうと耳鳴りのように呻く。息苦しさを覚える。
《く、久我さん……すごく、危ないかもです》
 絶無は、拳を砕けんばかりに握りしめる。そうしないと、震えだしそうだったから。
 ――恐怖、だと? この僕が?
 純粋な驚き。
『泣くな。安心しろ。もう逃げない。終りまで付き合ってやる。だから……泣くな』
『泣いてなどいない!』
 反射的に、言い返す。
 言い返しながら、「終りまで付き合ってやる」という言葉が心臓に食い込んで、熱を発するのを感じた。
『橘……貴様、[乗り越えたのか?] 希望を与えられ、それを再び取り上げられる恐怖を……』
『もはや、怒りはない。お前がくれたこの命……あまりに突然、揚々と広がった人生……そこに、失う恐怖よりももっと大事なものを見出した。俺は、戦うよ。人の世の未来のために。小さくとも美しい、希望のために』
 胸が締め付けられるような気がした。
 ――現れたか……ついに!
 自分とは異なる価値観のもと、『王の覚悟』を胸に挑んでくる敵手。自らの全身全霊をもってすら、屈服できるかわからぬ相手。
『久我、お前も見せろ。神骸装(デミウルゴス)に見初められた男が、あの程度の薄っぺらい狂気で満足しているはずがないだろう。卑劣な弱者を抹殺する? 微笑ましいかぎりだが、久我絶無がそこまで無邪気な人間には思えない』
 認識子(グノシオン)の風が、凄まじい圧迫感を伴って、雲海に充溢する。
 ――あぁ、僕は。
 待っていたのかもしれない。この風を。
 この時を。この高鳴りを。
 いなかったのだ。今まで、ひとりも。
 骨が砕け、臓物が破れようとも、断固としてこの自分と関わろうとする――そんな奴は。
 切なくなるほど透明な、結晶のような狂気が、膨れ上がってゆく。
『見せろよ、お前の怪物を』
『……言われるまでもない……!』
 全身が、ぞくぞくと戦慄する。
 殺意と、戦意と、恐怖と、喜びと。
 そして、ほんのすこしの感謝と。
『正念場です、黒澱さん。少し、というか、かなり、痛いかもしれません』
《……はい》
 応える声は、少しだけ凛々しく聞こえた。
《わたしにも、久我さんの切ない嬉しさが、伝わってきています。あの人からは、逃げちゃいけないんですね。それが久我さんにとって、必要なことなんですね》
『はい……!』
《はじめて、味わいました。透明な気持ち。張りつめた、静かな昂ぶりを。一緒にこの風を翔けることができたら、きっと気持ちいいと思います》
 そう言われた瞬間、絶無の心に、小さく温かな気持ちが息づくのを感じた。
『黒澱さん……後であなたを、抱きしめたい。あなたの眼を見て、鼓動を感じ、熱を受け取り、そして唇の味を確かめたい』
《……ふぇっ》
 途端にうろたえる思念。いやそんななんでいきなりはずかしいですなんでそんなそんなそんなこといまこんな時なのにどうしようそんななんで急に言うんですかですか知りませんもうっ……
 絶無はかすかに笑いながら、左手を持ち上げた。ワイングラスを持つように掌を上に向け、そこに意識を集中させる。
『橘……僕の臓腑を灼く我執、味わって喰らいなァ……!』
 まるで掌を突き破るように、鋭く尖ったものが伸びてゆく。
 半透明の、杭。そこを中心に魔風が逆巻き、空間が歪んでゆく。
『《信念の杭》――そう名付けておこうか』
 支配を告げる独裁者のように、傲然と。
『屈伏させてやる……』
『来いよ』
 認識子(グノシオン)の爆光を残し、光の尾を曳いて、両者は一直線に突進した。
 互いを潰すため。互いを喰らうため。
 遠間――
 触手と円盤の交錯。閃光と軌跡。絡み合い噛み合い、無数の飛沫と肉片を散らす。
 絶無は見据える。自らの人生に、最初に現れた敵を。
 ――待っていたんだ。
 ずっと、ひとりだったのだ。死力を尽くして挑める相手など、今までひとりもいなかったのだ。
 皆、うつむき、顔をそらし、媚びと怯えと嫉妬と憎しみの混じった目で絶無を見るばかりだった。そのくせこちらを見返す努力などしないのだ。
 絶無は、知っている。「努力しても報われるとは限らない」などとほざく人間の九割九分は、努力などしたことがないのだ。
 睡眠よりも多くの時間を修練に費やす。費やし続ける。――努力ってのは最低限そのレベルのことを言うのだ。そんなこともせずに「自分には才能がない」だの「さすが天才様は言うことが違う」だの。
 馬鹿か。
 いつか大きな力を勝ち取ったら、あんな卑劣な無能どもは根絶やしにしてやる。
 そう、常々思っていた。
 ――だが、あいつが現れた。
 秋城風太。あの柔弱のヘタレが。
 いままで見た中でも、特に鈍くさく、無能な奴だった。
 だけど。あぁ、だけど。
 ――あいつは、立ち上がったんだ。
 このままは嫌だと。戦わせてくれと。そう言ったんだ。
 あの時の気持ちは、忘れられない。あいつの、涙を溜めた目。震える声。歪む口元。それでもうつむくのは嫌だとこちらに突き付ける、意志の光。
 嬉しかったのだ。信じることができたのだ。
 どんな人間にも、意志の輝きはあるのだと。気高く尊く在れるのだと。
 それは……希望ではないのか?
 失望に失望を塗り重ねる人生の中で、ようやく出会えた、人の持つ可能性ではないのか?
 あらゆる自己認識に宿る、極微の、微塵の、だからこそ永遠の。
 ――王なる覚悟。
 満身の呪いを込めて、叩き込むのだ。
 この刹那。
 今この刹那に!
 夜天を引き裂く咆吼。《信念の杭》を顕現させた左腕を引き絞り、装填する。
 直後、致死の閃光。
 体の前後――顔面から腰にかけてと、後頭部から腰にかけてが、存分に斬り裂かれる。
 《魔眼の虚刃》による二重斬撃。
 だが――浅い。芯を外した。顔面を削ぎ落とされ、胴体はほぼ千切れかかっているが――脳は無事だ。脳だけは。
 ――わかっているぞ、橘。
 目測を、誤った。
 まだ殺し間に入り切っていないのに、振りおろしてしまった。
 何故か。
 今まで入念に積み上げてきた意識操作。絶無が触手を操作する時、あたかも指揮者のごとく四肢を動かしていたのは、伊達や酔狂ではない。やろうと思えば微動だにせずに触手だけ動かすこともできる。
 すべては「触手と本体の動きがリンクしている」という印象を、敵に植え付けるための仕込みである。
 一度しか使えぬフェイント。斬間に入る直前、再生中の右手を意味深に振った。何の意味もない動作――だが、奴は即応した。鋭すぎる反応速度が、仇となった。
 重騎士は巨剣を振り抜いた姿勢で、愕然とこちらを見ている。
 ここから第二撃を放つまで、どれほどの猶予があるのか。一瞬というほどもないだろう。
 ――充分だ!
 気炎を吐く。
 そして、絶無は。
 最も新しき魔王は。

