小説を「読む」「書く」「学ぶ」なら

創作は力なり(ロンバルディア大公国)


小説鍛錬室

   小説投稿室へ
運営方針(感想&評価について)

読了ボタンへ
作品紹介へ
感想&批評へ
作者の住民票へ

作品ID:569

こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約20120文字 読了時間約11分 原稿用紙約26枚


読了ボタン

button design:白銀さん Thanks!
※β版(試用版)の機能のため、表示や動作が変更になる場合があります。

あなたの読了ステータス

(読了ボタン正常)一般ユーザと認識
「モーメント」を読み始めました。

読了ステータス(人数)

読了(184)・読中(4)・読止(0)・一般PV数(1059)

読了した住民(一般ユーザは含まれません)

灰縞 凪 


小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /

モーメント

作品紹介

ここに自由があるぞ。




※こちらも過去作です。二年ほど前に書きました。
 何かにこれだけ夢中になれるのって幸せなことだと思います。
 ちなみにまっしぶは泳げません。



 舞台に立っている時が一番自由を感じるのだ、とスズハは言った。スタジオでレッスンを受けている時より、気晴らしに野原を歩いている時より、ずっと自由なのだと。
「登場する時、白い光のライトが降りてくるでしょう。逆に観客席の照明はすっかり落ちて、最前列の人が見えるか見えないかくらいにまでなって。ずっと遠くを見ていると星のない夜空みたいに真っ暗なの。そうすると、なんだか頭上の眩しいライトが月明かりに思えてくる。音楽に合わせてステップを踏んだ瞬間に、空を飛んでいる気がしてくる。本当は薄闇の中に審査員もお客さんもいるのに、まるで自分独りだけがそこに取り残されている気がして、群れから外れた渡り鳥みたいな気持ちになって、でも、全く淋しくないの。むしろ、嬉しくてしょうがないの。わたしだけが飛んでいる。わたしだけが踊っている。そう考えたら、ますます体が軽やかになっていって、本当に空を飛んでいる気になってくる」
 彼女の言うことが俺には理解できた。バレエについては詳しくないが、水泳でも同じような感慨を覚える瞬間があるからだ。その一瞬の為に、俺は水の箱庭へ飛び込む。スズハも同じ理由でトゥシューズに脚を納め続けるのだろう。
 しかし、空を飛んでいる気がするというのは、なんとも陳腐なたとえではないか。
 まるで空を飛んだことがあるかのような。
 まるで空に自由があると知っているかのような。
 その憧憬はきっと人間になる前の、遥か太古の記憶に起因するのだと思う。
 俺はドーム型の高い天井と明かりの落ちた照明灯を見上げながら、ゆっくりとプールの中央へ漂う。顔の半分まで水に沈め、聞こえてくるのは自分の呼吸とたゆたう水の沈黙ばかりだった。その音に包まれているとひどく安心する。たぶん、胎児だった頃の名残りだ。目を閉じれば、そのまま眠れそうなほど安らいだ気持ちだった。
 ここに自由がある。
 そう思えるのが人間の奇跡だと時々思う。
「ミツル」
 静かな空間にヨウイチの声が響いた。
 俺は姿勢を戻し、プールサイドに立つ彼へ向いた。ヨウイチは呆れた顔をしていた。
「まだ練習してたのかよ」
「いや」 俺は短く首を振る。ただぼんやりしていただけだ。
「帰ろうぜ。焦る気持ちはわからんでもないが、勝手に遅くまで自主練してたらまたコーチにどやされるぞ」
 まだ明るい西側の窓を見上げた。磨り硝子の向こうに鈍色の光があって、競泳プールの水面を銀紙のように輝かせている。
「外、雨か?」 俺はプールサイドへ両腕を預けながら訊く。傘を持ってきていなかったのだ。
「まだ降ってるけどだいぶ弱まった。今ならワンチャンあるから、さっさと帰ろうぜ」
 水面は胸の下にあって、そこから下は水中の浮遊感に包まれている。俺は体を引き上げかけたが、思い直して壁を蹴った。背面で飛ぶスーパーマンのような姿勢で、長さ二十五メートル、水深一・三五メートルの空へ体が戻っていく。
「おーい」 うんざりした声でヨウイチが呼ぶ。
 俺は微笑みを漏らした。瞑目して水の流れを全身に感じる。ここは空だと自分に言い聞かせる。
 ミツル、お前は自由なのだ。
「あと五分」 そう言ってから、体を捩じり、潜水した。
 ヨウイチが肩を竦めているのが見ずともわかった。

 ◇

「実際、気が楽だよ」
 俺はぽかんとヨウイチへ振り返った。何の話かわからなかったからだ。
 彼は下駄箱を閉めてスニーカーを履いた。
「水泳辞めてさ」
「ああ」 俺は納得した。
「地に足つけて、進路の為にコツコツ勉強するのも悪くねぇ」
「カッコいいな」
「馬鹿にしてんのかよ」 ヨウイチは笑って肘打ちした。 「まっとうな高校生だろ?」
「そうだな」 俺も息を漏らして笑った。水の中では許されない空気の無駄遣いだ。
 雨はもう気にならない程度にまで弱まっていた。温かい雨だった。夏が近づいている証拠だった。
「志望校、決めたのか?」
「俺の頭じゃ国立は無理だけど、東京にでも行こうかなって考えてる」
「遠いな」
「家を出たいんだよ」 ヨウイチの目に翳が差す。 「家業の跡継ぎなんてクソ食らえだ」
 何と答えるべきか迷っていると、校門に佇む宮野スズハに気付いた。手を振っているのを見るに、どうやら俺達を待っていたようだ。
「宮野さん」 ヨウイチが破顔した。 「一緒に帰ろうよ」
「レッスンは?」 俺は訊ねる。
「お休み」 彼女は言った。 「ねぇ、三人でどこか行かない?」

