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作品ID:577

こちらの作品は、「感想希望」で、ジャンルは「ライトノベル」です。

文字数約15947文字 読了時間約8分 原稿用紙約20枚


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夏を待っている

作品紹介

彼女は、夏を待っていた。

夏。
僕も、待ち望んでいるのだろうか。



 彼女は、夏を待っていた。
 それは、よく晴れた暑い六月のことだった。彼女は鼻歌交じりで、両腕をブンブン振って歩いていた。小さな背中には、弁当箱らしきでっぱりが目立つリュックサックを背負い、汗ばんだ細い肩には塗装の禿げた水筒をぶら下げている。
 山を登るわけでも、川を渡るわけでもない。ほんの少し特別なだけの僕との外出に、彼女はいつものめかし込んだ服装を取りやめて汗を吸うような生地を朗らかに纏っていた。
「よ」
 彼女は、僕を見つけると少し離れた位置で小さく片手を掲げた。少しばかり赤らんだ頬は、ここへ来る道中、彼女が僕のために急いできたことを知らせてくれる。
 きっと彼女は昨晩、遠足前の小学生になっていたに違いない。
「お」
 ずっと眺めていたけれど、今しがたその存在に気づいたよう装って、僕は彼女と同じように右手を掲げた。
「ミユキ、おはよう」
 時刻は九時半と五分を少し過ぎ、待ち合わせの時間を若干遅れていた。無断遅刻は彼女の専売特許だ。それをいつも苦笑いで出迎えてやるのが、僕に任せられた役目だった。
「じゃあ、行こうか?」
 と僕は彼女を誘った。
「うん!」
 六月にも関わらず燦々と晴れた空が、妙に馴れ馴れしく肌を寄せてくる。
これから彼女と一緒に妙な探しものに出かけるには、絶好の日和だった。


***


 彼女は、空席の目立つ電車に飛び込むと、日当りのいい二人分の空席を目ざとく見つけ、小走りで駆け寄って行儀よく座り込んだ。
 休日でも、電車を利用する人がこれほど少ないのは珍しい。せっかくの晴天なのだから、少しの蒸し暑さなどを忘れて外出すればいいのに。
 僕を捨て置いて先に席を取っていた彼女は、小柄な体に不釣り合いなリュックサックの口を、非力な細腕で強引に開こうとしていた。
「いくらなんでも、お昼にするのはさすがに早いんじゃない?」
 僕は彼女の隣に腰かけると、鞄を外して太ももの上に乗せる。
「そんなことない。これは、あたしの朝ごはん用」
 そう言って、リュックから角張ったタッパーを引っ張り出した。楽しそうに、笑みさえ漏らしながら彼女は、容器の蓋を剥がしはじめる。
「ふーん。なあ、ミユキ。実は、今日寝坊したでしょ」
「してないよ」
 しれっと答えた彼女は、遅刻の追及なんかよりも目の前に鎮座する手製の朝餉の方がよっぽど重要のようだ。
「そっか。ま、電車には普通に間に合ったし、僕も支度に時間くったしね」
 掴んだいびつな米の塊にかぶりつく彼女の、ぷっくりと膨れ上がる両頬を乗せた横顔を盗み見る。食べ物を頬に溜め込みながら食べるというその癖は、あるべき位置にあるべきものが収められた、と僕が思う彼女の端正な容姿をより一層幼くさせた。
 具は案の定、肉味噌のようだった。朝ご飯は食べてきたけれど、すぐそばから漂う味噌の香りに、意図せず純日本製の脳が胃袋に不用意な信号を送ってしまう。味噌か。味噌はいい。日本人にしかその美味さは分かるまい。僕も、一つねだろうかな。
「ミユキ」
「ん?」
 振り向いた彼女の、口元に着いた米粒を引っぺがしながら、僕は一つ提案を持ちかけた。
「その肉味噌お握り、僕のやつと一個交換しよう」
「あたしに取引を持ち掛けるとは……なかなかやるね」
 彼女に好敵手と認められた。僕は鞄の中から、弁当袋に使っている巾着を取り出し、袋の中に手を突っ込んだ。顔を出したのは今日の食後にでも食べる予定だった、カップのこんにゃくゼリーたち。彼女の好物でもあるそれらを対価にして、いくつか献上する。
「ん。契約成立ね」
 つやつやした手のひらが差し出された。
 僕は、笑顔でその手をとる。彼女の手はしっとりとしていた。握手は、僕ら二人の中でだけ存在する特別な意味合いを持っていた。
 肉味噌のお握りを受け取り、僕は彼女に向かってきちんといただきますと伝えてから口一杯に頬張る。
「……あたし、その顔好きだよ。ご飯食べてる時の顔」
 少し迷って、僕もご飯を飲み込んでから言ってあげた。
「僕をそうさせたのは、君とこの肉味噌のお握りだよ。今回もさすがの腕だね」
「当然!」
 彼女の肉味噌は秀逸だった。
挽肉に味噌がよく絡んでおり、時折舌をほどよく刺激する特有のしょっぱさが、また米を欲しがらせる。彼女が、いつの日か得意料理は肉味噌だと豪語していたことを咀嚼しながらぼんやりと思い出した。それがお握りの具のことだと気づいたとき、胸を張って自慢する彼女を見て、思わず噴き出してしまったことも芋づる式に蘇る。彼女が得意げに自慢するその技能を、僕だけが独り占めしていたいという強い欲求に駆られるようになるのは、時間の問題だった。
 揺れる車窓は、すでにあまり見慣れない景色を映しだしていた。
 目的の駅なんてない。彼女は、きっと降車の予定など全く考えていないだろう。この旅は、僕らが気ままなほど有意義で、適当に道を決めた数だけ価値がある。
 彼女が待ち合わせに遅れた云々は、正直どうだってよかった。
 なにせこの小旅行は、彼女がやろうと言い出したことであり、僕はその付き添いだった。彼女の突拍子もない奇妙な思いつきは、今に始まったことじゃない。
 僕はこの出来事をデートなのだと思いたいのだけど、彼女はきっと認めてくれないだろう。
 だってこれは、彼女曰く「迫る、夏の面影を探す旅」、なのだから。


