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作品ID:611

こちらの作品は、「批評希望」で、ジャンルは「一般小説」です。

文字数約39965文字 読了時間約20分 原稿用紙約50枚


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小説の属性:一般小説 / 未選択 / 批評希望 / 初級者 / 年齢制限なし /

リトル・アカバネ・ウォーリアーズ

作品紹介

 荒川でバス釣りをしていた森田は、魚の代わりに小人の少女を釣り上げた。
 小人はモルムと名乗り、自らを赤羽軍の戦士と称した。土地に対する人間の思念を代理し、日夜領土を巡って争っているという。
 埼玉県民の森田は戸惑いながらもモルムの言葉に従い、赤羽まで彼女を連れて行くのだが、その後もなかなか彼女のことが忘れられない日々を送り……。


※某所の企画に参加しようとし、文字数超過で断念した作品です。
 短編を全く書いていなかったのでリハビリも兼ねて書きました。四万字近くまで膨らんでしまいましたが。ライトな仕上がりになったと思います。
 当然ですが、作品内に出てくる地名や店などは実在のものと関係ありません。フィクションです。埼玉県LOVEです。


 年始の暇にかまけて早朝から荒川で釣り糸を垂らしていると、小人が釣れた。一時間粘ってようやく獲得したのは目当てのブラックバスではなく、もっと珍妙な生物だった。
 秩父山地のさらに奥地を源泉とし、東京と埼玉を隔てて東京湾へ流れていく荒川には、多種多様な水棲動物が棲息する。バス釣りの穴場としても有名だが、バスだけでなくギルやライギョも僕は釣ったことがあるし、十年ほど前にはアザラシがやってきたこともあった。しかし、まさか小人が釣れるなどとは夢にも思わない。もっと言えば、小人が存在するとも思わなかった。
 疑似餌の針に赤い着物の襟を引っ掛けたその小人は、体長およそ二十センチの女性だった。どことなく西洋系の顔つきだが美人なのは間違いなく、体躯も相まってまだ少女のようにも見えた。
 僕は何度も目を瞬き、擦ってもみたが、小人は依然として糸の先にぶら下がっている。竿を握る手には重みも感じられていた。
 なんだ、こいつ……。
 小人は気を失っていた。着物の裾から水を滴らせ、蒼褪めた顔でぐったりしている。針を解いて掌に乗せ、胸を指でそっと押してみると、すぼめた口から水を吐いた。ダチョウ倶楽部がこんな芸をやっていた気がする。
「なんか釣れたー?」
 十メートルほど川上で釣糸を垂らす諸脇が手を振った。僕は咄嗟に小人を鞄に放り込み、手を振り返した。
「なんも釣れねぇ」
「駄目かなぁ、今日は」彼は再び荒川に目を戻す。「陽も昇ってきたしなぁ」
 僕はうわの空で「それなぁ」と返していた。

 ◇

 何の釣果もなく、僕と諸脇は車でさいたま市の南区へ帰った。
 諸脇は昨年の秋から赤羽のアパートで独り暮らしを始めていたので、そこまで送ろうかと提案したのだけど、仕事が始まるまでは実家で過ごす予定だという。クリスマスの失恋をまだ引き摺っている様子だった。借りていた釣竿と諸脇を降ろし、僕も帰路についた。
 自室の机に鞄を放ると「ふぎゃっ」と声がした。やはり、あれは夢ではなかったようだ。
 鞄を開けると、ずぶ濡れの小人が慄いてこちらを見上げた。
「な、なんだ、お前は」
「こっちの台詞だ。なんだ、君は」
「先にそちらが答えろ」小人はか細い声を精一杯に張り上げる。「ここはどこだ?」
「俺んちだけど」
「俺んちとはなんだ、どこの土地を言っている?」
「どこって……、埼玉の武蔵浦和」
「サイタマ!」小人が驚愕した。「よりにもよって敵陣へ流れつくとは!」
「敵陣? なにそれ?」
「やかましい、黙れ」小人は喚く。「わたしを元いた場所へ帰せ!」
「元いた場所って、荒川で釣ったんだけど……、君、何なの? どういう生物?」
「うるさい、お前は質問するな。黙ってわたしの言うことを聞け!」
 ちょっと腹が立ったので、鞄を閉めて二回振るとすぐに大人しくなった。
「鬼か、お前は……」
 開けると、小人はまたぐったりしていた。
「君、何なの?」僕は三度目のその質問をする。「人間の姿してるけど、その小ささ、明らかに人間じゃないよね。何なん? ティンカーベル? 一寸法師? やっぱり俺、夢とか見てるわけ?」
「吐きそう」と小人は鞄から顔を出した。濡れた髪と着物が鞄の中身をびしょびしょにしている。川の水の生臭さが鼻をついた。
「あの、吐きそうなとこ悪いけど質問に答えてくれないかな。これでも割と混乱がピークなんだよ」
「わたしは、モルム」小人はしんどそうに僕を睨む。「赤羽軍の戦士だ。板橋区でサイタマ軍と交戦した」
 うわー、ますますわけわかんねぇ。
「えっと、モルムさん? 名乗って貰えてありがたいんだけど、それより君のその存在というか、いったいどういうわけでそんな小さいのかを教えてくれないかな」
「待て、だいぶしんどい」モルムと名乗った小人は蒼褪めていた。「お前、人間なのになぜわたしが見える? それよりわたしはどうなった? なぜお前の部屋にいる? あ……、もう駄目だ、失礼」
 小人がゲロを吐いてしまったので、僕は質問を止めて慌ててティッシュを探した。

 ◇

 人間というのは不思議なもので、己の常識から逸脱した対象と遭遇すると、逆に冷静になって話を聞けるらしい。これまでの見識を新たな知識で更新して対応しようとする本能の働きだろう。自分の精神衛生を考慮するのであれば、理解できない相手ほどきちんとその言い分を聞いてやるべきなのかもしれない。
 僕が釣り上げた小人はモルムと名乗り、自らを赤羽軍の戦士と称した。身体が小さいのは「そういうものだから仕方ない」のだそうで、彼女の仲間達も皆同じサイズなのだそうだ。「それ以上の説明を求められても困る」とも突っぱねられたので、僕も疑問を一旦棚上げにした。
 ドライヤーで乾かしてやった着物を身に着けてモルムは語った。
「わたし達は人間の思念を代理して戦っている。赤羽に住む人間がいれば赤羽軍の戦士として、サイタマに住む人間がいればサイタマ軍として、日夜領土を懸けて戦っている」
「なるほど」
「物わかりがいいな。その調子で頼む」
「いや、全くわかっていないんだけど……、えっと、じゃあ、つまり、君達はアレなの? 生物とかじゃなくて、幽霊とか妖精とかそういう類のアレ?」
「アレってなんだ、アレって。戦士と呼べ」
 モルムは顰め面をする。僕も同じように眉根を寄せた。
「うーん、受け入れ難いな。俺、そういうの信じない派だからさ」
「信じないからと言って存在しないことにはならん。事実、わたしはここにいる。受け入れてもらう他ない。話はそれからだ」
 やっぱり自分の頭がおかしくなったのかもしれないと思ったが、そんな悲観的な仮説こそ受け入れ難かったのでなるべく考えないようにした。
「人間の思念を代理というのは何? 領土っていうのもよくわからんのだけど」
「思念については、わたしもよくわからん。わたし達は使命に従っているだけだからな。どうして生きているのかという問いかけと同じくらい曖昧だ」彼女は続けた。「ただ、お前ら人間は、住んでいる土地に愛着を持ったり退屈を感じたり、色々とややこしい認識を持っているだろう?」
「いや、俺は特にないけど」
「自分で気付いていないだけだ。無意識というやつだな。自分の生活している場所を全く意識しない生物はいないはずだ」
 確かに、それはそうかもしれない。植物だって環境に合わせて生態を変える。それを意識と呼ぶかどうかは議論の分かれるところだが、この際、独りで論争していても始まらない。超常的な存在が目の前に実在して、そうだと言っているのだからそうだと飲み込むしかない。
「わたし達は、そういった人間の思念によって生命と使命を得ている。そして、領土の為に戦い、侵略し、防衛する。わたしは赤羽をサイタマ軍から守る為、先遣部隊として板橋区戦線へ派遣されたんだ」
「つまり、君の本体というか……、赤羽に住んでいる誰かが君を生み出したってこと? 誰かの分身が君ってこと?」
「まぁ、そんな感じだ、たぶん」
「たぶんて」
「うるさいな、わたしにもよくわからんのだ。わたしに与えられた使命はただ一つ、サイタマ軍から赤羽を守ることにある。それ以上の説明を求められても困る」
「そもそも、なんで君らは戦ってるの? 侵略とか防衛って言ったけど、目的は何?」
「だから、人間の思念を代理していると言ったろう」
「それがよくわからない。なんで俺らが、よその土地を侵略したがる? そんな野望は全くないんだけど」
「それは人間の性質に関わってくることだ」答えてから、モルムは思い直して首を振る。「人間に限った話ではないな。全ての動物は縄張りを意識する。自分の領域を広めて、他の地まで征服したいという欲求を必ず持っているものだ」
「まぁ……、それはそうかもしれないけども」
「赤羽に限らず、東京はその槍玉に挙げられやすい。たぶん、田舎者の、都会に対する憧れや嫉妬なのだろうな。その思念こそがわたし達の戦いの火種となっている。逆に、東京の人間は他の土地にあまり興味がない。余所者を鬱陶しがってはいるけどな」
 池袋は埼玉の植民地、というローカルジョークを僕は思い出した。池袋はもちろん東京都の街だが、そこを闊歩しているのはほとんど埼玉県民、という揶揄を込めたジョークである。モルムが戦う相手というのは、そういう背伸びした埼玉県民達の集合意識なのかもしれない。
「俺の分身は?」僕は自分の顔を指した。「埼玉に住んでるから、その、サイタマ軍の戦士なの? 君の敵ってこと?」
「恐らく、そうだ」
「この場にはいないのか?」
「人間の傍にいるわけではない。わたし達は人間の思念から生まれてくるだけであって、基盤になる人間からは独立して動いている。わたしの基になっている人間だって、この場にいないだろ?」彼女は両腕を広げて示す。「お前のはきっとサイタマ軍として戦っている」
「顔は俺とそっくりなの? つまり、本体に似てるっていうか……」
「それは知らない。わたしも基になっている人間には会ったことがないし、仲間と人間を見比べたこともない。ただ、似ていても不思議はないと思う」
「うーん、よくわからんなぁ」
「なぁ」
「なぁ、じゃないよ。ていうかさ、なんで俺だけ君のことが見える? 他の人間には君らの姿が見えないんだろ? 俺、霊感とかないのにさ」
「稀に見える奴もいるようだが、それもわたしにはわからん。わたしが訊きたいくらいだ」
「肝心なところがふわっとしてるよね、君」
「やかましい」モルムは足を踏み鳴らした。「それより、早いとこわたしを赤羽に連れて行け。こうしている間にもわたしの仲間は戦っている。加勢せねばならん」
「やだよ、一人で行け。めんどい」
「嘘だろ、おい。ここまで腹割って話した相手にそれはないだろう」
「割ってない、割ってない。説明してもらっただけだ」
 モルムが僕の肩へ飛びつき、右耳を引っ張った。
「だいたい、お前が勝手にわたしをここに連れてきたんだろうが!」
「そっちが勝手に釣針に掛かったんだろうが!」僕は堪らず声を上げた。「いたいいたいいたい! ちぎれる!」
「ちぎられたくなかったら言うこと聞け!」
 僕は怒りに任せ、モルムの華奢な体を握った。そのまま、壁に叩きつけてやろうと振りかぶったが、「きゃあああ」となかなか良心の痛む悲鳴を上げられたので思い留まった。得体の知れない相手ではあるが、言葉が通じ、自らの素性を語った相手を圧死させるほど僕も鬼ではない。
「わかったよ」僕は溜息をついて頷いた。「赤羽でいいんだな?」
「あ、あぁ、頼む」
 モルムは僕の手の中でぐったりしながら頷いた。