 ◇

 繁華街の中心にある大型雑貨店へと来ていた。俺やヨウイチにはほとんど無縁の場所であるが、スズハにとってはそうでもないらしい。少し意外だった。
 彼女は俺達を召使いのように侍らせて、一階から七階まで縦横無尽に歩き回った。気苦労が多かったのはヨウイチの方だろう。彼はせっせとスズハの後について回っていたが、俺は少し離れて手持無沙汰に商品を眺め回していた。ファンシー・ショップではクマのぬいぐるみのキーホルダーを指先で弄び、「誰がこんな悪趣味なものを買うのだろう」と独り毒づいた。スズハがそれをレジに通した時には呆気にとられもした。
「お前、ずいぶん節操のない買い物をするんだな」
「どういう意味?」 スズハがじろっと睨んだ。
 買い物の後、雑貨店の隣にあるファストフード店に入っていた。スズハの隣の椅子にビニール袋が置かれ、いまいち用途が判然としない品物で溢れていた。
「これ、女の子の間で流行ってるよね」 気を利かせたヨウイチが、クマのキーホルダーに触れていた。俺は正気を疑った。
「こんなにショッピングしたの、久しぶり」 スズハは伸びをするように腕を上げた。
「よく行くの?」
 ヨウイチが訊ねると、スズハは首を振った。
「行く暇、あまり無いの。遊ぶ時間も無い。おかげで流行もわからないし」
「そうだよね。バレエの稽古とか大変そうだもんね」
 俺は黙ってポテトを齧っていた。へなへなと萎んだ芋だった。しかも、油でべっとりしている。
「そうそう、服も買いたいんだよね」 スズハが思い出したように言った。 「二人とも、来週また付き合ってくれない? 色々試着するから男子目線の意見を聞かせて」
「うん、全然いいよ」 ヨウイチが嬉しそうに笑った。 「な、ミツル。付き合ってあげようぜ」
「いや、遠慮しておく」 俺はコーラを啜って首を振る。 「二人で存分に楽しんでくれ」
 ヨウイチが言葉を失くして赤くなった。スズハはじっと俺を睨んだ。
「練習?」 彼女の声が若干固くなっている。気付いているのは俺だけのようだった。
「ああ、たぶん、来週は遅くまでやる。大会が近い」
「そう」 スズハは息を漏らし、ヨウイチに微笑みかけた。 「じゃあ、ヨウイチくん、来週空けといてね」
「あ、うん、わかった」
 ヨウイチはどぎまぎと了承した。なんてわかりやすい奴なのだろう。心の中では雄叫びを上げてガッツポーズしているに違いない。
 俺は萎びたポテトを齧り続けた。油っこくて、しかも塩辛い。それでもクマのキーホルダーと同じで世間では大層愛されている代物だった。

 ◇

 ヨウイチと駅前で別れ、俺とスズハは下りの電車に乗った。陽はもう沈んでいた。繁華街から遠のくと車窓を照らす街明かりが途切れがちになり、田畑の広がる場所まで来ると墨を塗り潰したかのように暗くなった。
 スズハと俺は家が隣り合っている。つまりは幼馴染という間柄だが、周囲が囃し立てるほど親密な関係でもない。異性として意識したことは一度も無いと断言できるし、これからもきっと男女の関係にはならないだろう。想像もできない。たとえどちらかが血迷っても、どちらかが制止する。そんな信頼なら存在していた。
 乗車中に会話は無かった。俺は吊革に掴まり、スズハは正面の席に座った。彼女はずっとスマートフォンを操作し続け、俺は車窓の闇の濃淡を眺め続けていた。口を開いたのは電車を降り、もう家まで数分という距離まで歩いた時だった。
「バレエ、辞めるのか?」
 彼女は弾かれたようにこちらを見た。足を止めて立ち尽くす。俺も数歩先で止まって振り返った。
「母さんに聞いたの?」
「いや、何も聞いてない」 俺は首を振った。 「ただ、なんとなくそんな気がした」
「辞めないよ」
 彼女は再び歩き始め、俺を追い抜いた。怒っているようだった。手に下げたビニール袋ががさがさ鳴った。俺は何も言わずに彼女の後ろをついて行った。家まで着くと挨拶も省いて玄関へ入る。スズハもこちらを見ずに門の向こうへ消えた。
 彼女が俺の部屋の窓を叩いたのは、夕食を済ませた後である。筋トレをしているところだった。窓を開けると眼鏡を掛けたスズハが机越しに顔を覗かせた。今まで勉強をしていたらしかった。机に問題集が広げてある。
「何だよ」 俺は無表情に訊く。
「そっち行っていい?」
「は? いや、駄目だ」 驚いて首を振る。中学に上がって、互いの肉体がいわゆる大人のそれへと形成され始めた頃から、それぞれの部屋への立ち入りを自主的に厳禁していた。例外は無い。 「込み入った話があるなら近所の公園でいいだろ」
 スズハは不貞腐れたように息を吐く。 「じゃあ、ここでいいや」
 バレエの話だな、と直感した。つまりは将来や進路といった類の話だ。最近の彼女はそういった話を俺に振りたがるのだが、億劫なので躱し続けていた。それぞれ練習や稽古の都合で顔を合わす機会が減っていたので割と逃げ切れていたのだが、今日はたぶん、いつもよりしつこいだろう。ならば下手に逸らすより、さっさと聞いてやったほうが早く終わると判断した。
「ミツルって、結局大学どこにするの?」
「まだ決めていない」 俺も椅子に腰かけて答えた。ミネラルウォーターを一口飲む。汗をかいていた。 「お前は?」