***


 彼女は、僕のあげたこんにゃくゼリーを平らげると、手首に巻かれた普段使っているものよりも数段愛らしい腕時計に目をやる。路線図に見向きもしないで、彼女は僕に言った。
「次の駅で降りよ」
「了解。次、つぎは、へえ……結構遠くまで来たみたいだ。全然聞きなれない駅名なんだけど」
「それはいいね。夏は気ままなんだよ」
 気ままな夏を追うには、気ままに旅するのが一番だと、何の根拠もなしに彼女は僕に言い放った。
 乗る電車は彼女の気分に任せ、待ち合わせの時刻と持ち物の分担を僕が決めた。当日、お昼ご飯を用意するのは、僕の役回りになっていた。
 五月の連休中に、二人してロクな遊びをしなかったことを彼女は後悔していたのかもしれない。中途半端に平日の中央でさまよう三連休の間、横暴な彼女に自宅まで呼びつけられた僕は、ひたすら彼女とテレビゲームに興じていた。
 授業が始まる前の長期休暇に僕が買って、その翌々日には彼女が略奪していった古いゲーム機の本体は、今や彼女の部屋のテレビにくっついて私物化されていた。
 哀れだ。灰がかった白い体には、彼女の手によって早々と醤油かソースの飛び散った染みでまだら模様にされている。まるで平べったく伸びた三毛猫だ。よく水分を受けても無事だったと思う。そしてそれを拭わないまま自然乾燥に任せて放置した彼女は、きっと破壊者の血を引いているに違いない。
 これでやるゲームは、同じゲームでも携帯ゲーム機のものとは別格に面白いらしい。僕はこれでDVDが見られると聞いてわざわざ買ってきたのだけど、もはや完全に彼女の所有物だった。
 連休中に彼女と僕は、物語のヒロインを名乗る美女を自らの手にかけ、黒幕を名乗る実の兄を永遠に続く谷底へ突き落した。ヒロインは、黒幕の手先だった。
 僕は早期にヒロインと幹部の一人とを同一人物であると看破していたのだが、彼女は最後まで気づかなかったようだった。何度となく自分を見逃してくれた女幹部に、彼女が邪悪な笑みと共にとどめを刺した時、血に濡れた体で主人公を抱きしめ幹部は彼に愛を伝えた。ヒロインの口癖を交えて。
 彼女はヒロインをいたく気にいっていた。豪儀だけど、常識に欠ける主人公を支える突っ込み役のようなキャラクターに、なぜか自分を重ねていたのだという。
 彼女は泣いた。ヒロインの避けられない死と、実兄との無慈悲な戦闘。そして、そんなことに貴重な連休を消費してしまった自身を。
 そんなどうしようもないことがあったから、彼女は祝日のない僕の嫌いな六月に、こんな突拍子もないことを言ったのだと思う。
「ミユキ、着いたら真っ先になにしよう」
 水筒の麦茶を、喉越しよく飲んでいた彼女に聞く。
 ぷはぁと口から水筒を離すと、飲んだくれのように唇を手の甲で口の端を拭った。
 楽しい事しか映していないようなその瞳が、一心に僕を捉える。僕だけを見つめる。
「知らない町なら、きっと夏が見つかるよ。一緒に気ままに歩こ」
 彼女は、ヒマワリと同じ光を持つ、快活な笑みで答えた。