 ◇

 平日の埼京線は地獄の沙汰のように混み合うが、年始休暇の昼時では乗客の姿はまばらだった。僕はモルムを連れて新木場行きの電車に乗り、シートに座りながら車窓の景色をぼんやり眺めていた。
「モルムが死んだら、元の人間はどうなる?」
 周囲に人がいないのを確認して、僕は窓辺に座るモルムへ尋ねた。
「どうもせん。人間へ影響を与えることはほとんどない。ただ、土地を巡る流れに多少の影響が出るかな」
「流れ? どういうこと?」
「たとえば、移り住んでくる人間や、仕事にくる人間が増える。あとは地元の祭が盛り上がらなくなったりする」
 うわ、しょーもな。
 僕の表情にその言葉を読み取ったらしく、モルムは顔を赤くして激昂した。
「これでも大変なことだ! わたし達にとっては命懸けの戦いだぞ!」
「わかった、わかったから大声出すな。どうせ誰にも聞こえないんだろうけど」
 駅の改札口から、僕は半ば自棄気味にモルムを肩に乗せて歩いたのだが、駅員にも利用客にもモルムの姿は見えていないらしかった。声も聞こえないらしい。いよいよ自分の頭が疑わしくなってくるが、この不安も赤羽に着くまでの辛抱だ。
 駅に着くまでの道すがら、僕は埼玉県民の小人がいないか目を皿にして探したが、不思議なことに一体も見当たらなかった。モルムの話では一人一体の割合で存在するということだから、その数も相当であるはずなのに、生きている小人どころか車に轢かれた死体もなかった。
「普段は人通りのある場所にはいない」とモルムは説明した。「マンホールの下や、屋根裏や、壁と壁の隙間に隠れて活動している」
「ゴキブリみたいだな」
「言葉に気をつけろ」彼女は僕の耳を引っ張る。「誰の為にこっちは命張ってると思ってる」
 そうは言っても、不毛な争いだとしか僕には思えなかった。
 だいたい、埼玉だの東京だの、田舎だの都会だのという仕切は、この頃ではもうナンセンスだ。昭和の終わりまでは住んでいる地域がそれなりのステータスになったかもしれないが、インターネットが発達し、家にいながら物や情報を収集できるようになった現代では、もうあまりメリットは見出せないだろう。
 そもそも田舎から東京に出てくる人間のほとんどが、何かしらの思い込みを抱いている節がある。東京にしか希望する会社や職種がないという事情もあるだろうが、目当てにしているその会社だって、思い込みか惰性で東京に根を張っているようにしか見受けられない。労働の体制だってそもそもおかしい。チャットやメールで事足りる案件でも、わざわざ大勢で会社に集まり、馬鹿みたいな時間と労力をかけて伝達しなければならないのだ。その無駄な労力を示し、「これが仕事だ」と誇る輩が多数派なのだから恐れ入る。
 たまたま大昔にその土地が栄えていたから、なんとなく今も人が集まっているようにしか僕には感じられない。その幻想のせいで、電車はいつも気が狂ったような混雑ぶりで、インフルエンザの温床と化している始末。他人の口臭がかかるほどのすし詰め状態を疑問にも思わず、ただ他者もそうしているからという理由で皆が東京に仕事場を構え、その仕事を求めてまた若者が東京へやってくる。思考停止した群集による悪循環。満員電車に乗る度、これは文明国の恥だと僕は思わずにいられない。我先にと車内へ押し入り、舌打ちし合う。あれほど貧しい光景が他にあるだろうか。先進国が聞いて呆れる有様だ。
 そう熱く語る僕を、モルムは冷めた目で見ていた。
「そういうお前も、わざわざ東京で仕事しているんだろ」
「あ、それを言われると痛い」
「たむろされる者の身にもなってみろ」モルムは脚をぶらつかせて、不機嫌そうに吐き捨てた。「お前らのせいで地元の電車に乗り損なう。どこにいっても人で混んでいる。浮かれた田舎者が我が物顔であちこち荒らし回る。心が休まる暇もない」
 なるほど、そう言われてみると、しょーもないと思うのはあくまで余所者の感覚であって、モルムや都民達からすれば深刻な問題なのかもしれなかった。
 戸田公園駅を過ぎ、電車は荒川に掛かる鉄橋へ差し掛かる。僕は広大な川面を見下ろし、浮間ゴルフ場近くの河岸を指差した。
「あそこで今朝、君を釣ったんだ。最初は人形だと思ったけどね」
「そうか、思い出した」彼女がハッとした。「わたし達の部隊は戸田橋の橋上で戦っていたんだ。しかし、サイタマ軍に追い詰められて、そのまま……」
「ダイブしたのか」僕は舌を巻いた。「度胸あるなぁ」
「交戦した時、なぜかわからないが、力が出なかったんだ」モルムは自分の掌を見下ろした。「以前から違和感はあった。気のせいだと思っていたが、あの時、力が抜けていくのをはっきり感じた。逃げるだけで必死だった」
「君、なんか不調なの? その割には元気があり余っているようだけど」
 モルムは僕の皮肉に敵意の眼差しを向けたが、またしおらしい表情になって項垂れた。
「自分が情けない。仲間達は立派に果てていったのに、わたしだけが……」
「あ、いや、ごめん」気まずくなって詫びる。「まぁ、あまり落ち込むなよ」
 モルムは無言で俯いていた。やりきれない感情に唇を噛み締め、着物の裾から覗いた細い脚をじっと見下ろしている。小さな横顔は健気な憂いを湛えていて、不用意な言葉をかけようものなら泣き出してしまいそうな様子だった。
 思いがけず、僕はこの小人を可憐に感じてしまった。
 たぶん、僕はその瞬間になって初めて、モルムを知性ある人間と認めたのだろう。厳密には人間じゃないのだろうし、ひょっとしたら一般的な定義による生物ですらないのかもしれないが、その時の僕の目には、モルムは紛れもない人間の少女に映っていた。
 他の生き方はないのだろうか、と考えてしまう。
 性質だか宿命だか知らないが、そんな人間のくだらない見栄の為に、モルムは小さな命を張って戦っているのだ。いや、小人だけに言えることではない。世界中の領土問題に共通する悲劇に違いなかった。
 電車が減速する。アナウンスが「浮間舟渡」と告げていた。気付けば、もう東京だった。

 ◇

 北赤羽駅を過ぎて、丘をくりぬいたトンネルを抜けていくと、車窓の景色はようやく東京らしい景観になる。ビルディングが肩を寄せ合った街並みだ。
 一応は戸田公園と浮間舟渡の間の荒川が県境になるが、ここからがやっと東京だという気がする。もしかしたら、モルム達の攻防の行方が僕のこの感覚に影響を与えているのかもしれない。そうなると赤羽軍は相当の劣勢だ。県境を破られ、本陣のすぐ鼻先までサイタマの侵略が迫っているのだから。
 赤羽駅で降り、南口から繁華街の方へ歩くと、モルムが僕を雑居ビル裏手の路地へ導いた。
「ここまででいい」
 彼女は僕の腕を伝い、ゴミ箱の蓋へぴょんと飛び移った。
「本当に大丈夫か?」僕はなんとなく後ろ髪をひかれる思いだった。
「大丈夫だ。これから仲間と合流する。世話になったな」
 モルムが片手を差し出す。どうやら握手のようだ。僕は指先で触れて握手の真似をしてやった。
「最後までよくわからんかったけど、元気でな」
「すまないな。恩に着るぞ」モルムは頷く。「あ、そうだ、まだ名前を聞いてなかったな。なんていうんだ?」
「名前って、僕の?」
「馬鹿か、他に誰がいる」
「森田だよ」
「助かった、森田。お前は恩人だ。この命果てるまでお前のことは忘れん」
「大袈裟な」僕は苦笑する。「死ぬなよ」
「わかっている。では、さらばだ」
 モルムはゴミ箱から颯爽と飛び降り、とてとてと塀とビルの隙間へ走り去っていった。サイタマ軍よりも、野良猫にやられやしないかと僕は心配になる。
 彼女の姿が見えなくなってから、念の為に隙間を覗き込んだ。もう彼女はそこにいなかった。
 なんだかなぁ、というのが素直な感想だった。
 まるで凝った夢から覚めたような余韻だが、たぶん、現実のことだったのだろう。世の中には不思議なこともあるものだ。そう独りで頷き、僕はとぼとぼと赤羽駅に向けて歩き出していた。退屈な現実よりも、不思議な白昼夢のほうが、どうやら僕にはマシな代物のようだった。

 ◇

 モルムと再会したのはそれから二週間後の夜である。
 その日の昼休み、諸脇から「晩飯でも食わんか」とチャットで誘われた。
 恋人にフラれてからというもの、諸脇は頻繁に僕を誘おうとする。心の空白を友人の存在で埋めようとしているのだ。利用されている自覚はあるのだが、彼とは中学からの付き合いだから、これも人助けだと思って僕は応じていた。
 退社後、会社のある恵比寿から赤羽まで戻った。僕は武蔵浦和駅から埼京線に乗って通勤しているので、赤羽は毎日通過する駅である。
 赤羽駅が近づく度、僕は年始に釣った小人をきまって思い出した。
 あれはそうそう忘れられる出来事ではない。気になって、日本に伝わる小人伝説について真面目に検索したくらいだ。コロポックルやら式神やら小さいおっさんなど、モルムはそのどれにも当てはまるようであり、どれにも当てはまらないようにも思えた。相当掴みどころのない存在だったと言わざるを得ない。
 たぶん、あの出会いは僕の生涯で一、二を争う奇妙な体験だったのだろう――、徐々にそんな実感が起こり、むしろ、日に日にモルムの残影が濃くなっていくようだった。もう一度だけ小人を見たいと考え、自販機の後ろや排水溝の奥を覗いてみたこともある。こういう執着を、もしかしたら憑りつかれた状態と言うのだろうか。
 思いが通じたのかどうか知らないが、僕は望み通りモルムと再会を果たすことになった。赤羽駅の改札を出て、諸脇のアパートを目指して歩く僕の耳に「森田」とかすかに呼ぶ声が届いたのである。
 モルム? と僕は声に出さず呼び返し、辺りを見回す。駅を出てすぐの広場で、立ち止まった僕を人々が迷惑そうに避けて歩いた。
「ここだ、森田」
 声を頼りに足を進めると、喫煙所近くの植え込みの陰に着物姿の小人が蹲っているのが見えた。
「モルム」思わず口に出してしまう。「おい、大丈夫か?」
 モルムは僕の顔を見上げ、心底安堵したような笑みを浮かべた。
「よかった……、また会えたな」
「な、なんだよ、おい」僕はうろたえてしまう。「ぼろぼろじゃんすか」
 流血や傷こそなかったが、モルムが深手を負っているのは一目でわかった。着物の端はどこも擦り切れたようになって埃にまみれているし、顔も蒼褪めている。髪も荒れ放題、苦しげな息遣いで膝をつき、ひどく疲弊しているらしかった。
 僕はしゃがみこみ、水を掬うように両手を差し出してモルムを乗せた。縁起でもないが、子供の頃に飼っていたハムスターの最期が脳裏を過ぎった。
「どうしたんだ、怪我したのか?」
 モルムは僕の掌で横たわり、切れ切れの発音で答えた。
「やられ、た」
「え?」
「赤羽が、陥落した」モルムの瞳が悔しげに潤んでいる。「もう、わたししか残っていない」
「陥落って……、何言ってんだ、ここ、東京だろ?」
 状況を呑み込めずにいた僕の目が、赤羽駅改札口の横にある雑居ビルを捉える。ぞっとして立ち尽くした。以前は無かった店がその一階にオープンしていたのだ。埼玉県大宮市発の中華チェーン店『日高屋』の看板が、煌々と夕闇に光っていた。
 その時になって、やっと僕は理解した。
 ――こいつらは、冗談でなく、マジに戦っているのだ。
「どこかに連れて行ってくれ」
 モルムが力なく言う前から、僕は無我夢中に駆け出していた。