「わたしも決めてないんだよね。そんな偏差値高い所は行けないだろうけど」 彼女は頬杖をついて、ちらっと問題集に目を落とす。 「ミツル、前に水泳のスポーツ枠で行けるかもって話してたじゃん。あれはどうなったの?」
「どうもしていない。まだ返事を出していない」
「なんで? 三つくらいスカウト来てるんでしょ?」
「大会が終わったら考える。大会次第だ」
「大会次第って?」
「順位と、タイムの更新ができるかどうか」
「いつもダントツって聞いてるけど?」
「これからもダントツとは限らない」 俺は肩を竦めた。 「最近、伸び悩んでる。大学に入ってチームの足を引っ張るようなことになったら申し訳ないからな。慎重に考える」
 スズハが口を噤んで目を伏せた。結った頭から前髪が一筋、白い額へはらりと垂れた。
 俺は横目でそっと窺い、わずかに苛立ちを感じた。なんて回りくどい奴なのだろう。彼女のそういう性格だけは昔から改善されない。
「お前、バレエはどうするんだ?」
 譲歩してこちらから訊いてやった。その言葉を待っているのは明らかだった。
「辞めた」 彼女は何でもない風に答えた。
「さっきと言っていることが違う」
「嘘、辞めはしない。趣味ではやる。八月のコンクールまではレッスンも通い続けるし。ただ、プロを目指すのは辞める」
「なんで?」
「さぁ、なんででしょうかね」 彼女はふんと鼻を鳴らした。口角をぎこちなく曲げている。アヒルの真似でなければ作り笑いだろう。 「なんでだと思う?」
「知らん。俺はエスパーじゃない」
「当てたらスーパーひとし君あげる」
「いらん。なんだかわからんが、大事に取っとけ」
 けらけらとスズハが笑った。 「ミツルってほんと面白いよね」
 俺は黙り込んだ。本当に心外だった。
「まぁ、なんていうかさ」 スズハは笑みを絶やさずに、しかしどこか言いづらそうに語った。 「現実に負けたってことかもね。夢を追うリスクにビビったっていうかさ。お金だって馬鹿にならないし、プロのバレリーナなんて何千何万人分の内の一人しかなれないし。お母さんとかお父さんとか、毎日そうやって脅し続けてくるからさ。わかりましたよ、それなら諦めてまっとうな女子高生になって受験しますよって決めたわけ」
 彼女は言い終えると、何か言って欲しそうにこちらを見たが、俺は無言で頷くことしかしなかった。窓と窓、十数センチの空間を隔てた距離なら、これくらいの反応を示すだけでも充分親身に思われるはずだ。遠い地からやり取りする恋人同士の文通のように、距離は錯覚を引き起こしてくれる。実際、スズハは俺の適当な反応に眉を顰めなかった。ファストフード店のテーブルほどの近距離では不服そうに睨まれたに違いない。
「でもさ、強がりとかそういうのじゃないけど、わたし、よく考えたらそれほどプロになりたいわけでもないって気付いたんだよね」
 彼女は意外な話を始める。俺は少しだけ興味を覚えた。
「小さい頃からやっていて、いつの間にか漠然とした目標にしていただけでさ、本当はバレエできればそれで良かったんだよね。楽しければ良かったし、今も割とそう思ってる。大学入って、社会人になったら、もう舞台には立てないかもしれないけど、でも、それでもバレエを続けていくことはできるからさ、それでいいかもって思ったのよ」
 俺は頷く。今度はどちらかと言えば真摯な態度だったろう。
「ミツルのとはちょっと違うね」 彼女は微笑んだ。
「いや」 俺も口端を上げる。 「似たようなもんだ」
 スズハは少しだけ苦しそうに顔を歪めたが、すぐに笑みを取り繕った。その泣き笑いのような顔を、未練がましいとは思わない。自分の時間の大部分を充ててきた目標なのだ。切り取るのは容易ではない。
「ねぇ、さっきさ、なんでわたしがバレエ辞めたってわかったの?」
 彼女が気を取り直したように訊ねた。帰宅間際の会話のことだ。
「辞めはしないんだろ?」
「ややこしいこと言わせないで」 睨まれた。
「さっきも言った。なんとなく、だ」
「じゃあ、本当にエスパーだよ、ミツル」 スズハが可笑しそうに吹き出した。
 今日の節操のない買い物に付き合っていれば何かしら察しが付きそうなものである。明らかに彼女は無駄なショッピングでフラストレーションを発散していた。今までのスズハならファンシーなクマのぬいぐるみなどには目も暮れなかったはずで、服も着られれば良いという無頓着な人間だった。それほどバレエに熱中していたのだ。今日で何かしら悪い癖がついたのなら、少々厄介な話である。
「まぁ、今までレッスン漬けで、次のコンクールが終わったら多少時間出来るし、いっちょ世俗に合わせて、イマドキの女子に変身しようと思ったわけなのよ」 スズハが頭を掻いて言う。 「どう? 素敵なアイデアでしょう? 髪も切ってみようかと思って」
「勉強しろ」 俺は真顔で言った。 「国立入って、学費浮かせて、親父さんお袋さんに楽させろ」
「おやすみ」
 彼女は叩きつけるように窓を閉めた。さっとカーテンを閉められる。よくわからない奴だ。俺が考えているよりずっと深く傷心しているのかもしれない。
 俺もカーテンを閉め、筋トレを再開した。背筋運動をしているうちに、説明の難しいもやもやした感情が薄れていくのを感じた。水中にいればこんな苦労をすることはない。泳いでいる間は話すことができないし、話す必要もないからだ。