***


 僕らがたどり着いた町は、見たこともない字面だった。駅員さんになにが有名なのか尋ねると、駅員は苦笑交じりで答えた。どうやら初春頃はここ特有の品種の、桜の名所らしい。桜などとっくに散ってしまっていて、もう葉桜に成長しているのは自明だった。
 今日は梅雨の時期にもかかわらず良く晴れている。張りついた雲が、スプレー缶の吹き付けた白いラッカーみたいで青空のキャンパスに鮮やかに映えていた。
「ふっ、んー!」
 彼女は背を大きく反らし、ずっと座席に座っていたことで凝り固まった筋肉をほぐす。平坦な道路はそれなりに車両が走っていて、通りを挟んだ向こうにはコンビニが建っていた。
「ふぅ。……いい天気だと、眠たくなるね」
 伸びが終わって、開口一番に言うセリフがそれとは恐れ入る。
「さっきご飯食べたばかりだからでしょ……」
「そうかー。だからかー」
 改札を出た後、僕は改めて今回の唯一といってもよい目的の確認をする。つまり、今日探し求める存在、「夏」のことだ。
「夏って、どこにいるんだろうね。尻尾くらい見せてくれてもいいのに」
「夏は、もっと凶暴だよ。猫みたいな感じじゃないよ」
 猫? 夏の獣という言葉があるけれど、猫は単に愛らしい生きたたわしか何かだろう。あんなに可愛いもの、無害に決まっている。断じて獣と一言で言いくるめられるわけにはいかない。
 そういう彼女は、外見こそ本当に愛らしい少女だけど、中身は少女の皮を被ったハムスター怪獣だった。ぷにょぷにょとよく伸縮するその両頬には、常人にはとても食べきれない量の食べ物が溜め込まれては消えていくのを僕は見てきた。
 彼女と過ごす、僕が抱える食糧問題。それは、何度も僕に親からの仕送りの掘削を強いる深刻な問題だった。日に日に痩せ衰えていく僕を見かねた彼女は、これからは割り勘にするという取り決めを一方的にした。僕らが互いに契約成立時に交わす握手も、僕が意地を張って差し出さないままだったのを、いつの間にか彼女は自然に手をとっていた。
「どっちかって言うと、葉っぱの裏でうねうねしてるカタツムリ的な感じだよ」
 彼女の表現は、ときたま僕でも全く共感できないときがある。なぜ、夏なのにカタツムリになるんだろう。ああ、そういえば今はまだ梅雨時だった。
「なんで、夏なのにカタツムリが出てくるの?」
「ほら、探して葉っぱを引っくり返さないと見つからないのと一緒で、夏もたぶんそういう感じかなって」
 なるほど。いくらか的を得ているのかもしれない。夏は、あくまで季節という現象としてここまで迫ってきているのだから、きっとその痕跡を探すということだろう。
「じゃあ、海に向かって歩いてみる? ここから、割と近いみたいだよ?」
「あたしサンダル忘れた」
「うーん。……じゃあ、この辺りを適当に散策して、夏の痕跡を探すのは?」
「うん。そうしよ」
 駅前のロータリーは解散としていた。むしろ中途半端に無人駅じゃなかったせいか、逆に田舎独特の空気がにじみ出ていた。人工の濁った池で微睡む、鯉の気だるげな魚眼が哀愁をそそる。
 夏。僕らの探す夏とやらは、漫然と風景を眺めるだけでは尻尾すら掴ませてくれないらしい。呼吸をすると、鼻孔に忍び込んだ空気が、熱せられたアスファルトの匂いを帯びていた。
 ちらりと、土手の存在を示す看板を見かける。矢印はここからそのまま真っ直ぐに進んだ先を指していた。
「あ。あっち、川沿いに土手があるって」
「川があるの?」
「そりゃ、土手があるんならね」
「行こ!」
「わっ」
 僕の指さした方に向かって、彼女は僕の手を引っ張っていく。しっかりと手を繋がないと、彼女は気になるものを点と点でつなげながら、勝手にどこまでも行ってしまうような気がする。冗談で一度、ミユキがどこかに行かないよう首輪でもつけようかと聞いたことがあったけど、その時はさすがの彼女にもドン引きされた。拘束や束縛といった単語ほど、彼女に似合わない言葉はない。
 彼女は、興味の引かれる物を見つけると果てまで追いかけなければ気の済まない、好奇心に手足が生えて生まれた人だった。綺麗なもの、小さなもの、愛らしいものや、今まで見たことのないもの。
 彼女は、そんなこの世界にある埋もれた小さくて、それでも確かに輝くものたちを誰よりも探し出すのが得意だった。