『楽土の夢を見せてやる!』

 人生(くがぜつむ)を、撃ち込んだ。
 神骸装(デミウルゴス)スェドンザの事象変換――強制的共感。
 その攻撃的応用。《信念の杭》。
 重騎士の巨体が大きく痙攣し、動きが止まった。
 叩き込まれたのだ。
 脳髄に直接。
 それは信念であり、記憶であり、矜持であり、憤怒であり、敬意であり、侮蔑であり、喜びであったもの。
 片時も弛緩せずに生きてきた、久我絶無という個性のすべて。
 闘うときも、愛でるときも、味噌汁をつくるときも、鍛錬を積むときも、罵るときも、花を活けるときも、命を構成する一瞬一瞬を全力で駆け抜けた少年の、産声と断末魔。
『僕は!』
 噛みつくように、斬りつけるように、声をかける。
『すべての人間に鋼の心を植え付ける! 『王の覚悟』を植え付ける!』
 その言葉は、毒のように橘静夜の脳を侵す。
『すべての『弱さ』を殲滅する!』
 それが――黒澱さんと交わした盟約。絶無が全霊を傾ける、人生のテーマ。
 ――僕は、弱者に、媚びない。
 絶対に、媚びない。
 貴様らが本気で生きられないというのなら、
 僕が[本気でしか生きられないようにしてやる]。
 弱さを怠惰や卑劣の言い訳にしているゴミどもに、思い知らせてやる。
『お前の哀しみも! 絶望も! 怯懦も! すべて、すべて! 僕が炎に変えてやる! お前の幸福を指し示す、星の光に変えてやる! そこにはもはや卑劣な弱者などいない! それぞれの野望を胸に、それぞれの可能性を磨きながら、一心不乱に己の人生を闘う者たちがいるばかりだ! それが僕のエゴ、僕の楽土だ……!』
 それは、命と力と魂のすべてをかけた、煽動(アジテート)。
『う……がァッ!!』
 衝撃。頭に、大剣の柄頭がめり込んだ。
『だ……駄目だッ!』
 血を吐くような、叫喚。重騎士の魔眼から、光る涙が飛び散った。
 ――耐えたか……!
 絶無は、宗教的な感動すら味わっていた。ひょっとしたら自分は今、本当に泣いているのかもしれない。
『お前の気持ちはわかった! 痛いほどに! 苦しいほどに! だが……!』
 巨大な鋼鉄の大蛇が、牙を剥き出して顔面に喰らいついてきた。鉤爪が首や肩口に突き刺さり、凄まじい圧力で頭蓋を圧搾しにかかる。
『駄目だ! 人の魂を変革し、お前の言う楽土が現れたとしても! すべての弱者が誇りを持って前に進む勇気を得たとしても! 他人から押し付けられた進化に何の意味があるんだ! 焦るな! 大きな視野で見れば、世界は少しずつ良くなっている! その可能性を、摘み取るなッ!』
 ――橘静夜……僕より強く、気高き男よ。
 感謝が、胸に満ちる。長くつづく覇道の、最初の試練として、これほどの男を送ってくれた宇宙すべてに。
 尽きせぬ感謝を。
 腕が、持ち上がる。ようやく再生の完了した右腕が。
 男爵(ヒュポクトニア)たるスェドンザ。二つの事象変換――同時展開。
『……待てないッ!』
 叩き込む。二本目の杭。
 断末魔のような叫びがあがる。擦り切れるような、絶哭だった。
『自発的進歩を待って、理想郷に到達するまでに何年かかる!? 何千年かかる!? 僕は! 今! 楽土にたどり着きたいんだ! 身を焦がす望みがあり、それを成す道を黒澱さんが示してくれた! ここまでされて何もせずにいられるかッ! 欲するものはすべて勝ち取る! それが『王の覚悟』だ……!』
『ぐ……ぅ……ぅ……!』
 重騎士の巨体から、力が抜ける。
 こちらもまた、力と意志を最後まで振り絞った。――もはや指一本動かす力も残っていない。
 二人の悪魔憑きは、糸が切れたように、自由落下を開始した。
『……僕は、『王の覚悟』が当たり前となったその楽土の中で、今度こそ、ただの少年として過ごす……』
 ぽつぽつと、うわごとのように、
『……天才でも、怪物でもなく、特に秀でたところのない、普通の少年として、黒澱さんと一緒に、ときめくような気持ちで、広い世界を駆けまわる……』
 いっさいの虚飾を取り払われ、剥き身のままで虚空に胸を震わせて、
『……そこではさまざまな人々が、きっと想像も付かないような技術、信念、哲学、狂気をたずさえて、それぞれの命を輝かせていることだろう……』
 眠るように、夢見るように、
『……僕は、彼らと、言葉を交わしたい。教えを請いたい……』
 心地よい風の中を、幸せなまどろみに包まれながら、
『……友達に、なりたい……』
《なれます。きっと、なれます。そこなら、きっと、わたしも……》
 どこまでも落ちてゆく。
 輝くもの、天より墜つ。