 ◇

 浮力と重力。
 弾ける気泡。
 断ち切る水流。
 全細胞が水と同化。
 水温に意識が鋭くなり。
 四肢が他の動物を目指す。
 肺の中の空気が価値を増す。
 手が裂き。
 脚が蹴り上げる。
 肌が空気を忘れ、水を信じる。
 ここが本当の世界だと錯覚する。
 ここだけに自由があると確信する。
 透明な世界を弾丸のように突き進む。
 顔を上げ、一瞬だけ空気を吸い込んだ。
 こんなものに生かされているのかと思う。
 萎びたポテトと悪趣味なクマが、ちらりと脳裏を過ぎる。
 それでも肺は貪欲に、一定のリズムを刻んで酸素を取り込む。
 さらに加速。
 筋肉の収縮を感じる。
 水と空気の景色が次々に入れ替わる。
 目に映るのはそれだけだ。
 隣のレーンなんて見たこともない。
 水中では他の人間なんて意識しない。
 ゴールに触れ、顔を上げ、いつの間にか先頭になっているのがほとんどだ。
 現実はいつでも遅れてやってくる。
 思考や意識に比べれば、現実なんてまるで亀だ。
 そんな些末なものに価値なんて見出していられない。
 この歓喜に比べれば、取るに足らない事柄。
 なのに、どいつもこいつもそればかり気にして……。
 順位やタイムの為に生きているのかと問いたくなる。
 弾みをつけ、息を吐きながら体を回転。
 距離はもう熟知していた。
 視界が一転する。
 気泡の一つ一つまで見極められそう。
 自分が笑っているのをちらりと自覚した。
 壁を蹴って加速。
 自分が発射された拳銃の弾丸のように思える。
 コースを戻っていく。
 意識はもう肉体にはない。
 泳ぎ方は体が知っている。
 目は全く別の光景を見ていた。
 小学校の夏休み。
 早朝の、開放されたばかりの市民プール。
 夏休みになれば毎朝行っていた。
 友人と行くこともあったし、たまにスズハがついてきたこともあったが、たいがいは独りだった。俺も独りのほうがよかった。
 いつも一番乗りで、人影のない広大な五十メートルプール縁べりに立つと、心が静かに震えたものだ。夏の暑さをだんだん増していく陽射しと空の下、水の箱庭は世界の神秘を封じ込めたように輝いていた。水の透明さと水底の青さが、この世で一番美しいものに思えた。
 底に胸が掠るほど潜ってから水面へ振り返ると、光が畝のように歪んでいて、音もなくたゆたっていた。他の利用客が訪れるまで、ずっとその景色を眺めて遊んでいた。浮遊感を切り離し、重力に支配された大気の中へ体を引き上げるまで、俺はずっと笑っていたと思う。
 ここに自由があるぞ。
 叫び出したかった。
 これが幸せじゃなくて、何なのだ。
 意識が急速に戻っていく。
 焦点は現在へ。
 もう終わりだと、体が覚えていた。
 壁にタッチして、水面上へ顔を出した。ストップウォッチを握ったコーチがこちらを見下ろしていた。いつも不機嫌な顔をしている男だ。煙を吐くガマガエルに似ている。
「うん、悪くない」 コーチがしかめっ面で言う。 「ペースが戻ってきている」
 そんな顔で言われると嘘か皮肉に思えるが、たぶん本当だろう。手応えがあったからだ。
 俺は顔の水滴を拭って、プールサイドへ上がった。体が途端に重みを増す。他の部員はその重力を心地よいと評するが、そんな馬鹿な話があるかと俺は内心思っていた。
 コーチの指導に耳を傾けていると、「おうい」と顧問が呼びかけてきた。
「ミツル。ヨウイチ、来てるか?」
 俺は周囲にいた部員達に目で尋ねるも、皆、首を捻った。
「さぁ、見ていません」 俺は首を振った。
「遅刻かな」 そういう顧問の顔は特に険しくもない。
 噂をすればというやつで、「すんません」と入口にヨウイチが現れた。ワイシャツに黒ズボンの姿だった。いつもはジャージ姿なので意外だった。彼は顧問と一言、二言交わしてからまた外に消えていった。今日は休むつもりなのだろうか。こちらを見て、微笑を浮かべた気もする。
 あぁ、そうか、と納得する。今日はスズハの買い物に付き合う日だったか。
「予定があるから休むらしい」
 何気なく眺めていただけなのだが、視線に気付いたのか、顧問が教えてくれた。俺は曖昧に頷いてみせた。
 水泳の道を断念してからも、ヨウイチは部に籍を置いていた。今ではマネージャーとして部員達の練習を遅くまで手伝っている。内申の為だと本人は笑っているが、俺や他の部員達、それに顧問やコーチもその嘘を指摘しなかった。そこまで野暮な連中ではない。
 怪我の完治までに二カ月かかり、リハビリには三か月かかった。この世界では数か月のブランクも致命的になる。ただの水泳なら特に問題はないが、タイムを競う競泳となるとまるで話は別だ。部に戻ってきたヨウイチに、かつての輝きは無かった。それは本人も痛感していただろう。だからこそ、彼は潔くレギュラーの座を降り、選手の枠からも自主的に外れたのだ。
 現役だった頃のヨウイチを思い出しても、色々と思う所はあるが、俺はそれほど胸を痛めない。たとえ怪我を負わなかったとしても、いずれは自分の限界に苦悩するタイプの選手だと思っていたからだ。中学からの馴染みであるが、それは最初から感じ取っていた。ひたすら努力して苦心する彼の姿が痛々しくも感じるほどだった。ヨウイチの泳ぎ方の意識というのか、価値の置き所が俺とはあまりに違い過ぎていて、時折理解に苦しんだ。
「気が楽だよ」と彼が言ったのを思い出す。
 それが本心なのか、それとも凄まじい気迫で作り上げた建前なのか、俺にはわからない。興味もない。ただ、結果的には良い事なのだと思った。それが俺の本音だった。
 自分が冷淡だと思わないでもない。
 だが、他にどう考えればいいのだろう?
 そんな思考もとにかく煩わしい。二本の脚で直に地面に立っていると、そんなことまで考えなくてはいけなくなる。珍しく憂鬱な気分になって、俺は溜息を吐いた。

 ◇

「ねぇ、夏休みになったらさ、海に行かない?」
 窓の向こうでスズハが言った。俺は本から顔を上げた。
「お前、話聞いてたか?」 呆れてしまった。
「あんたの大会と、わたしのコンクールが終わったらの話。ヨウイチくんとわたしとミツルの三人で」
「遠慮する」 俺は本に目を落とした。
「なんで」 スズハが不満げに膨れた。切ったばかりの短髪が夜風に揺れている。
「大会の後もベスト入りすれば練習がある。引退はしない」
「最近、そればっかり」
「ずっと前からだ」
「一日くらい休めるでしょ。練習したいなら海で泳げばいいじゃない」
 それはごめんだ。俺は表情で答える。
「海とプールの何がそんなに違うのよ」
「水が違う」
 スズハは呆気にとられた顔になってから、遅れて吹き出した。
 一応、真面目に答えたのだが、どうやら冗談だと受け取られたらしい。旅客機と戦闘機の飛ぶ空は違う。ラリーレーサーとF1レーサーが走る道も違う。そういったニュアンスの言葉だったのだが上手く伝わらなかったようだ。
「二人で行けばいい」 俺はむすっと答えた。 「ヨウイチと楽しんでくればいい」
「それじゃ、デートになっちゃうじゃん」
「デートにすればいい」 俺はページを捲る。
 会話が途切れた。不審に思って顔を上げると、彼女がこちらを睨んでいた。
「本気?」
「何が?」 今度は何だ。
「馬鹿」
「は?」
「水泳馬鹿」
「何だよ」
「サメに食われちまえ」
「プールにサメはいない」
 思わず笑ってしまったが、ぴしゃりと窓を閉められた。他人の家の窓硝子ではあるが、割れないかと心配になる。
 最近のスズハは窓越しによく話しかけてくる。正直迷惑なのだが、きっと将来の軌道修正に戸惑っているのだろうと思って、貴重な時間を削って一応の相手をしてやっていた。それだけでも幼馴染として充分な働きをしている。それなのに、毎回不機嫌そうに退散していくのはどういう了見なのだろう。
 俺も立ち上がって、こちら側の窓を閉める。遮断するようにカーテンも閉じた。
 そういえば、彼女は昔、舞台の上にこそ自由があると言っていたのを思い出した。
 まるで、夜空を飛んでいる気分なのだと。
 俺にとっては水泳がそれだ。タイムや順位以前に、その感覚が何よりも素晴らしい。
 それが奪われたら、いったいどうなるのだろう。想像もつかない。苦しいのは間違いないだろう。ちょうど窒息して水を飲んでしまった時のような苦しみを伴うに違いない。つまり、今のスズハはそんな想像を絶する苦しみを抱えているのかもしれない。
 ふと、ヨウイチの顔を思い出した。
「気が楽だよ」
 その言葉が嘘だったのか本心だったのか、再び俺は考え始めていたが、やはり答えは出なかった。俺には俺の泳ぎ方があって、彼には彼の泳ぎ方がある。それと同じように考え方や生き方というのも人それぞれなのだろう。俺にとっては至福のひと時が、誰かにとっては苦痛の時間かもしれないのだ。
「結局、そんなものだ」 俺はぽつりと呟いた。
 溜息混じりの言葉が煙になって辺りを漂うかのようだった。