***


「ここ、桜の名所だったんだって」
 駅員から仕入れた知識を早速ひけらかす。
「そーなの? もしかして、この木って桜?」
 すると彼女は、真隣に根を張ったいかにも樹木らしい質感の幹をぺたぺたと触りはじめた。
 僕は、昔酷い目に遭った教訓を生かして彼女に忠告してやった。
「あー、桜の木には毛虫が多いから止めときな」
「けむしっ?」
 見るからに子供っぽくてその実、背だって低い彼女はゴキブリと蚊を除く、その他の虫が嫌いだ。彼女の平気なその両者が、もし誤って彼女の前に不用意に現れたのなら、僕は彼らに冥福を祈ることしかできない。
 彼女は、毒ガスと近代兵器を併用して必ず彼らを葬る。僕の部屋でゴキブリは一度も観測されたことはないけど、蚊は無理だった。部屋中の、ありとあらゆる隙間から室内へと入り込み、僕らの生き血を吸いに、あの非常に耳障りで殺意の抱かせる羽音をまき散らす。僕が今まで本気になった数少ない出来事の中に、蚊を殺すことが含まれるほど、僕は蚊という種族を憎悪している。
 僕は高みの見物で、害虫駆除に躍起になっている彼女を見物しながら、雑誌か何か本でも読んでいるのがほとんどだった。彼女に任せれば、その動物的な天性の勘で害虫共に必殺の一撃を百発百中で見舞ってくれるから安心していられる。
 桜の名所なら害虫対策くらいしっかりしているのだろうが、あの人間の抱く嫌悪の代表格のようなやつらに、彼女の滑らかな素肌が蹂躙されるのは見たくなかった。
「でも、葉桜って立派な夏の季語だよね」
「季語……! じゃあ、このけむしの木が、記念すべき最初の夏の爪痕ってことだね」
 ちゃんと桜と言って欲しい。なんだよ、毛虫の木って。
 爪痕ということは、やはり彼女の中で夏は獣の姿なのかもしれない。
「おー! 真っ赤な橋だ!」
 葉桜のアーチを二人並んで歩いていくと、開けた道の先に赤くて太い手すりのような、てっぺんが玉ねぎ状のものに覆われた柱が映り込んだ。
 案の定、それは太鼓橋の手すりだった。
太鼓橋を、鉄筋コンクリートで作ったらきっとこうなるだろう。京都で見たものよりも、この名前も知らない町に掛けられたこの橋の方がよっぽど頑強で幅広だった。
 茶色で腰まで伸びた髪先が、彼女が楽しそうに歩くたびにぴょこぴょこと弾む。跳ね上がる髪が、太陽光を透かしたその一瞬、上質な金糸に見えた。
「ミユキ、ほら。見てみなよ!」
 橋のちょうど真ん中に差し掛かった彼女に、左手に広がる世界を見てほしくて、普段よりずっと軽やかに僕は彼女の名を呼んでいた。
 僕に促されるまでもなく、柱に抱き着いた彼女は眼下に広がる光景に、元から大きな猫目を眼球が零れ落ちそうなほど見開いた。
「広いねー! 川が真ん中に通ってる!」
 真下の川は、葉桜を一列ずつシンメトリーになるよう対岸にそえた形で悠然と流れている。歩いて来た方角と反対方向の彼方には、海が見えた。
「やっぱりさ。この後、海行ってみようよ」
「だってサンダル……」
 彼女はしょんぼりと項垂れた。行きたかったんなら言ってくれればいいのに。
「サンダルなんてなくたって、きっと面白いって! ホントに欲しかったら僕が買ってあげるからさ、ね? 行こう」
 海。何て夏らしい響きだろう。
 そこになら、きっと彼女と僕が探す夏の痕跡が見つかるはずだ。
「じゃーあ、帰りになら、寄ってもいいよ」
 あくまで行きたそうにしない彼女の目線は、ずっと向こうに広がって微かに陽の光を照り返す、大海の方をしきりに気にしていた。
「やった! じゃあ、向こう側の方まで行ったら、その後海行こう」
「おー!」
 僕の心を満たす、笑顔。一緒に歩いていると、彼女は道の先々でころころと表情を変え、そして最後には絶対笑顔へと行きつくのだ。
 右手を突き出して、彼女は山がそびえる方面に向かって歩き出した。流れる川の上流に遡っていく。
 葉桜以外にも、夏の痕跡を探さなくては。そう思った矢先、
「わっ!」
「ひゃぁ!」
 ビュオッ、と僕らの間を一陣の風が過ぎ去った。
 素っ頓狂な声を上げたのは彼女の方。だけど、突然の風に驚いて目をつぶった一瞬のうちに、吹き抜けた大気が彼女の帽子をさらっていってしまう。
「あっ」

 短く声を上げるのを聞き取った時には、もう僕の足は太鼓橋の欄干にかかっていた。強く踏みしめるため、ぎゅっと力が込められる。
「よっ」

――ダンッ!

 思ったよりも大きな力で僕は跳んでいた。
 手を伸ばしながら、蒼空に飛んでこうとする帽子を追う。
このとき、もしも僕が下を見たらきっと橋から落ちていたなと、冷静に考えていた。
 指先が帽子の布地にかすり、大きく傾いたところをもう片方の手でしっかりと掴み上げる。そのまま、重力で失墜した体を、両足でしっかり橋の上で受け止めた。
「っと、」
 危なげなく何とか着地を済ませると、両手で抱いていた帽子を彼女に差し出した。
「はい、帽子」
「……っ」
 あれ?
「ミユキ? ほら、帽子飛んだよ? ちゃんと被んなきゃだめだよ」
 彼女の保護者きどりでいた僕も、いつのまにか随分と乗り気になっていたらしい。見知らぬ土地で、彼女と二人きりのこの状況は、やっぱり魅力的だ。
「……、……ありがと」
 帽子を受け取った彼女は、そっぽを向いて明後日の方へぶっきらぼうに礼を述べる。
 あんな表情の彼女を見ることが出来るなんて。
 彼女が照れているところなんて、そう何度も見られるものじゃない。大切に脳内に保存するとしよう。
「おーい! 先、行っちゃうぞー!」
 急かす彼女に連れられて、僕は彼女の方へと小走りで駆け出した。
 夏を探す、だなんて訳の分からない目標をゴールに添えた僕らは、未だ爪痕しか見せてくれない夏を追った。