 ◇

 アパートの部屋に飛び込んだ僕を、家主の諸脇は驚いて迎え入れた。
「どした、肩で息して」
 やはり、諸脇の目にもモルムが見えないようだった。僕はどう説明すればいいかわからずにへどもどしていたが、掌にいるモルムが「湯をくれ」と頼んだのでそのまま伝言した。
「ゆ? お湯のこと?」諸脇が眼鏡の奥の目を瞬く。「なんで?」
 なんで? と僕も目で尋ねる。
「湯を浴びたい」モルムが答えた。
 どうやら風呂に入りたいらしい。そんな悠長なことをしている場合かと思ったが、彼女の希望を叶える為に僕は必死に頭を働かせた。
「あ、諸脇、ごめん。俺、コンビニ寄るの忘れちゃった」
 実際、諸脇から頼まれていたコンビニ弁当の買い出しを僕はすっかり失念してしまっていたのだ。
「えー……、飯、どうすんだよ」諸脇が呆れる。
「悪いけど、俺の分まで買ってきてくんね?」
「はぁ?」
「お前の分も奢ってやるから」
「おいおい、パシリかよ」当然ながら彼は不服そうだった。
「五千円やるから。釣りもやるから」僕は札を差し出す。「俺、カップやきそば大盛りとコーラね。湯、沸かしとくわ」
「栄養ドリンクも」とモルムが弱々しく言う。
「あとリポD、ロイヤルで」
「い、いいって、金は……」諸脇は露骨に怪しんだ。「なんか今日、変じゃね? ドケチのくせに奢ってやるとか」
「お前、彼女と別れたばっかでまだ辛いだろ。今日は友人として奢らせてくれ。な?」
 僕が切札を使った途端、彼はしゅんと肩を落とし、素直に五千円札を受け取った。少し悪い気もしたが、嘘も方便、僕は「頼んだよぉ」と陽気に手を振って見送った。
 家主がいなくなり、さっそくコンロを拝借する。水を張った鍋を火にかけてから、テーブルに横たわったモルムへ振り返った。
「風呂の温度にすればいいの?」
「頼む」モルムは苦しそうに目を瞑っている。額に汗が浮いていた。
「風呂入ってる場合か?」
「傷が癒えるんだ」
 要領を得ないにも程があるが、彼女の指示に従い、適温の湯を食器棚にあった丼へ注いだ。モルムはゆっくり体を起こし、のろのろと着物を脱いでいく。小さいが、人間の女体と変わりない裸身だった。
「こら、見るな」
「いや、言ってる場合か」僕は凝視しながら返す。彼女いない歴が三年目に差し掛かっていたので、それはもう、とても素敵で新鮮な眺めだった。いや、言ってる場合か。
 慎重に体を湯に沈め、モルムは瞑目して丼風呂に浸った。西洋風の顔つきなので、温泉地を訪れる外国人観光客のようにも見えた。なかなか画になる眺めだ。こういうフィギュアを作ったら売れるんじゃなかろうか。
「あぁ……、生き返る」
「本当に怪我、治んの?」
「治る」彼女は眠たげに頷く。「はぁ……、よきかな」
 僕は残っていた湯でモルムの着物を洗い、ドライヤーで乾かした。その間も、モルムの顔色はみるみるうちに健康的になっていく。インスタントの味噌汁みたいに速効だった。
 モルムが湯から上がり、着物の帯を締めたところで、コンビニのビニール袋を携えた諸脇が戻ってきた。
「クッソ寒いな、外」
 彼は手を擦りながらトイレに駆け込む。コンビニで済ませてくればいいのに、昔から妙なところで抜けている奴だ。
 諸脇がトイレに入った隙に僕は袋から栄養ドリンクを取り出して開け、蓋の内側に注いだ。モルムがそれを両手で受け取り、こくこくと中身を飲み干した。
 ぼっ、と彼女の顔が赤らんだ。
「おい、どうだ?」僕は心配になって尋ねる。
「ふっかーつ!」モルムの雄叫びが轟いた。「元気百倍っ!」
「ばっか、お前、ふざけんな。大声出すなよ」
「どうせ聞こえてない」モルムは呵々と笑った。「こっちは九死に一生を得たんだ、たまにはハシャがせろ」
 少しハイになっているようだが、とりあえず元気になったようで、僕は安堵の息を吐いた。なんだかどっと疲れてしまった。
「マジ焦ったよ。一時はどうなることかと……」
「面目ない。森田には二度も助けられてしまったな」モルムは両手をついて、丁寧な所作で頭を下げた。「この御恩は一生忘れません」
「よせよ、仰々しい」
「命を助けてもらった。当然の礼だ」
 言われ慣れていない言葉に、僕は少し照れ臭くなった。
「いいよ、別に。これも何かの縁だから」
「まさか、サイタマの人間にここまで世話になるなんて」彼女は少女のように屈託ない笑みだ。「わからないものだな、わたしの一生も……、なんにせよ助かった。ありがとう、森田」
「どういたしまして。俺の一生もわかったもんじゃないね」
 僕は小人の彼女と笑い合う。世にも奇妙なこの状況を頭の隅で客観的に見つめていたが、これが怪奇現象でも脳の異常でも、もはやどうでもよかった。人命(というとまた違うだろうが)を救った手応えに、僕も高揚していたのかもしれない。
 ふと視線を感じて振り向くと、トイレの扉を開けた諸脇が不気味なものを見る目で便器に座っていた。
 固まった僕に向かって、彼はおずおずと口を開く。
「お前、さっきから誰と話してんの?」
 
 ◇

 誰もいない空間(というよりテーブル)に向かって愉しげに話す十年来の親友を、諸脇は固唾を飲んで見守っていたらしい。いつものおふざけかとも考えたようだが、あまりにもその芝居に熱がこもっており、鬼気迫るものさえ感じられたので迂闊に声をかけられなかったそうだ。
 僕は下手に釈明するより、一切をぶちまけることに決めた。モルム達赤羽軍が壊滅したという危機的状況は変わっていないわけで、人間の僕が焦る必要などないかもしれないが、信頼できる親友に打ち明けて心の重荷を軽くしたかった。
 そうは言っても、事情が事情なだけに「そうだったのか」とすんなり頷かれるはずもない。頭を疑われるのを覚悟でモルムとの経緯を語ると、案の定、頭を疑われた。
 諸脇は真剣な表情でスマートフォンを取り出した。
「ちょっと待て。今、病院調べてやるから」
「ですよね」予想通り過ぎてつい笑ってしまう。
「だから、お前、会社員なんてやめとけって言ったんだ」彼は憐れむような目で言う。本気で同情しているようだった。「満員電車とかデスクワークとか、そんなストレス溜まる仕事、森田には無理だったんだよ」
「いや、それはそうかもしれんけど、でも違うんだって、これは」
 僕達のやり取りに業を煮やしたモルムが「わたしに任せろ」と立ち上がる。僕が止めるよりも早く、彼女は諸脇の手首を蹴りつけていた。
 びくっと諸脇が仰け反った。
「え?」彼は呆けて僕を見る。「何、今の」
 続けてモルムは彼の肩まで駆け上がり、右耳を掴んで引っ張った。「いたいいたいいたい!」と諸脇はもがく。僕も覚えのある光景だが、傍目で見るとガリバー旅行記のワンシーンのようだった。
 右耳を解放された諸脇は言葉を失くし、再び僕を見た。
「いるんだよ、そこに……」僕は指さす。「右肩、少し重いだろ」
 途端に諸脇は慄きながら後ずさり、背後の冷蔵庫に後頭部をぶつけた。眼鏡のずれた顔からは血の気が失せていた。
「やばいやばいやばい! この部屋、なんかいる!」
「だから、小人だって」
「戦士だ」テーブルに戻っていたモルムが睨んだ。
「なんだよ、何したんだよお前! シャレんなんねぇよ!」諸脇は合掌して南無阿弥陀仏と唱え出した。「ごめんなさい、ごめんなさい、引っ越します、祟らないでください」
「落ち着け」僕はうんざりして溜息をつく。
「何なんだよぉ! やめてくれよぉ、他のやつ呪えよぉ!」彼は冷蔵庫にもたれて手足を投げ出し、いじめられっ子のように懇願した。「俺、いま失恋中なんだよぉ」
 諸脇は昔から迷信深く、この手の話が駄目なクチである。幼少期にひどい金縛りに遭って以来、彼は心霊現象を扱うメディア作品や、怨霊の存在を想起させる怪現象への耐久値がゼロに等しい。ようするに、筋金入りのビビリなのだ。
 取り乱した親友を宥めるのを早々に諦め、僕はモルムへ向いた。
「君、これからどうするつもり?」
「赤羽が落ちた今、打つ手は何もない」モルムは無念そうに言った。「わたしだけじゃどうにもならない。一旦、東京の中心まで撤退して、他の部隊と合流しようと思う」
「中心地って、渋谷? あ、銀座とか霞が関?」
「いや、すまない、言ってみただけでわたしもよくわからないんだ。今まで赤羽軍にしかいなかったから」
「ひとまず池袋まで南下したら?」
「池袋はとうに占領されている」
「あ、そう……」
 あのローカルジョークは、どうやら事実だったようだ。
 モルムは神妙な顔つきで自分の両手を見つめた。
「今日の戦闘でも、上手く戦えなかった」
「何?」
「前にも話したかもしれないが、最近、なんだかおかしいんだ。調子が出ないというか……、絶対に変だ、こんなことは今までなかったのに」
「どう変なんだ?」
「迷いが生まれているようだ」彼女は続けた。「今までは赤羽を守る為に何度も死線をくぐり抜けてきた。しかし今は……、なんというのか、無力感しかない。この土地を守ることに集中できない。それで不覚をとってしまった」
「まだ疲れてるんじゃ?」
「そういうことじゃない。もっと、根本的な問題だと思う」モルムは不安そうに僕を見上げた。「わたし、どうなってしまうんだ? 赤羽を守ることがわたしの使命だったのに、それだけの為に生まれてきたのに、こんな……、仲間も失って、戦いも満足にこなせなくて……、赤羽軍失格だ」
「迷ってるなら戦わなきゃいいじゃん」
 僕の物言いにモルムがムキになった。
「そういうわけにいくか! わたしは赤羽の……」
「そこまでしてやっても意味ないだろ。モルムの基になっている人間も、いつかは赤羽から引っ越すか、寿命か病気で死ぬだろ。そしたらそれで終わり、モルムが命張ってたものもあっけなく無くなる」僕も頭に血を昇らせて言った。「君にとっては身も蓋もない言い方だろうけど、俺らは誰も土地の為に生きているわけじゃない。生きる為にある程度の場所が必要なだけであって、土地の為に死ぬなんて本末転倒だ。正直、君達のやっている戦いが、俺には意味のある戦いだと思えない」
「意味があるとかないとかいう次元ではない。人間の尺度で計るな。わたしには赤羽しかなくて、赤羽を守る使命がある。その使命の為に生まれてきた、だから、身命を投げ出す。それの何がいけない?」
「誰がよこした使命だ?」
「え?」モルムが瞬く。
「その使命って結局、俺達人間の思い込みが生み出したもんだろ? モルムはモルムだ。小人だかなんだか知らないし、存在自体も俺にはよくわからんけど、そこまで真剣に自分の生き方を考えられるなら他の生き方も選択できるくらいには賢いはずだ。それなのに、わざわざ馬鹿な人間の馬鹿な意地にかぶれんなよ。土地なんていう誰の物でもないもんに命懸けたり、命以上の価値を見出すな。そんな馬鹿をさせる為にリポD買ってやったわけじゃないんだよ、こっちも」
 モルムは僕の気焔に口を噤んだ。
 僕は溜息で排熱し、頭を冷やす。余計なことを言っている自覚があった。コーラを一口飲むと、カラメルの甘味が舌の根まで染み込むようだった。
「とりあえずさ」さすがに気まずくて目を逸らす。「敵がいないとこまで俺が電車で送ってやる。それから、今言ったことを少し考えてみてほしい。モルムがこのまま討ち死にしたんじゃ、俺も寝覚めが悪いからさ」
 モルムはしばらく答えなかったが、やがて思い切ったように、こくんと頷いた。
「すまない。何から何まで世話になってしまって」
「いいよ、別に。勝手なこと喋りまくって悪かったな」
「いや……、いいんだ」彼女は強張った顔を綻ばせる。「少し、気が楽になった。ありがとう、森田」
 僕はこそばゆい心地で頭を掻く。まだ若干のいたたまれなさはあったものの、それほど悪くないムードだった。
 モルムは小人だが、かなりの美人である。悪い奴でも当然ない。そんな女性に微笑まれて何も感じなければ男としてどうかと思う。小人に惚れこむのも人間として相当倒錯しているように思うが、もはや誰にどう思われても構わない。どうやら僕は、本気でこの小人の少女を愛しく思い始めているようだった。
 ところが、諸脇の声が割り込んでせっかくのムードを台無しにしてしまった。
「やめろよ、平然と一人で喋んな。そういうのが逆に怖いんだよ」彼は膝を抱き、恨めしそうに僕を睨んでいる。「ここで一人で寝る身になれよ」
「あ、悪かったな、諸脇。俺ら、もう出るから」僕は背広とコートの袖に腕を通した。「お邪魔しました」
「おいおいおい! ちゃんと冗談でしたってネタバラシしろ! ストレスでハゲたらどうすんだ!」諸脇が僕の腰にしがみつく。
「大丈夫、心配すんな。連れて帰るから」僕は革靴を履きながら、にやにや答えた。「また今度、釣りでもしようぜ。アディオス、諸脇」
 そうして、玄関のドアを開けた時だった。
 視界に飛び込んできた光景に、僕は戦慄して立ち尽くした。
 諸脇の部屋はアパートの一階の端にあって、部屋から出ると侘しい電燈の点る共用通路がある。敷き詰めたタイルは何の変哲もない鼠色のはずだったが、その時だけは様相が違っていた。
 夥しい黒点の集まりによって廊下は闇の色に支配され、群がったその一つ一つがぞわぞわと蠢いていた。一瞬、ゴキブリの大移動に出くわしてしまったのかと思い、僕は体の臓器が全て足の方へ下がるのを感じた。
「まずい!」モルムが叫んだ。「サイタマ軍だ!」
 