 ◇

 土曜日、昼からの練習の為に学校へ向かっていると、途中のコンビニで私服姿のヨウイチに出くわした。今日はコーチが組んだメニューの個人練習で、部員のほとんどは休みだった。ヨウイチも無論その一人であるから、これは全くの偶然だった。
 彼はコンビニの灰皿の横で煙草を吸っていた。俺の目線に気付くと強張った顔をしたが、すぐに諦めたような暗い微笑を浮かべた。俺は時間の余裕を確認してから、ゆっくりと彼の隣、風上の方へ歩いた。
「本当に、わかりやすい奴だな」 挨拶代わりに言ってやった。
「うるせぇやい」 ヨウイチは半ばまで燃えた煙草を捨てながら苦笑した。 「ぐれてるわけじゃねぇよ」
「煙草は非行だろ、一応」
「興味があったから吸ってみたのさ。健全な知的好奇心さ。いまいち美味く思えないけど、なんか胸の辺りがスッとする。まだ日は浅いけど、これは依存しそうな気がするな」
「止めとけ」 俺は友人の立場で忠告した。
「何だろうなぁ、この感じ」 聞いているのかいないのか、彼はずるずると壁にもたれて蹲るようにした。眠たげにぼやく。 「背徳感っていうのかな。積み上げた玩具のブロック壊すような、嵌めていたパズルをバラバラに崩すような感じ。肺活量が狭まっていくのがわかる。汚染されていくのがわかる。めちゃくちゃ焦るけど、気分良くもあるって感じ。わかる?」
「いや」 俺は首を振った。そんな感情に覚えはない。
「だろうな。ミツルにはわかんねぇだろうなぁ」
 彼は「わっかるかなー、わっかんねーだろーなぁ」と唄うように呟いた。
「人生ってさ、パズルとかブロックと同じだよな。こつこつやる奴、なんとなくやる奴、理想の模様とか形を目指して続ける奴、自分でぶっ壊す奴。同じようなもんだよ、人生と。出来上がりがたいてい想像していた物と違う所も同じだしさ」
「人生とパズルは違う」 俺はまた首を振った。 「人生は人生、パズルはパズルだ。別物だろ。すり替えるな。人生は人生でしかない」
「カッコいいな」 ミツルは悪戯っぽく言った。
 俺は黙って横を向く。少し恥ずかしい。なんて会話だろうか。
「これから個人練習?」
「ああ」
「頑張れよ」 ヨウイチはゆっくり腰を上げた。 「大会、期待してるからよ」
「努力はする」
「結果も出せるさ。今までもそうだったし」 彼は笑った。
 もう立ち去るべきだと思ったが、不思議と俺は歩き始める気になれなかった。その説明不能な執着が、あるいは友情という代物かもしれない。
 コンビニの屋根の日蔭の下、黙り合ったまま、二人で立ち尽くした。蝉の音が始まっていた。もう七月だ。
「ミツルはさ、なんで水泳続けてんの?」
 唐突にヨウイチが訊ねた。目は白い陽射しの降るアスファルト道路へ向いていた。
「お前はどうだったんだ?」 質問で返す。
「残酷な質問するね」 ヨウイチは目を細めた。
「お前が言い出した質問だ」
「俺は」 ヨウイチは笑みを浮かべたまま、言葉を切った。逡巡するように唾を飲む。 「俺は、他に人並み以上にできるものがなかったからさ。これなら負けないっていうのが水泳ぐらいしかなかった。別にいじめられてたとかそういうわけじゃないけど、何となく周囲を見返してやりたいと思った。特別になりたかった。だから、続けた。練習して、タイム縮めて、必死こいて一位目指してた」
「そうか」 予想していた通りだったので、溜息一つで受け流せる。
「ミツルは?」 ヨウイチがこちらを見る。
「俺は、楽しいから続けている。競泳が、というより、プールに入っているのが楽しいだけだ。水の中にいると何でも思い通りになってくる気がする。自分が別の生物にも思える。自由を感じる。それが楽しいからガキの頃に水泳スクールに入って、部に入って、言われるままに練習して、大会に出ていただけだ。本当は、プールで泳げれば何でもいいんだ」
 言葉にしてみると、なんて単純な奴なのだろうかと思う。
 くつくつとヨウイチが笑った。噛み締めるような笑いだった。
「参った、さすがだ」
「何が?」
「格が違う。動機から桁外れ」 ヨウイチは下を向く。 「前世、魚だったんじゃないの?」
「自分でも時々そう思う」 俺は答える。 「でも、海が嫌いだから、たぶん淡水魚だ」
 堪え切れなかったようにヨウイチが大笑いした。仰け反って笑う様を見ると、俺も少し気分が良くなった。もちろん、狙ったジョークだった。
「面白いよな、ミツルって」
「よく言われる」
「この間、宮野さんとショッピングした時も、ずっとお前の話ばっかりだった」
「そうか」 俺は無難な返事に留めた。
 ヨウイチはぎこちなく顔を向け、再び俯く。
「宮野さんと、付き合うことになったよ。こっちから告ろうと思ったら、昨日突然告られた」
「そうか」 俺は頷いた。それも予想の範疇だった。
 妙な沈黙が下りた。遠くで車のクラクションが鳴る。
「そうかって」 彼は唖然とした顔で振り向く。 「そんだけ?」
「何が?」
「いや……」 彼は困ったように微笑んだ。 「お前、あの子と幼馴染だし、なんか俺、罪悪感みたいなのあったんだけど」
「考えすぎの上に、勘違いしている。俺とスズハは近所同士というだけで、そういう関係じゃない」 俺は少々うんざりした。その説明をこれまで幾度繰り返したことだろう。
「宮野さんのこと、どうも思っていないってこと?」
「ああ」 俺は頷いた。
 彼は淋しく微笑んだ。どうしてヨウイチがそんな顔をするのか、不思議でしょうがない。諸手を挙げて喜ぶべきではないのだろうか。
「やっぱり、敵わない」
「は?」
「超越しすぎだよ、お前」 彼は俺の肩に手を置く。固い感触だった。
「意味がわからん」
「欠点を上げるとすれば」 手を離し、ヨウイチはズボンのポケットに手を突っ込んで歩き出した。 「他人の気持ちに鈍感、無関心ってことかな」
「スズハのことか?」 俺は反射的に口にしていた。その発言に自分で驚く。
「それもあるけど」 彼は振り向いて首を振った。 「魚になれなかった奴のことも、少しは考えてくれよ」
 白い陽射しの中へ、ヨウイチは歩いて行く。俺は日陰に佇みながら少し丸まった背中を見送った。
 甘えている、となぜか思った。ヨウイチに対してなのか、スズハに対してなのかわからない。もしかしたら、自分に向けての言葉かもしれない。
 俺だって、魚にはなれない。
 そう言うべきか迷っていたが、いつの間にかヨウイチの姿は見えなくなっていた。