***


 葉桜がまばらになってくると、彼女は生い茂る葉を眺めることに飽きたのか、熱心に葉桜を見ている僕を置き去りにして、てててーと走り始めた。小柄な彼女は歩幅が小さい。だからいくら走っても僕ならすぐに追い着いてしまう。
「あ! 階段見っけ!」
 彼女は河原に降りられる石段を見つけた。
 散歩の途中から彼女は、葉桜に包まれた景色より河原に降り立ったサギらしき鳥類を歓声と共に見てみたり、すぐ隣に立っている民家の干し柿を物憂げに眺めてみたり、とにかくあっちこっち走り回っていた。
 川べりを近くで眺めるのも悪くない選択だ。彼女もこのルートに飽きているから丁度いい。
 そう思っていたら、彼女はすでに河原に降りて僕を呼んでいた。
 念願のお昼ご飯の時間だ。太陽は真上を少し過ぎたところで昼下がりの午睡をとっている。
 彼女が九時過ぎに朝ご飯を食べるという暴挙に出たせいで、お昼がこんな時間になってしまった。その間、僕はなるたけ空腹感を顔に出さずに彼女に付き合った。腹の虫の声を押し殺した嗚咽は、聞くと悲痛になってくる寂しげな調べだった。
 地面に敷くためのシートは一応用意してきたけれど、石の転がる河原では大した意味をなさない。
「おしり硬いね……ここ」
「……あたしもそう思ってたとこ」
 僕が移動を提案すると、彼女は二つ返事で了解してくれた。空腹が末期なだけに、さっさとほどよい食事場所を探してしまいたい。そこでここへ来る最中、ベンチのある公園の前を横切ったことに思い当たった。
「ミユキ、さっき通った公園覚えてる?」
「うん、覚えてるけど……」
「そこにしようか」
 そう尋ねると、彼女は眉を落とし、
「えぇー、無駄に遠いよぅ……」
 その次には文句をたれた。
 別に河原でもいいよね、と彼女は周囲を見回す。そして、ようやくこのひたすら殺風景なだけの河原では、お弁当の広げようがないことに気が付いたらしい。彼女は河原をひと睨みして、いそいそと土手の通路へ引き上げ始めた。
「……さすが、ミユキの天敵。空腹様様だ……」
 彼女を容易く手なずける空腹に、少しだけ畏敬の念を抱いてしまう。なかなかやるじゃないか。僕にはそんなこと不可能なのに。
 土手まで上がってしまえばあとは来た道を引き返すだけだ。
 彼女は、もそもそと電車に乗っているときに食べきったはずの、僕が献上したこんにゃくゼリーの残りをリュックサックから取り出した。
「あ、それまだ食べてなかったんだ」
「緊急用に残しといたの」
 こんにゃくゼリーで何とか飢えを凌いだ彼女は、残り僅かな体力で少し前に通り過ぎた公園を目指して歩みを再開した。
「助けてミユキー。僕、お腹減ってかなりヤバいー、というかミユキが変な時に朝ご飯食べちゃったせいでー、ずっと空腹我慢してたことが祟ってー、公園に着く前に倒れちゃうかもー」
「え!」
 ただ歩くのもつまらなかったので、からかいがてら適当な演技をしてみた。すると、ミユキは急いで僕の背負っているお昼ご飯の入った肩掛けカバンを奪い取ろうとして、僕に襲い掛かって来た。
 息も絶え絶えな僕から追い剥ぎするなんて、と思ったら、
「あたしが持つ」
 彼女は、僕の空腹を気にして荷物を持ってくれた。ん? 
これじゃあむしろ、僕が情けなく見えるだけなんじゃ……。
「ミ、ミユキ。なんか、ちょっとだけ元気が出てきたかも……。荷物貸して。やっぱ僕が持つよ」
「ダメ。倒れたらお昼独り占めしちゃうぞ。一緒に食べなきゃ公園まで戻る意味ないもん」
 僕が何も言わなかったら、そのまま河原で食べる気だったのか。
 ということは、あの彼女が自分の縄張りにしようとした場所を放棄したということになる。なんて珍しい。そうまでさせてしまったのなら、僕も残る力を振り絞って何とかしてあの公園まで歩かないと。
 ……なんだか、目的がご飯になっている気がする。