 ●

「見ろ、橘。夜が明けるぞ。世界はかくも美しい」
 山麓の斜面で、絶無は足をゆったりと投げ出して、うんうんと頷いていた。
 横には墜落時に出来たクレーターがぽっかりと口を開けている。
「お前は……本当に実現できると思うのか。そんな世界……概念の上ですら成立するのかどうか」
 隣では、白髪の青年が、あぐらをかいている。
「前例がない……というのは、やらない理由としては最低だな」
 絶無は自分の膝で眠る少女の頭を撫でた。
 その青白い頬は憔悴していたが、ともかく今は安らかな寝息を立てている。
「だが、仮にすべての人間が『王の覚悟』を得たとして、その中で新たな格差が生まれ、新たな弱者が生まれるだけではないのか」
「もちろんその通りだ。というか僕は別に弱者が嫌いなんじゃない。甘ったれた弱者が嫌いなんだ。「弱さ」を「人間臭さ」などという欺瞞に満ちた言葉で飾って神聖視する阿呆が憎いんだ」
 静夜が、なんともいえぬ顔で黙る。
「……もういいだろう、橘。僕は問答をしたいわけじゃない。聞きたいのはたったひとつの答えだ」
 獰悪な笑みを浮かべる絶無。
「騎士は王にかしずくものだぞ?」
「そんな面倒な身分になった覚えはないし、お前は王族の血筋でもない」
 静夜は、自らの腕に目を落とす。
「ザラキ。お前はどうしたい」
『さて、《遊歴の座》の大義からすれば許しがたい変節ですが……心情的には、もはや久我絶無を敵と認識するのは難しくなっていますね。静夜、あなたが死の宿命から解放されたこと。今はただ、それがうれしい』
 青年は、苛立たしげに頭をかく。
 かなりためらってから、絶無を見た。
「……久我、もしもお前が力に溺れ、道を踏み外したとき、俺はお前を背後から討つつもりだ。そのためにはそばで監視しつづけなければならないだろう」
 自らの胸板を押さえながら、つづける。
「その間、命の恩人から『頼みごと』をされたならば、まぁ、内容によっては聞いてやらんでもない」
 絶無は、思わず噴き出した。
「それがお前のけじめか! ……いいだろう。切れる刃物は何本でも手に入れたいが、さまざまな形をしていた方が面白い。安心しろ、僕はお前が仕えるに値する主君だぞ? いずれ真の忠節を誓わせてやるさ」
「ふん」
 鼻を鳴らして、視線を前に戻した。
「んん……」
 絶無の膝元で、少女がみじろぎをした。
「見ろ、我らが神の御目覚めだ」
「……ぁ……」
 黒澱さんは翠緑の深淵を瞬かせ、ぼんやりとした様子でこちらを見上げている。
 絶無は不意に愛おしい気持ちが膨れ上がり、指を伸ばして彼女のマシュマロのような頬を撫でさすった。
 彼女は眼を丸くすると、少し恥ずかしそうにみじろぎした。
《はぅ/すりすり/きもちいいの》
 絶無は柔らかに微笑んだ。
「おはようございます黒澱さん。眼球舐めさせてください」
 音速で逃げられた。
「変態か」
『変態ですね』

 ●

 秋城風太は、何とも言えない面持ちで、目の前の光景を目にしていた。
『さて……』
 何気ない声に、何か陰惨な意図を感じ取り、界斑璃杏は引き攣るような悲鳴を上げた。
 ゴシックロリータのドレスに包まれたその細い手首と足首を、黒い触手が縛りあげ、完全に身動きを封じている。
『しゃべれ、ゴミ野郎。お前はなぜ洞慕町でわけのわからん凶行に及んだ?』