 ◇

 数日後、自宅前でスズハの母親と出くわした。玄関に入ろうとしたところで「あら」と声を掛けられたのだ。夕暮れ時で、これから町内の集まりに出かけるらしい。俺の母親も同じように顔を出すと朝方言っていた。
「ミツルくん、また背伸びた?」 おばさんはにこにこして言った。
「さぁ」 俺は肩を竦めた。
「伸びたわよ、絶対。すっかりのっぽさんじゃない。やっぱり、毎日運動している子って違うのよね」
 もちろん、おばさんとは子供の頃から面識がある。よく昼食や夕食をご馳走になったし、逆に娘のスズハが我が家の食卓に着くこともあった。気の良い中年女性で、スズハと同じくかつてはバレエをやっていたらしい。その為なのか、歳の割にスタイルが良かった。
「どう? 水泳は」
「まぁ……」 適当に濁す。
「県で一位だったんでしょう? 凄いわよねぇ。昔から泳ぐの好きだったものねぇ。将来の夢はオリンピックとか?」
「まさか」 思わず苦笑した。そこまで先のことは考えてもいない。普通は意識するのだろうか。
「あら、ミツルくんなら目指せるわよ。メダル獲ったらお父さんもお母さんも喜ぶわよ。あたしなんて皆に自慢しちゃうんだから」
「まずは大学があるので……、勉強もしないと」
「スポーツ推薦で行けるでしょう?」 言ってから、おばさんは思案気に首を傾げた。 「スズハもねぇ、やっと勉強始めたけど、どうにも心配で。あの子、要領悪いし、ちょっと前までバレエで食べていくんだって絵空事ばっかり言っていたし。やっと勉強始めたのに、来月のコンクールには絶対出るんだって聞かなくて」
「はぁ」と俺は曖昧に頷く。あまり聞きたくなかった。
「早く現実を見て欲しいわよね。もう十八なんだから。ミツルくんと違って、いつまでも子供だから頭痛いわ」
「いや……」 俺は首を振った。
 突然、目の前の女をぶん殴りたい衝動に駆られた。そんな自分にとても驚いた。固く拳を握る自分に戸惑い、気付かれないよう力を抜く。幸い、おばさんは俺の不穏な気配に気づいていないようだった。
「今度の大会、頑張ってね。おばさんも応援しているから」
 じゃあ、と言っておばさんは行ってしまった。俺は会釈だけ返し、無言でその姿を見送った。
 何故、こんなに苛立っているのだろう。
 扉を開け、靴を脱ぎ、自室へ通ずる階段を昇りながら、自問する。
 たぶん、これは、同情に過ぎないのだと思った。
 スズハに対する憐憫でしかない。
 あるいは、理不尽に対する怒りかもしれなかった。
 子供より偉いと信じ込んでいる大人。
 剥奪できる権利があると思い込んでいる。
 なんて、おめでたい……。
 何が応援だ。
 俺は毒づく。
 他人の子供を応援できて、自分の娘は応援できないというのはどういうつもりなのだろう。
 一段ずつ昇っていく自分の脚を眺めながら、スズハの母親の過去を想像した。白い衣装を身に纏い、音楽に合わせてシューズを履いた脚をぴんと上げる女の姿。
彼女も同じだったのだろうか。自由を感じていたのだろうか。誰かにそれを剥奪されたのだろうか。何かを諦めて結婚し、スズハを産んだのだろうか。もしかしてそれは、なんでもない、ありふれたことなのだろうか。
 スズハはまだ帰ってきていないようだった。ヨウイチと一緒にいるのだろうか。
 家の隙間から射し込む沈みかけた夕陽を浴びていると、何故だか、自分独りだけが取り残されている気がした。なぜそんな気がしたのかはわからない。初めて抱いた感情だった。
 泳ぎたい、と思う。
 それは、喉が渇いている時に水を飲みたくなるような、どこまでも自然な欲求だった。