***


 公園のベンチをやめ、たどり着く前に展開していた扇状の石段で妥協することにした。シートをコンクリートの上にひいて、彼女は携えていた僕のカバンと自身のリュックサックを下ろす。
「ようやくだね、ミユキ」
「うん! うんうん!」
 彼女の相槌がさっさと鞄の中身を出せ、としか僕には聞こえなかったので、僕はこれ以上何も言わずに鞄から大き目のタッパーを取り出した。
「おかずとか、食べると思って多めに作って来たからさ。好きなだけ食べていいよ」
「ホントに!? いただきます!」
「待って。はい、お手拭き」
「ありがと!」
 満面の笑み。不意に覗かせる太陽のような笑みとは違う、これは単純に目の前の食べ物が楽しみで浮かべている笑顔だった。
 もの凄く分かりやすい。彼女の笑顔を糧にする僕にとっては、見間違えることはないのだ。
「では改めて。……いただきますっ!」
「はいよ。じゃあ、僕も。……いただきます」
 彼女の神速の腕が見る間におかずを誘拐していく。人でも丸のみにしそうなハムスターとはよく言ったものだ。どうしたらその小柄な体にそんな量が入るんだ。僕よりよく食べるのに、体系も全く変わらない。どれだけ食べても背は伸びない。どれだけ平らげても大人のレディとは程遠い。
 もう十センチあればいいのにと、彼女に内緒で思っていたときもあった。けれど、最近、あの身長は彼女の美徳だと思い始めていた。
 別段、僕に幼児性愛の気はない。彼女と僕は同い年だ。
 彼女の性格は俗にいうあけっぴろげというやつで、隠し事は下手だった。僕の隠し事に全く気づかない時だってあるのに、彼女がするともう目はバタフライで泳ぎまくるし、極めつけには嘘をつくと滅茶苦茶どもる。ゴールデンウイークに二人でやったゲームの、僕の完全クリアデータを勝手に殺処分したのは彼女だった。本当に操作ミスだったらしいけど、僕に彼女の幼稚な誤魔化しは即座に見破られた。マンガを読みながら同時にプレイなんてするからだ。
 彼女のつく嘘は、そのほとんどが子供だましにすらならないようなお粗末なものばかりだった。そのせいか、互いの嘘や誤魔化しで僕らの関係がこじれたことは一度もなかった。
 物はよくなくすし、借りたものは貸す前と形が変わっているし、部屋の片付けもできない。そしてわがままでお子ちゃまだ。
 そこに僕の奥の方に眠る父性? 愛情? が目覚めてしまった。
危なっかしくて、とてもじゃないが一人にしてはおけなかった。そして、何より彼女が時折見せる年相応の大人びた表情や、食事中に浮かべる溌剌とした表情にどうしようもなく惹かれた。異性として、彼女は充分に魅力的な女性だった。
 生活費の用途に、彼女用にひと項目付け加えたほどその食べっぷりは凶悪だった。ただの旺盛な食欲に、理由の分からない危機感を覚えるくらいに。
 僕のカバンを占める荷物のほとんどがお昼ご飯だったから、彼女と僕とで消費すれば相当軽くなるはずだ。
 サンドイッチも、八枚切りの食パンをただ十字に切り分けてそのまま使う。彼女はパン耳が好きなので、僕手製のサンドイッチは好んで食べた。パン耳好きの女子って尊敬に値する。僕は切り取った耳を、サッと揚げておやつにでもする腹積もりだったけれど、貪食の彼女の前にその密かな楽しみは露と消えてしまった。
 その苦労も、まあいいか、と思えてしまう。
 そう思わせるのは、ひとえにその苦労を注ぐ相手が彼女だからだろう。
 準備してきたお弁当は、僕の分らしき残骸を申し訳程度に残すまで、ごっそりと消滅していた。彼女が通った食卓は、爆心地のクレーターのように跡形もなくなってしまう。その元凶である彼女は、膨れたお腹をさすってふにゃりと頬を緩ませていた。
「ごちそうさまー! おいしかったよ! さすが未来の主夫!」
「お粗末さま。確かに主夫コースも悪くないけど、やっぱり僕は夫婦二人で互いに支え合う未来がいいな」
 家事は好きかもしれない。彼女の自宅のアパートに呼ばれるたびに、片づけをしているのはいつも僕だ。さすがに女性の部屋だから色々と気を遣うものだけど、彼女と過ごすのが少しずつ長くなっていくにつれてもうだいぶ前に慣れた。今や第二の自室と言っても過言ではない。
「あたし家事とか全然出来ないから、主夫としてあたしに仕えてよ」
「え、それってまさかプロポーズですか? ミユキさん」
「っ! ……、」
 ……そんなに真っ赤にならなくてもいいじゃないか。
 冗談で言ったこっちが逆に恥ずかしくなってくる。
「……うん」
 僕に羞恥心を煽られた彼女は、柄にもなくうつむいたままだ。微かに顎を引いたようにも見えたけど、僕には見えなかったことにした。
 だって、嬉しくなって思わず叫び出してしまいそうだったから。
 夏を探しに来たおかげだーって、初夏から夏に切り替わる予兆をいっぱいに映す、あの真っ青な空に向かって思い切り叫んでしまいそうだったから。
「さーてと、からになったし、一息ついたら海を目指そうか。今日一日、この町で過ごすことになっちゃったけど、自然が綺麗で結構いいところだったね」
「う、うん!」
「葉桜だったけど、これだけの数があるならホントはもの凄く有名な桜の名所だったりするかもね」
 ここ、何が有名ですか? と尋ねた時の、駅員の顔を彼女にも見せてやりたい。あの時僕は、自分を日本人か疑われた気がした。季節外れもいいところだ。来る時期を四か月ほど間違えたらしい。
「うん。じゃあ約束! 今度は来年の春、またここ来よ!」
 ぴんっと小指を突き立てて、ちょっとだけ恥ずかしそうに彼女は言った。
 来年には、ここはきっと一面淡い桃色の花弁が咲き乱れる。そんな幻想的な世界を、彼女と一緒に歩けたら。
 それはきっと、なんて色鮮やかに息づく幸福なのだろう。
 僕は突き出された桜の小枝みたいな小指を、そっと同じ小指で握り返す。
「ゆーびきーりげーんまん! ほら、ミユキも」
 まごついて、それから彼女も僕と一緒に歌う。約束の歌だ。
 きっと、必ず君と行こう。
「「うーそつーいたーら、」」
「はーりせ、「満漢全席おーごる!」
 え? 今、割り込みでもの凄い契約がなされたような……。
「ゆーびきった! やった、これで契約成立、だよね?」
 彼女は悪戯に成功したように、舌を出して悪びれもせずに笑った。
「ゆびきりしたもんね! 満漢全席だよ、破ったら容赦しないからね!」
 満漢全席。広辞苑によると、中国清朝の宮廷料理で、山海の珍味を集めた非常に贅沢なものらしい。そして、極めて多くの料理品目からなる至高のフルコースのことのようだ。メニューの中には想像を絶するえげつないゲテモノも含まれているのだけど、本当に大丈夫だろうか。ペナルティとして実際彼女に奢るとなると、僕を含めた常人の経済力ならば、食べるためには自己破産を覚悟する代物だ。
「……これはそう簡単には破れないようだね、ミユキ」
 僕は不敵な笑みを浮かべながら、彼女に手を差し出す。
「当然!」
 彼女は、これまた邪悪な笑みで力強く僕の手を握り締めた。非力だけど、それこそ必死に力を込めているのがよく分かる。まるで、握手によってお互いの気持ちをどうにか確かめるかのように。
 がっちりと互いの発汗も捉えられるくらい念入りに、僕は彼女と約束の契りを交わし合った。