 ◇

「ウェーイ、ウェーイ」と禍々しい黒色に染まった小人達が呻いていた。それが大合唱となり、アパートの共用通路は僕にだけ聞こえる不気味なリズムに包まれている。
 僕は恐怖に総毛立ち、玄関口で硬直していた。あのおぞましさは死ぬまで忘れないだろう。
「森田!」
 モルムの一喝で我に返り、僕はしがみつくようにドアの取手を握る。しかし、結束した小人達によってドアを逆側へ押さえつけられてしまった。「ひゃああ」と情けない悲鳴が喉から漏れた。
 モルムが古風で粋な着物姿であるのに対し、サイタマ軍の小人達は一様に現代的で野暮ったい服装だった。だぼついた上下のスウェットにダウンジャケット、不似合いのサングラス。それら全てが黒で統一されている。ダサい。死ぬほどダサい。ダサイタマ……。
 なるほど、こいつら埼玉県民だ。
 激しい恐慌に陥りながらも僕は妙に納得してしまった。
「森田! 閉めるんだ!」モルムが叫ぶ。
 咄嗟に足払いを繰り出し、ドアを抑える小人達を一掃した。そのまま、渾身の力でドアを閉じる。震える手で鍵をかけ、念入りにチェーンまでかけた。
 ぶわっと冷汗が浮かんだ。
 こわっ!
 なんだあれ、こわっ!
 耳を澄ますと、ドアの向こうでざわざわする気配が感じられた。かりかりと、爪で引っ掻くような音もする。背筋が凍りつきそうな響きだった。
「サイタマ軍が集まってきている」モルムが切迫した声で言った。「わたしを狙って来たんだ」
「モルムを?」僕の声は無様に掠れている。
「わたしは赤羽軍の生き残りだから……、残党狩りだ」
 マジかよ。
 僕は絶望して空気を吐いた。とんでもないことになってしまった。
「おい、今度は何だ?」
 振り返ると、中腰になった諸脇が目を白黒させていた。
「すまん、諸脇、大丈夫じゃないかも」
「な、何が?」
「ここ、離れたほうがいいかもしれん」
「何なんだよぉ」また泣き出しそうな顔になった。「俺、失恋中なんだよぉ」
「人間に危害は加えないはずだ」モルムがドアを睨みながら言う。
 ばん、とドアに何かがぶつかった。僕達は息を止め、無意識に玄関から距離をあけた。声は聞こえないが小人の立てる物音は聞こえるらしく、諸脇が泡を吹いてまた念仏を唱え出した。
「本当に危害、加えないか?」僕は尋ねる。
「たぶん……」モルムは自信がなさそうだ。「いや、しかし、あれだけの大軍を見るのはわたしも初めてだから、なんとも……」
 ひときわ強く、ばん、とドアが叩かれる。
「扉を破ろうとしている!」モルムが身構えた。
 いつの間にか、彼女はまち針のような武器を構えていた。どこから取り出したのか知らないが、ますます一寸法師っぽさに拍車が掛かる武器である。
「そんなこと、できるの?」僕は気が遠くなる思いだった。
「あれだけの数が集まればできるのだろう」
「無駄に結束力が強いからな、田舎者は。これだから嫌になる」僕は玄関とは反対側の窓へ向いた。「あっちから逃げよう!」
 僕は肩にモルムを乗せ、腰を抜かした諸脇を引っ張って窓へ向かった。幸い、小さなベランダにはサイタマ軍の姿がなかったが、玄関では物凄い打撃音が執拗に続いていた。
 ベランダの縁を乗り越え、狭い路地を赤羽駅へ向かって駆け出した。血相を変えて走る僕達に、帰宅途中らしいサラリーマンが驚いて道を譲った。助けを請おうかとも考えたが、ずっと後ろから虫の羽音のような足音が追ってきていたので、立ち止まるわけにいかなかった。
「な、なんか、やばそうなのはわかる!」諸脇が走りながら言った。「でも、これからどうすんだ!」
 そんなこと、僕が訊きたいくらいだ。でも、とにかく逃げるのに必死で答えられなかった。
 駅前へ向かう通りに出ると、運良く空車のタクシーが通りかかるところだった。並走する恰好で呼び止め、ドアが開くのと同時に後部座席へ転がり込んだ。
「都心まで!」
「都心って、どこですか」運転手のお爺さんが防犯用の仕切板の向こうで苦笑した。「場所を言ってもらわないと」
 黒い波と化したサイタマ軍がそこまで迫っているのが見えた。僕は気が狂いそうなもどかしさで、「銀座!」と適当に叫んでいた。
「銀座?」運転手が驚く。「結構、掛かりますよ? まだまだ電車動いてる時間だし、そっちで行ったほうがいいんじゃ……」
「いいから! ドア閉めて、早く!」
「ゴゴモンズ、ゴゴモンズ」
 不吉な低い呻きが耳に届く。
 諸脇が泣き声を上げた。
「閉まらないぞ!」
「あれ、故障かな」運転手が首を捻った。「申し訳ないんですけど、手で閉めて頂けます?」
 諸脇がそれをしようとしていたのだが、追いついた小人達が先ほどのようにドアを押さえつけているのだった。
 モルムが諸脇の膝元へ飛び込み、車内へ侵入した小人を見事な針さばきで突いた。精確に眉間を貫かれた小人は体を震わせ、溶けるように黒煙へ還っていく。どうやら死んだら屍を残さないらしい。もう、わけがわからない。気を失いそうだ。パニクる僕を嘲笑うかのように、小人達はわらわらと侵入してくる。
 やはり本調子ではないのか、それとも数に圧倒されたのか、モルムは苦戦しているようだった。僕は咄嗟に身を乗り出し、彼女へ襲いかかろうとしていた何体かを手ではねのけ、ドアを抑えている小人どもを一人残らず蹴飛ばした。「シマムラー」と断末魔の声を残し、サイタマ軍の先鋒部隊が車外へ吹っ飛んでいく。
 ドアを閉めると、運転手は「すいませんねぇ」と呑気に詫び、タクシーをゆっくり発進させた。無知は罪だが、心底羨ましいものだと僕は知った。
 諸脇の顔はもう蒼白いのを通り越して真っ白だった。姿こそ見えないが、異形の気配を察している彼にはむしろ耐えがたい恐怖かもしれない。かくいう僕も、すっかり血の気の失せた顔でいただろう。戦闘を終えたモルムも肩を上下させ、息を詰めるように黙りこくっていた。
 幸いにも車道に先行車は見当たらず、タクシーが加速するにつれ、後ろのサイタマ軍も離れていった。それを視認し、僕はようやく人心地がついてシートにもたれた。
「すまない、森田」モルムが僕の膝に立って詫びた。「巻き込んでしまって」
 まだ体が震えていたものの、僕は精一杯の強がりで笑ってやった。
「成り行きだから仕方ないさ」
「怪我はないか?」
「強いていえば、足が攣りそうなくらいだな。モルムは?」
「大丈夫だ」彼女はまだ申し訳なさそうな顔つきだった。「わたしのせいで、本当にすまない。諸脇にも伝えてくれないか?」
 僕は隣の諸脇を小突く。放心していた彼は殴られたように目をぱちぱちさせた。
「な、何?」
 可哀想に、彼はその質問をこの短時間でどれほど口にしたのだろうか。
「モルムがすまないってさ。巻き込んで申し訳ないって」
「本当だよ」と諸脇はやさぐれて呻く。「もう、誰のせいでもいいけど、責任とれよぉ!」
 僕は冴えない笑みを浮かべ、モルムに肩を竦めてみせた。
 しかし、彼女は踵を浮かせて背伸びするようにして、諸脇のいじけた表情をじっと睨んでいるのだった。

 ◇

「わたし、諸脇を知っている気がする」
 モルムがそんなことを呟いたのは、タクシーが文京区に入った時のことだった。時刻は午後九時を回っていたが、東京のオフィス街にはまだまだ帰宅途中の勤め人が歩道を行き交っている。それを遠い心地で眺めていた僕は彼女へ振り向いた。
「もう一緒に修羅場をくぐった仲だからな。ブラザーだ」
「馬鹿、そういう意味じゃない」モルムが首を振る。「森田と会うよりも前から諸脇を知っていた気がするんだ」
「どういうこと?」
「初めて会った気がしない。ずっと前から知っているような……」彼女は針を斜めに抱え、思案するように腕組みをした。「上手く言えないんだがそんな気がする」
「また肝心なとこでふわっとしてるな」
 諸脇はモルムと話す僕をちらちら見ていたが、口を挿みはしなかった。立て続けに怪奇現象に見舞われ、とにかく休息したかったのだろう。自分が話題に上がっているなんて思ってもいない様子だった。
「赤羽に住んでいるから同族意識ってのができてんじゃないの?」
「こいつはまだ森田と同じサイタマ側の人間だ。わたしにはわかる」
 ふぅん、と相槌を打ってから、僕はふいにある推測に思い至った。
「ひょっとして、モルムの本体って諸脇なんじゃね?」
「は?」と諸脇が反応したが、僕は無視した。
「それはない」モルムが否定した。「言ったばかりだろ、諸脇はまだサイタマ側の人間だ。むしろ、さっき撒いたサイタマ軍の中に分身がいたかもしれないくらいだ。わたしの基になっているとは考えられない」
 僕は下唇を突き出す。まだアドレナリンが抜けきっていないが、切迫した状況を映画さながらに切り抜けた今は、推理ごっこに興じられるくらいの余裕を取り戻していた。我ながら現実逃避が巧みである。
「じゃあ、諸脇を知っている人間って可能性は?」
「え?」諸脇がまた振り向く。
「あぁ、そうか、それはあるかもしれない」モルムは彼を無視して頷いた。「途轍もない偶然だが、わたしを生み出した人間が諸脇と親しいというのはありえる。それも顔見知りなどでなく、もっと深い仲にある人物だろう」
「深い仲……」
「たとえば、家族や恋人や友人などだな。もちろん、赤羽に長く住んでいる人間という条件付きで」
「でも、こいつ、ずっと埼玉に住んでたし、高校も大学も埼玉の学校だったし、東京の知り合いでそんな奴は……」
 僕は言いかけ、そして息を止める。刹那、閃きが電流のように脳裏を走ったのだった。
「そうか! 一人いる!」
 反射的に隣の諸脇へ振り返った。彼はあっけにとられて僕を見返す。
「な、何だよ?」
「諸脇はそもそもなんで赤羽に部屋を借りたんだ?」
 問いかけると、彼は明らかにうろたえた。
「なんでって、別に……、そろそろ独り暮らしやんなきゃなぁと思って」
「だから、なんで赤羽だったんだよ。お前の職場、神保町だろ? アクセスも悪いし」
「か、関係ないだろ」
「関係あるかもしれないんだ。答えろ」
 親友から不可解な気迫で迫られ、躊躇していた諸脇はすぐに音を上げた。
「彼女の家が、近かったからだよ」
 やはり、と僕は頷く。思った通りだった。
「彼女?」モルムが首を傾げた。「誰のことだ?」
「違うよ、恋人っていう意味だ。諸脇の彼女、つまり恋人ってこと。あ、いや、もう元カノか」
 僕が訂正すると、諸脇はぐしゃっと顔を歪めた。去年のクリスマスからずっと見せつけられ、この頃ではすっかり見飽きた顔芸だが、相当に惚れ込んでいたのだけは伝わる男泣きだった。
「モルムの本体は諸脇の元カノだ」
 泣き出した諸脇を放って、僕はモルムに告げた。
「どうして断言できる?」当然ながら彼女は上手く飲み込めないらしい。
「理由は二つある。一つはモルムの顔。もう一つは、最近の君の不調だ」
「わたしの、顔?」モルムは自分の顔を指した。「どういうことだ?」
「諸脇の元カノはハーフなんだ。だよな、諸脇?」
 僕が確認すると、親友はやけくそのようにぶんぶん頷いて答えた。
「母親がフランス人。小学生の頃から日本で暮らしてる」
「モルムの顔は外国人っぽいだろ。それも西洋系だ。ぴったり当てはまる」
「フランス? よく、わからんが……」モルムはまだ腕組みして首を捻っている。「わたしの不調とはどう結びつくんだ?」
「諸脇、彼女と別れた理由はなんだっけ?」
 諸脇は海岸に打ち上げられた魚のような息遣いをした。まだ癒えない生傷を抉るような真似をして、僕も友人として心を痛めたが、ここまで来るとどうしても今一度の確認をしておきたかった。
 嗚咽の隙間から、彼は震える声で漏らした。
「パリに帰っちゃうんだよ、あっちゃんは」
 ちくしょう、ちくしょう、と繰り返す彼をモルムはまだ怪訝な顔で見つめていた。