 ◇

 スズハはレッスンスタジオに行っていたらしい。彼女の帰宅に気付いたのは十時前だった。閉められたカーテンの向こうから明かりが漏れていた。
 躊躇ったが、俺は窓をノックした。応答はない。寝ているのだろうか。もう一度試したが反応がなかったので、窓を引く。鍵は掛かっていなくてすんなり開いた。不用心な奴だ。
 スズハはこちらに背を向ける形で床に座り、柔軟体操のような動きをしていた。ヘッドフォンを耳に当てて、何かぼそぼそ呟いている。今日のレッスンの復習でもしているらしい。
 消しゴムを投げつけるとぎょっと振り返った。
「ちょっと!」 ヘッドフォンを外し、目を吊り上げる。 「なに勝手に開けてんの! ノックしろ!」
「した。開けといてなんだが、鍵ぐらい掛けとけよ」
「変なことしてたらどうするつもりだったのよ!」
「元から変だから何していようが驚かない」
「変態! 阿呆! 馬鹿! 死ね!」
 スズハが罵詈雑言を吐きまくる。俺は少し反省した。
「すまん」
「なに、何の用?」 ひとしきり罵倒を終えると、刺々しく彼女は訊ねた。
「コンクールの日程を教えてくれ」
 ぽかんと彼女は俺を見返した。
「なにそれ?」
「何日だ?」
「二十日だけど……」 彼女はおずおずと答えた。
 県大会の三日後だ。ベスト入りすれば練習スケジュールも過密化するだろうが、一日くらいなら都合つけて休めるだろう。
「観に行くから、チケットをくれ」
「へ?」 彼女は目を瞬く。 「だって、そっちも練習とか」
「一日くらい休める。これで当分、見納めなんだろ。なら、観に行ってやる」 俺はスズハの戸惑った顔を見据えた。 「駄目か?」
「駄目じゃないけど」 スズハは頬を掻いて少し笑う。 「どうしたの、急に。なんか変」
「スズハ」 俺は言った。 「練習しろ」
 彼女の表情が困惑を深める。 「練習って……」
「コンクールに向けて」
「言われなくてもやってる」 彼女は口を尖らせる。
「もっと、だ」 俺は制した。 「バレエの良し悪しはよくわからないが、今まで以上に良いダンスをしろ。全力でやれ。観に行って本当に良かった、と思えるようなバレエをしてくれ」
「ミツル?」 彼女は呼びかける。
「最後なんだろ」
 スズハは不思議そうに見返していたが、やがて俺の視線に宿る意思に気付いたように、深く頷いた。
「わかった。頑張る」
「期待してる」
 俺も頷き返し、窓を閉めかけた。
「あ、待って」
 俺は無言で手を止める。
「あのね、わたし、ミツルに言わなくちゃいけないことが……」
「ヨウイチのことか?」
 え、と彼女の顔に朱が差した。
「知ってたの?」
「この前、聞いた」
「そう……」 スズハは目を伏せた。 「なんだ……、知ってたのか」
「あいつは良い奴だ。恋人として申し分ない」
 俺の言葉に、彼女は弾かれたように顔を上げる。強い目つきで睨んできた。
「あんたのそういうとこ、本当に……」 唇がわなわな震えている。
 俺は微笑む。
「お前にはもったいないくらい良い奴だ」
「ふざけんな!」 彼女がヘッドフォンを振りかぶる。
「悪かったな」
 スズハの目から鋭さが消えた。投げかけたヘッドフォンが所在無げに彼女の膝へ落ちた。
「何が?」
「他人の気持ちとかに鈍感だったよ、俺は。興味も持たなかった」 俺は肩を竦める。 「今もよくわからない。水泳のことしか、自由に泳ぐことしか考えられない。だから、謝っとく。この先も俺はたぶん、誰の期待にも応えられない」
 彼女は動揺しているようだった。笑えばいいのか怒ればいいのか迷っているようだった。優しい奴だと思う。
「ただ」 俺は目を逸らした。 「気持ちは、嬉しい。それだけ言っておく」
「ミツル?」
「急に、悪かった。もう閉める」
 窓を閉めようとしたら、スズハが素早く立ち上がって俺の手を掴んだ。びっくりしてしまって、体のバランスを崩しかけた。。
「な、なんだよ、危ないな」
「ミツル」 彼女は俺の目をまっすぐに見る。 「わたし、頑張るから」
「ああ」
「ミツルも、大会頑張ってね」
「ああ」
「わたしも頑張るから」
「わかったよ」
「今までで最高の出来にするから」 スズハの目に熱がこもった。子供の時から変わらない瞳だ。 「燃え尽きるくらい最高のバレエするから。頑張るから」
「わかったって」
「絶対、観に来て」
「行くって言ったろ」
「頑張るから」
「しつこい」 俺は噴き出してしまった。 「頑張れよ」
「うん」 彼女は紅潮した頬を上げて笑った。 「おやすみ」
「おやすみ」
 窓を閉め、カーテンも閉めた。そこに佇んだまま、深呼吸をする。
 これで良かったのだろうか。
最善は尽くしたつもりだが確証はないし、実感もない。自分が何をしたかったのか、何を言いたかったのかもいまいち判然としなかった。ただ衝動に身を任せたまでだ。
 しかし、またずいぶん慣れないことをしてしまった。
 思い出すと顔から火が出そうだったが、幸いにも後悔は起こらなかった。たぶん、知らぬ顔をして過ごしていたほうが悔いる結果になっていたと思う。その予感だけはまざまざとあった。得体の知れない安堵を感じる。
 目を閉じると、四方が澄んだ水底の景色に塗り替えられていく。
 ここで生きていけたらどれだけ良かったか。
 あるいは、この中で死ねたら。
 自由に満ちた箱庭の中で。
 でも、魚になれなかった我々は結局、酸素を吸って歩くしかないのだ。
「甘えてる」 独り言が漏れた。舌打ちする。 「ちょっとはあいつら見習え」
 口にしてみるとなんだか可笑しくて、口端を上げる自分が少し不気味だった。

 ◇

 クイックターン。
 壁を蹴る。
 射出されたロケットのように加速。
 さらに速く。
 肉体を忘れ、波か水流の一部であるかのように進む。
 空気。
 水。
 飛沫。
 気泡。
 筋肉が収縮を繰り返し、肺が独立した生命になる。
 ゴーグル越しには何も映らない。
 景色を忘れる。
 ここが地球であることすら忘れる。
 世界にはたった一人。
 俺だけだ。
 誰のことも見なくていい。
 この青く透明な世界には、俺だけ。
 なんて素晴らしい。
 なんて自由。
 なんて楽しさ。
 唯一の不満は、ここには壁があるということ。
 底があるということ。
 重力すらここでは感じないのに。
 限界が確かに存在する。
 終わりが確かに存在する。
 でも。
 だからこそ、価値があるのだ。
 命と同じで。
 死があるからこそ生が光を放つ。
 自由だって?
 本当は、そんなもの、どこにもないのだろう。
 人間である限り。
 でも、人間だからこそ、幻想を見ることができる。
 そう、これは、最も崇高な幻想なのだ。
 壁が近い。
 わかる。
 肉体は現実を手放さない。
 手を伸ばし、固い壁に触れた。
「いいぞ」 頭上からしわがれたコーチの声。 「スランプは脱したな」
 思わず笑った。スランプだったのか、と遅れて自覚したからだ。そこまでタイムに執着した覚えは無かったのに、妙な話だ。
 水から体を引き上げて、コーチに手伝われながらストレッチをした。大会の三日前で、これが最後のタイムアタックだった。
「明日と明後日は調整だけに留めておけよ。筋肉の疲労を取れ」
「はい」
「プレッシャーはあるか?」
「いいえ」 素直に首を振る。
「その調子だ」 コーチは仏頂面で頷いた。こんな時くらい笑えばいいのではないか。
 他の部員達はもう引き上げていた。時計を見ると七時に差し掛かっていたが、窓はまだ仄かに明るい。すっかり陽が長くなっていた。
「もう上がれ」
「いえ」 俺は首を振る。 「少し休憩してから、また入ります」
「俺の話、聞いていたか?」 コーチが固い声で返す。
「泳ぎません。気晴らしです」
 コーチはただでさえ不服そうな顔をさらに不満げに歪めたが、「鍵かけとけよ」とだけ言い残して出て行った。なんだかんだで無茶はしない奴だと信頼されているのだろう。ありがたい話だ。皮肉ではない。
俺は照明を幾つか消して、また水に足を浸けた。