***


 見飽きるほどぶら下がっている葉桜の枝を、海風と一緒に眺められるのはこの町くらいなんじゃないだろうか。
「ミユキ、疲れてない? 大丈夫?」
「うん。へーきだよ。ご飯食べたらちゃんと歩かないとね」
 すっかり気力が充填されたのか、彼女の足取りは軽かった。荷物が一度になくなったこともあるだろう。
「あそこで桜が終わるみたいだ」
 今まで頭上を覆っていた緑が不意に途切れる。そうか。
 ここから先が、海に繋がっているんだ。
「ねえ、海に着いたら何したい?」
 なんと、そう聞いたのは彼女の方だった。彼女に何をしたいか聞くのは、僕の方だったのに。
「僕? ええと、何だか新鮮だね。ミユキの方から聞くだなんて」
「いいの! 今日ずっとあたしのわがままに付き合ってくれたんだから、最後くらい好きなことをしたいでしょ」
 彼女の成長を噛みしめながら、少し戸惑いつつも僕は、僕の中でいつか実現してほしいと思い描いた一つの未来を言葉にした。
「ミユキと手を繋いでー、砂浜を一緒に歩きたいな」
「……それがしたいの?」
「……うん。あと、綺麗な夕日を一緒に眺めながら、ミユキと静かに風に吹かれていたい」
 僕が空想する、とある夏の一日の終わり。今日はその予行練習の実地試験のつもりだ。
 日本中を侵略して本当に夏が到来した日に、僕は彼女と海へ行きたい。今は初夏で、水着やサンダルを一つも持っていなくたって、彼女とならきっと楽しくなる。
「あたしもやってみたい、……かも」
「そっか」
 そっと差し出した手を、握手とどこか違う、もっとずっと柔らかに握り合う。
「なんかさ」
「ん?」
 帽子で目が隠されて、上からでは彼女の表情はよく見えない。ただ、その鼻先が真っ赤になっていることだけはよく分かる。
「なんか、それって……夏っぽい、かも」
「じゃあ、それが本当なら、僕らはおんなじことを思い描きながら、同じ夏を追っていたってことになるね」
 彼女の追っていた夏が、僕のと同じ夏であればいい。それを、一緒に探すことができたらもっといい。
 その願いとも呼べないような思いは、僕が今日、彼女の奇妙な探しものに付き合った一番の理由だった。
「今年の夏は、きっといい夏になる気がする」
 僕が、彼女と迎える二度目の夏。
 夏に永遠を願うのは愚かしい。けれど、僕はそれでも希う。
「当然。僕がきっといい夏にしてみせるよ」
「頼もしいね、彼氏殿」
 照れながらそういってくれる彼女が、たまらなく愛おしい。
 あの白いガードレールを越えれば、海がそこにいる。
「……夏なんて、もうとっくに見つかってるじゃないか」
「え?」
「ううん。何でもない。それよりほら、向こうから風が吹いてくる」
 少しだけ磯の香りを含む夕風が、僕の前髪を透いて通り過ぎていく。彼女の長い髪は、前からに後方へ流されて、吹き付ける風を受けて優雅になびかせていた。
 左手には、僕よりも少しだけ高い体温を宿した右手が、すっぽりと収まっている。彼女に早鐘を打つ拍動を気づかれやしないか、僕は一人で心配していた。
「あたしの胸のドキドキに、いつ気づいてくれるかずっと待ってる」
 彼女は、自身に響く鼓動の高鳴りを逆に知ってほしかったらしい。
「もしかして僕の方の、気づいてた?」
「ううん。でも、ほら! あそこ、海だよ!」
 世界の全部を、橙色に変色させるただ一つの光源。その光を海面が気まぐれに乱反射して、その移ろいを防波堤の上から眺める。お互いが言い出すこともなく、僕らは砂浜に降りる傾斜を下る準備を始めた。
 小柄な彼女が坂を転がっていかないように、僕は先に斜面で彼女を待った。恭しく僕の手を取ると、そのまま抱きかかえるように持ち上げて、ひょいっと彼女を斜面の末端に下ろしてあげる。
 地面に降り立った時、僕は靴底で湧きだした、アスファルトの上では感じられなかった感覚に歓喜していた。浜でよく見かける丸く削られた石ころが、その感覚の正体だった。
「海、着いたね」
「ああ、着いたよ」
 潮騒が近い。斜面を下るために一度離してしまった手を、僕らは繋ぎ直す。
 彼女と僕は、子どもみたいに海に向かって駆け出した。