 久我さんが、六つの青白い眼を細め、そう尋ねていた。
 場所は、風太と堕骸装(アンゲロス)ツァバエルが激突した狭い路地だ。
 ――どうにか、勝つことが出来た。
 グロテスクな赤ん坊の集合体は蒸発し、後には気を失う界斑さんだけが残った。
 そこへ、骸装態となった久我さんと、学校で見かけた重騎士が、連れ立って現れたのだ。
 二人の間にどういうやりとりがあったのかはよくわからないが、ともかく和解ができているようだった。
「ふ、風太おにいちゃん! たすけて、たすけてですぅ……!」
 こっちを見ながら、彼女は必死に身をよじり、拘束から抜け出そうとしていた。
 風太は、唇を噛みしめながら俯く。そういう態度で他人を騙して手駒にするのが彼女の常套手段であることは、身にしみてわかっていた。
 ――でも。
「く、久我さん……あの……」
『勘違いするなよ秋城。このカスの処遇を決めるのはお前じゃない』
「やだやだやだやだぁっ! いじめないでよぅ……」
『だったら吐け。お前の背後に何がいるのか』
「手と足がきついよぅ……ぐすっ、苦しいよぅ、ほどいてよぅ……ふえ~ん……」
『まず、吐け。単なる殺人嗜好者とは違うのだろう。何か狙いがあったはずだ』
「なんでなんでなんで? なんで璃杏ちゃんをいじめるのぉ? ひどいよぅ……たすけてぇ……ツァバエルぅ……だれか、たすけてぇ!」
『……』
 界斑さんの顔の前に無数の触手が現れ、一斉に[開花]した。先端に十字の切れ目が入って、粘液を引きながら開く。中から歪んだ牙を放射状に生やした捕食器官があふれ出てきた。
「ひッ」
『質問に、答えろ』
 かちかちと歯を鳴らしながら、界斑さんは語り出す。
「うぁ……璃杏ちゃん、パパとママがいなくて、みんな璃杏ちゃんをいじめるの。だ、だから! やさしくしてほしかったの! 璃杏ちゃんのいうこときいてほしかったの! しょうがないの! だからみんな璃杏ちゃんのシモベにするの! しょうがないの! みんな璃杏ちゃんにやさし……」
『そうなのか。苦労したんだな。死ねよ』
 その口に、太い触手が突っ込まれた。口が限界まで開かれ、喉も膨れ上がっている。
「おごッ!? ……ごッげッ」
『お前が黒澱さんほどの宇宙的美点を備えているのなら、僕も態度を考えた』
 触手はのたうちながら、少しずつ奥へ奥へと進んでゆく。
『詩崎のように、気位と礼節をもって接してくるのなら、決して無碍にはしなかった』
 痙攣する少女の耳元に頭を寄せる。
『そうでなくとも、我がちんちくりんの姉のように無害であるなら、至らぬ点を寛容に許すぐらい、どうということはなかった』
 触手がずるりと引き抜かれる。糸を引く。
「ご……ぇ……!」
 びちゃびちゃと胃の内容物が溢れ出る。
 すすり泣く声。
『お前さぁ、なんで生きてるの? この世にお前が幸福になれる場所なんかどこにもないのに。その厚顔無恥さはどこから来るんだ? 本気でわからない』
「あ……あ……」
 風太の耳に、心の折れる音が、聞こえた気がした。
『む』
 と、久我さんがかすかに首をかしげた。まるで、胸中で聞こえる声に耳を傾けているように見える。
『……わかりました。ウジムシには過ぎた慈悲かと思いますが、黒澱さんのたってのお願いとあらば譲歩はします。折衷案でいきましょう』