 ◇

 十分ほど待っていると、やはりヨウイチが現れた。俺はプールの中央から手を挙げる。彼は驚いたようだった。
「お前、まだやってんのか」
「浮いているだけだ」
「クラゲかよ」 ヨウイチはニヤリとする。 「他の連中は?」
「皆、上がった」
「そうか」
 沈黙が下りた。水面の小さな波がぶつかり合う音しか聞こえない。一つだけ点っている照明を反射して、水の波紋が薄暗い壁にたゆたっていた。
「泳がないのか?」 俺は訊いた。
 ぎくり、とヨウイチが身じろぎする。訝しむようにこちらを見た。
「いつも最後まで残って、独りで泳いでいただろう」
「知ってたのか?」
「お前が泳いでいる時は俺も早めに上がった。他の連中も知っている。部を辞めずにマネージャーになったのも、その為だろう?」
「カッコ悪ぃだろ」 ヨウイチは自嘲の笑みを零した。 「未練たらたらでさ」
「カッコ悪いかどうかは知らん。未練がましいとも俺は思わない」
 ヨウイチは溜息と一緒に肩を竦める。
「どうした?」 俺は訊ねる。
「いや、なんでも」
「スズハと何かあったのか?」
「エスパーかよ、お前」 ヨウイチは驚いたように言う。 「あ、それとも、何かあの子に相談されたとか」
「いや」 迷ったが、俺は首を振った。嘘ではないと思う。
「たいしたことじゃないよ。デートの予定が中止になっただけ。結構凹んでいるけど、たいしたことではない」
「そうか」
「バレエの練習だってさ。本格的なお付き合いはその後にお願いします、だとよ」 ヨウイチは笑う。 「だから、気分転換に二週間ぶりに泳ごうと思ったわけだけど」
「泳げばいい」 俺は言ってやった。彼がいるのは、まだ地上だったからだ。
 ヨウイチはゆっくり頷き、ワイシャツのボタンを外していった。ベルトを緩めて黒ズボンも脱ぐ。下に水着を履いていた。
「いつもその恰好なのか」
「ああ、独りで泳げるチャンスを逃さない為にな」
「気の小さい奴だな」
「うっせぇ」
 プールサイドで屈伸運動をしてから、彼は水泳帽もゴーグルも無しに、スタート台から綺麗なフォームで飛び込んだ。静かな水面に激しい水柱が立つ。道具も不十分で入ったと顧問に知れたら怒鳴られるだろう。
 ヨウイチはクロールで俺の傍までやってくる。濡れた髪をかき上げ、水滴を垂らしながら笑った。
「皮肉だ」 彼は言った。
「何が」
「現役だった頃はあんなにきつくて辛かったのにさ」 今度は背泳ぎの姿勢でゆっくり漂う。 「今はさ、こうやってるだけでめちゃくちゃ楽しい」
「わかるよ」 俺は心の底から共感して頷いた。
「ガキの頃、始めたての頃もこんな感じだったんだろうなってさ」
 俺はしばらくの間、泳ぐヨウイチを眺め続けた。彼は瞑目し、緩い微笑を浮かべながら水を掻いている。
「ヨウイチ」
「なに?」 彼はこちらに顔を向ける。
「お前、水泳、続けろ」
 彼は泳ぐのを辞めてこちらを見る。睨むような目つきになったが、すぐに微笑した。
「とことん、他人の気持ちがわからない奴だな」
「わかるさ」 俺は間髪入れずに答える。 「わかった上で、言っている」
 ヨウイチは吐き出しかけた言葉を呑んで目を逸らした。動揺しているのが手に取るようにわかった。
「競泳はもう無理だよ」 彼は腰を落とし、水面から細い脚を突き上げた。声が震えている。 「シンクロでもしろってか?」
「何でもいい」 俺は言った。 「大学入ってからも水泳をやれ。水から離れるな。干からびるぞ」
「俺は両生類かよ」 彼は噴き出す。
「似たようなもんだろう」
「うっせぇ、淡水魚野郎」
 ヨウイチはゴール際まで背泳ぎで向かって行き、ターンを決めてからまたクロールでこちらへやってきた。目に掛かる髪が鬱陶しそうだ。水泳帽を貸してやろうかと思ったが、やめておいた。
「考えとくよ」
 スタート台まで泳ぐと、こちらに背を向けたまま叫んだ。静寂の空間に声が反響した。
「大会、頑張れよな」 彼は振り返って微笑んだ。 「マジで応援するからさ」
「頑張る」 俺も笑みを浮かべて頷いた。
 ヨウイチは再び壁を蹴ると、今度は勢いを乗せたままに潜水した。体を真っ直ぐに伸ばし、まるでスーパーマンのような姿勢だった。
 俺もゴーグルを掛けて同じように潜った。
 静寂に包まれた青く透明な世界に、ヨウイチの細い体が見える。綺麗だと思った。自由だとも感じた。ジュゴンを人魚に見間違えた遠い時代の船乗りの気持ちがなんとなくわかる。これをいったら、ヨウイチは怒るだろうか。
 ゴーグルを掛けていないので、彼の視界からはこちらをおぼろげにしか判別できないだろう。俺はわずかにたゆたう水流に身を漂わせながら、こちらに向いた彼の顔をぼんやり眺めた。蹴ってやったら追いかけてくるだろうか。足を掬い取ったら本気で怒るだろうか、と考える。
 そういえば、ここで他人を意識したのは初めてだな。
 親友の微笑を見ているうちに、俺は気がついて、ふっと泡を吐いた。

後書き

未設定


作者 まっしぶ
投稿日:2016/02/05 14:34:34
更新日:2016/02/05 14:34:34
『モーメント』の著作権は、すべて作者 まっしぶ様に属します。
HP『カクヨム

読了ボタン

button design:白銀さん Thanks!

読了:小説を読み終えた場合クリックしてください。
読中:小説を読んでいる途中の状態です。小説を開いた場合自動で設定されるため、誤って「読了」「読止」押してしまい、戻したい場合クリックしてください。
読止:小説を最後まで読むのを諦めた場合クリックしてください。
※β版(試用版)の機能のため、表示や動作が変更になる場合があります。

自己評価


感想&批評

作品ID:569

小説の冒頭へ
作品紹介へ
感想&批評へ
作者の住民票へ

ADMIN
MENU
ホームへ
公国案内
掲示板へ
リンクへ

【小説関連メニュー】
小説講座
小説コラム
小説鍛錬室
小説投稿室
(連載可)
住民票一覧

【その他メニュー】
運営方針・規約等
旅立ちの間
お問い合わせ
(※上の掲示板にてご連絡願います。)

管理人ブログ
(※注意:当サイトと関係ない記事も多くあります)

リンク共有お願いします!

かんたん相互リンク
ID
PASS
新規登録


IE7.0 firefox3.5 safari4.0 google chorme3.0 上記ブラウザで動作確認済み