***


「……ミユキ。夏、見つかった?」
「見つかったよ」
 二人で、乾いた砂の上に腰を下ろして、ただ、水平線を眺めている。風はあるが野暮ではない。なにか文庫本でも手元あったら、ここは読書に最適な環境だったろう。僕は脱力して砂浜に寝そべった。
 すぐ近くで、首元をくすぐる彼女の息づかいを感じながら、僕は目を閉じる。
「ねえ、いくら心地いいからって寝ちゃわないでよ?」
「寝ないって。……さすがに平気だよ」
 瞼の裏を透過する、血液の赤を映した穏やかな光が陰る。寝転んだ僕を、上から見下ろす彼女の影を落としているのか。
「じゃあ、あたしが寝たら起こしてね」
 いつまでも動かない僕を、すぐさま飛び起こさせるのには十分だった。
「え、ちょ、ちょっと! ミユキっ」
 彼女は、隣で丸くなって目を閉じていた。
 ミユキの場合、ちょっと洒落にならない部分がある。遊び疲れて眠ってしまった彼女を家まで連れて帰るのは、僕に任された役目の一つだった。
「起きてー。頼むよ、ミユキぃ……」
 歩き疲れているのに、小柄で体重は軽いとしても、意識のない人体は大変重い。僕は、彼女のしたように脅迫することにした。
「起きないと、ちゅーしちゃうぞ」
「……」
 目をつぶった彼女の、閉じられた瞼が震えている。瞼に不要な力が込められているせいだ。やはり彼女のする誤魔化しは下手だ。
 狸寝入りの彼女を、僕はさらに脅迫する。
「ホントにしちゃうぞ」
 彼女は動かない。身じろぐけれど、起き上がる気配は微塵も見せない。
「……僕のしようとしてるのは、アグレッシブで、ディープで、ハードボイルドで、ハリウッド級で、舌とかたぶん豪快に使っちゃうような……大人のこくまろなやつだぞ」
 彼女は動かない。僕の脅迫の最中、単語に反応してびくっと震えたけれど、でもやっぱり起きてはこない。
 彼女が起きるのを諦めて沈みゆく夕日を眺めようとしたとき、
「……待ってる」
 隣で丸まって、しっかりと唇を覗かせている、夏の獣とは縁遠い、初夏のハムスターが呟いた。
 顔を真っ赤にしてぷるぷると震えながらも、自分で言っちゃうところが僕の愛しい彼女だった。自分の、恥ずかしくて誰にも吐露したくないような青臭い感情を、臆せずに言うことが出来る。僕は、彼女のそんな性格が、大好きだった。
 今日のことは、いつか物語して書き下ろそう。彼女のことをモデルにして書くとしたら、ネタが尽きることはない。記憶としてではなく、本のような、形として僕の想いを残すために。
 初夏のビーチ、夕刻でにじむ空、最愛の人と二人きり。シチュエーションは最高だ。
 あとは僕が、大人のこくまろなやつをどうにかするだけでいい。言っては見たもの、そんなもの知るはずがない。
「……起きないミユキが、悪いんだからね」
 大人の、こくまろ。ああ。
 寝転がった彼女の、薄く開かれた淡い桜色の唇に、僕は勿体付けながら顔を近づけていく。

 夏は、まだ始まってすらいない。
 僕らは、壁際まで追い詰めた夏を、どうやって使ってやろうか雨降りに悩まされながら必死になって考える。
 彼女は、夏を待っていた。
 書き出しは、きっとこの一文から始めるのがいい。また今日みたいに二人で肉味噌のおにぎりや手作りのお弁当を頬張って、初めて見る街並みを、手を繋ぎながら一緒に眺め、そしてきっと、また海に行くんだろう。
 今度は水着サンダルを忘れずに、しっかりと日焼け止めと、パラソル、スイカも、それから泳ぐとすぐにばててしまう彼女のための浮き輪も持って行こう。

 きっと。
 僕も夏を待っている。
作者 灰縞 凪
投稿日:2016/06/07 09:47:49
更新日:2017/02/14 20:42:21
『夏を待っている』の著作権は、すべて作者 灰縞 凪様に属します。
HP『

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