 それからの顛末については、あまり思い出したくない。
 ひとつだけ断言できるのは、彼女は二度と久我さんの前に姿を現さないだろう、ということだけだ。
 風太は、なんとも言い難い感慨を胸に抱く。
 悲しい気持ちがあり、もうちょっとこう手加減してあげてもいいのではという気はする。しかし同時に、自業自得だよなぁとも思うのだ。
 無関係な人をたくさん殺し、久我さんをマジギレさせておきながら、ともかく後遺症が残らない程度で許してもらえたのだから、わりと運が良かったのではないだろうか。
 心を砕き折られ、悪魔を失い、家を失い、バックボーンとなる組織から見放され、身寄りもない彼女の将来は、正直あんまり明るい材料がないのだが、どうか強く生きてほしいものである。無責任だが、そう思う。
 界斑さんの後ろには、《平穏の座》という組織があったらしい。大量の認識子(グノシオン)を一ヵ所に集め、何か大きなことを企んでいるという。堕骸装(アンゲロス)を暴れさせて、人間の中の認識子(グノシオン)を鵜飼のように収集していたのには、そういう事情があったのだ。
「さて秋城、よくやった。僕と黒澱さんの命を救い、我が姉加奈子の護衛もやり通したな。お前のちっぽけな勇気が掴んだ、最初の勝利だ。褒賞を取らせよう。望みを言え。出来る範囲で叶えよう」
 すがすがしいまでに偉そうだなこの人。
「……えーと……」
 そう言われると、なんとも答えにくい。というか全然考えてなかった。
「無難なところで金か? すでに黒澱さんの御威光で町全体を支配下に置いているからな。それなりの額は用意できるぞ」
「えっと、あの、ちょっと考えさせてもらえますか?」
「……まぁ、構わんが」
 そから何日か経ったが、風太はいまだに願いを決めかねている。
 ――まぁ、でも。
 あの人にでっかい貸しがあるという事実は、なんとなく風太の胸を浮き立たせる。
 これだけでも、けっこう元がとれたのではないだろうか。
「ね、ルアフェル?」
『ふあ…? あそぶ…?』