 ◇

 藤木阿里雅(アリア)さんというのが、奥手で繊細な性格の諸脇が人生で初めて交際した女性の名前だった。
 小学校中学年の時、彼女は日本人である父親の仕事の都合で、花の都パリから東京の北の玄関口である赤羽に移り住んだ。以後、現在に至るまで家族と共にそこで暮らしている。
 阿里雅さんと諸脇は共通の友人を介して知り合った。諸脇は出会い頭のひとめ惚れで彼女に夢中となり、阿里雅さんは阿里雅さんで、諸脇のシャイで一途で意外と男らしい一面を好きになったのだという(諸脇談)。今からちょうど一年前に二人は付き合い始め、唐突な破局を迎えたクリスマスまでは仲睦まじいカップルでおったそうな。
 正座して耳を傾けていたモルムが挙手をした。
「森田はその女に会ったことはないのか?」
「会わせてくれなかったんだよ。こいつに彼女ができたのだって、俺はずっと知らなかった。付き合いが悪くなったなぁ、とは思ってたんだけど」
「じゃあ、諸脇が赤羽に住み始めたのはその女の為だったんだな?」
「将来の同居を見越したのと、自立できてる男アピールしたいが為に実家を出たんだ。同居が始まったら、俺や地元の友達を呼んでサプライズで会わせるつもりだったらしい。びっくりさせたかったんだってさ」
「阿呆か」モルムがばっさりと切り捨てる。「女をびっくり箱扱いするな」
 泣いている当人にも聞かせてやりたかった。
 阿里雅さんが何を思って帰国を決意したのかはわからないが、ここではそれはあまり重要な事柄ではない。肝心なのは、阿里雅さんの意識が赤羽でなく、すでに海の向こうのパリに向いてしまっている事実だ。それによって、彼女の分身たるモルムが弱体化しているのである。
 モルムは少なからず衝撃を受けたようだった。
「それならわたしは……、わたしも最初は余所者だったということか?」
「モルムは、いつから赤羽で戦士やってんの?」
 彼女はしばらく記憶を辿っていたが、やがて諦めて首を振った。
「思い出せない。気付いた時にはもうこうなっていたから……、ずっと昔からだとしか言えない」すると、彼女はネジが外れたようにけらけら笑い出した。「傑作だな。わたし自身が、最初は赤羽軍の敵だったなんて!」
「お、おい、正気を保てよ」
「正気だ。狂っている場合ではない」モルムがムッと眉を寄せた。「諸脇に伝えてくれ。その女のところに連れて行け、と」
「え、なんで?」僕は驚いて訊く。
「わたしなりのけじめだ」
「おい、まさか、無理心中なんてこと……」
「するか、馬鹿。違う。ただ……、顔を見て、礼を言いたいだけだ」
「礼って、何の?」僕は戸惑う。
「わたしを生み出してくれて……、赤羽を大事に想ってくれて、ありがとうと言いたい。立派な使命を与えてくれて、とても誇らしかった。本人には聞こえないだろうが、ちゃんと顔を見て礼を告げたいんだ。その後で、改めてサイタマ軍と戦おうと思う」
 僕は黙って彼女を睨む。
 モルムが察したように笑いかけた。
「その女に会えば、赤羽への思念の残滓を得られるかもしれない。もしかしたら、活力が戻ってくるかもしれないだろ。そうしたら、他の領土の戦士達と結託してサイタマ軍を追い払えるかもしれない」
「嘘つけ」僕は睨みつける。「死ぬ気だろ」
 彼女は息を漏らし、小さな左手を、そっと僕の右手の上に置いた。
「わたしは幸運だ。森田と出会ったおかげで、自分を生み出した人間が知れて、自分の運命がわかった。このままだとわけもわからずに消えていくところだったからな」
 モルムは車窓越しに夜空を見上げる。ビルの遥か向こうにネオンよりも明るい冬の満月が浮かんでいた。
「もしかしたら、神様が森田と引き合わせてくれたのかもしれないな。お前がわたしを見つけてくれたおかげでこうなった。ありがたいことだ。あとは戦士としての、わたしの務めを全うするだけだ」
「そういうのを心中っていうんだ」
「頼む」モルムは手をついて頭を下げた。「森田がさっき言ってくれたことの意味もしっかりわかっている。人間の都合の為に命を懸けるなと……、わたしの為にそう言ってくれる森田の気持ちはとても嬉しかった。でも、やっぱりわたしは赤羽の為に、そこに住む者に代わって戦う為に人間から生を受けた。それを否定するのは自分の存在を否定するのに等しい。それならば、わたしは最後まで使命を全うしたい。人間の都合ではなく、わたしの、わたしだけの意思で、それをやり遂げたいと考えているんだ」
「いや、だけど……」僕は言い淀む。
「わかってくれ」モルムは続けた。「人間にとっては取るに足らないものでも、わたし達にとってはかけがえのないものなんだ。世話になりっぱなしの身で言えることではないかもしれない。だけど、頼む、最後の幕引きだけはわたしの思うようにやらせてくれ。この通りだ、森田」
 モルムは小さな体をさらに小さく折って懇願する。
 僕は自分の鼓動が疾駆しているのを感じた。
 我を押し通すか、モルムの意思を尊重するか、決断を迫られていた。
 頭を抱えてしまいたくなる。
 諸脇の部屋でモルムに話したのはけして勢いだけの言葉ではない。土地に執着するなんて馬鹿らしいことだと本心から思っている。そんな馬鹿馬鹿しい目的の為に、たったひとつしかない命を投げ出すなんてもっと馬鹿げている。どんな生物も土地の為に生きているわけではない。地に根を張り、恩恵を受け、精神の根幹の一部を成しても、その土地の為に死んでいいわけがないのだ。
 それでも……。
 僕が否定できることではない。本来、そんな権利は誰にもないのだ。
 たとえば、もう帰って来ない誰かを、帰って来ないことを薄々理解しながら、それでも待とうとする人の肩を叩き、「無駄なことだ」と言える権利が誰にあるだろうか。それはもう信仰と同じだ。いくら傍目には徒労に見えても、それに懸ける者達を否定できる権利は誰にもない。
 他人が言える言葉はただ一つ。
「僕の為に生きてくれ」というわがままだけ。
 それが通じなければ、もう言葉の出る幕はない。踏みにじるか、見届けるかのどちらかだ。
 僕はモルムの意思を踏みにじれない。僕よりもずっと小さいはずの彼女を、僕は潰すことができない。なぜなら、彼女は僕よりもずっと崇高な生命を全うしてきたからだ。自分ではなく人間達の為、使命を帯びて戦ってきた存在だからだ。口先だけの主張でなく、本当に命を張って行動してきたのだ。
 そうか……。
 やっとわかった。
 世界中で今なお続く領土問題、それに人生を懸けて戦う人々の精神を、今なら理解できる気がした。立場はそれぞれ違えども、彼らは己の為でなく、後世の人々の為に必死になっているのかもしれない。帰ってくる子供を迎える母親のように、彼らは誰かの家となる場所をひたすらに守ろうとしているのかもしれなかった。
 敵うはずがない。
 僕一人のわがままが通じるはずなかった。
「わかったよ」僕はゆっくり頷く。口の中がからからに乾いていた。
「ありがとう」モルムは言った。「森田のことは命が果てても忘れない」
 その言葉に力なく笑い、僕は諸脇に振り向いた。
「阿里雅さんの住所を教えてくれ。今から会いにいくぞ」
「えええ!」と彼は仰け反った。「なんでそんな話になってんだよ!」
「堪えてくれ。モルムの為だ」
「俺の為も思えよ!」彼は蒼褪めた顔で言い返す。
 僕は友人に取り合わず、代わりに運転席へ声を掛けた。
「すいません、赤羽に戻ってもらえます?」
「えええ!」と運転手も仰天した。「もう銀座に着きますよ!」
「マジすんません、お願いします、急用なんです」
 僕が懇願すると、運転手はぶつくさ言いながらもハンドルを切ってUターンしてくれた。こうして、僕達を乗せたタクシーは再び、サイタマ軍の手に落ちた赤羽へと戻り始めたのだった。
 モルムはドアの縁に立ち、車窓に流れていく東京の街並みをずっと見送っていた。今生の見納めとして、自分が守ってきた街の姿を眺めていたかったのだろう。僕はそれを察して言葉は掛けなかった。あとはもう、天命を座して待つ心境だった。

 ◇

 とんでもない金額になった運賃をクレジットカードで払い、嫌がる諸脇を引き摺り出して、僕達は赤羽の地を再び踏んだ。夜道にサイタマ軍の姿はなく、即時襲撃を懸念していた僕は拍子抜けした。だが、油断はできない。奴らが集まってくるのも時間の問題だろう。
 阿里雅さんのお宅は赤水門近くの住宅地にあった。
 モダンな新築の住宅がぽつぽつと目立つ中、阿里雅さんの住居は瓦で屋根を葺いた、昔ながらの木造家屋だった。正面入口は小さな冠木門に閉ざされていて、それなりに裕福な家柄なのがわかる。
「無理だって! マジ無理だから!」諸脇は電柱にひっついて喚いた。「どんな顔して会えばいいんだよ!」
「どんな顔でも阿呆面だから諦めろ」僕は彼を引っ張る。「ほら、呼び出せって。インターホンでも電話でもいいから、とりあえず阿里雅さん呼び出せ」
「なんて言って呼び出せってんだ! 最後の日は大喧嘩だったんだぞ! ラインも既読つかんし!」
「いいんだよ、適当で。用があるのはモルムなんだ。なんならお前、ヨリ戻してパリ行きを阻止しちまえ」
「軽くいうな、馬鹿! 怒るぞ!」
 ここまで振り回されてもまだ怒らないのが諸脇の愛すべきところである。
 モルムは近くの石塀の上に立ち、呆れた顔で僕達を眺めていたが、ふと何者かの気配を察知して僕を呼んだ。
「誰か来るぞ、森田」
 僕は思わず振り返る。
 路地の奥から、パンプスをこつこつ鳴らして人影が近づいてきた。スーツ姿の長身の女性で、どうやら仕事帰りのようだ。黒い長髪が街灯の明かりに艶めいたのが印象的だった。
 モルムが小さく口を開けて目を丸くした。僕も、諸脇を引っ張るのを忘れてその女性に見入ってしまった。
 現れたのは藤木阿里雅さん、その人だった。
 言葉も交わさぬうちからそうと見極められたのは、彼女がモルムと瓜二つだったからである。西洋の血が混じった美貌は瞬きを忘れさせるほどで、小人との相違は全体的にやや大人びた造形になっているのと薄く塗られた化粧だった。
 阿里雅さんは電柱を挟んで格闘する男達を警戒しながら自宅の門を開けようとしたが、諸脇の存在に気付くと目を大きく瞠った。
「たっちゃん?」彼女は驚愕したようだ。「そこで、何してるの?」
 ちなみに、辰雄というのが諸脇の下の名である。たっちゃんという愛称の由縁だろう。
「あっちゃん……」
 諸脇も阿里雅さんを愛称で呼び、しばらく固まった。
 たっちゃんあっちゃん元カップルに挟まれ、僕はかつて経験したことのない類の冷汗を背中にかいた。大気から酸素が消失したように感じられ、まるで宇宙空間に放り込まれたかのようだった。
「あ、藤木阿里雅さん、ですよね?」僕はあぐあぐと息を継ぎながら言った。「俺、諸脇の友人で森田といいます。初めまして」
「はぁ……」彼女は身じろぎしてこちらを見る。「あの……」
「連絡もなしに突然押しかけてしまってすいません。あの、お二人が別れたことは俺も知っています。部外者が口を挿むことでないのも重々承知しています。ですが、えっと、こいつ、クリスマスに阿里雅さんと別れてからずっと、半端なく落ち込んでおりまして、友人としても胸が痛む次第なのでございますよ」
 僕は必死に言葉を継ぎながら、横目でモルムを窺う。モルムはまだ呆けて阿里雅さんを見つめていた。
「それで、あの、出過ぎた真似とは思いながらも、今一度、お二人でよくよく話し合ったほうが良いと考えまして、こうして連れてきたわけなのです。二人の事情を全て把握しているわけではありませんが、最後が喧嘩別れだったことも聞いています。それで、なおさらいかんなと考えまして……」
「もう会わないって言ったじゃん」阿里雅さんは僕を無視し、冷たい視線を諸脇に向けた。「こっちの話も聞かずに、一方的にお店出ていってさ」
「だ、だって、そんな、突然切り出されたから、俺もどうしていいかわからなくて……」諸脇がもごもご弁解する。「いきなりフランスに帰るとか……、俺、あっちゃんと暮らす為にアパートも借りたのに」
「だから、なんでそれ、わたしに相談しなかったの? なんで勝手に決めたわけ? しかも、赤羽って……、実家からめっちゃ近いし!」
「それは、あっちゃんが家族と仲良いから、遠くだと寂しいかなぁと思ったんだよ。ていうか、勝手に決めたのはあっちゃんもでしょ。いきなり、パリに帰るとか……」
「うるさい! ていうか、何なの、これ? あれだけひどいこと言っといて、知らない人達の前で大恥を晒して、もう会わないからなって啖呵切っといて、友達に唆されてのこのこやって来たわけ? 自宅前で張り込みとか……、馬鹿じゃないの? こういうの、ストーカーっていうんだよ」
 阿里雅さんが鉄仮面を被ったような威圧感であるのに対し、諸脇は閉め出しを食らった子犬のようだ。痴話喧嘩が本格的に勃発する前から、すでに勝敗は決しているようだった。
 モルムは思い詰めたように阿里雅さんを見据えていたが、ふっと息を漏らし、深々と彼女へ一礼をした。それから、吹っ切るようにして僕の方へ向いた。
「もういい」彼女は僕の肩へ飛び移った。「しばらく、二人だけにしてやろう」
 願ってもない提案だったので僕は頷き、すぐさま二人へ声をかけた。
「あ、俺、外したほうがいいっすよね?」
「当たり前でしょ!」阿里雅さんが般若の形相で答えた。「てか、何なのよ、あんた! へらへらしやがって! 見世物じゃねぇぞ、コラ!」
 僕は諸脇からの無言の救助要請を黙殺し、そそくさとその場を離れた。苛烈さを増す二人のやり取り(というより阿里雅さんの糾弾)が背中越しに聞こえ続けていたが、友人へのせめてもの配慮として聞き耳は立てないようにしておいた。
「フランス行きの決心は固そうだ」モルムがぽつりと言った。「ただ、まだ少し迷っているようだな。この土地への未練も残っている」
「諸脇が来て動揺したんだろ」僕は頷いた。
「でも、よかった。わたしの生みの親が、ああいう気丈な女で」モルムは本当に嬉しそうだ。「不足はない。諸脇みたいな根性なしにはもったいないくらいだ」
「友人として複雑だな」僕は苦笑した。
 路地の突き当たりまで歩いた。ここで道は丁字路になって左右に分かれている。人気は全くなかった。幹線道路からも距離があり、隅田川と荒川の水流が聞こえてきそうなほどこの一帯は静かである。
 僕は溜息と一緒に言った。
「どうにもならんのか」
「ならんな」モルムは首を振った。「わたしは赤羽の戦士だ」
 そう、と僕は相槌を打つ。
「わたしのせいで、森田には迷惑を掛けたな」
「別にいいよ……、小人と会ったっていうレアな経験もできたし」
「お前、結構良い奴だよな。最初はいけ好かない奴だと思ったが……、サイタマの人間にしておくにはもったいないくらい良い奴だ」
 その物言いに僕は一抹の寂しさを覚えた。だけど、それを表情に出さないよう笑みを繕った。
「埼玉も、わりと良い所なんだけどね」
「わかっている。気風の良い土地からは気風の良い人間が出てくるものだ」モルムも笑い返した。「今度生まれてくる時は森田の分身がいいな。サイタマ軍の戦士として」
「で、あのダサイ恰好すんの?」
「それはちょっと嫌だな」
 僕達は息を漏らして笑い合う。
 モルムも寂しがってくれているのが、僕には救いだった。
 もうあまり時間は残されていない。
 左右の路地の暗がりから、気配が迫ってきているのが見ずともわかった。モルムの存在を感じ取り、サイタマ軍が再び集まり始めているのだ。阿里雅さんと諸脇の言い争う声に混じって、呪詛のような低い呻きが僕達の耳に届いていた。
「阿里雅さんと会えたけど、調子はどう?」
「少しは良くなったようだ。体が軽い」モルムは腕を伸ばして答える。「胸の内で礼も告げた。これで悔いなく戦える。森田は、もう行ってくれ。ここにいたら危ないかもしれない」
 小人達の気配を肌に感じながら、僕は目を閉じて深呼吸をする。それから瞼を開け、路肩に捨てられていたビニール傘を拾い上げた。
「俺も、手伝うよ」
 モルムは予想していたように僕を見た。
「あいつらの狙いはわたしだ」
「じゃあ、俺が攻撃されることもないだろ」
「やめておけ。あの大軍だぞ、どうなるかわからない。さっきだって諸脇の家の扉が壊されそうになっただろう」
「大丈夫。俺、『三國無双』とか上手いから。一騎当千っての、一回やってみたかったんだよね」
 必死に冗談を飛ばしたが、当然ながらモルムには通じない。虚勢も見破られていただろう。僕の膝が、がくがく震えていたからだ。
「無理するな」彼女は諭すように言う。
「したくないけど、ここで無理しなかったら、死ぬまで後悔するだろ」僕は笑みを引き攣らせて答えた。「モルム、言ってたろ、俺らが出会えたのは神様のおかげかもって。それなら将来死んだ時、俺はあの世で神様に怒られる。お前はなんであの時モルムを一人で戦わせたんだって。嫌だろ、死んだ後もそんなふうに詰られるのは。モルムと同じだ。俺だって悔いのない人生を送りたい。こういう時ぐらい、カッコつけさせろ」
 モルムは無言で僕を見つめていたが、やがて噛み締めるような微笑を浮かべた。白い頬をわずかに紅潮させて、まるで人間の少女のようだった。
「ありがとう、森田。カッコいいぞ、お前」彼女は僕の頬に触れた。「会えて本当によかった。とても嬉しい」
 そう語る少女の手の温もりが、肩の重みが、僕には堪らなく切なかった。
 小人達のざわめきが一層騒々しくなる。もう悠長にしていられないようだ。
 モルムは深く息を吐き、路地の暗がりに蠢く小人達を見据える。その横顔はすでに戦士の顔つきだった。僕も傘をバットのように構え、鼻息荒く腰を据えた。
「じゃあ、行こうか」僕は言う。
 モルムも針を構えて頷いた。
「頼りにしているからな、森田」
「任せとけ」武者震いしながら僕は言った。「田舎者を追い返してやろう」
 そうして僕達は、闇よりも禍々しいサイタマ軍に向かって突撃したのだった。

 ◇

「カゼガカタリカケマス」
「ウマイ、ウマスギル」
 狂おしいほど聞き馴染みのあるフレーズに耐えながら、僕は足許の小人達を蹴り飛ばし、傘を振るって薙ぎ払った。傍目には気の狂った背広の男が虚空に向かってじたばたしているようにしか見えないだろうが、こっちは人生最大の修羅場を迎えているのである。人目を気にしている場合ではない。
 サイタマ軍は背後の路地からもやってきている。傘をフルスイングしてそちらへ応戦した。路地の向こうでは、阿里雅さんと諸脇がまだ言い争いを続けており、どこもかしこも修羅場の状況だった。
「森田、上だ!」モルムが叫ぶ。
 ぎょっと頭上を仰ぐと、電灯によじ登った小人達が一斉に飛び降りたところだった。僕ではなく、僕の肩にいるモルムを狙っての奇襲だろう。足許に群がる小人達も体をよじ登ろうとするだけで、僕を攻撃する気はなさそうだった。
 咄嗟に傘を開き、降ってくる小人達を防いだ。ビニールの布がばたばたと凄まじい音を立てる。「ジンターン」「メンマー」と呻いて転がり落ちる奴がいた。はるばる秩父から御足労頂いた小人もいるようだ。
 頭上からの奇襲に気をとられ、敵の何体かに肩への登頂を許してしまった。大型の虫に全身を這われているようで甚だ気味が悪い。ばたばた手を振ると何体かが落ちて、叩き損ねた敵はモルムが針で撃退してくれた。黒煙が血風のように辺りに漂う。
「駄目だ、一旦逃げよう!」
 僕は劣勢を認めて駆け出したが、足をとられて転んでしまった。「うあっ」と肩にいたモルムが弧を描いてサイタマ軍の群れへ落ちていく。僕は路面に顎を強く打ったが、痛がる暇もなく彼女の放物線を目で追った。
「モルムっ!」
 うつ伏せの姿勢で腕を伸ばすと、手の甲に黒い小人が飛び乗った。腰パンのスウェット姿で、にたにた笑って僕を見る。
「オレハトウキョウウマレ、ヒップホップソダチー」
 かっと頭にきて壁へ投げつけた。チョーシ乗んな、県民が!
 小人の群れを掻き分けながら、僕はアスファルトを這うように進む。モルムを呼んだが返事はない。救いを求めて諸脇の方を見たが、あちらもあちらで苦戦を強いられているようだった。
「たっちゃんが悪いんじゃん!」阿里雅さんが地団駄を踏んで激昂している。「たっちゃんのそういう甘えたとこ、本当に嫌い!」
 頑張れ、たっちゃん、と僕は心の中でエールを贈った。
「せやっ」とモルムの裂帛の気迫が響く。
 群がったダウンジャケットの隙間で赤い着物が翻り、針がきらりと光った。これだけの多勢を相手取り、モルムも戦いの鬼と化しているようだった。阿里雅さんの微かな思念に触れ、本当にパワーアップしたのかもしれない。
 僕も萎えかけた戦意を奮起させ、除雪車のようにサイタマ軍を蹴散らした。
 諸脇の弱気な声が聞こえる。
「だって、俺、パリなんて行ったことないし……」
「だから、来なくていいって言ってるでしょ! 知ってるよ、たっちゃんに意気地がないことくらい!」阿里雅さんの涙声。あぁ、あれは、女が持つ最強の武器だ。「それでもわたしは一緒に来てほしかった! 来れなくても応援くらいして欲しかった!」
「モルム!」僕は叫んだ。「無事か!」
 敵を斬りつけた彼女がこちらに振り向いた。
「大丈夫だ! 森田は!」
「朝までやれる!」
「嘘つけ! ぜぇぜぇ言ってるじゃないか!」モルムは笑ったようだった。
 ごっ、と鈍い音が響く。
 モルムの体が弾かれ、視界から消えた。
 続く彼女の呻き声。
 一瞬の隙を突かれて、背後から殴打されたらしかった。
「モルム!」
「さっきからうっさいよ、あんた!」阿里雅さんが向こうから僕へ怒鳴った。「どっか行け!」
 頭が真っ白になり、僕は無我夢中にモルムの倒れた辺りへ傘を振るった。とどめを刺そうとした小人達が薙ぎ払われ、夜の虚空へ吹っ飛んでいく。敵が退いた後には粗い息遣いで倒れ伏すモルムの姿があった。
「大丈夫か!」
 彼女は返事もできないようだ。
 拾い上げようと手を伸ばしたが、またも足を掬われ、僕は無様にすっ転ぶ。起き上がろうとした手足を小人達が一斉に抑えつけた。小さいが、これだけ集まられると凄まじい圧迫だ。万事休す。
 もがく僕の鼻先へ、つかつかと小人が歩いてきて立ち止まる。ルーズな恰好に似合わず、そいつだけは軍人のようにきびきびした動作だった。
 明らかに他とは格の違うその小人が、初めてまともな言葉を喋った。
「ジャマヲスルナ」サングラスの奥の目が鋭く僕を捉える。「コロスゾ」
 全身が竦み上がり、僕は何も言えなくなってしまった。
 そいつはモルムの針を拾い上げ、ゆっくりと彼女へ近づいていく。どうやらリーダー格らしく、他の小人達が一斉に場所を空けた。とどめを刺す役目を委ねたようだった。
 モルムは薄目を開け、近づいてくるサイタマ軍のリーダーを睨んでいたが、もう動く気力もないようだった。小さな胸が苦しそうに上下している。
「やめろ!」
 僕は目を瞑りたいのを堪えて絶叫した。
 こんなことして何になる! 同じ関東住民だろうが! 電車一本で行ける距離だろうが! 何も殺さなくたっていいだろ! 仲良く一緒に暮らせばいいじゃんか!
 気付けば涙が浮かんでいた。もう埼玉も東京も、人間も小人も関係ない。目の前で行われようとしている全てが、ひたすらに悲しかった。そして、モルムがこの世界から煙となって消えてしまうのが堪らなく恐ろしかった。
 モルムは自らの死期を悟ったらしかった。諦めたように緩く息を吹き、僕の方を向いて微笑んだ。
「森田」彼女は掠れた声で言った。「ありがとう……、元気でな」
 その額へ、無情にも針の尖端が当てられる。
 僕は獣のように泣き狂った。
 やめてくれ。
 モルムはもう、俺の中で大切な存在なんだ。
 この赤羽だって、もう他人の土地と思えない。
 大切な人がいる、大切な場所だ。
 だから……、頼むよ。
 奪い取らないでくれ!
 そうして身を捻じった、その時だった。
 今まさにモルムの頭蓋を貫こうとした小人を、横から張り倒す者がいた。
 ざわ、と再びサイタマ軍が殺気立つ。
 僕も、それからモルムも、あっけにとられてその闖入者を見た。
 そいつはサイタマ軍の一人だった。他と区別のない、スウェットもジャケットもサングラスも同じものを身に着けた小人である。敵であるはずのそいつが今、モルムを庇い、四方を囲むサイタマ軍を睨んで立ちはだかっているのだった。
 僕は束の間の空白を味わったものの、何が起きたのかすぐに理解した。
 とてもではないが信じ難い。
 奇妙の一言に尽きる。
 それでも、その助っ人の出現に、僕の胸には一縷の希望が芽吹いていた。
 小人が僕へ振り返った。サングラスで目許が隠れていても、その顔を見間違えるはずがない。毎朝毎晩、洗面台で見ている面なのだ。
 小さな僕が、そこにいた。
 彼はゆっくりとサングラスを外し、僕をまっすぐに見る。
「あんたの意思に従って、寝返ってやったぜぃ」彼は片手を掲げて笑い、呆けているモルムへ振り返った。「つーわけで、今から俺も赤羽軍だからよろしく。赤羽防衛、トゥギャザーしようぜ!」
「だっせぇ」僕は思わず笑ってしまった。「ていうか、サングラス死ぬほど似合わんな、俺」