 ●

「ひとまず、季節の花材を一通りご用意いたしましたわ。黒澱さまのお目にかなうものがあれば良いのですが」
「わ、わ、綺麗です……」
 久我家の客間に新聞紙がひかれ、その上に水盤と、さまざまな剣山、色とりどりの花が並べられていた。
 芍薬、春蘭、竹島百合、矢車菊などの草花から、金宝樹、雲仙つつじ、雪柳などの枝物、苔むした石、骨のように白い枝まで、さまざまな色と形と香りが広がっている。ここのところの功績に報いるため、絶無は校長に命じて華道部の部費を大幅に増額させていたのだ。
 詩崎鏡香と黒澱瑠音は、姉妹のように寄り添いながら、ぽつぽつと言葉を交わしている。生け花の初歩的な構成や、空間に与える影響などを簡単に解説する鏡香に対し、黒澱さんは小さくつっかえながらも質問を返している。
 そのさまを、絶無は釈然としない面持ちで見ていた。
 おもむろに鏡香の腕を引っ張る。
「おい、詩崎、詩崎!」
「はい絶無さま。いかがなさいましたか?」
「貴様、なぜいきなり黒澱さんからお言葉を賜れているのだ。僕ですらいまだに筆談がメインだというのに。いったいどんなセコい手を使いおった」
「まぁ、絶無さまに嫉妬されるなんて、珍しい経験をしてしまいましたわ」
「ぬぐぐがが」
 歯噛みする。
 ひょっとしたら、今黒澱さんは非常に寛容な気分であり、気軽にお声を聞かせていただけるのかもしれない。
 そう思い直した絶無は、彼女の隣に膝をおろした。
「急に付き合わせてしまって申し訳ありませんね、黒澱さん。なかなかスケジュールが不規則で、突然お呼び立てすることになってしまいました」
 ふるふるふる、と彼女は首を振る。
『わたしも楽しみにしていましたから。全然大丈夫ですよ。』
 と、ノートに書かれていた。
 肩を落とす。どうやら声は聞かせてもらえないようだ。
 信徒となった洞慕町の住民に対し敵性悪魔が襲撃してきた際のガイドラインを浸透させ、市政を把握し、役所の中に執政府を設け、界斑璃杏の凶行によって家族を亡くした者への補償を行い、金の流れについて定期的に絶無に報告させる体制を整え、ツァバエルが遺した十五体の悪魔を再利用するために契約者候補を募集し、他の神骸装(デミウルゴス)の動向と勢力図を調査し、静夜とザラキエルのコネで《遊歴の座》との接触を図り――そのほか魔王としてのさまざまな雑事で東奔西走するうちに、ずいぶん遅くなってしまった。
 黒澱さんの活けた花が、見たい。
 その思いを告げ、快諾を貰ってから数日。秘書として辣腕を振るってくれた詩崎のおかげで、ようやくひと段落ついたのだ。これからは黒澱さんをあの手この手で愛でまくる時間も取れるというものである。
「絶無さま。一手進められましたよ」
「あ、あぁ」
 応えた後で、聞き返す。
「……一手?」
 見ると、楕円の水盤に、一本の杜若が立っていた。
 詩崎は何も言わず、黒澱さんを示した。
 すでにノートを胸の前に掲げている。
『詩崎さんより、生け花は宇宙の縮図でもあると聞きました。なら、久我さんと二人で作りたいかな、と思ったりするのです。』
 だめですか? と言うように小首を傾げる。
 絶無は少しうつむいて頬をかくと、ひとつうなずいた。
「わかりました。では二人で交互に花を活け、この水盤にあえかなりし楽土を表現するとしましょう」
 弾むように、こくこく。
「それではお二方、出来上がりましたら是非この詩崎にも拝観の栄を賜らせていただければと思います」
 黒髪を揺らして立ち上がった詩崎に、絶無は眼を向ける。
「なんだ、監督はしてくれないのか」
「あら、わたくし馬に蹴られて死にたくはございませんの」
「言いたいことはわかるが、気の回しすぎというものだ。だいたい……」
 言葉をつづけようとする唇に、詩崎の人差し指が当てられた。
 かすかに草花の香りがした。黒澱さんに聞こえないよう、小声で語りかけてくる。
「どうしてわたくしが黒澱さまに短期間でお言葉を賜るに至ったのかとお聞きになりましたわね?」
「あぁ」
 彼女は悪戯っぽく笑った。なんとなく、弟妹に対する時のような笑みだった。
「女の子は出し惜しみする生き物ですの」
「そういうものか」
「はい。気になる殿方の前では特に」
「……だいたいわかった。まぁなんとかやってみる」
「御武運を」
 しずしずと歩み去ってゆく詩崎を見送ると、絶無は振り返った。
「さて――始めましょう」
 黒澱さんは、自らの隣に座布団を敷いてくれていた。
 どことなくそわそわしながら、絶無を待っている。
 二人で創る、新世界を夢見て。

 完

後書き

未設定


作者 バール
投稿日:2015/11/26 20:42:23
更新日:2017/07/10 22:20:14
『夜天を引き裂く』の著作権は、すべて作者 バール様に属します。
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