 ◇

 僕の分身は背中に腕を伸ばし、ダウンジャケットの襟首からマッチ棒に似た、いかにも野蛮な棍棒を抜き取った。他にもっとセンスのある武器はなかったのかと言いたくなるが、極限の死地に援軍を迎えた気分で、僕は胸がいっぱいだった。
 サイタマ軍は弱ったモルムよりも、裏切り者を先に始末することに決めたようだ。取り囲んでいた連中が一斉に僕の分身へ襲い掛かった。
 僕も勇んで立ちあがろうとしたが、手足をがっちり押さえられてしまっていて身動きがとれない。モルムもダメージを負って動けない様子だ。僕の分身はどうやら奮闘しているようだが、この大軍が相手ではわずかな時間稼ぎにしかならないだろう。状況は依然として不利だった。
 なんとかしてこの危機を打開できないか、僕は足りない脳味噌をフル回転させた。赤点にリーチの掛かった高校のテスト、大学入試、就職面接などこれまでの人生の逆境の悉くで発揮されてきた持ち前の悪あがきだった。
「森田、赤羽の人間になったのか」モルムが弱々しく笑った。「嬉しいな」
「言ってる場合か。これじゃすぐに埼玉県民に逆戻りだ」僕は言った。「モルム、なんとかして動けないか? 逃げることはできないのか」
「無理だ……、力が入らない」首を振るのも辛そうだった。「またあの感覚だ。思念が薄れてきている」
 阿里雅さんの意識がパリに向いているということか。諸脇の来訪で躊躇したようだが、今ああして喧嘩している間にも決心を固めてきているらしい。つまりは、たっちゃんこと諸脇に愛想を尽かし始めているのだ。
 しかし、全く未練がないわけでもなさそうである。消滅の瀬戸際であるが、モルムが赤羽軍として今も存在しているのが証だ。なんだかんだ言って、諸脇が心残りなのかもしれない。あんな男のどこがそんなに良いのか、中学から知っている僕にはさっぱりわからない。友人としては最高に面白い奴なのだけど。
 それにしても、諸脇は何をぐずついているのか。
 きっぱり別れるなり、ヨリを戻すなり、はっきりすべきではないか。阿里雅さんも彼のなよなよした態度に惑わされているのだ。それがモルムに影響を与えていることを知ってほしい。こういう局面で、ぐいっといくべきはやはり男の方だろう。男を見せろ、諸脇、男を。
 頭の片隅で考えていた、その時だった。
 まさに天啓と呼ぶべき閃きが僕の許に訪れた。
 思わず身震いし、天を仰ぐ。
 神様は、本当にいるのかもしれない。
「見苦しいぞ、諸脇っ!」僕は腹の底から叫んでいた。
 返事は無かったが、彼が茫然とこちらへ振り返ったのはわかった。僕は怒鳴りまくる。
「ぐずぐずしてんじゃねぇ! 男だろうが! はっきりしやがれ!」
 僕の分身が息絶えたのが、直感的にわかった。絶え間なく昇る黒煙の一つに、それを見極めることができた。これだけの数の敵だ、善戦したほうだと思う。よくやってくれた、ありがとう、と惜しみない賛辞を胸の中で贈った。
 あとは、あの根性なしの友人が上手くやってくれれば。
 僕は力の限りに身を反らして咆哮する。
 行け、諸脇!
 がっと行け、がっと!
「俺、あっちゃんのことがまだ好きだぁ!」
 僕の熱気に背を押され、諸脇もまた呼応するように吠えていた。
「パリでもどこでもついていく! ついていって、あっちゃんを支える! だから……、だから、俺ともう一度、今度は結婚を前提に付き合ってください!」
 うお、そこまでいくか。
 氷柱をぶちこまれたように背筋が凍った。
「おぉ」とモルムが感嘆する。「やれば、できるじゃないか」
 確かに度胸は認めるが、相手は自分を捨ててパリに飛ぼうとしている人だ。その状況でヨリを戻すのも絶望的であるのに、求婚など勝算が無いにも程がある。はっきり言って阿呆だ。阿呆の極みだ。
 いくら待てども、阿里雅さんの返答はなかった。
 僕は必死に首を捻じって二人の方を窺う。彼女が諸脇を置き去りにして自宅に引っ込んでしまったのだと思ったのだ。そうなると、もう全てが終わりに等しかった。
 しかし、そうではなかった。
 なんと。
 二人は抱擁し合っていた。
 互いが互いの肩に顔を埋め。
 強く抱きしめ合い。
 まるで月曜日のドラマのよう。
 あぁ、もう……。
 僕は堪らず苦笑した。
 勝手にやってなさい、阿呆どもめ。
「絶対だからね!」阿里雅さんが泣きながら言った。「パリで待ってるから!」
「絶対、行く!」諸脇もぶんぶん頷いた。「パリジェンヌのあっちゃんと結婚する!」
 二人がうわんうわんと声を上げる。その嗚咽が赤羽の夜の路地に渦を巻いて響き渡る。なんというのか、スタッフロールが流れてきそうな光景だった。
「ソーナン? ソーナン?」
 小人達の声がする。サイタマ軍が囁いているのだった。
「ドースル? ドースル?」
「ナエルワー」
 彼らはきょろきょろと隣の顔を見合っていた。
 僕は慎重に手足を動かす。すると、拘束が解かれた。もう彼らに戦う意思はないようだった。
 あれほど苦しそうだったモルムが、今はきょとんとして体を起こしていた。何度も瞬きをし、襲ってこないサイタマ軍を警戒しながら、不可解そうに僕へ向いた。
「森田? どうなってる? 攻撃が止んだぞ」
「やっぱりね」僕は仰向けに寝転がり、深い溜息を漏らした。「よかったぁ」
「なんだ? 何がどうなったんだ? 体が軽くなっているぞ」モルムは立ち上がり、僕の傍へとことこ駆け寄った。「森田、何かしたのか?」
「違うよ。阿里雅さんのおかげだ。彼女が踏ん切りをつけてくれたおかげ」
「あの女が? どういうことだ?」もどかしそうに彼女は僕の頬へ触れる。「説明してくれ」
 僕はモルムを掌に乗せ、痛む顎をさすりながら立ち上がった。足許に広がる小人達は僕達にすっかり興味を失くした様子で、まだ互いに疑問符を投げ合っていた。
「ここにはもう、赤羽軍の戦士はいないんだ」僕は小人達を見下ろし、肩のモルムへ笑いかけた。「モルムはもうパリの戦士なんだよ」

 ◇

 サイタマ軍は「ブクロデモイク?」と囁きながら散り散りになり、夜道の路傍の闇の中へ消えていった。僕達と死闘を繰り広げたというのに、まるで花火大会が終わった後のような余韻である。僕は丁字路の壁にもたれながら去っていく彼らを疲れた目で眺めていた。
「じゃあ、阿里雅の赤羽への未練が無くなったから、わたしは赤羽軍からパリの戦士に変わったということか?」
「それ以外にない」僕はモルムへ頷く。「あんまり遠すぎて、埼玉の連中もパリに対抗心とか嫉妬を持っていないんだろう」
 僕にとってもパリなんて身近な街ではない。エッフェル塔、お洒落な都市というくらいの漠然としたイメージしかないのだ。旅行ぐらいは行きたいと考えたことも過去にあったかもしれないが、住みたいとまでは思わない。極東で燻ぶっている男の人生からは遠すぎる都市だ。
 モルムはまだ自分の変化を受け入れ切れていないようだった。
「でも、自我を保ったまま切り替われるなんて……、俄かには信じられん」
「信じられなくても、実際そうなったんだから受け入れてもらう他ない」僕は悪戯心でそう言ってやった。「話はそれからだ」
 彼女はムッと睨んだものの、「そうだな」と大人しく引き下がった。
 サイタマ軍はもうあらかた消えていた。赤羽を占領し、次なる土地を目指して進軍するのかもしれなかった。
「俺の小人は、やっぱり死んだのかな」
 僕が呟くと彼女は「ああ」と短く頷いた。
「礼を言えなかったのは残念だが、もうこの世にいない」
「そうか」僕はあの軽薄そうな己の分身を悼んだ。「なんとなく寂しいな。自分の小人が消えるっていうのは……」
「またしばらくすれば、新たな戦士が生まれてくるから安心しろ」
「え? あ、そうなの?」僕は瞬きして呆ける。
「そうだ。土地に対する人間の思念が絶えない限り、わたし達は滅びない」
「えー……、それじゃあ俺、こんなに気張る必要なかったってこと? モルムが死んでもまた蘇ったってことか? 骨折り損じゃんかよ」
「わたしはわたしで死んだら終わりだ。それまでの記憶も自我もなくなる。次に生まれてくるのは、わたしではないわたしなんだ」モルムは怒って僕の耳を引っ張った。「というか、なんだその言い草は。蘇るとしてもそこはわたしの為に命張っとけ!」
「いたいいたいいたい!」
 僕がもがくと、モルムは唐突に噴き出した。夜空を仰いで大笑いする。
「全く、何という日だ! サイタマの人間にここまで助けられるとは!」
「もっとありがたがれ」僕は鼻を鳴らしてふんぞり返る。
「わかっている。ありがとう、森田」彼女は福助人形のようにちょこんと手をつく。「本当に、本当に、ありがとう」
 僕は面食らい、ぶるぶる頭を振った。
「いいって、別に……、マジになるなよ」
「何度、森田に助けられたかわからないな」彼女は微笑んでいる。
「俺の分身も、今までサイタマ軍としてモルム達を苦しめてたんだ。当然の償いだ。赤羽軍を壊滅させてしまった」
 僕が言うと、モルムはまた寂しそうに夜空を仰いだ。
「いいんだ、気にするな。人はまた巡る。いつかこの地に根付いたサイタマの人間が、また赤羽を好きになってくれるさ。土地の為に人は生きているわけじゃない、人が生きる為に土地がある。それなら人に合わせて移ろっていくのも土地のあるべき姿かもしれない。森田に言われて、わたしもそう思った。だから、これでいいんだと思う」
 僕はわずかにしこりを感じながらも頷く。小人と共に戦った今では、赤羽の変化もやはり少しく寂しいものだった。もうこの土地を、他所の土地に思えないのだった。
 そんなふうに僕も夜空にある月を見上げていると、そわそわした足取りで諸脇が近づいてきた。
「どうした」すっかり友人の存在を忘れていた僕は、意外に思いながら彼に向いた。
「俺、もう帰るから……」
「あ、そうか、もう遅いもんな。阿里雅さんは?」
 彼女はまだ自宅前に佇み、諸脇と同じようにそわそわしていた。
「いや、それなんだけど、あの……、これから一緒に俺んちに行くことに……」
 あ……。
 あ、あ、そうか。
 そうか、そうか。
 僕は察して頷く。
 勝手にやってなさい、阿呆どもめ。
「俺も帰るわ」僕はむすっと答える。「明日仕事だし」
 諸脇は気味悪くはにかんでいる。
「あの、森田、ありがとな。よくわからんかったけど、お前のおかげであっちゃんとまた……」
「わかったから、せいぜい楽しんでこい」僕はしっ、しっ、と邪慳に手を振る。「阿里雅さんにも宜しく言っといてくれ。あ、彼女、パリにはいつ行くんだ?」
「四月だってさ。あと二ヵ月半」彼は少し暗い顔をした。
「そんな顔すんな。今度、三人で飯でも食おうって誘っといてくれ」
「わかった。じゃあ、俺、もう行くからさ」
 諸脇はひょいひょいとした足取りで阿里雅さんの許に戻る。そのまま、二人で暗い夜道を並んで歩き出した。先程の修羅場と打って変わって、もう仲睦まじい後ろ姿だった。
「なんだ、阿里雅は諸脇の部屋に泊まるのか?」モルムがぽかんとして訊く。
「邪魔するなよ。これからお楽しみなんだから」
「お楽しみとはなんのことだ?」
「いいから」僕は話題を替えることにした。「ところで、モルムはこれからどうする?」
「そうだな……」彼女は腕を組む。「とにかく、パリの戦士になったからにはパリを守らねばならん。これからちょっと行ってみようと思う」
「は? え、今から?」ぎょっとした。
「大丈夫だ、ちゃんと自分の脚で行く。森田はサイタマに戻ってくれて構わない」
「さてはパリがどこにあるのか知らないだろ」
「舐めるな」とモルムが歯を剥き出す。「フランスだろう。それくらいわかっている。遠いと言っていたから、たぶん、カナガワの先ぐらいか? あとは自分で調べて行くから心配しなくていい」
 だめだこりゃ。僕は呆れて息を漏らす。
「阿里雅さんが出発する日に荷物に忍び込んで連れて行ってもらえ。めちゃくちゃ遠いから」
「いや、それではだいぶ掛かる。あと二ヵ月半と言っていただろう」
「海を泳いで渡るよりマシだろうが。何年掛かると思ってんだ」
「え、海の向こうなのか?」彼女はぎょっとする。「ひょっとして、オキナワの辺りか?」
 僕は体をくの字に折って大笑した。あれほど頼もしく思えた赤羽の戦士も、もはや形無しだった。
「とにかく、あてが無いなら俺んちに来いよ。それで、明日からパリについて講義してやる」
「いや、そこまで世話になるわけには」彼女は言い淀む。「お前にはただでさえ世話になっているし……」
「もう終電近いから、走っていくぞ」僕は無視して言う。「掴まってろ」
 そうして、躊躇うモルムを肩に乗せて駅に向かって駆け出した。路地を抜け、街灯と月の明かりを目に映し、電光の瞬く赤羽を駆け抜ける。とにかく嬉しくて嬉しくて、笑い出さずにいられなかった。赤羽という街を彼女と共に過ごせる時間がとても愛しかった。
「ありがとう、森田」モルムは僕の耳元で囁いた。「カッコよかったぞ、お前」
 僕は蒸気機関車のように鼻から湯気を吹いて爆走した。

 ◇

 こうして四月までの間、僕の日常にモルムという小人が加わった。
 彼女は僕のネット受け売りのパリ講義を熱心に聴講し、丼風呂に浸かり、僕の留守中に部屋を物色し、剣技の鍛練に励み、栄養ドリンクをせがんだりして過ごした。たまには喧嘩して僕から鞄シェイクの刑に遭ったり、その報復で寝ている僕の鼻毛を纏めてぶち抜いたりもしたが、そこそこ優雅に埼玉県武蔵浦和の生活を楽しんでいるようだった。たまにはふらりと外を散策することもあるようだった。
 パリの小人になったのは確かなようで、遭遇したサイタマの小人達から「パリジェンヌ、マジパネェ!」と畏敬の眼差しを向けられたという。今まで敵対していた相手からそのように懐かれて戸惑ったらしいが、まんざらでもなさそうだった。仕事を終えて帰宅した僕へ、嬉しそうに身を弾ませて話すモルムを見ると、僕も大変和んだ。
「サイタマもなかなか良い所じゃないか」
「余所者だからそう感じるんだよ」僕は舌を出してやった。
 モルムと過ごした最後の日、つまりは阿里雅さんの出国が間近に迫った日の夜は、さすがに寂しくて少し泣けた。自分より何倍も大きな人間の男を、小人のモルムはあやすように笑っていた。
「そう落ち込むな。また会える」
「落ち込んでなんかないやい」地底までめりこみそうなほど落ち込みながらも、僕は強がった。「また元の日常に戻るだけだ」
「ありがとう、森田」彼女は踵を上げ、僕のひとさし指を両手で包んだ。「大好きだぞ」
 僕の指先へ彼女は接吻し、それから僕よりもずっと寂しそうに笑った。
 阿里雅さんと諸脇の二人と食事を終え、別れる段になって僕は阿里雅さんの鞄へモルムを忍ばせた。彼女はこのまま、阿里雅さんと一緒にパリへ向かうのだ。
「またな、森田」モルムは瞳から涙の粒を零して、大きく手を振った。「会えて本当によかった」
「向こうで死んだりするなよ」僕は小声で応える。「元気でな」
 そして、僕達は赤羽駅のホームで別れ、それぞれの道へ進んだのだった。
 僕は埼玉へ、モルムは阿里雅さんと共にパリへ。
 こうして、小人を巡る僕の奇妙な体験は一旦の幕を下ろしたのだった。
 
 ◇

 月日の流れは早いもので、それからあっという間に五年が経った。
 僕は相も変わらず東京で仕事をしている。地獄の満員電車に押し込まれ、毎日へとへとになりながら、二十代も終わりに近づいた退屈な日々を送っている。
 五年前と変わったことといえば、実家暮らしからアパートでの独り暮らしに転じたことだ。場所は赤羽。しかも、諸脇がかつて借りていた部屋である。
 赤羽の住み心地はことのほか良く、休日に近所をぶらついては店を巡ったり、赤水門近くへ川釣りに出掛けたりする。その他にも、地域の清掃活動に参加してみたり、地元の祭や出し物で手伝いを買って出たりする。おかげで、同年代よりも年配の知人が増えてしまった。
 こうしていれば、僕も心根まで赤羽の人間になれるのではないかと密かに思っている。埼玉からの移住者が増加したという小さなニュースにもなった赤羽の街並みは、今もだんだんとその景観を変えているが、昔からある行事や祭も継続されていて、そこそこの賑わいをみせているようだ。
 友人の諸脇はというと、愛しの阿里雅さんがパリへ飛んだ半年後に仕事を辞め、彼女の後を追って日本を離れた。そして、向こうでめでたく二人は結ばれたらしい。僕は国際電話で彼らに祝福の言葉を贈ってやった。
 夜道の帰りや休日の散策中に、今でも小人達の気配を感じる瞬間がある。どこからかひそひそと囁き声が聞こえたり、道端を駆け抜ける小さな人影が見えたり、場所もシチュエーションも様々だ。部屋にいても時折、彼らの息遣いが感じられるほどである。そんな時、僕は栄養ドリンクを注いだ御猪口を部屋の隅に置いたり、沸かした湯を丼に注いで共用通路に置いてやったりする。知人からは気味悪がられるが、御猪口の中身が飲み干されていたり、湯の零れた痕跡などがあるのを見るとなんだか嬉しくなるのだった。
 そんな具合に小人を意識する生活を続けていたので、この五年間、モルムのことを片時も忘れなかった。後になって、必死だったあの夜の自分に苦笑したり赤面したりするのだが、決まって最後にはモルムへの焦がれるような想いに耽るのだった。
 モルムは無事だろうか。
 パリでもちゃんと元気でやっているのだろうか。
 まだ、俺のことを覚えているのだろうか。
 パリへ行こうかと思い立ったのも一度や二度ではない。旅行代理店の前を行ったり来たりし、通報されかけたこともある。ただ、パリへ行って、出会えなかった時のことを考えるのが怖かった。彼女がすでに現地での戦いに敗れ、この世から消滅していたらと考えるのが恐ろしかった。
 そんな折、諸脇夫妻が久しぶりに日本へ帰ってくる報せが舞い込んだ。連絡を受けた僕は、彼らを空港まで車で迎えにいく役目を申し出た。
 そして、年始のよく晴れた日、僕達は再会を果たす。
 忙しい雰囲気の空港のロビーで待ちぼうけていると、ゲートの向こうから諸脇が手を振って現れた。
「ボンジュール、森田!」
「おお! 見違えないな、諸脇!」
「どういう意味だ!」
「安易にボンジュールって言っちゃうあたりが、まだまだ県民くさい!」
 阿里雅さんも続いて現れ、懐かしそうに笑って会釈した。
「森田さん、久しぶり」
 僕は一瞬だけ笑みを引き攣らせてしまう。モルムの面影を見るのはやはり辛かった。
「阿里雅さんもお元気そうでなにより」そこで、僕は彼女が抱いている赤子に気付いた。「おお……、すげぇ、マジでパパになったんだな、諸脇」
「凄いだろう」諸脇が胸を張る。「俺に似なくてよかったよ」
「全くだ」僕は笑う。
 毛布に包まれ、まだ歩くこともできないというその子は天使のようだった。男の子だそうだが顔立ちは阿里雅さんの血筋が濃く、きょとんとした目が攫ってやりたいほど可愛らしかった。
 空港で昼食をとろうという話になった。その前に阿里雅さんがトイレに行くというので、諸脇が赤ん坊を預かった。残された僕達はしばらく昔話に花を咲かせた。
「あの夜がなかったら、今の生活はなかったよ」彼は遠くを見るように目を細める。「でも、今でも不思議なんだけど、結局あの夜、何が起こってたんだ? 小人とか、なんとか」
「何だったんだろうな」僕は肩を竦めてとぼける。「まぁ、今が幸せならそれでいいだろ。ビビリのくせに気にすんな」
 彼は釈然としない顔つきだったが、すぐに頷いた。
「店、選んでくるよ。嫁が戻ってきたらそう伝えてくれ」
「わかった。あ、子供、預かろうか?」
「あぁ、そうだな。なんか、懐いているみたいだし」
 彼の言う通り、赤ん坊は僕に抱かれてもぐずらなかった。むしろ、何がおかしいのか、僕を見てあぶあぶ笑っているのである。失礼な奴め。
 僕は赤子を抱いてベンチに座り、店を探しに行く諸脇を見送った。それからぼんやりと空港の雑踏を眺める。スマートフォンを手に忙しく話すビジネスマンや、旅行鞄を転がしてゲートを探すカップル、これから祖国へ帰るらしい外国人観光客。多種多様な人々が僕の前を行き交っていた。
 皆、行き場所があるのだな、と思う。
 それから帰る場所も。
 憧れの土地だって、それぞれにある。
 どこであってもそこには人がいて、その場所を巡る様々な想いが渦巻いている。その想いが、ほんの少しでもいいから、その土地とそこに暮らす人々への純粋な敬意になればいいな、というのが今の僕の願いだった。そうすれば、モルム達のような小人が戦わなくて済むかもしれない。互いに互いを認め合い、共に平和に暮らせるようになるかもしれないのだ。 
「森田」
 その声に呼ばれ、僕はハッと周囲を見回す。
 腕の中の赤ん坊があぶあぶと笑っている。毛布の中でもぞもぞ動くものがあったかと思うと、赤ん坊の胸元から小人がひょっこり顔を出した。
「ぼんじゅーる」彼女は拙い発音で言う。「久しぶりだな!」
 彼女は毛布から這い出し、赤子を抱く僕の腕に飛び移った。丈の長いスカートが翻る。シックなセーターとコート。ベレー帽を被り、しゃれたスカーフを首に巻いていた。
 赤子が彼女を目で追って、小さな手を動かす。嬉しそうだ。
「元気だったか、森田」彼女はにっこり笑った。「この子はどうやらわたしのことが見えるらしいからな、子守りも兼ねて毛布に紛れこんでいたんだ。一応は、わたしの息子と言えないこともないし」
 あっけにとられて言葉を返せずにいる僕へ、彼女はムッと顰め面をした。
「おい、何か言え。わたしを忘れたのか?」
「いや……」
 そこで、僕は噴き出してしまい、それから涙が出るほど笑ってしまった。
「かぶれすぎだろ、パリに」そして、人差し指を差し出す。「久しぶり。会いたかったよ」
 モルムは嬉しそうに僕の指先を両手で包んだ。

後書き

未設定


作者 まっしぶ
投稿日:2017/02/18 12:45:42
更新日:2017/05/06 08:39:05
『リトル・アカバネ・ウォーリアーズ』の著作権は、すべて作者 まっしぶ様に属します。
HP『カクヨム

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